2013年11月30日土曜日

エル・ドラド vol.4

道はしばらくカウア川に沿って進んだ。
最高に気分が良かった。
バイクに乗りながら、鼻歌さえ自然と出るほどだった。天気は上々だったし、Tシャツ1枚でも十分な気温だったし、川を横目に眺めながら走ることができた。もちろんそれらは気持ちよく走るための大きな要因だ。いつもなら。だけど、今の最高はそんなものの比ではなかった。

コロンビアの人々の優しさが、僕の胸をいっぱいに満たしていたからだ。それはレストランのセニョーラだけではない。ガソリンスタンドの店員や、名も知らぬ街の屋台の人々だけでもない。至る所でいろんな親切を少しずつもらっていた。

コロンビアって危ないんじゃないの?
コカイン。マフィア。銃。そして血。
僕もそんなイメージを持っていた。そんなイメージしか持っていなかった。だけどコロンビアを走り始めて3日目。たった3日ながら、僕はもうコロンビアが好きになっていた。

日本で得られる偏ったコロンビアの知識、それをいかに鵜呑みにしていたか。そしてその偏見がいかに自分のすべてだったのか。僕はコロンビアの人々の優しさに触れ、1枚づつその偏見を剥がしていくことによって、自分の小ささを思い知ることができた。


川に沿って走っていた国道は、大きな橋を越えるといよいよ山に入るようだった。
そんな橋のたもとには、ちいさな村があった。本当にちいさな村。だけど橋から眺めるその風景は、一瞬にして僕の心を掴んだ。
川岸に建つ教会が目を引いた。川に突き出すように建つ家々がいい感じだった。そんな教会と家々をつなぐように、ちいさな黄色い橋が架かっていた。家の裏の山は、かなりの傾斜だというのに農地として手入れがされていた。

逡巡はしなかった。国道からは外れてしまうけれど、僕は村に向けてバイクを走らせた。教会の前から延びる黄色い橋は人と馬しか通ることが出来なかったから、教会の前にバイクと停めて歩いて渡った。

川岸のかろうじて残っている平らな部分に一本道が伸び、その両側にしがみつくように家が建てられていた。川側の家は川にせり出すように建てられているため、何本もの柱で家自体が支えられていた。しばらく道を歩いてみたものの、ふたりの子供を連れた母親と、馬に乗った老人にすれ違ったくらいで、ほとんど村人に会うことは無かった。だけどこんなところにも人が住んでいる。その光景と事実は、やけに僕の胸を締め付けた。

教会が目を引いた。

家はしがみつくよう。

川と洗濯物と馬に乗った老人。

国道はぐんぐん高度を上げた。登る山はかなり高く、ついには雲の中にまで入ってしまった。さっきまでTシャツで走っていても平気だったのに、もうジャケットのジッパーを目いっぱい締め上げなければ寒くてたまらない。いよいよアンデス山脈突入ということか。南米大陸西部を南北に貫くこの山脈は、これから南米を下るにあたり長い付き合いになることだろう。

最高到達点を過ぎ、道は徐々に下りになった。山中にある街をいくつか抜けながら標高を下げていく。眺める山々は濃い緑で、中米あたりで見てきた山の殺伐とした感じはどこにもない。

 いよいよアンデス。

山の中にいくつも街を見ることが出来た。

道がいよいよ急な下りになったと思ったら、突然片側3車線の大きな幹線道路に豹変した。その変化は本当に突然で、それまでセンターラインも無いような陽の当たらない山道だったのに、少し開けた途端いきなりだ。こんな山の中で?狐につままれたような気分だったが、つまりは僕はメデジンの街に到着したということだった。

メデジンは、僕の想像をはるかに越える街だった。両側を山に囲まれた谷に造られたそれは、赤レンガの家々が遠くの山肌にまでへばりつくように建ち、山の緑とのコントラストを際立たせていた。片側3車線の道は複雑に立体交差していて、街の中心には近代的なビルがそびえていた。
カウア川で見たあのちいさな村とは比較にならない規模だった。それがコロンビア第二の都市メデジンだった。

