2011年3月18日金曜日

僕らの声は遥か海を越えて



例えひとりの力は小さくても。


日本から遠く海を隔てたここアメリカロサンゼルスにも、日本を応援しようとする人たちがたくさんいる。ロサンゼルスダウンタウンにあるリトルトーキョーには、今回の東北地方太平洋沖地震に対する募金箱がいくつか設置された。集められたお金は日本領事館や赤十字を通じて被災地へと届けられる。

そして、これはロサンゼルスに限られた事ではないと思う。きっとサンフランシスコでも、ニューヨークでも、そしてアメリカだけでなく世界各国で同じような運動が起こっていると思う。
僕の勝手な確信だけど、それは間違いないはずだ。


今、日本は大変な状況だと思う。
でも、少しだけ耳を済ませてみてほしい。

きっと聞こえるはずだ。
海の向こうから届く、たくさんの暖かいメッセージが。

2011年3月16日水曜日

東北地方太平洋沖地震

3月11日。
東北地方太平洋沖で発生した地震はマグニチュード9を記録した。

そのニュースは瞬く間に海を越え、遠く離れた僕の街にも届いた。それからというものパソコンの画面から目が離せなくなり、インターネットを通じて流れてくる一切の現実味をおびない被災地の画像を見ては愕然とするばかりだった。その被害の甚大さはとても信じがたいものだった。

こういうとき
誰かのために何かを口にすることも
誰かのために何も口にしないことも
僕はどちらも金だと思う。

なにひとつ有益な情報もなく、なにかを訴えるだけの現状も知らない僕は、何も言うべきではないのかもしれないし、それでも何かを言わなければならないのかもしれない。そんな葛藤の中でこの文章を書いている。心の整理がついていないから支離滅裂な文章になっているかもしれないけれど、どうぞご了承ください。


まさかこんなことになるなんて。

友人とそんな話はするものの、一歩外に出ればここロサンゼルスには今までと何一つ変わることのない日常が流れていて、僕はその温度差に戸惑いを覚えてしまう。海の向こうでは大変なことになっているんだ。でもこの国に住む人々の日常にはなにひとつ影響を及ぼしていない。いつものように朝が来て、いつものように車が走り、しばしばけたたましいサイレンの消防車が走るけれど、街行く人の顔に地震の影はない。ごく普通に考えてそれは当たり前のことなのかもしれないけど、日本人の僕にとって当たり前ではいられない。
たまたま僕はその場所にいなかった。だから本当の実際を知らない。インターネットを通じて得る情報なんて、いったい現実の何分の1だろう?こんな僕がいくら心配してもそれは想像の域を出ないし、被害にあわれた方の心境を考えたらとてもちっぽけだ。それこそ無意味なものかもしれない。でもその気持ちは確かに心の中にあるし、だから感じるこのギャップに歯がゆさを禁じえない。


今僕ができること。

いったい今の僕になにができるというのか?節電?救援物資?ボランティア?直接的な援助はなにひとつできない。遠く離れていることがこれほどまでに無力感を味あわせるなんて。ひとり悶々とする時間を過ごすだけだ。
幸い僕のいる場所はロサンゼルスでも日本人街と呼ばれている地区で、近くのスーパーマーケットの入り口には今回の地震に対する募金箱が設置された。この際偽善だとかなんだとか、そんなことはどうでもよかった。買い物を済ませた財布の中身(それは気持ち程度のものだったけれど)を1セントも残らず入れた。ほんの少しでも役に立てばいい。それが今の僕の精一杯だった。


不謹慎だと思いながらも自分の家族や友人が無事だと知りほっとしてしまう。

被災地では多くの方の尊い命が奪われた。いまだその数は把握されていないようで、日を追うごとに増える数字は見るのも怖く、なにものかの手で胸の奥をわしづかみされたような気持ちになる。残酷な地震なんかで誰ひとり亡くなって欲しくはない。みんな生きていてほしい。
でも、家族や友人の無事を知りほっとする自分がいる。多くの犠牲者が出ていることを知りながらも、片方ではほっとしてしまう自分がいるのだ。不謹慎だとは思う。でもこれは隠すことのできない気持ちだ。
いったいどうすればいいの?人間のエゴだとか哲学的な話は僕にはわからないけれど、誤解を恐れずに言えば、きっとみんな同じ気持ちなんじゃないかと思う。どうしようもない。みんなそんな複雑な気持ちを抱えながら今を生きているんだと思う。


