2012年8月30日木曜日

mi casa su casa vol.1

ホンジュラスからニカラグアへは、やはりというべきか一番北にある国境を抜けた。テグシガルパから一番近い国境を選ぶとそういうことになった。目的地はレオン。レオンはグラナダと並び、ニカラグアでは誰もが訪れるであろう観光地だ。

13時にニカラグア国境のラス・マノスへ到着した。そこにはずいぶんと手前から大型のトレーラーがずらりと道の両脇を埋め尽くしていて、ひょっとすると通過にものすごく時間がかかるのではないかと危惧したが、それは杞憂に終わった。トレーラーの下にハンモックをかけ昼寝にいそしむ運転手たちを横目に、ゲート手前まですり抜けて走る。と、ホンジュラス側の出国手続きはいとも簡単に終わってしまった。

やたらトラックが多かった。

ニカラグア側へ移動する。しかしゲートらしきものもなく、僕にはどこからがニカラグアなのかが分からない。

「おいお前、どこへ行こうというのだ。こっちへこい」

保険屋の、とても投げやりな話し方をするおやじに止められた。その投げやりぶりはどこか人生をあきらめているような雰囲気だったが、保険のみならず、その後のバイク消毒、イミグレーションに通関とすべての作業を仕切られてしまった。入国には情報どおり12ドルが必要で、消毒とペルミソは無料。そして保険が12ドル。保険が強制なのかは実際判然としなかったのだが、税関でも入国ゲートでも保険証書を確認されたので必要だったのだろう。

しかし、ペルミソを作り終わったところで賄賂を要求されてしまった。税関のオフィスの外へ連れ出され、投げやりな保険屋が仲介役となってオフィサーに金を払うんだ、という話になった。しかもこともあろうことか12ドルもだ。なにがどうしてそういう話になってしまったのか理解できなかったが、金は出せないよ、そう言った。ペルミソ作成代金は無料のはずだし、そもそも有料ならオフィスの中できちんとした段階を踏んで支払いをするはずだ。なにもわざわざオフィスの外に出て支払いをするのはおかしい。
僕はもう一度言った。金は出せない、と。しかしなかなか相手も手強いもので、さらに詰め寄ってくる。壁を背に、ふたりに囲まれる形になってしまった。逃げる気はなかったが、逃げ道はなくなった。ここでひるんだら負けだ。そう思った。しばらく押し問答が続いた。頭の中ではなぜだ?が駆け巡った。

「どこにも12ドルなんて書いてないじゃないか」

ペルミソを突き出し、そう抗議した。向こうも一歩下がった。確かにペルミソのどこにもそんな金額は書かれていない。これで抜け出せるか?そう思ったが、今度は5ドルでいい、と言い出した。馬鹿馬鹿しい。ため息が漏れた。

「ペルミソを作ってくれたのはありがたいよ。だけど、金を払う気などはない」

強い口調できっぱりと言った。さすがに僕もこらえられなかった。やがて向こうはあきらめたのか、どこかへ消えた。僕は、自分が悪いことをしていないにも関わらず、気がめいってしまった。なんでこうも無駄な労力を費やさなければいけないんだ。もやもやとした気持ちで胸がいっぱいになった。

入国ゲートをくぐりぬけたのはもう14時半だった。レオンまでは今日中には到着できそうになかったので、国境から100kmほど進んだエステリという町で一晩を過ごし、翌日レオンへ入った。

部屋を取ったのはオステル・クリニカという名のホテルだった。婆さんと女主人、その娘と若い女使用人の女所帯で切り盛りするホステルで、ドミトリーは125コルドバ。1ドルが約23コルドバになったので6ドル弱という計算になる。ドミトリーは小さな部屋だというのに2段ベッドとシングルベッドがひとつづつ押し込められ、荷物を置くともうくつろぐ場所はベッドの上しかなかった。しかし、他には誰も入っていないようだったので貸切なら悪くなかった。昼間は暑くて部屋にいられなかったが、テラスのある大きな部屋の、風通しの良いところにハンモックがあり、うたた寝をするにはちょうど良かった。ちょうど良かったから、滞在中はすっかりそれを我が物顔で使ってしまった。

 ニカラグアのビール。トーニャ。いける。

子供はみなサッカー好きだ。

ハンモックでのうたた寝は気持ちいい。

レオンには3泊した。なかなかに居心地が良かった。目を見張るような大きな教会があり、そこを中心にして程よい大きさに広がる町は、散歩するにもちょうど良かった。宿で、ひとりの日本人にも出会った。

