2016年9月21日水曜日

国境の町、深い谷、麗しき協会 vol.4

今日はコロンビアで過ごす最後の夜。明日には長かったコロンビアにも終わりを告げ、エクアドルへの扉を開いているはずだ。そう思うと自然と朝も早い。しかしながら、寝ぼけまなこでバイクを取りに行くために、ホテルから駐車場まで歩かなければならないというのは、やはり面倒なことではある。

工程をいちにち多く刻んだ(というか、アンデスの山が手強すぎて刻まざるを得なかった)おかげで、今日の走行距離は100kmもない。いつもの半分以下。走行中、休憩をたっぷり取ったにもかかわらず、13時過ぎに国境の町イピアレスに到着することができた。

早い時間に到着したのには、ひとつ理由があった。この町の近くに、世界一美しいと言われる教会があるという。果たして世界一かどうかは定かではないが、それはぜひ見てみたいと思った。コロンビアの南端、小さな山中の町に立ち寄る理由として、これ以上が必要であろうか。

「サントゥアリオ・デ・ラス・ラハス」

それがその教会に与えられた正式な名前だった。しかし、旅人からは単に「ラス・ラハス」と呼ばれていた。僕は(もちろん)コロンビアに入ってからその存在を知ったのだけれど、北部から南部へ歩むにつれ、その噂話を聞く機会は明らかに増えていった。そして誰もが押し並べて良かったと口にした。そんな教会を素通りするなんて忍びない。

いざ。町から8㎞ほど走ると、眼下に突然それが現れた。道端の展望台からは、小さく見下ろすかたちで眺められる。

(おぉ。これは意外にいいじゃない)

正直さほど期待していなかった。期待していなかっただけに、これは素直うれしい。坂道を駆け下る。近づくにつれ、徐々に迫力を増していく。深い谷に佇む、麗しき教会。これまで多くの教会を見てきたが、造形美、ロケーション、それにまつわるストーリーを含め、かなり良かった。眺めていると、時がたつのも忘れてしまいそうだった。

緑の谷の教会。

 教会内部も良かった。

サントゥアリオ・デ・ラス・ラハス。

だけれども、僕にはメキシコのグアダラハラの教会を抜くほどではない、というのが正直な感想だ。グアダラハラで、生まれて初めて目の当たりにしたカテドラル。夕照の中、美しくもはかなく佇んでいて、旅の序盤、ラテンの世界にまだなじんでいなかった僕に、否応なく強烈な印象を残した。今でもその姿をまぶたの裏に思い出すことができる。

「旅をしていて、どこが一番良かったですか?」

1度や2度ならず、旅人ならきっとうんざりするほど答えてきた質問だと思う。同じような旅をして、同じ場所、同じ物を見てきたにもかかわらず、答えは千差万別だ。それが、旅をする理由であり、面白さなのかもしれない。
教会を後にし、来た坂道を駆け上がりながら、ふとそんなことを考えた。


おわり。

2016年9月12日月曜日

国境の町、深い谷、麗しき協会 vol.3

朝、ベッドから抜け出したら、バイクを取りに駐車場に向かった。外に出ると、とても良い天気だった。雨の心配はない。これなら国境の町まで、問題なく走れそうだ。
荷物をまとめ、チェックアウトをする。いざ宿代を払おうとしたら、なんと代金はUSドルでもいいよ、と言ってくれた。

(あれ?昨日聞いた時、ドルはだめで、コロンビア・ペソだけと言われたのだけど)

なにはともあれラッキーなことだ。レートは1USドルが1700コロンビア・ペソ。悪くない。20ドル紙幣を払うと、宿代を差し引いて22000ペソがおつりとなった。これで少し懐が潤った。

ポパヤンからは、コロンビア初のパン・アメリカン・ハイウェイ(パンナム)に乗った。広大な南北アメリカ大陸を、国境を越えて縦に貫くそれなら、さすがに昨日のようなダートはないだろう。
よし、国境まで一気に走るぞ!と意気込んでみたものの、それが折れるまで、さほど時間を必要とはしなかった。道路標識にはパストまで250km、さらに国境のイピアレスまで90kmとあり、出鼻をくじかれた。さらに、道はいよいよアンデス山脈の懐に飛び込んでいく。景色は一変した。

(よくぞまぁこんなところに道を通したものだ)

感心してしまうほど大変な峠道である。登っては下り、また登っては、また下る。川や大きな沢がある度に、その下部までひたすら山肌を降りていき、そしてそれをまたぐと、今度は目の前に立ちはだかる尾根を越えるため、ただひたすら登る、それの繰り返し。日本ならそこに大掛かりな橋をかけそうなものだが、ここでは自然の地形そのままに道を通しているので、九十九折りの道がどこまでも続いた。こんなんじゃとてもスピードが出せない。非力な僕のバイクでは、登りとなれば時速30㎞が関の山。