山肌にどこまでも家が建つ。

ビルはとても近代的だ。

山の中の都市。

おわり。

2013年11月25日月曜日

エル・ドラド vol.3

ひとしきり子供たちと遊んで部屋に戻った僕は、宿に併設されたレストランに足を向けた。
カルタヘナで両替したペソがかなり乏しくなっていたので今晩はおとなしく部屋でパスタでも茹でようかとも思ったのだけど、すっかり腹ペコだったからそれも億劫になってしまったのだ。といっても明日の事もある。財布の中身を計算すると、なんとか3500ペソなら使えそうだった。街の食堂は大体4000から6000ペソが相場。果たして3500で何か食べられるだろうか。

レストランのセニョーラに3500ペソで何か食べられるものはありますか、と頼んでみる。すると彼女は僕をテーブルに着かせ、自分はキッチンへと入っていった。
他に客らしきはいない。飲料用の冷蔵庫の上に置かれたテレビからはコロンビアの番組が流れている。レストランと言っても萱葺きのような屋根があるだけで、キッチン以外の三方は壁も無い。通行人どころか、猫やアヒルも店の中では我が物顔だ。

牛肉のスープ、フリホーレス、トルティーヤ、米それにオレンジジュースが僕の前に運ばれてきた。温かいスープはさまざまな香辛料が効いていてともておいしかったし、何より腹一杯になる量がうれしかった。
すべてを食べ終えてお金を払おうとすると、女性は僕の手から2000ペソしか受け取らなかった。それではあまりにも安すぎる。そもそも3500ペソでさえ足りないかもしれないのに。

「いいのよ」

女性は言ってくれた。僕は素直にその好意を受け取ることにした。

「ありがとう。とてもおいしかったよ」

そうは言ったものの、僕はなんだか自分が恥ずかしくなってしまった。確かに明日のことを考えると使える金はあまり無かった。3500ペソでは食べるものが無いと言われれば、素直にパスタを茹でるつもりだった。だけどまったく金がないというわけではなかった。それなのにあまり金が無いんだということを前置きして、どこかで人の親切を期待していたのではないか。そう思ったら恥ずかしくなってしまったのだ。

旅なんて所詮自己満足以外のなにものでもない。貧乏旅行をしているのも自分のせいだ。そんな基本的なことに蓋をして、当たり前に親切を期待するようになったらお終いだ。いくら長旅をしていようと「金がない」は免罪符にならないんだよ、そう自分に言い聞かせた。何かの本ではないけれど、僕もこれからはそれを禁句にしようと思った。


翌日の天気も上々だった。空に雲は浮かんでいるものの、雨の気配はどこにも感じられない。これなら今日も気分よく走ることが出来そうだ。
部屋を片付け、バイクに荷物を積み込んだら部屋の鍵を返した。出発の準備はできたのだけど、一言レストランのセニョーラにお礼が言いたくて僕は足を向けた。女性は上機嫌で朝の準備をしていた。僕が昨日のお礼を言うと、

「まだ時間あるでしょ?ティントを今入れるわね」

といって昨日と同じように僕をテーブルに着かせた。そして目の覚めるような甘いコーヒーを持ってきてくれた。
行き交う車を眺めながら熱くて甘いコーヒーをすすっていると、なんと今度は朝食まで運んできてくれた。それもまた腹いっぱいの量で。驚く僕に、

「たくさん食べてね」

セニョーラは微笑んだ。僕はありがたくいただくことにした。胃袋と一緒に胸の中もいっぱいになった。何度もお礼を言った。金なんてきっと受け取ってくれないことは分かっていたから、何度もお礼を言った。

ありがとうセニョーラ。

今日の天気も上々だった。僕は、メデジンに向けて最高に気分よく走り出すことができた。

つづく。

2013年11月24日日曜日

エル・ドラド vol.2

メデジンを出たその日、どこか適当な場所で野宿でもしようかと思いつつ、結局街外れに宿を確保した僕は、翌朝の青い空に今日も暑くなることを期待しながらバイクにまたがった。


