2011年6月21日火曜日

潮風香るベラクルス ~ナツイチがくれた夏~ vol.1

メキシコ最高峰の麓にある山小屋で一夜を明かした僕。夜が明けはじめ、深くワイン色をした空にむかってひっそりとたたずむピコ・デ・オリサバは実に神々しく目に映るのでした。


さすがにメキシコ最高峰と言うべきでしょうか。朝の気温は3度とかなり落ち込みました。しかしそんな寒さも朝焼けに浮かぶ山の美しさの前では苦になるはずもありません。熱いコーヒーで目を覚まし、パンとチーズの朝食を済ませたら誰もいない小屋を後にしました。
今日はこの高地から一気に港町のベラクルスまで駆け下りていきます。標高差は3000m以上あります。海沿いは、きっと真夏の気温で僕を迎えてくれることでしょう。

実際海に向かって走る道はそのほとんどが下りで、標高を下げるにつれて気温は徐々に上がっていきました。僕は何度か道端にバイクを停め、ジャケットの中に着ていた服を1枚ずつ脱いでいきます。午後の一番暑い盛りになると気温は35度を越え、じっとりと濃厚な汗が肌にまとわり付きます。走っていれば汗は乾きますが、体に受ける風はひとつも涼しくなく、唯一休憩に立ち寄るコンビニのひんやりとした空調だけにほっと一息つくことができました。ハラパの町を抜けるころにはついに長袖のTシャツのみで走っていました。

服を脱ぐのと同時にエアスクリューも少しずつ閉めていきました。標高を下げるにつれて明らかにエンジンの吹けが良くなり、パワーが戻ってきたのです。4000mの高地ではアクセルを開けても回転が付いてこず、寝起きのアフリカ象があくびでもするように一息遅れてからじわりと吹けあがっていたのに、今ではそれがうそのよう。

すべての道を下りきった先にベラクルスがありました。標高は0m。海沿いの町です。
町に入ると標識を頼りにセントロ(中心地)へ向かって進みました。町の中心地にはホテルも多くあります。迷うことなくセントロに着いた僕は通りの脇にバイクを停め、すぐにヘルメットを脱ぎました。そして同時に長袖をひじの上まで捲り上げます。とにかく暑かったのです。風を浴びなくなった体からはすぐに汗がにじみ出し、額には玉の汗。それでも晴れ渡った青空から降り注ぐ夏の太陽の下にいると、それはとても自然なことだとすんなり受け入れられるものです。

「ホテルを探しているの?」

タオルで額の汗を拭っていると、背後からそんな声がしました。振り向くとそこには小さなホテルがあり、その中から中年の女性が僕に話しかけていました。

「シー(そうだけど)」

中心地に到着した僕がやるべきことは、第一に宿探しです。それは旅においてかなり重要な仕事で、そして同時に骨の折れる作業でもあります。急きょベラクルスに来ることになった(本来はオアハカに行く予定だった)僕は、何の情報もなくこの町に来てしまいました。メキシコ・シティーでもらったガイドブック(もうメキシコを出るからとひとりの旅人からもらったものだ)があるのである程度の情報は調べられます。それでもそこに町中すべてのホテルが載っているわけではないし、僕としては少しでも安いホテルを探したいと思っているのでやはり情報を持っていないのはやっかいなのです。

声をかけられたついでに僕は女性に値段を聞いてみました。

「ひとり一晩いくら?」

しかし残念ながら僕の納得のいく値段ではありませんでした。値段交渉をするまでもなくあきらめざるを得ない値段だったので、ありがとうと言ってホテルを出ました。

こうなるとあまり開くことのないガイドブックも役に立ちます。載っているホテルの中で最安値は150ペソ。安いとまでは言えませんがシングルなら納得のいく値段です。ならばその値段をボーダーとして、いくつかのホテルをあたってみる事にしました。バイクで走りながら、目に入ったホテルにひとつひとつ入っては値段を聞いてまわります。値段は実にさまざまです。空調があるホテルとなると貧乏旅行者は手を出すことが出来ません。逆にテレビもなくシャワーも水しか出ないようなホテルだとやはり安く泊まれます。しかし外見がとてもきれいで一見して高そうだと思うホテルでも、実は意外と安かったりするのでいちいち聞いてみないとわからないのです。結局5軒ほどあたってみましたが、どのホテルも150ペソを下回ることはありませんでした。

それぞれの町にはそれぞれの相場というものがあります。きっとベラクルスで150ペソというのは安値なのでしょう。最安値とは言えない(たぶん)でしょうが、それを足で見つけることはかなり大変です。あきらめた僕はガイドブックを頼りにそのホテルに向かいました。ガイドブックは最新ではないので、もしかしたら値上がりしているかもしれません。しかし最大の問題は駐車場があるかどうかです。郊外のホテルやモーテルならほぼ駐車場が完備されていますが、セントロのホテルではそうもいきません。さすがに一晩を路上駐車というわけにもいきませんし、近くの駐車場を紹介されても別途料金が発生する場合もあります。