中川さんというその人は齢60を過ぎているというのに、見た目にはまだ50前と言っても不思議ではないほど若々しかった。カリブの島を周り、パナマから北上してきたが、ここレオンがなかなかに居心地が良いのでゆっくりしているところだといった。

その日の晩、ふたりで夕食に出かけた。中川さん曰く、レオンは安くてうまい飯が食えるとのことだった。それはなんともありがたいと思ったが、連れて行かれたレストランは小奇麗で、パティオがあり、少し気取った雰囲気の店だった。僕ひとりなら間違いなく入らない、そんな類のレストランで、もしかしたら「安い」の感覚が僕とはまるで違うのかもしれないと懸念した。

カウンターにはいくつもの料理が並べられ、好きなものを選び、ひとつのプレートにそれらを盛ってもらい、レジで会計をする、という中米では良く見かけるタイプのレストランだった。僕は中米風のチャーハンに牛肉を焼いたの、それに瓜だか茄子だか良く分からない野菜の半身をくりぬいてカッテージチーズを詰め込んだ料理を選んだ。果たして本当に安いのだろうかと懐疑的だったが、レジで求められた金額は45コルドバ(約2ドル)だった。確かに安い。

さらにここ中米においてはめずらしく奥行きのある味わいだった。なにせ茄子をくりぬいた中にカッテージチーズだ。店の主人は亡くなってしまったらしいがベトナム人という話で、それなら僕らの口に合うのも合点がいく。トルティーヤ、フリホーレス、焼き(もしくは揚げ)バナナを一切口にせず腹が満たされたのは実に久しぶりだ。なにせ片田舎の食堂ではそれ以外を探すことができない。

すっかり満足してレストランを出た。と、中川さんがビールでもどうですかというので、言葉に甘えて飲みに行った。向かった先はこれまた小洒落たカフェバーだったが、小瓶のビールで25コルドバ。バーで飲む価格を考えたらやはり安い。

店は繁盛していた。広い店内はどこを探しても空席がなく、入り口のドアは重厚で、天井は高かった。スピーカーからはロックが大音量で、壁掛けの液晶モニターからはESPNが流れていた。バーカウンターには世界各国の酒瓶が整然と並べられていて、サロンを付けたボーイが運んできたビールはキンキンに冷えていた。
大勢の白人が陽気にグラスを傾け、大きな笑い声があちこちからあがった。僕にはこの空間がニカラグアであるとは到底思えなかった。この場面だけを切り抜いて、僕は今アメリカに居る、そう言っても誰も疑わないはずだ。ほろ酔い加減の僕は、ニカラグアのレオンは、なるほどそういう町なのだと理解した。

つづく。

2012年8月29日水曜日

心に響かない町 vol.3

少し早めに起きだした。昨日ホテルに入ったのがすでに日没後だったので、食堂で夕食をとっただけで町を散歩さえしていなかった。何の因果かさっかく訪れた町なのに散歩もしないで立ち去るのはもったいないと思え、早朝の町を1時間ほど徘徊した。町は、山中とは思えないほどコロニアルだった。それはどこかメキシコのサンクリストバル・デ・ラスカサスを思い出させた。

今日はホンジュラスの首都テグシガルパまで走りたい。しかし、その距離は読めなかった。地図を持っていなかったのだ。エルサルバドルまでの地図は持っていたが、その先の地図は(コスタリカ以外)まったく持っていなかった。かろうじて地図と呼べるものはガイドブックに記載されている極めて大雑把なものだけだ。ひとつの国を10cm四方の四角の中に収めているそれは主要道路が数本確認できるだけで、距離さえ読めなかった。バイクで旅をするにはあまりに頼りなさすぎる。なさすぎるのだが、僕はそれ以外を持っていなかった。本屋に行こうがガソリンスタンドで尋ねようが、中米では地図らしい地図を見つけることができなかった。

距離も読めないまま走り出した。距離は読めないまでも、主要道路をなぞっていれば問題はない。しかし今日中に到着できるかと思われたテグシガルパは遠かった。やはりガイドブックの地図では走れたものではない。まっすぐに引かれた線は、実際走ってみるとかなりの峠道で、時間などまったく読めなかった。