昨日の夕方は散々だった。朝から走り出してずっと雲ひとつない空を見ることが出来たから、適当な場所を見つけて適当に野宿でもしようとお気楽な考えでバイクを走らせていた。しかしそんなときに限ってうまくいかない。
国道沿いにはテントが張れそうな場所をいくつか見つけることができたのだけど、どれも見通しが良すぎてどうにも落ち着かないのだ。ずっと奥に行けば隠れることはできるのだけど、そうすると今度はテントを張れなくなってしまう。手前か奥か。奥か手前か。何度もわき道に入ってみては首をかしげ、決め手に欠いたままでいた。

国道沿いにオスペダヘを見つけたのは、夕焼けが今にも地平線に吸い込まれるかという頃合だった。街に入る手前、民家がぽつりぽつりと建ち始めたころにそれはあった。国道に向かって掲げられた看板だけが頼りで、建物は至って簡素。コンクリートの箱をそのまま大地に乗せただけのように見えた。
それは部屋の中も同様で、四角四面でじめじめした室内は窓さえない。しかし個室で12000ペソは安かった。さらにあっさりと10000ペソまで値段が下がったのだから二つ返事だ。
だって昨日までヘンスとふたりで部屋をシェアしていたにもかかわらず、ひとり20000ペソ払っていたのだ。約6ドルでベッドとシャワーが手に入るのなら、窓がなかろうが気にならない。

宿の主人であろうオヤジは上半身裸で受付をしてくれた。日本ならあり得ない事かもしれないけれど、こうも暑い国ではそれが当たり前のように思えるから不思議だ。
バイクは裏の駐車場に、そしてほとんど空いている部屋はどこでも好きに使って良いと言われたから、遠慮なく大きめの部屋を選んだ。どの部屋もトイレと水シャワーが付いていたけど、まぁお世辞にも綺麗とはいえない。もちろんそれ以上は望んでいない。安全に一晩寝られるなら、日中にかいた汗を水で流せるなら、それだけで10000ペソの価値はある。

 こんな宿に寝ています。

8時半には走り出した。天気はこの上なかった。太陽はもうすでに昇りはじめ、陽射しは余すところがない。ぎゅっと目をつぶると、太陽はまぶたの裏で紅く染まった。

給油のためにガソリン・スタンドに立ち寄ったのは10時過ぎだった。昨日は一度も給油せずに走ったから、そろそろ頃合だ。いくら燃費のいいイーハトーブと言えど、ガソリンを入れないバイクはただの鉄の塊だ。
ガソリンが思いのほか高いコロンビアだから(これまでの国で一番だ)、ハイオクはやめてレギュラーを入れようかなどと考えていたものの、実際田舎のガソリンスタンドにはそもそもハイオクなどなかった。誰もが一様にレギュラーを給油するしかなかったのだから要らぬ心配をしたものだ。
それにしても1ガロンで8800ペソは、4リットル弱で5ドルということになる。この国の物価から考えればかなり高い。

給油を終えたら店の隅で休憩を取らせてもらった。段差に腰を下ろして地図を広げる。のんびり走るにはこの上ない天気だったが、昨日走った寸分とこの大陸の大きさを照らし合わせると、必然的に複雑なため息が出てしまう。地図ではカルタヘナからわずか数センチも進んでいない。だけどこの大陸は一度に地図を広げることが出来ないほどだ。ため息には、喜びと憂いが等しく混ざり合っていた。

「ティントはどうだ?」

そう言ってくれたのはバイクに給油をしてくれた店員だった。コロンビアではコーヒーのことをティントと呼ぶ。もちろんカフェと言っても通じるのだけど、ティントの方が一般的だった。
彼は店の中に入ると小さなカップにティントを注いでくれた。カルタヘナでもそうだったのだけど、小さなカップで飲むのがコロンビア流らしい。カップに注がれた褐色の液体はやはりというか顔をしかめるほど甘かったけど、豆の味は良いものだった。