(いいホテルだといいな)

そんな期待を見事に叶えてくれるかのように、ホテルは間違いなく150ペソで、しっかりと管理された駐車場がありました。即決です。

駐車場にバイクを入れ、部屋の鍵を受け取り、荷物を部屋に運び入れます。3階の部屋への3往復で汗が滝になり、ですがすぐにシャワーを浴びればそんなことも気になりません。ホテルの隣にあるコンビニでビールを買い、部屋に戻り勢い良くまわるファンの下で一気に飲み干すと、それまでの暑さがまるでうそだったかのような心地よさに包まれました。

やっとみつけたホテル。
快適だった。

夕暮れの涼しさを待って散歩に出ます。港町のベラクルスは町中でも潮の香りが漂い、どこか懐かしさを感じます。海沿いまで歩き、久しぶりの海(そして初めて見るメキシコ湾)を眺めながらのんびりと散歩。通りは陽が暮れるにつれ賑わいを増していき、どこからともなく現れた楽団が音楽をかなで、ピエロが滑稽なショーで見ている者を笑わせ、みやげ物やおもちゃを売る商人たちが道行く人にせわしなく話しかけていました。それはとてもメキシコらしく、とても自由な雰囲気に満ちていました。

久しぶりの海だ。

自由な感じがいい。

ベラクルスには音楽があふれていた。
メキシコ人は音楽があればどこでも踊りだす。

黄昏時間。

風船売りの少女。

僕は近くに公衆電話を見つけ、財布からコインを取り出すと受話器をとり、メモ用紙に書かれた番号を忠実にダイヤルしていきました。それは一昨日イスタシュワトルの登山口でもらった番号で、仲良くなったメキシコ人が僕に手渡したものでした。受話器から呼び出し音が聞こえそれがしばらく続いた後、機械的なアナウンスが流れました。留守番電話につながったようです。僕は一瞬考えた末、静かに受話器を下ろしました。メッセージを残したところで相手からの返信を受けることができないからです。

(どうしようか。このまま連絡せずにいようか)

しかしベラクルスまで来たのにこのまま素通りというのもさびしいしものです。まして「電話するよ」と彼に伝えた一言が心に残っていて、とても後味が悪い。僕はもう一度受話器をとり、再びダイヤルしました。

果たして回線はつながり、僕は明日の朝もう一度彼に電話する約束をしました。彼は今プエブラにいてこれから帰っても3時間はかかるらしく、それでも明日は一緒に海へ行こうと言ってくれたのです。
突然電話したことを申し訳なく感じましたが、町中に漂う潮風のように彼の優しさが胸にしみてきました。

つづく。

2011年6月18日土曜日

朝焼けのピコ・デ・オリサバ vol.3

人生初の5000m峰イスタシュワトルの登頂に失敗した僕。疲れ果て泥のように眠った翌朝、白の世界の中で目を覚ますのでした。


朝までいったいどれくらい時間があったのでしょう。昨日は山から下りてきてすぐに横になったから、きっと10時間以上寝ていたことになります。目を覚ましたついでに用を足そうと小屋の外にでた僕は、その目を疑いました。あたり一面真っ白だったのです。昨日の夜のみぞれは見る世界を一変させていました。

見上げる山は昨日までの優しさのかけらさえなく、その険しい表情は人が登るものをかたくなに拒んでいるかのようです。もし僕が今日ここに到着したなら、いくら晴れているからといって登ってみようなんて考えは微塵も抱かなかったでしょう。それほど難易度が上がっていました。

一晩で表情が一変した。

一晩寝たことでいくらか心が落ち着いていた僕は昨日をひとつひとつ冷静に反芻し、そしてそれを整然としたひとつの出来事として心の中で捉えることが出来ました。

(いい勉強になった)

すべてはその一言に行きつきます。失敗はしましたが、おかげで困難なく登頂するよりも得るものは多かったと思います。

日差しを浴びた大地がつもった雪を消してくれるまで小屋でのんびりとし、9時になってラ・ホヤを後にしました。これからプエブラの町を抜け、ピコ・デ・オリサバを見に行く予定です。その山は標高5689m。冬山装備がなければ登ることのできないメキシコ最高峰です。

ダートをしばらく下り、チョルーラとプエブラの町をそれぞれ通過。道は大渋滞で、なんとか国道150号から140号へ乗り継ぎ、さらに州道394号へ入りトラチチュカの町を目指します。140号に乗ったあたりから視界が開け、スモッグで白くぼやけて見える視線の先にピコ・デ・オリサバを見つけることが出来ました。

チョルーラで見たボラドーレス。
宙吊りになり回りながら降りてくる。
信じられん。

トラチチュカの町からさらに山に向かって小さな道を進みます。その頃には山はもう目の前で、山頂には真白な冠。さすがメキシコ最高峰なだけはあります。
やがてソアパンという村に到着。走ってきた道はこの小さな村で途切れ、この先舗装路はありません。しかしこの村からピコ・デ・オリサバの登山口まで未舗装ながら道があるはずです。

(さて、どこから入るのだろう?)