(こりゃ今日中にイピアレスなんて、とても無理。ごめんなさい。アンデス。甘く見てました)

堂々たる山並みに、自身のちっぽけさを感じた僕は、素直に現実を受け入れることにした。それどころか、どこまでも連なる山々の壮大な景色に、朝の予定などどこかへ吹き飛んでしまって、清々しささえ覚えた。

すごい。言葉が出ない。

 沢があるたび、下っては登る。

そんな峠道が、気が付いたら終わっていた。

(おかしいな。まだひとつも山を下りていないのに?)

山の上の台地に出たのだった。標高は、そうとう高いはずだ。こんな広大な台地が山の上にあるとは。ところどころ町まで散見された。一旦道が下り始めると、ひらけた視界の先に、大きな町が見えた。パストだった。

町はとんでもないお祭り騒ぎで、僕を迎えてくれた。
至るところに赤いTシャツを着た人がいて(というか車道にまで溢れていて)、赤い旗を持ち、赤いラッパを狂ったように吹き鳴らしていた。往来の車もをそれに応えるかの如く、クラクションを鳴らしまくる。うるさいったらありゃしない。いったい何なんだ?

あまりに異常な光景だったので、僕は道すがらのおやじに尋ねてみた。この騒ぎはいったい何なの?すると、今日、まさにこれからコロンビア・プロサッカーリーグの決勝が行われ、この町のチームであるデポルティーボ・パストが優勝を賭けて戦うのだ、というようなことを鼻息荒く説明してくれた。なるほどそうか。

しかしさすがはラテンの人々である。もう町全体がお祭り騒ぎ。セントロ(町の中心地)に出向くと、町中の人が集まったんじゃないかと思えるほど混雑している。若者たちは意味もなく走り回り、道はまったくの渋滞。おかげで、お目当てのホテルにたどり着くのに大変難儀した。

パストの町。ここが山の上とは思えない。

道すがらグッズを売る人がたくさん。

町の中心は大変なことに。
 
その日取ったホテルはとてもレトロな作りで、名前もマンハッタンといかしていた。建物は古く、駐車場がまたしてもなかったが、シングルで12000コロンビア・ペソはありがたい。20畳ほどの部屋にベッドがみっつもあり、テレビまであった。表通りに面した大きな窓を開け放つと、町を行く(お祭り騒ぎの)人々を眺められたし、床がなんと板張りだった。大抵のホテルはコンクリートで固められた箱のような造りの部屋なので、床が板張りというのはめずらしい。宿の中央はロビーになっていて、レストランがあり、おおきく抜かれた天井からは太陽のあかりが柔らかかった。

レストランが併設されていたので、夜は久しぶりにまともな食事にありつけた。テレビではちょうどサッカーの試合が放映されていて、ビールを片手に、他の宿泊者のコロンビア人たちと一緒に盛り上がった。残念ながらパストは惜敗に終わってしまったけれど(もし優勝しようものなら、その夜はとんでもない騒ぎになっていたかもしれない)、たまたま通りかかったアンデス山中の町での一晩としては、大変印象に残る出来事だった。

落ち着いた部屋だったマンハッタン。

こんなごはん食べてます。
それにしてもサッカー盛り上がったなぁ。

つづく。

2016年9月8日木曜日

国境の町、深い谷、麗しき協会 vol.2

財布のコロンビア・ペソが、もう底をつきかけていた。実は、サン・アグスティンに居る時点で、すでに赤信号は灯っていた。だけど、山奥の小さな町では両替レートがすこぶる悪く、手持ちのUSドルを両替をしようとはとても思えなかった。日増し薄くなる財布に不安は感じたが、僕は見ないふりをした。あとちょっと。国境は近い。コロンビアを抜ければ、そこはエクアドル。通貨はUSドルだ。

風の吹くまま気の向くまま。バイクにまたがり、行きたいところに行き、居たいところに居たいだけいる。何のストレスもなく、自由な旅を続けている僕ではあるが、国と国をまたぐときには、それなりに色々なことに気を付けている。
国境を抜けるには、何が待ち構えているか予想もつかない。大抵はスムーズに事は運ぶのだが、とにかく時間がかかることもある。持ち物検査?システムトラブル?もしかして賄賂を請求されるかも?そうなったら持久戦。何があってもいいように、なるべく午前中には国境に付くようにしているし、評判の悪い国境は避けて通る。要らぬ難癖をつけられぬよう、身の回りを清めてから臨む。