そのまま街の中を抜るように走った。街はどこにでもあるような小さな田舎街で、国道だというのに信号ひとつ見当たらない。道の両側には店や屋台がならんでいて、バイクや車が走り抜ける中をのんびりと馬車がひづめの音を響かせていた。カルタヘナほどの都市ではさすがに馬車を見ることはなかったが、田舎では馬車を多く見る。まだまだ人々の足、道具として現役だ。そののどかな風景に、こちらまでのんびりした気分にさせてくれる。

あまいティント。
ごちそうさま。


馬車はとてものんびり。

大きな橋を渡った。眼下には茶褐色の川が流れ、橋の両側には大きなナマズを売る店が軒を連ねていた。店先には何匹ものナマズが口を開けてぶら下がっている。カルタヘナを出て2日目。道はすっかり内陸を走っていたから、川で捕れる新鮮なナマズは、この辺りに住む人々にとって貴重な食料なのかもしれない。僕はこれまでナマズを食べたことはなかったけれど、特に食べたいとも思えなかったので、ふーんと鼻を鳴らしただけでその場に止まることもなく通り過ぎた。

道はやがてその川沿いに走るようになた。カウア川だろうか。両脇は山に囲まれ、流れが速い。やはり水のあるところには生活があるようで、民家がぽつりぽつりと途切れることなく続いた。

川沿いを走る。

川沿いに見つけた宿は小さな部屋ながらも清潔感があり(やはり窓は無かったが)、値段も15000ペソを13000ペソに下げてくれたために手ごろだった。時間は16時半と少し早い気もしたが、メデジンまで残すところ180kmとなれば遠くは無い。なにより宿の裏に流れるカウア川が良かった。ナマズがたくさん捕れる川。荷物を部屋に入れシャワーで汗を流したら、早速川が見たくなって散歩に出た。

さて、どうやったら川原に下りれるだろう。そう思って宿を出ると、間髪いれずに地元の子供たちに捕まってしまった。瞬間に質問攻めだ。ひとりの子に手をとられては、民家の前に連れてこられた。そしてあっという間に7、8人に囲まれてしまった。家の前では椅子を並べて地元の人々が談笑していた。夕涼みといったところだろうか。

夕涼み。

少し話をしたところで僕は子供たちに、

「どこか川を良く見られる場所はないかい?」

と尋ねた。子供たちは、これは自分たちの使命だ、と言わんばかりに元気に歩き出した。国道を横切り、民家の軒下をくぐり、庭をつき抜け、道も無いバナナ林の中を跳ねるように下っていった。その先に小さくできた砂の岸があった。
なるほどここなら川が良く見える。川の流れは思いのほか速く少し怖さを感じるほどだが、確かにいい場所だった。迷うそぶりも無くまっすぐにたどり着いた感じから、きっと子供たちの遊び場所なのだろう。そんな秘密基地に連れてきてくれたことがうれしかった。

「写真を一枚撮らせてくれないかな?」

カメラを向けた子供たちの笑顔はとても明るく、ちょうど夕焼けが始まった空はなんともいい感じだった。

バナナ林を抜けて。

カウア川の夕焼け。

 秘密基地と子供たち。

つづく。

2013年11月1日金曜日

エル・ドラド vol.1

カルタヘナの街を抜け、南へと延びる国道25号に乗るにはさほど迷うことはなかった。目指すはメデジン。夜寝るのが遅かったために8時を過ぎて起きたわリは支度が早く、10時前には走り出すことが出来た。

カルタヘナを出た。コロンビアに着いて6日目のことだった。次に目指すはコロンビアでもボゴタ、カリと並ぶ大きな都市、メデジンだ。距離にして約650kmは3日の工程だろう。ついに南米大陸の旅が始まった。遥かなる旅路。カルタヘナを出ると、メデジンまで大きな街はない。