偶然居合わせた村人に「ピコ・デ・オリサバに行きたいのだけど」とたずね、村はずれからのびるダートを教えてもらいました。登山口へ行ったところで実際に登ることはしないのですが、そこには山小屋があり、誰でも自由に泊まることができるらしいのです。せっかく近くを通るのだし、山小屋ならテントを張る手間もはぶけ、雨が降っても心配ありません。ましてそこはメキシコ最高峰。眺めるだけでも価値はあると僕は思ったのです。

ソアパンの村。
どこからでもオリサバが見える。

ダートを走ること1時間。いくつかの分岐点がありどこへ向かえばいいか良くわかりませんが、とにかく大きな道を選んで進みました。途中気を抜いた瞬間砂地にフロントを取られ転倒してしまいます。が、バイクが倒れた程度でとくに問題はありませんでした。
なんとか登山口まで進み、あたりを散策しますがそこに山小屋はなく、僕はどうやら別の登山口に出てしまった様子。時間は19時。まだ空は青く、あと1時間は明るいでしょう。しかし今から引き返し、もう一度登山口を探すわけにはいきません。しかたなく来る途中で見つけた小さな山小屋に入ることにしました。その山小屋を果たして勝手に使っていいのかわかりませんが、小屋の周りには何もなく、小屋自体にも鍵がかかっていなかったので今日一晩お邪魔すさせてもらうことにしたのです。

山小屋の2階へ荷物を運び、寝床まで作成したら今日の仕事は終了です。バッグからビールを取り出し、途中の町で買ったチーズ(メキシコはチーズが豊富でしかも安くてうれしい)と一緒にバルコニーに出てそれを楽しみました。そこからはピコ・デ・オリサバが一望でき、眺めは最高です。夕陽に染まった山頂の雪は桃色に変わり、空は夜に向けて色を濃くしていきます。なんて贅沢な時間でしょう。次第に山の輪郭は浮かび上がり、空には星が出はじめました。

しかしそんなきれいな山を見ても、僕の心に登ってみたいという衝動は沸いてきませんでした。借りに今冬山装備を持っていたとしてもです。それは昨日の失敗に起因しています。はっきり言ってしまえば今の僕に登れる自信がないのです。期待よりも不安の方が勝っていて、このままでは行動には移せないでしょう。それでも僕は単純な人間だから、いつか(それは遠くない未来に)それが逆転し、また無謀にもどこかの山のピークを目指すことでしょう。

ビールを飲み干す頃には空はすっかり夜一色で、気温が一気に落ち込んできました。小屋の中に入り、お湯を沸かすとマグカップにコーヒーをいれ、残りのお湯でインスタントラーメンを作って食べました。そして寝袋にすっぽり入ると、ろうそくの灯りを眺めながらとりとめもないことを考えていました。やがてどこからか眠気がやってきて、僕を襲い、誘われるがままにまぶたを閉じた僕は、ゆっくりと眠りに落ちていきました。明日の朝きっと見られるだろう朝焼けのピコ・デ・オリサバを楽しみにして。

朝焼けのピコ・デ・オリサバ。

おわり。

2011年6月16日木曜日

朝焼けのピコ・デ・オリサバ vol.2

なんとなく山を見ながらのキャンプもいいな、なんて軽い気持ちでのこのこ峠までやってきた僕。高く見上げた山に登攀欲をかき立てられ、急きょ5000m峰に挑むことにしたのでした。


午前3時に目を覚ましました。寒い。温度計は7度の表示。小屋の外はもっと低いでしょう。寝袋から這い出て空を見上げると、そこにはたくさんの星がまたたいていました。天候は順調。風もありません。

それにしても登山口ですでに3940mの標高があります。富士山を余裕で越えています。おかげで空気もあきらかに薄い感じですが、メキシコシティーの2200mに慣れているおかげか僕自身変化はありません。富士山より高い山に登ったことのない僕にとって、この先はすべて未体験。楽しみなようで、同時に不安でもあります。

それよりも125ccの小さなエンジンを積んだ僕のバイクが、4000mの高所まで登るれることができてそれがうれしかったりします。確かにパワーダウンは否めませんでしたが、エアスクリューの調整のみでトコトコと粘り強く登ってくれたことは、この先の旅に大きな安心感を与えてくれました。

インスタントラーメンの朝食で体を温め、荷物を軽くするために必要な物だけをバックパックに詰め込み、4時を待たずにラ・ホヤを後にしました。

ヘッドライトの明かりを頼りに登山道を登り始めます。歩き始めはトレイルがしっかりと確認でき順調に進むことが出来ました。しかし闇に包まれたそれは小さなヘッドライトだけでは頼りなく、登り初めて1時間半で道を外れてしまいました。ヘッドライトの明かりさえ届かないほど深く切れ込んだ谷にぶち当たり、僕はどこにも進めなくなってしまったのです。迂回しようにも闇の中では地形もわからずどうしようもありません。