残りの持ち金もそのひとつ。使いきれなかった他国の紙幣など、国境を越えればただの紙切れだ。国境を越えて両替しようものなら、いいように買い叩かれて、両替屋のおやじの懐を潤すだけだ。と、いうほど深刻には考えていないものの、貧乏旅行で札束を余らせるのも忍びない。なるべくなら使い切ってからの出国が望ましい。
そんなわけで、財布に赤信号が点灯していることに気付きながらも、僕は国境へ向けて走り続けていた。

国境の町は、どうにかなることが多い。それは僕が旅をして得た経験でもある。国境の町は、いろいろなことが流動的だ。後から思い起こすと不思議なんだけど、なんだかんだごまかしが効くのは確かだ。だから国境の町まで行けばなんとかなる。そんな期待を持っていた。


それにしてもポパヤンに到着した時点で、手持ちが21000ペソ(約12USドル)とういことはいかがなものか。ポパヤンは国境の町ではない。国境の町イピアレスまでは、さらに350㎞ある。どんなに安く見積もっても、ガソリン代と今日の宿代を考えたら、もう飯さえ食えない。


ポパヤンでは、ロンリー・プラネットに載っていた安宿に泊まった。ドミトリーで1泊12000ペソ。駐車場はなかったが、近くの駐車場を尋ねると、夜だけなら2000ペソでいいと言ってくれたので、そこに入れた。ということは残り7000ペソしかない計算。すべてガソリン代に充てたとしても、距離的に国境を越えられるかどうかぎりぎりのラインだ。

そんなこんなで夕方散歩には出たものの、外食などできず、おとなしく宿に帰って手持ちのパスタを茹でた。金がないからビールも飲めない。

(ま、なんとかなるよ。USドルのキャッシュはあるし)

暮れ方に映えるポパヤンの素敵な町並みを思い出しながら、ひとりさみしくパスタを食べる夜だった。


ポパヤンは白壁の町だった。
セントロの建物は、銀行から食堂に至るまで。素敵。

つづく。

2016年9月1日木曜日

国境の町、深い谷、麗しき協会 vol.1

サン・アグスティンを出た日、僕はバイクの上で激しく後悔していた。

(なぜだ?なぜこんな日に出発してしまったのだろう)

やはりというべきか。降りだした雨は、僕の期待とは裏腹に次第に強さを増していった。それは山越えのダートをぬかるみへと変えただけでなく、体温まで容赦なく奪っていく。体が小刻みに震えだす。

その日は朝から激しい雨だった。強い雨音を聞きながら、宿の温かいベッドの中で、もういちにちテレビでも見ながらグダグダするか、などと甘い誘惑にかられていたのは事実だ。今更何を言っても始まらないが、雲の切れ間から薄日を見ただけで安易に出発してしまった朝の自分を、寒さと、バイクがはね上げる泥水に耐えながら、ひたすら呪うしかなかった。

こんな日にバイクで走るやつなんて誰もいないよ。
なんて思っていたら、まさか二人乗りのもう1台が後方からやって来るではないか。そして僕の少し先に停車し、こう尋ねてきた。

「タイヤがパンクしてしまったんだ。空気入れを持っていないか?」

泣きっ面に蜂なのは、彼らの方だった。ただでさえ雨のダートで不快なのに、そのうえパンクだなんて。雨の日のパンクなんて考えたくもない。僕は、持っていた空気入れを渡した。応急用の小さな手押しポンプでは十分に空気は入らないが、ある程度弾力を取り戻したタイヤなら、山を下るくらいはできるだろう。

「ありがとう。助かったよ。で、いくらだ?」

ひとりの男が尋ねてきた。

「まさか。お金なんか要らないよ」

今の僕にはこんなことしかできないが、困ったときはお互いさまだ。むしろ、僕の方が多くの人の親切を受けて旅を続けている。先を急ぐ彼らを見ながら、小さくても人の役に立つというのはうれしいものだな、と思えた。

なんだか気をよくした僕は、雨の中を再び走り始めた。すると、とたんに雨脚が弱まるではないか。峠を越えたところで、雨はついにやんでしまった。どうやら山を挟んだこちら側は、まったく降っていなかったらい。山を下りるに従い、気温も上がってくる。やがてダートも終わりを告げる。泥色の山道から、黒いアスファルト。乾いた舗装路がこんなに楽だなんて!
さっきまでの愚痴はどこへやら。やっぱりこうでなくちゃ。現金な僕は、突然山間に現れたポパヤンの町中へとバイクを走らせた。

つづく。