グラシアスの町までは良かった。道は山道で状態も悪かったが、まだ舗装されていた。しかしグラシアスを過ぎてしばらくすると、そこからラ・エスペランサまでの20kmほどが未舗装となった。それも赤土を固めただけのそれは凹凸が激しく、荷物を山と載せたバイクでは30kmも出すことができない。20kmの距離を1時間もかけて走った。ラ・エスペランサに到着したのはすでに昼近く、その時点でテグシガルパは厳しくなっていた。

今日もいくつもの峠を越えた。ホンジュラスがこれほど山深い国だとは思わなかった。グアテマラでも3000mを超える峠を越えてきたが、これほど上り下りを繰り返すことはなかった。きつい上りでは時速30kmも出せず、下りはエンジンを切っても惰性で延々10kmも勝手に進んでしまう。125ccのトライアルにはきつい道のりだ。

シグアテペケの町に突き当たると、道路の状況が一変し、片側2車線の実に走りやすいものになった。ここはテグシガルパとサンペドロ・スーラというホンジュラス第一第二の両都市を結ぶ幹線道路なのだからそれもうなずける。道路に穴があいていることはなくなったが、山を抜けることには変わりはなく、さらに交通量が格段に増え、今度はものすごいスピードで駆け抜ける大型トラックやバスに気を使わなければならなかった。

太陽がいったん傾きはじめると、日暮れを待ってはくれなかった。それでも道路状況が良くなったので多少残業をしてでもテグシガルパまで走ろうと考えていた。距離は約60kmを残すところだった。2時間かからない距離だ。しかしサンブラーノの町を過ぎ、山を下りはじめたあたりからぽつりぽつりときて、標高を下げるにしたがい本降りになってしまった。
一瞬で心が折れた。カッパを着て、夕暮れの国道を、大型車のしぶきに耐えながら2時間走る気などさらさらなかったし、テグシガルパにそれだけの見返りがあるわけでもなかった。あっさりときびすを返すと、雨の降っていないサンブラーノの町まで戻った。

町に一軒しかないホテルはシングルで330レンピーラだった。しかし値段交渉であっさりと200レンピーラまで下がってしまった。下がったというよりも、下げてくれた、といった方が正しい。僕の見てくれをして330はとても払えないだろうと思ったのか、女主人は品定めをするように僕を見つめたあと、いとも簡単にその値段を出してきた。
果たして200レンピーラで取った部屋はとてもきれいだった。ゴキブリの出る昨日のホテルとはえらい違いだったし、もしあのまま雨の中っていたらと思うと、こうして19時前に落ち着くことができるだけでもありがたかった。

翌日の出発はゆっくりだった。テグシガルパまでは60kmしかないうえ、あまり早く到着したところでホテルに入るわけにも行かない。どの国でも安宿においてはチェックイン時間など決められていなかったが、昼を待たずに部屋に入るというのも早すぎる。
10時に走り始める。昨日の夕暮れには本降りだった峠も、今朝は快晴だ。気持ちよく走る。標高を下げるにつれ両脇の山肌にへばりつくように家々が建ち並び始め、長い下り坂が終わると、やがてテグシガルパに到着した。

陽気なホンジュレーニョたち。

山肌にへばりつくように家々が立ち並ぶ。

スーパーにて。コーヒーたくさん。


セントロ(新市街)に向けてバイクを走らせる。しかしいつものようにカテドラル周辺は一方通行ばかりだ。さらに渋滞もひどい。このくそ暑い中、排気ガスにまみれて渋滞に捕まるというのは肉体的にも精神的にも苦痛だ。そんなセントロはあっさりと見限って(安宿風のホテルはどこにも見当たらなかった)、やはり今日も旧市街へとバイクを走らせた。

新市街と旧市街の間には小さな川が流れていた。そこに小さな橋がかけられ、人や車が絶えず行き来していた。こちら側と向こう側。新市街と旧市街。目に見えない壁が、目に見える川となって、その境をあらわにしているようだった。
橋を渡ると町の表情は一変した。背高の建物はなくなり、ゴミがやたらと目に付き、地べたで店を広げる婆さんがいて、「アミーゴ」と気安く声をかけてくる男がいた。町並みの色彩は乏しくなり、猥雑さが目に見えて増えた。それが旧市街というものだった。