こうなると来た道を戻る以外方法はありません。しかし戻ったところでこの闇の中ではきっとまた同じことでしょう。僕はバックパックを下ろすと岩の上に腰掛け、ふぅとひとつため息をつきました。そしてパックからダウンのインナー、カッパの下、ビーニー、さらに手袋を取り出すとそれらをすべて着込み、もうじき現れる太陽をじっと待つことにしたのです。気温は4度。行動中ならいざしらず、じっとしているには寒すぎました。

空の星は姿を消し始めましたが、太陽が顔を出すにはまだ少し時間がありました。1時間くらいでしょうか。ただ待つだけの僕には半日にも感じられる時間の中、抱えたひざの上に額をのせ、うとうとしながら一刻でも早く空が白み始めるのを待つばかりです。

東の空がうっすらと赤みを帯び始めました。ライトなしでも十分足元が確認できるようになってから再び歩き始めます。そこにはお世辞にも登山道と言えるような道はなく、どこでどう間違ったのか、とにかくはっきり登山道とわかる場所まで下っていきました。

なるほどここか。小さな踊り場のような場所で直進してしまった僕は実際そこから右方向に伸びる登山道を見逃してしまったようです。明るい今ならば簡単にそれとわかるのですが、闇の中ではそうもいかないものです。

イスタから見る朝焼けのポポカテ。

思わぬタイムロスをしてしまいました。この山行は日帰りの計画ですから、昼には山頂に到着していないとまずいのです。今はもう6時半。少しあせります。

しかし頑張ろうにもなかなかペースは上がりませんでした。とにかく息が切れるのです。岩場でもないどうということのない登りでさえ、足が重く、2分も歩けば息が弾み、心臓の鼓動が早くなるのです。それほど激しい動きをしているわけでもないのに、自分ではどうしようもありません。そのたびに立ち止まり、何度も大きく息を吸い乱れを直します。そんなことを繰り返しながら登るので、日本で山に登っていたときのようなペースには到底及ぶわけもありません。

(なんてことない登りなのに。荷物もほどんどないのに。なんで。なんでこんなに苦しいんだ)

現在の標高は4500mほど。きっとこれが高所登山というものなのでしょう。標高が高くなればなるほど空気中の酸素は減少します。ただでさえ息苦しいのに、さらに運動をすることにより体内の酸素消費量が増えていきます。そして呼吸による酸素供給量がそれに間に合わなくなると血液内の酸素濃度が落ち、やがて高山病(低酸素病)になります。

5000m以上の山では靴紐を結ぶだけでも息が切れる、なんて話を以前聞いたことがありました。そのときはそんな馬鹿なと半信半疑だったのですが、あれは誇張でもなんでもなく実際の話なんだと理解できました。

なんてことない登りなのに…。

テン場(テントを張る野営場)をふたつ通り抜け、一つ目のピークに差し掛かります。本来なら左から巻くようにかわすのが正解だったのですが(その事は下山後に知った)、それを見つけられません。トレースを追って進んでいたものの、それが突然消えたとき、僕はまた道に迷っていることに気が付きました。振り向くと先ほどのピークは見上げる位置にあり、かなりの距離を下っていました。

(またこれを引き返さなければいけないのか?)

ただでさえ辛い登り。自分のミスのためにそれをまた登り返さなければならないのかと思うと泣けてきます。前方を見ると、沢を挟んだ山の中腹に大きなトレースが見えました。

(あ。あれに乗れば本線に復帰できるかも)

そんな確信のない淡い期待に心を売った僕は、考えることをやめ、さらに沢を下り、目の前にあるトレース(甘い誘惑)に飛びついてしまいました。

果たしてそのトレースはピークどころか本線にさえ復帰できませんでした。山の中腹の小ピークで行き止まった僕は、はるか見上げるピークに指をくわえるしかありません。

この小ピークだってなかなかの標高だし、眺めも悪くありません。ここでよしとするのもひとつの答えです。しかし、悔しさと歯がゆさで胸がいっぱいになっていた僕には景色などみる心の余裕などなく、見つめる先はただただピークのみ。その左下にはアヨロコ氷河がピークを守るかのようにその純潔な白を陽射しに輝かせていました。

(あぁ。あそこに立ちたかったのに。あのとききちんと引き返していれば)

そのときです。視界の一部にケルン(岩や石を積み上げた道標ないし目印)を見たのです。その先にさらにもうひとつのケルン。一気に心のもやもやが晴れていきます。あれに従って沢を詰めて行けば本線に復帰できるかもしれない。時計は10時を過ぎたことを告げています。よくてあと2時間。

(ケルンがあるんだ。可能性はある。ならば行ける所まで行ってみよう。それで駄目ならあきらめもつく。このまま引き返せるか)