チェルノブイリの記憶はまだ新しい。

今も各地で余震が続いているようだけど、一番気になるのが福島の原発だ。この先いったいどうなってしまうのか。地震と津波の直接的な被害だけでも甚大なのに、放射性汚染とかってなんだよって思う。最悪の事態だけはならないで欲しい。
チェルノブイリの記憶はまだ色あせてはいない。史上最悪といわれた原子力事故からなにを学ぶべきか。旧ソ連政府の対応の遅れが被害の拡大にもつながっている。これ以上の爆発を食い止めることはもちろんだけど、政府による正しい情報の公開と適切な対処を求めたい。核とか放射能とか難しいことはわからないけど、彼らにはそれだけの責任があるし、僕らにはそれをきちんと知る権利(そして義務)がある。
日本にさえいない僕がそんなことを言っても誰の耳にも届かないとは思うけれど、とにかくもう十分なんだ。これ以上悪い方向に物事が転ぶなんて考えたくもないし、ましてやそれが人為的だったなんてことはあってほしくない。


日本国民の気高さに目頭が熱くなった。

これだけの混乱のなかにありながら、強盗、略奪、犯罪、そんな当たり前に持っているはずの人間の影の部分が露呈せず(多少発生はしているのだろうけど)、人々が互いを気遣い助け合っているという話が届くたびに目頭が熱くなり、同時に日本国民の高潔さに誇りを感じた。日本人は我慢強い人種だと言われてきたけれど、過去の事例を引き合いに出すまでもなくそれはまったくその通りなのだ。そして道徳的だ。困ったときはお互いさま。日本人は昔からそう口にしてきた。
そしてそれは国内のみにとどまらない。援助大国だった日本は、今逆に多大な国際援助を受けることになった。世界中の国境や民族、宗教を超えて差し伸べられる暖かい手。
これらの出来事はこの悲しい事態の中で小さくても確かな希望の光となっているはずだ。僕は、今まで以上に自分は日本人だと胸を張ることができる。それは今日本にいる人全員が教えてくれたことだ。


最後に。
犠牲者の方々に哀悼の意を。
行方不明の方がひとりでも多く救出されることを。
全力で援助、復旧に当たる方々には敬意を。
そして一日でも早く多くの方に笑顔が戻ることを心から願っています。

2011年3月15日 ロサンゼルスにて

2011年3月1日火曜日

モーターサイクルは大陸の夢を見るか? vol.6

ザイオンナショナルパークで予期せぬカウンターパンチを喰らい、かなりのダメージを受けてしまった僕。これはちょっと勝ち目がない(誰に?)んじゃないかと思いつつも、次なる目的地モニュメントバレーへとのこのこと向かってしまうのでした。


寒い朝。バイクにすべての荷物をのせ東に向かって走り出すと、あっという間に指先が凍えました。こりゃまずいと思いグローブの下にニットの手袋を増強し、首筋から冷気が浸入するのを防ぐためにネックウォーマーをあごまで引っ張りあげても、吐く息が真っ白になる気温の中で走るにはそれも焼け石に水。奥歯をガチガチならしながらの走行となりました。

10時を過ぎてやっと暖かくなってきた頃、ユタ州からアリゾナ州へ、そしてグレンキャニオンダムへと到着です。そこにはコロラド川と、巨大なダムと、それによってできた大きなパウエル湖があり、休憩するにはもってこい。ダムの施設内でトイレをかり、冷え切った体を温めます。見渡す大きなダムは湖の深い青と大地の赤との対比が実に印象的なのでした。

ユタ州を抜ける。抜けるような空。

おおきなダム。湖と大地の色合いがいい。

ダムから少し走ったペイジの町で食料の買い出し。モニュメントバレーでは2泊くらいしようと思っているのでそれなりに食料が必要です。買い物をすませて再出発をすると、店の横に荷物満載のマウンテンバイクを発見しました。
お?あれは?
それはどこからどうみても長期旅行者のそれで、最近とみに旅人を見かけていなかった(西海岸を走っていたときはしばしば見かることができた)僕は、そんなことでちょっとした元気をもらうのでした。よし。僕も頑張ろう。