バス停近くのサン・ペドロというホテルに部屋を取った。コンセントもないシングルだったが、安かった。ツーリストらしきは他におらず、もちろん大きなかばんを抱え一晩を過ごしにやってくる人もいたが、半ば住み着いているような人々が多かった。
二晩をそのホテルで過ごした。テグシガルパはホンジュラスの首都ではあるが、どの国の首都も押し並べて見るのもはない。強いて訪れるといえばせいぜい美術館や博物館の類になるのだが、テグシガルパには心惹かれるような美術館も博物館も存在しなかった。することといったら散歩くらいなもので、1日半も自由な時間があるのだからと、かなりの距離を歩いた。それが仕事と言うわけでもないし、誰かに脅迫されているわけでもないが、その距離は相当だったと思う。

今日のお宿。

 人も車もひっきりなしだ。

 目に見えるものとなって。

新市街。

旧市街。

町を歩いていると、頻繁に「チノ」と言われた。チノとは厳密には中国人のことなのだが、たいていはアジア人の総称として使われている。もちろん差別用語でもある。日本人である僕は、ホンジュラスに限らず、どこへ行こうとそう呼ばれるわけだからもう慣れていたつもりなのに、この町ではその頻度が高く、完全に人を見下した物言いで、言い方ひとつでこうも違いがあるものかと考えさせられた。学生などはスクールバスの窓から一斉に顔を出し、わけの分からない中国語らしきを口から発し、それはまるで動物園のサルでもからかうかのようだった。そんなものはどこ吹く風と気にしないつもりでも、やはり気持ちの良いものではない。

だからという訳でもないが、町中をいくら歩いても、僕の心に響いてくるものは見つけられなかった。旧市街も新市街も。パルケ、教会、メルカド、スタジアムから何もない路地裏まで。歩けど歩けどこれは、というものが見つけられなかった。僕は、この町と僕ををつなぐものが何もないように思えた。心が開かない。そんな感じだった。
なにかひとつでもと思ったが、足を棒にしてもなにひとつ見つけることがでなかった。唯一収穫と呼べるものは、ホテルから歩いて2分のところに冷えたビールを売っているスーパーを見つけたくらいのものだった。

おわり。

2012年8月24日金曜日

心に響かない町 vol.2

エルポイの国境からホンジュラスへと入国した。ペルミソ作成に思いのほか時間を要したため、そう遠くまでは走ることができず、国境北にあるサンタロサ・デ・コパンという町を目標に走りはじめた。

道はかなりの山道だった。ホンジュラス北部は想像以上に山深い。いくつかの峠を越えていくため景色は良かったのだが、いかんせん道が悪く、なんぎした。ところどころが未舗装であり、さらに舗装路でさえこれでもかと言わんばかりに穴があいていた。それは大きなものから小さなものまで実にバリエーションが豊富で、深いものでは30cm以上も陥没していた。カーブの途中にまでそれがあるのでなんとも厄介だ。穴をよけるため車が蛇行して走るので、車線などもはやあってないようなものだった。穴をよけながら、かつ対向車もよけなければならない。かなり気を引き締めて走らないとあっという間に事故を起こしてしまいそうだ。おかげで余計に時間がかかってしまい、国境から近い町を選んだにもかかわらずサンタロサに到着したのは夕方18時になっていた。

山中を突き進む。

雲。

ほこりっぽい町でちょっと休憩。

それは山を登った先に突如現れた。峠を登っているとき、きっとこれを下った平地にでも町があるのだろうと思っていた。しかし登り切った先にいきなり町が広がったので驚いてしまった。そして山の中とは思えないほど綺麗な町(とてもコロニアルだった)でさらに驚いた。もしかしたらこの町は観光地なのかもしれない。そう思うとふとある心配事が頭をよぎった。

案の定ホテルはどこも高かった、最初に入ったホテルでシングル500レンピーラ(約26ドル)と言われたときは、がっくりと肩を落としてしまった。地図で目星をつけてやってきただけなのでなんの情報も持っていないし、時間を考えるとこれから移動するわけにもいかない。夕闇は、今まさに町を包み込もうとしていた。とにかく町中をバイクで走り回った。テレビやエアコンなんていらない。安くひと晩を寝られる場所を探した。

ホテルのフロントで、ほかにもっと安いホテルはあるかと尋ねることにもすっかり慣れていた。最初はそれを聞くことに抵抗もあったが、ホテル探しの効率を考えるとそんなことでしり込みしている場合ではない。そんなものは知らないと無情に追い払われることも頻繁だったが、親切に教えてくれることもあった。たとえ高いホテルに入ったとしても、徐々に安い方へと進路を向けていくので、最終的にはその町の安宿に落ち着ける。