ときおり見つけられるケルンを頼りに岩場を進み、なんとか本線復帰を試みます。その頃には体力がかなり落ちていて、さらに登山道でもない不安定なガレ場はかなり危険で、もう引き返そうかと何度も思いました。けれどやはりそれでは納得がいかず、なにくそとさらに沢を詰めていきました。あの稜線上に出れば本線があるはず。それが唯一の望みでした。

次第に急峻になるガレ場は四つんばいで這い上がらなければならず、足を滑らせればきっと滑落してしまうでしょう。それは結構な恐怖で、それでもなんとか標高を上げていきますが、下から見えた稜線上の氷河は間近で見るとかなりの大きさで、巻いてかわせる隙はどこにもなく、アイゼンもピッケルも持っていない僕はそのまま登攀することもできず、もはやどこにも行けなくなってしまいました。

(これ以上は危険すぎる)

僕はそのとき初めて山登りの最中に命の危険を感じました。
ピークは見上げればすぐそこで、不自由なく歩ければ1時間とかからずに踏むことができる場所にあります。それもでもうこれ以上は進めません。時計は11時30分を表示していて、これからの下りを考えればもう引き返したほうが懸命です。

(5000mを越えるところまで詰められたんだ。十分やったよ)

そう自分に言い聞かせますが、苦いため息が自然と漏れてしまいます。僕は、今きた道を引き返しました。

ピークは目の前。手が届きそうなのに。

本線から外れていたため帰り道も良くわからず、地図さえない僕はなんとか登山口まで戻ろうとしますが沢をひとつ残してまたしても行き止まりました。目の前の沢を抜けなければ登山口には届きません。しかしとても降りていけるような場所はありませんでした。この沢を越えるためにはまた尾根まで登り返さなければなりません。しかし行動食のみで動き続けた体はもう体力の底に近く、とても登る気力がわいてきません。何度もこのまま下れないかとあたりを偵察しますがそのたび徒労に終わり、元の場所に引き返すという無駄を繰り返してしまいました。空にはいつの間にか雲が湧き、風もでてきました。

(このままでは暗くなる。きっと雨も降る。早く下山しなければ)

覚悟を決めて沢の上部を目指し、重い足をひたすら動かし続けます。途中偶然テン場を見つけ、さらにそこから沢を折りるトレースを発見しました。

(これだ。もうこれしかない)

すがる気持ちでそれを追います。トレースは沢を斜めに下り、本線に復帰できるようでした。

(助かった。もう何でもいい。無事に戻れれば)

急な岩場を下り、腰まである藪を漕ぎ、疲れ果てて駐車場に戻ったときは、もう17時になろうとしていました。肩で息をするほど呼吸は乱れ、もう何も考えられなくなっていました。屋台小屋に入り、荷物をおろすとベンチにぐったりと座り込んでしまいました。

涸れた沢に可憐な花が咲いていた。

この沢を降りてきた。

これから荷物をバイクにまとめ、ここを立ち去る気力なんて微塵も残っていませんでした。昨日と同じようにベンチに寝袋をひくと、すぐに横になりました。息が整っていません。

(すべては明日の朝にしよう)

とにかくひたすら寝たかったのです。その後どれくらい経ったのか、激しい雷とあられが山を襲いました。

(移動しなくて良かった。テントじゃなくて助かった)

鼓膜に直接響くほどの雷鳴を聞きながら、僕は遠い意識の中でそれを思うのでした。

つづく。

2011年6月15日水曜日

朝焼けのピコ・デ・オリサバ vol.1

メキシコ・シティーにある居心地のいい日本人宿「ぺんしょん・あみーご」をなんとか抜け出した僕。次なる目的地をオアハカと決め、東に向かってバイクを走らせるのでした。


メキシコ・マジックはやはりここメキシコ・シティーでも健在で、あれほど歩きなれた町並みでさえ、バイクで走るとその表情を一変させました。一方通行やら工事での迂回やらがやたらとあるのです。またしても走り始めて5分で地図とにらめっこ。それでもやはり半月滞在した土地勘というものはすばらしいもので、方角のみをあわせて進んでいたら大きな空港の脇をかすめ、乗りたかった国道に乗ることが出来ました。

今日はポポカテペトルとイスタシュワトルという山の間を走る峠でキャンプをしよう!と決めていました。それはM夫妻に教えてもらった情報で、メキシコ・シティーから東へ進み、プエブラという町との間にある峠でした。ポポカテペトル、イスタシュワトル共に5000mを越す山で、晴れた日にはその雄大さを惜しみなく、そんな山々を眺めながらキャンプできるなんてなんと贅沢なことだとうと思い決めたのでした。よく晴れた今日ならきっとそれは素晴らしいことでしょう。

メキシコ・シティーを抜けるにつれ交通量が見るからに減っていく国道をのんびり走り、アメカメカという小さな町に到着しました。この小さな町からその峠道は延びていて、町のはずれにそれを見つけました。ここから約20kmで峠の頂上。道は木々の間を九十九折りに登り、ゆっくりと着実にその標高を上げていきます。突然、ポポカテペトル山が目に飛び込んできたのはそのときです。