町を後にしたなら陽が落ちる前に到着するべくひたすら走ります。暗くなってからテントを設営するよりも明るいうちに到着したほうが楽だし、なによりモニュメントバレーでは朝夕の焼ける太陽とビュート(残丘)がつくり出すシーンがこのうえなく神秘的だと聞いたからです。よく晴れた今日ならきっとさぞかしすてきなことでしょう。

荒野の一本道を約5時間。東へ東へ。このあたりになるとナバホ族の末裔かインディアンがたくさんです。濃い肌にはくっきりと皺が刻みこまれ、深い瞳。屈託のない笑顔には白人よりも親近感を覚えます。そして一直線にのびる道のはるか遠くから彫刻のような岩山が見えてきて、そこが彼らナバホ族の聖地モニュメントバレーでした。

一本道の先に現れた聖地。

がんばった甲斐もあり、太陽が色を変える前になんとか到着することができました。よしよし。じゃぁまずはシャワーだろ。そう思ったのですがそのキャンプ場にはシャワーはおろか、なんと水さえありませんでした。あるのはゴミ箱と仮設トイレとテーブル、ベンチが数個のみ。あとはひたすら平らにならした茶褐色の地面だけ。

あれ?こんなキャンプ場だっけ?

事前に調べた情報ではもうちょっと設備の整った(もちろんシャワーもある)キャンプ場のはずですが、どうやらそれは古い情報だったのかもしれません。残念。しかし旅をしているとこんなことは茶飯事なのです。慣れっこなのです。特にインターネットという不確かな情報源が発達してしまった今では、たとえば、料金が違う(えてして値上がりしている)、もうなくなっていた、そもそもそんなものは最初から存在しない(!)など実にさまざまで、そんなことでいちいち肩を落としていたらそれこそ脱臼してしまいます。結局はそこに行ってみるまで、自分の目で見るまでわからないのです。

シャワーはあきらめテントの設営にとりかかります。ベンチ近くの場所はもうすでに何張りかのテントがあったので、僕はそこから離れて眺めの良い場所を選びました。近くにひとつテントがあり、なんとそれは日本製の山岳テントではありませんか。あ、日本人だ。そう思い日本語で挨拶します。

ラスベガスでレンタカーを借り、やはり同じようにこの辺一帯のナショナルパークを見て周っているというT夫妻。自己紹介もそこそこに、その後はすっかり意気投合し、ひさしぶりの日本語での会話にストレスなどあるはずもなく、ビールまで頂いて、とても楽しい時間を過ごせました。

T夫妻は山登りやクライミングが趣味で、驚いたことにモンブラン(ヨーロッパ)やキリマンジャロ(アフリカ)なんかにも登頂したことがあると言います。僕も恥ずかしながら山登りのようなことをやっているので、その体験談はとても興味深く心くすぐるものでした。実際この旅でいくつかの山に挑戦したいと考えていた僕は、話を聞いてその思いはさらに強いものとなりました。

きれい。

夕焼けと残丘。

雲がいい感じ。

何もないキャンプ場。T夫妻と並んで。

モニュメントバレーには2泊しました。

もしかしたらここはこの世の果てなんじゃないか?
お世辞ではなく本当にそう思ってしまうほどの眺めがそこにはありました。特に朝夕の神々しさは間違いがなく、見る者を天にも昇る気持ちにさせます。実にまる2日。ただひたすらその景観をながめ続けていました。ひとつも見飽きることはありませんでした。そして僕はこのときにやっと大陸のスケールのでかさにすっかり思考回路がおかしくなってしまったことを自覚したのです。

この景色にはやられた。完全に。

モニュメントバレーは園内を車で走ることができ、
さまざまなポイントでさまざまな景観を楽しめる。

園内のところどころにインディアンアクセサリーの土産屋があった。
そんな目で見られると困ってしまう。

朝焼けのビュートは一見の価値あり。

ここにもカメラ好きな国の人々。

サンフランシスコから東へとった進路もここで折り返しとなります。これからはロサンゼルスに向けて西へと向かいます。グランドサークルツアーの折り返し地点がモニュメントバレーとは我ながらいい選択だと、払暁の中に浮かび上がるビュートを眺めながらつくづく思うのでした。

つづく。