教えてもらったマヤという名前のホテルはシングルで150レンピーラだった。ドルにすれば約8ドル。まずまずの値段なのだけど、同じ値段で泊まっていたエルサルバドルの宿を思うと、その質の差は雲泥だった。シャワールームは狭く、シャワーを浴びると便器までも水浸しになるし、部屋にはコンセントひとつなかった。ベッドはスプリングがいかれ、体を預けるとどこまでも沈んでいった。そしてしばしば足元をゴキブリが這った。安いなりの理由はある。救いだったのは、安全な駐車場があることだった。

いつものように部屋に荷物を入れシャワーを浴びる。一息つくともう20時近かった。小さな窓から見上げる空にはすでに星がきらめいていた。長い一日だった。
ほっとすると同時に腹が減ってしまった。思い起こせば昼に国境でパンを買って食べたきりだ。なにか食事をと思ったが、今から町を歩く気分にもなれず、宿の前にあった食堂に入ることにした。
セナ(夕食という意味)を注文する。壁に張られたメニューはそれしかない。時間帯でデサユノ(朝食)、アルムエルソ(昼食)、セナ(夕食)と分かれているだけだ。つまりこの店に入った誰もがすべからく同じものを食べるというわけだ。

運ばれてきた夕食はまるで朝食のようだった。目玉焼き、焼きバナナ、フリホーレス(煮豆)、ハム、チーズ、クレマ(サワークリームのようなもの)が一皿にのせられ、それにトルティーヤが付いていた。これで50レンピーラ。エルサルバドルで食べていたカルネ・アサード(牛肉のステーキ)と同じ値段とはとても信じられなかった。ところ変われば品変わるということか。もっともラテンアメリカでは昼食がその日の主たる食事であり、夕食は軽く済ませるというのが通常だ。だからここでは昼食がディナーであり、夕食がランチというわけだ。フリホーレスをトルティーヤで包みながら、郷に入りては郷に従え、つまりはそういうことなのだと悟った。

そういうこと。

つづく。

2012年8月23日木曜日

心に響かない町 vol.1

エルサルバドルはなかなかに居心地が良かった。物価は安く、ホテルも手ごろな値段でありながらかなり快適だった。ホテルの目の前には食堂があり、いつも地元の客でにぎわっていた。ゆえに味もよく、食事に困ることもなかった。
何より人が良かった。町を歩いていても、どこかの店に入っても、親切にされることが多かった。挨拶をすればきちんと返ってきたし、むしろされることの方が多かった。人の良さはその国を印象付ける大きな要素であるのだが、その点でエルサルバドルはかなり好印象だった。

だからといって長居することは許されなかった。これだけの条件が揃っているならばつい悪い癖(僕は居心地が良いとついのんびりしてしまうきらいがある)が出てしまうのだが、そうもいかない理由があった。ビザだった。残りの日数は2週間を切っていた。ホンジュラス、ニカラグアのことを考えると、残念ながらもうエルサルバドルを出なければならなかった。

日中は30度を超す気温だが朝は25度とすがすがしい。季節的には雨季に入ったのだが、今のところ雨の心配はない。今日はサンサルバドルから一路北へ、ホンジュラスへ向けて走る。

首都から北へ向かう道は、渋滞の上り車線を尻目に快調に進んだ。国境へは100kmほどあるので朝早くホテルを出発した。朝食もとらずに走り始めていたので1時間で腹が減ってしまい、途中の町でププサと甘いコーヒーをとった。チーズ入りのププサがおいしく、すっかりお気に入りだ。
同席になった青年が話しかけられた。見るからにインテリっぽかったのだが、話の内容はやはり「ツナミ」と「ジャイカ」といったものだった。ツナミについては心配され、ジャイカについては感謝されてしまった。僕はこれといって何もしていないのに感謝されてしまうのはなんとも面映くもあるのだが、エルサルバドルでジャイカの話をされたのはこれで2回目だった。

こんなところで食べてます。

腹も落ち着いたところで再度ホンジュラスに向けて走り出す。しかしそのホンジュラス、実はバイク乗りにとってかなり厄介な国として知られている。賄賂だ。入国時もさることながら、国道沿いにあるかなりの数の検問にいたるまで、いちいち賄賂を請求されるという話だった。なんということか。ただバイクで通過するだけに金を払わなければならないなんて。