「あ、あれがポポカテペトルだ!」

それは一目でわかる、きれいを絵に描いたような実に女性的な山でした。標高は5465m。さらに進むと峠道をはさんだ反対側にイスタシュワトル。こちらはポポカテペトルとは対照的に長い尾根にいくつものピークを携え、荒々しく男性的。標高は5230m。
そんな双方の山を交互に眺めつつ、到着したのはパソ・デ・コルテスという峠の頂上でした。パソ・デ・コルテスの標高は3680mで、左を見ても、右を見ても、5000mを越す山。その存在感は非凡です。

ポポカテペトル。女性的。

イスタシュワトル。男性的。

「あぁ。きれいな山々だな。どうせなら登ってみたいものだ」

ふとそう思い、そしてよしと決意するまで時間はそれほど必要ではありませんでした。

このままただ見上げるだけで一夜過ごし、通り過ぎるだけなんてもったいない。何の因果かここまできたんだ。どうせならアタックしてみよう。

そんな思いがふつふつと込み上げ、胸に熱いものを感じました。人間やる気が出たときの行動力はすごいもので、あとで思い返しても驚きを隠せない場合があります。そのときの僕もまさにそうで、氷河さえたたえた5000mの山に満足な装備もなく、地図さえ持たず挑もうとするのだから大したものです。

パソ・デ・コルテスから南に見上げるポポカテペトル山は今日こそ噴煙を上げていませんが、普段はもうもうと煙を立ち上がらせるほどの活火山。立ち入りは厳重に禁止されています。片や北にそびえるイスタシュワトル山はこの先に登山道があり、入山手続きと入山料さえ払えば誰でも足を踏み入れることが出来ます。

目標はイスタシュワトル山頂5230m。一旦天候が悪化すれば今の季節でさえすっぽりと雪に覆われる5000m峰ですが、見上げる山頂には雪がなく、これならアイゼンなしでも登ることが出来そうです。現にM夫妻の登ったときはアイゼンなしだったようで、氷河もあるのですが稜線上を歩いていけば問題ないとのこと。あとは今晩の天候頼み。

しかしなんの下準備もしてこなかった僕は、一体どこが登山口で、山頂までどのくらいの距離で、どのくらいの標高差があり、何時間で行けるのかまったく何も知りません。M夫妻はテントを背負い山中2泊したと言っていました。それを僕は日帰りでやってしまおうというのだから、かなり無謀なのかもしれません。

だけどやれないことはないはずです。幸い宿を出たばかりで水と食料は手元にあります。水は2.5リットル。食料はインスタントラーメンにカロリーメイトが3袋にアルファ米2食分(カロリーメイトとアルファ米はあみーごで会ったHさんが日本に帰る際餞別にくれたものだ)。日帰りなら十分動ける量です。

そうと決まれば入山手続きをしなければなりません。僕は管理事務所のような施設に入り、受付のおじさんにいろいろ情報を聞こうとしました。しかし僕のスペイン語の理解力ではまったく先に進みません。距離も、標高差もさっぱりです。ましてそこには山の地図さえ置いてありませんでした。結局手に入れたのは登山口から山頂までオチョオラ(8時間)で到着できる(それもたぶんというレベル)ということと、1本のチョコレートバーだけ。受け取った入山申請書も見慣れないスペイン語が並び、どこになにを記入すればいいのかわからず頭が痛むばかりでした。

難航するかに思われた準備ですが、事は好転します。

「コニチワ」

少しおかしな日本語で、ひとりのメキシコ人に話しかけられました。その彼はいくつかの日本語と、流暢な英語を話すことが出来ました。そしてとても親日的で、優しい男でした。渡りに船とはまさにこのことです。それまで遅々として進まなかった作業があっさりと、いとも簡単に進んでいきました。登山口の場所を聞き、申請書を書き上げ、2日分の入山料50ペソ(25×2)を支払い、腕に巻くチケットをもらったら、僕は晴れてイスタシュワトルに挑む権利を得たようでうれしくなってしまいました。

入山チケット2枚。腕に巻く。

メキシコ人の彼にお礼を言うと、彼ら(彼女と一緒にバイクで来ていた)も登山口まで遊びに行くのだと言いました。だから2台で一緒に行こうと。

2台のバイク(彼らは1台のバイクにタンデムで来ていた)で到着したラ・ホヤには広い駐車場と簡易トイレ、それに今は使っていない屋台小屋があり、一番奥にははるか上空に向かう登山口がありました。
今日はここに一泊し、明日の夜明け前に出発です。夕方までにはまだ時間があり、3人で山を見上げながらトルタス(メキシコ風サンドイッチ。彼らがご馳走してくれた)を食べ、いろんな話をしました。

ラ・ホヤ到着。
目の前には堂々たるイスタ。

イスタでトルタを。

夕暮れ。彼らの帰り際、僕は何度もお礼を言いました。もし彼らがいなければきっともっと不安な夜を過ごすことになったでしょう。なんといっても5000mという未知の世界に明日足を踏み入れるのです。それを思うと彼らには感謝しなければなりません。
バイクにまたがり今まさに走り去ろうというとき、彼は何かを思い出したように僕にペンはあるか?とたずねました。持っていたペンを渡すと、彼はメモ用紙に自分の電話番号を書き込み、