同室ですっかり仲良くなったヘンス、船のクルーだったアレックス、それぞれが宿の前まで出てきて僕を見送ってくれた。昨日の夜遅くまで飲んでいた連中はまだきっと夢の中。眠い目をこすりながら見送ってくれたことがうれしい。
もうひとつうれしかったことは、宿の近くのティエンダ(個人商店)のオヤジがいつものようにこれでもかと言わんばかりに大げさに手を振ってくれたことだ。

そのティエンダには毎日のようにビールを買いに行っていた。コロンビア(というよりは中南米全般に言えることだが)では、ビールは小さな缶で買うよりも、1リットルも入った大きな瓶で買う方が断然安かった。だから僕はいつも瓶で買っていた。1リットルほどのビールが、厚いカルタヘナでは乾いたのどを潤すのにちょうど良かった。

しかし瓶にはデポジットが必要になる。購入する際には酢十円ほどのデポジット(瓶を返せば戻ってくる)も一緒に払わなければならない。それはよく考えたら大した額ではないのだけど、たった数十円さえケチる貧乏旅行をしている身にとっては、飲み終えた後のビール瓶はお金と一緒だ。だから僕は毎日律儀にそれを抱えて店に行き、デポジット分を差し引いて新しいビールを手に入れていた、というわけだ。

店のオヤジはたいそう陽気だった。僕らが思い描くラテン気質というものを、キャンバスに書いたならきっこうなる、そんなオヤジ。毎日きっちり(空瓶を持って)ビールを買いに行く僕はすっかりそのラテンキャンバスに顔を覚えられてしまい、何気なく店の前を通るだけでも手を振ってくれるようになった。それも満面の笑みで。

その朝も、彼はいつもように笑顔で、いつもより大げさに手を振ってくれた。うれしかった。だから僕も手を振り替えした。もう二度と会うことはないだろう。

ひとところに長く居ると、しばしばそういうことがあった。
たとえばメキシコで。何気なく足を運ぶようになったタコス屋台の店主は、僕がいつもライムのお替りをするのをいつしか覚えてくれて、ライムをそっと多めに盛ってくれるようになる。
たとえばアメリカで。いつもビールを買いに行っている店だというにもかかわらず、いつもきちっりIDカードの提示を求めるバイトの女の子の申し訳なさそうな顔。
通り過ぎるだけの街では感じることのできない些細なことに、どこか居心地のよさを感じてしまう。そしてその街が好きになる。そんなことはないだろうか。


国道25号へ出た。だけど、やはり市街地での運転マナーなどはここ南米でも存在しなかった。バスは我が物顔で車線を行き来するし、その間隙を縫ってバイクは縦横無尽。車は人よりも強く、クラクションの洪水。
こんなところで事故など起こしたくない僕は、どうしても一歩引いてしまう。後塵を拝まされる。だけどそれでいいと考える。今は張り合っても仕方ないと、のんびり走ることにする。

国道にはありがたいことにメデジンへの案内看板が時折現れ、頭の中を空っぽにして走ることが出来た。ひたすら南下すれば良いだけだ。街を抜けると緑まぶしい風景が広がり、絶好の天気。これぞツーリング日和。すっかり気持ちを良くして走る。そこにはさすが南米と思える無辺の大地が広がっていた。




昼食に、どこか小さな街の屋台に立ち寄った。最初は食堂にでも入ろうかと思ったのだけど、たまたまバイクを道端に停めた先に屋台があった。吸い込まれるように足が向かった。
店は女性(女の子?)たちが切り盛りをしていて、その子供たちやらその友達やらが近くで遊んでいてたいそうにぎやかだった。
ゆで卵を小麦粉の生地で包んで揚げたものを食べた。味はよかった。だけど、なんとも日本人が珍しいのか、子供たちは大騒ぎ。あれよあれよと大勢集まってきて、こぼれるような笑顔に僕は囲まれてしまった。


この街がどんな名前かも知らない。道端に立つ小さな屋台なんて星の数だ。ただ通り過ぎるだけの街だけど、こういうふれあいがあると心に底に残る。そして旅はやっぱりいいものだと、改めて思える。

つづく。