お互いの利害関係が一致するのなら話は分かるが、こちらが一方的に損をするだけの賄賂など払いたくはない。そもそもそれは賄賂とはいえない。公的立場を利用した恐喝だ。検問では時間をかけて対応すれば賄賂を払わずに通過できるだろうが、その労力たるや大変なものだ。
そんな中、北部のローカル国境では賄賂請求などないという話を聞いた。それはメキシコで会ったあるバイク乗りの確かな話だった。最短距離で中米を貫くパンアメリカン・ハイウェイから外れ、北へと進路をとったのはそのためだった。

昼前に国境に到着した。エルサルバドル側の出国は何の問題もなかった(もっともイミグレーションではまたしても日数が少ないことに突っ込まれはしたのだが)。
ホンジュラス側へ移動する。話ではガイド(何のためのガイドなのか理解に苦しむ)がうざいくらいいて、そのガイドを通して入国手続き(そして賄賂の支払い)をしないとスタンプがもらえないと聞いていた。もちろん賄賂の一部はガイドに支払われる仕組みだ。
しかしどこを探してもガイドなど見つからなかった。それどころか誰一人として僕に近寄ってくる者はいなかった。それはそうだ。ローカル国境を使用して入国するツーリストなど微々たるもの。いつ現れるかも知らないツーリスト目当てにしてもガイド商売もあがったりだろう。うわさで聞いていた殺伐とした雰囲気など、ここには微塵も存在しなかった。

本当にのんびりしたものだった。ローカル国境にしては構えが大きく、広い敷地はバイクで移動しなければならないほどだったが、時折自家用車や大型トラックが通過するだけだった。ツーリストは僕のほかに英語を話す夫婦がひと組居るだけで、イミグレーションで入国カードを記入し3ドルと共に提出すると、スタンプは簡単にもらうことができた。

(あれ?案外スムーズに入れるかも)

と思ったのが間違いだった。
ガイドやら賄賂やらといった雰囲気は皆無だったが、税関でのペルミソ作成に長時間を要してしまった。税関に到着したのがちょうど昼時(11時50分だった)で、これから昼休みだからと書類さえ受け取ってもらえず、1時間待たされた。13時を待ち再度窓口に行くも、今度はシステム障害と言われ、書類は受け取ってもらえたものの、さらに待たされることになった。

窓口の女性は申し訳ない、といった顔をひとつも見せなかった。私の責任ではないもの、とはっきり顔に書いてあった。こちらとしても彼女を責めるわけではないが、いつ復旧するともわからないのでは困ってしまう。これが日本であれば大変なことだ。ラテン気質。この辺の感覚は日本と大きく違う。大きく違うのだが、別に腹立たしくはなかった。のんびりした旅をしているというのもあるが、日本を長く離れ、すっかりラテン時間に浸りきっていたということが大きいのかもしれない。

ここから先がホンジュラス。

どこかのどか。

まさかの足止め。

日陰に腰掛け、コーラを飲みながら、ときおりホンジュラス人とおしゃべりしながら、だらだらと時間が過ぎるのを待った。そこら辺を野良犬が奔放に走り回り、アイスクリームやらパンやらを売りに商人たちがやってきた。あまりに穏やかな雰囲気に、ここが国境だということさえ忘れてしまいそうだ。
システムはなかなか復旧しなかった。何の進展もないまま30分、1時間と時計の針だけが進んでいった。できれば午後いちにはホンジュラスへ、なんて思っていたがそうはいかないようだ。バッグからガイドブックを取り出し、今日の計画を練り直した。この雰囲気からして今日はもうそう遠くまで走ることはできないだろう。国境から100km圏内の町を探した。

結局ペルミソが発行されたのは15時を過ぎてからだった。3時間以上も待たされたことになる。真上にあった太陽は、今やすっかり傾き始めていた。もうその頃には今日中にホンジュラスに入国できればいいや、なんて気分になっていたので、夕方まで十分余裕のある時間に走り出せることが逆にありがたく思えてしまった。

つづく。

2012年8月22日水曜日

コーラーの国 vol.3

ツアーに参加してみた。ツアーといっても観光客向けなどではなく、それはボランティアによって日曜に催行される地元向けのものだった。たまたまガイドブックで見つけ、たまたまその日が日曜だったので、これもタイミングと思い朝早くから起きてツアーに参加してみたのだ。地元向けなので料金は数ドルと格安で、実際外国人は僕ひとりだった。