「ベラクルスに来ることがあったら電話してくれ。知り合いが小さな船を持っているんだ。それ乗って海に遊びにいこう」

そういってメモ用紙を僕に渡しました。

「必ず行くよ」

僕はそれを受け取り、ふたりとそれぞれ握手をかわし、そして見送りました。

彼らが去ったあとの登山口は僕以外だれもおらず、だけど常に山から見つめられているような奇妙な感じがしました。太陽が姿を消すとあたりは徐々にその明るさを失い、山は輪郭だけを残し、空にはひとつまたひとつと星が浮かびはじめました。

「これなら今晩の天候は心配ないだろう。きっと明日もいい天気だ」

僕はテントを張ることを放棄し、使われていない屋台小屋のベンチに寝袋を広げると、不安と期待を同時に抱えながら静かに目を閉じるのでした。

つづく。

2011年6月6日月曜日

鉄の扉の向こう側 ~そして僕はどこにもいけない~ vol.2

メキシコ・シティーの日本人宿にすっかり腰を落ち着けたてしまった僕。根の生えた腰はなかなか上がらず、半月という消して短くはない日々は実にあっさり過ぎ去っていくのでした。


居心地のいい宿にいると、地球の自転スピードが倍になってしまったのではないかと疑いたくなるほど朝と夜の間隔が狭く感じられます。朝目覚め、朝食を食べて一息つくともう昼間近で、軽く昼食を済ませて散歩にでも行って帰ってくると陽は西の空に低く、リビングルームでは大きな食卓を囲んでの団欒が待っていて、旅の話に花を咲かせれば時計の針はいつのまにか日が変わったことを教えてくれます。そして今日もまたいちにちが安らかに終わっていくのです。

それでも、過ごす日々の中で得るものは大きかったと思います。

まずあまりにも有名な日本人宿ということもあり、毎日のように旅人がやってきては羽を休め、そしてまた旅立っていきました。メキシコの首都という立地からそれは実にさまざまです。北米から南下して来た人。南米から北上してきた人。日本からメキシコへ渡ってきた人。そしてすべての旅を終え日本へ帰る人。ここは文字通り旅人の交差点と言えるでしょう。

そんな旅人たちから聞く話は、どんなガイドブックを読むよりも有益で、ましてガイドブックになんて間違っても載っていない生きた情報でした。これまでガイドブックを持たず、多くの旅人とも会うことのなかった僕は、漠然としか描くことの出来なかったこれからの旅路に、これにより少しずつ色を塗ることが出来たのです。

さらに、ここへ来て多くの知り合いができました。「旅は出会いだ」とまで断言した僕の友人がいますが、それはまさしくその通りで、旅をより豊かにするために出会いは大切なのだと思います。
知り合った皆でテオティワカンの遺跡見学にも行きました。ルチャリブレ(メキシコプロレス)の観戦にも行きました。飯も一緒に食べました。ずっと孤独に走ってきた僕にそれはとても新鮮で、また心休まるものでした。

メトロポリタン・カテドラル。
アステカ時代の神殿を破壊した上に、
スペイン人によって建てられた。

テンプロ・マヨール遺跡の先にカテドラル。
時代の流れを垣間見れる。

コロニアルな街並みの先に現代的なラテンアメリカタワー。
時代の流れ。

そして伝統的なアステカの舞踊。
見ていると心が和む。

国立人類学博物館へ。
太陽のカレンダー。

テオティワカン遺跡へ。
ピラミッドの上で。

アレナ・メヒコにルチャリブレ観戦へ。
会場は異様(ラテン)な盛り上がり。

会場周辺にはマスク屋がずらり。
飛ぶように売れていた。

このとき僕は初めてバイクで旅をしている日本人に会うことが出来ました。その人は日本から西回りでメキシコまで走ってきたIさん。僕と入れ違いのように宿を出ていきましたが、ともに過ごした3日間は楽しく、多くのことを教えてもらいました。日本を出てからロシアに入り、ヨーロッパまで走ったこと。その後アルゼンチンに渡り、南米~中米とつなぎ、ここメキシコで国際免許の更新のためしばらく足止めされていたこと。そして僕に出会ったこと。さすがに長く走ってきただけあって、僕の欲しい情報をたくさん持ち合わせていました。そしてそれをひとつひとつ親切に教えてくれたのです。これは大変助かりました。

さらに忘れられないのがHさんとM夫妻。彼らに出会えたことも僕にとってかなり刺激的な出来事でした。彼らは山登りを趣味としていて、国内のみならず海外の山々(それも誰もが耳にしたことがあるような名峰)も数多く経験していたからです。モンブラン、キリマンジャロ、マッキンリー、アコンカグア。彼らの口から漏れるそんな言葉に、僕は耳を大きくし子供のように心躍らせながら聞き入りました。一緒に酒を飲みながら、時間を忘れて山を語らうことはとても至福な時間でした。