6時半集合とあって早い時間から起きだした。観光案内でもらったパンフレットによると面白そうな国立公園へ行くプランがあったので、すっかりその気でのこのこと集合場所の公園へ向かったのだが、希望の国立公園へは僕以外誰一人候補者がおらず(なぜだ?)、結局そのツアーが催行されることはなかった。代わりにラス・フローレスとコスタ・デル・ソルというツアーのどちらかに参加しなければならなかった。

「おいハポネス、一緒にこっちのツアーに行こうぜ」

ボランティアのガイドたちがしきりに誘う。ほかに何も考えていなかった僕は誘われるがままだった。結局ラス・フローレスという名のツアーに参加することになった。

12人乗りのバンにきっちり12人乗り込んで、7時半に公園を出発した。どこかの国立公園にでも行くのかと思ったが、それは単に地方の町をいくつか見てまわるという内容のものだった。出発してから17時半に帰ってくるまでに、西にある小さな町をいくつか訪れただけだった。正直これならもうひとつのツアー(太平洋側にあるリゾートに行くらしかった)の方に行けば良かったかなとも思った。
しかし昼に訪れた町でビールを買い、小さなソカロのベンチに腰掛け、柔らかな日差しを浴び、土産屋のおばちゃんとおしゃべりをし、町行く人々をぼんやり眺めていると、むしろこっちの方がエルサルバドルという国を知ることが出来るかもしれないなどと思い、それならそれも悪くもないな、なんてひとりで納得したりした。
またバンの運転手もガイドの女の子たち優しかった。

「あっちに行くと土産屋がたくさんあるぞ」
「こっちには古い教会があるわよ」

町に到着するなり、不案内な僕にいちいち教えてくれた。

果物は本当に豊か。

 こういう壁画をたくさん見かける。

帰り道の車内でもいろんな話をした。僕の稚拙なスペイン語を一生懸命理解しようとしてくれるのもうれしかった。

「ハポン(日本)はいったいどんな国なんだ?」

皆の興味はそこに集中した。ハポンという名は知っているが、はっきりとしたイメージを持った者は誰一人居なかった。

「日本は中国、韓国とは違うのか?」(何がどう違うのかさえイメージが沸かない様子だった)
「グラシアス(ありがとう)は日本語でなんて言うんだ?」
「日本には牛がいるか?」
「日本人は魚を生で食べるんだろ?」(すしという単語は知らなかった)
「何か日本の歌を歌ってくれ」

狭い車内でたくさんの質問が飛び交った。僕はひとつひとつの質問に答え、聞くに堪えない歌を歌った。そして

「ホンダもスズキもヤマハもカワサキもトヨタもニッサンもマツダもミツビシもヒノもソニーもニコンもキヤノンもすべてすべて日本の会社だ」

と説明した。その言葉には皆驚きを隠せない様子だった。それらがどこの国の会社なのか知らない者も居たし、アメリカの会社じゃないのか?と言う者も居た。まさかそれだけの日本製品がエルサルバドルの日常にあふれているとは想像だにしなかったのだろう。大海を挟んだ小さな島国は、彼らの中では実体をつかめない謎めいた国なのだと知った。

運転手とガイドの女の子たち。

おわり。

2012年8月1日水曜日

コーラーの国 vol.2

果たして入国したエルサルバドル。見渡す雰囲気はグアテマラとさほど変わらない。それはそうだ。国が変わったといっても実際には川を一本越えただけだ。山の中であることには変わらない。一本道の国道を東へ。サンサルバドルと表記される看板のままに進む。約100kmをノンストップだ。

昼過ぎに国道沿いの屋台で昼食にした。牛肉を焼いたものに米、サラダ、トルティーヤ。それにコーラをつけて1.9ドル。入国したばかりでまだ物価がどれほどなのか分からなかったが、これならエルサルバドルも期待できそうだ。驚いたのは屋台なのにステンレス製のナイフとフォークが出てきたことだ。なかなか洒落ているではないか。

やがて首都サンサルバドルに到着した。首都はどうしたって都会だ。田舎の人々は窓も無い掘っ立て小屋のような家に暮らし、バンパーの落ちかけた車に乗っているというのに、ここには華やいだショッピングセンターがあり、アメリカから進出してきたファースト・フードの店が軒を連ね、走る車も多様で綺麗になった。

気持ちよさそうだ。

屋台で昼食を。

こんなの食べてます。

目指すはとにかく旧市街だった。大きな町では何にもましてホテル探しが大変だ。旧市街にある安宿街へ行けば、1泊5、6ドルからあるという話しだった。だが安宿がある地域はあまり治安が良くないとも聞いていた。エルサルバドルは20年前(つい最近の話だ)まで内戦が続いていて、未だ貧富の差が激しく、その戦いで流出した武器を使った強盗も多発しているらしい。

新市街から旧市街へ抜ける途中、2軒ほどラブホテルに入ってしまった。ホテルと書かれた看板を掲げているのでなんの疑いも無く入ってしまった。値段をたずねたときに、昼か?夜か?と聞かれやっと合点がいった。どうりでひとりなのだがと言ったときに変な顔をされたわけだ。

見つけたインペリアルというホテルはとても清潔感があり、敷地内には大きな駐車場がきちんとあり、ツインルームで1泊8ドルだった。シャワーは水のみだが水量が豊富で快適。部屋には大きな机が置かれ、テレビに扇風機まで付いていた。受付の女性も感じも良く、一目で気に入った僕はふたつ返事で2日分の金を払い、さっそく荷を解いた。

シャワーで汗を流し、ついでに溜まった洗濯物をやっつけ、ベッドにごろりと横になった。グアテマラを抜けエルサルバドルへ無事に入国したことに満足していた。思えば久しぶりの国境超えだった。止まっていた時計は、今やグアテマラに置き去りにしてきた気分だった。

テレビをつけてみたが内容がさっぱり分からない。分からないテレビは止めにして散歩に出ることにした。
にぎやかなのはやはりカテドラル周辺だ。そこにはさまざまな露店が隙間もないほどひしめき合い、商人たちの威勢のいい声が飛び交っていた。活気あふれる雰囲気に僕はついうれしくなり、当てもなくふらふらと歩き回った。道の両脇には店を広げた露店がびっしり並んでいる。食品もちろん、日用品や雑貨から、それがいったい何のために売られているのか理解できないガラクタにいたるまで多種多様だ。そんな露店が歩道を埋めつくているため、人々は図らずも車道を歩くようになる。歩行者天国という訳でもないのでしばしば車が通るのだが、これだけ大勢の通行人が律儀に車をよけるはずもなく、車も仕方なく人々の歩くスピードで進まなければならない。のんびりしたものだ。

活気に満ちている。

熱心に祈りをささげる。

ププサ。と、もちろんビール。

文字通り人ごみを掻き分けながら歩いていると、にぎわしさの中に頻繁に耳に入ってくる単語があった。「ドーラー」と「コーラー」というふたつだった。最初は何を意味しているの分からなかった。コーラーはコカ・コーラだろうかなどと考えてみたが、よく観察しているとやがてそれがダラーとクォーターの意味だと知った。
たとえば屋台で焼かれたププサ(とうもろこしの粉をねった生地の中に肉や野菜など入れて焼いた軽食。エルサルバドルといえばププサだ)はひとつコーラー(25セント)だし、トマトも5個でコーラーだった。そしてそのスペルは「QUARTER」ではなくきちんと「CORA」なのだ。ダラーやクォーターがなまってドーラーやコーラーになるあたりは、同じ非英語圏として親近感を覚えてしまう。

屋台でププサをふたつ買った。コーラーふたつで50セントだ。目の前で焼かれているププサは見るからにおいしそうで、チーズ入りと野菜入りのふたつを選んだ。付け合せの野菜の酢漬けと一緒に袋に入れてもらい、持ち帰りにした。銀色の硬貨2枚と引き換えにしてはずいぶんなご馳走のように見えた。通貨はUSドルそのものだが、物価はアメリカに比べることができないほど安い。

エルサルバドルは通貨がUSドルそのものとあって両替する必要もなく、旅行者としては楽でいい。しかしアメリカでもないのにUSドルを使うということにいささか違和感を感じてしまう。他国の通過を使う(使わなければならない)というのはどういう気分なのだろう。この先で言えばパナマやエクアドルなどもUSドルを使っているのだが、そんなことは路上で露店を構える庶民たちにとってはさしたる関心事でもないのだろうか。単にある時から通貨の色や大きさが変わった。その程度のことなのだろうか。コーラーふたつで買った熱々のププサは、まさにその答えを象徴しているのかもしれなかった。

つづく。