バイクで旅をするIさんを囲んで。
パニアケースの日の丸が泣かせる。

そして日々は穏やかに、まるで早送りをしているかのように過ぎていくわけです。何をするわけでもなく時間は流れ、あっという間に半月が過ぎ去っていました。

その頃の僕は昼下がりの散歩が日課となり、気の向くまま日々あてもなく町をぶらついていました。だけどある日、宿から歩けるところのほとんどを歩きつくしたことに気づいたとき、そろそろ動かなければならないな、と気づいたのです。
特にスケジュールを決めているわけではないのですが、旅をしている以上このままここに居続けることはできません。またすべての荷物をバイクに乗せて、僕は走り出さなければならないのです。それが旅というものなら。

そして旅は続く。

おわり。

2011年6月4日土曜日

鉄の扉の向こう側 ~そして僕はどこにもいけない~ vol.1

グアダラハラで二晩を過ごし、市内観光とバイクのメンテナンスを終わらせた僕。ついにメキシコの首都メキシコ・シティーへと向けてバイクを走らせるのでした。


ホテルを出たのは9時半でした。とにかく郊外に向けて走っていけばいいだけなのに、ホテルを出て5分でそれは叶わず、同じ道をぐるぐるとまわる羽目になってしまいます(僕は密かにこれをメキシコマジックと呼んでいる)。

なぜだ?
なぜいつも標識どおりに進んでいるのに、気づくと目的地からまるで明後日の方向に進んでしまうのだろう。というか時折その標識そのものがなくなったりするじゃないか。標識が標識としてのまっとうな仕事を放棄しているとしか思えない。そして僕はいつも同じ場所に戻ってきてしまう。メキシコマジック。

結局グアダラハラの町を抜けたのはもう11時にもなろうかという頃でした。どこをどう走ったのかわからないけれど、同じ場所をまわりすぎてバターになる前になんとか目的の国道15号線にたどり着き、モレリアという町を目指して走る出すことが出来ました。
グアダラハラを抜けて山に入ると、小さな村をいくつも抜けて走ります。高原地帯の家々は低地のそれとは違い、石(火山岩?)を積み上げただけの石垣に赤レンガ。そして屋根には赤瓦。土地が変われば家も変わるものです。その雰囲気はどこか沖縄のそれにも似ていました。

石垣、赤レンガに赤瓦。

モレリアの町。メキシコマジック。本当はそのまま15号を走っていたかったのに、なぜか標識の数字は126号にすり替わっていて、だけどタクシーの運転手に道を尋ねたらそのままでも進むことが出来そうなのでかまわず走って行きます。目指すメキシコ・シティーにはまだ半分といったところ。
いくら北米大陸と南米大陸とをつなぐ架け橋のような、狭く細い中米が近づいてきたといっても、ここはメキシコ。大陸の名残とでも言うべきか、そのスケールの大きさはまだまだ長い移動距離となって現実を教えてくれました。

結局、グアダラハラからメキシコ・シティーまでは3日をかけて走りました。
トルカの街を抜け、散々登った山道を気持ちよく下っていくと、それまで周りを囲んでいた山々がいつの間にか消えてなくなり、代わりにスモッグに煙るビル群が目に飛び込んできました。そこがメキシコ最大の都市、メキシコ・シティーでした。

グアダラハラはメキシコ第2の都市でしたが、実際メキシコ・シティーはその何倍も大きな町でした。標高もさらに上げて2200mを越えているはずなのに、まるで山という気配がなく、往来には車があふれ、たくさんの人々。その規模は首都としての顔をきちんと持つように思えました。

大きな町ゆえこれはかなり難儀するだろうと覚悟をして臨んだ宿探しでは、奇跡的に迷わず到着することができました。そこはメキシコ・シティーの小さな日本「ぺんしょん・あみーご」。車のクラクションと聞きなれない異国語が飛び交う目抜き通りから角を折れ、目にも鮮やかに塗り上げられた鉄の扉をひと押しすれば、そこにはサンシンの乾いた音と耳に馴染む母国語が流れる不思議な空間がありました。

世界3大日本人宿と呼ばれるその宿は、一歩足を踏み入れると沈没宿の匂いが漂っていて、ロサンゼルスを出てから移動を繰り返してきた体にその空気はどこまでも優しく、僕は安堵のため息とともに一瞬で骨抜きにされていました。

やっとシティーに到着した。
ビルが立ち並び、たくさんの車が行き交う。

中心地は人であふれかえる。

革命記念塔の夕暮れ。
宿から歩いて1分。

メキシコ・シティーでの日々を文字にすると、それは17泊という日数からは考えられないほど簡素なものになってしまいます。単に移動をしていないということだけを口実とするにはあまりにも弱く、実際のところ日々の穏やかさと不精の賜物以外のなにものでもないのですが…。

つづく。