2011年7月29日金曜日

メキシコ最貧困州を行く

山の中の小さな村ロヤンで警察官たちの親切により大雨の夜を暖かく過ごした僕。目を覚ましてなお聞こえる雨音に少し心が萎えてしまうのだが。


ステージの上で目を覚ますと、雨はまだ降っているようだった。雨の中カッパを着て走るのも嫌なものだが、ここにもう1日いるというわけにもいかない。トイレに行くついでに外の様子をうかがう。雨は小降りだけどしっかりとしたもので、バイクで走ればすぐに濡れてしまうのは容易に想像が出来た。

(どうしたものか)

今日の目的地サンクリストバル・デ・ラスカサス(以下サンクリストバル)までは半日もあれば到着できる距離。あせっても始まらない。とにかくコーヒーでも飲むかと湯を沸かし、ついでに朝食をとった。

コーヒーを飲み干し、荷物をまとめ、再度外に出る。雨は上がっていた。雨の代わりとばかりに現れたもやがすごく、2ブロック先の景色がぼやけるほどだったが雨よりはいい。空に浮かぶ雲も足早に流され、雨上がりのしなやかな空気が漂っている。警官たちにお礼を言い、奇妙な思い出の出来たロヤンの村を去った。

雨上がりの山を走る。

到着したサンクリストバルは山の中にある要塞。それが第一印象だった。尾根を越えた山道がくだり始めると同時に眼下にその町並みがひろがり、予期せず現れたそれはまるで戦争映画に出てくる要塞都市のような印象を受けた。そして結構な勾配の山道を一気に駆けおりると、僕はもうサンクリストバルの町に入っていた。標高は2100mと高く、周辺の山にマヤ先住民の伝統的な集落が多く残っているため、その伝統や生活に惹かれて訪れる旅行者が後を絶たない観光都市だ。

やたらと一方通行の多い町中を何度も迷いながら、日本人宿のドミトリーのベッドに荷物を入れた。バイクもガレージに入れられるので安心だし、ドミトリー1泊で45ペソと安いのもありがたい。サンクリストバルは物価も安く、また交通の拠点として多くの日本人旅行者が立ち寄る町だ。僕はバイクで移動しているのでわからないけれど、どうもバスで移動をする限りどこへ行くにも大抵サンクリストバルを通過するらしい。そして目にも鮮やかな民族工芸品が良質で、しかも安価に手に入るとあればこの町の人気の高さもうなずける。日本人旅行者の間では「サンクリ」なんて通称が普通に通じてしまうほど有名な町だ。

野良猫が出迎えてくれた。

町を見下ろせる教会から。

そんなサンクリストバルには5泊した。その間何人もの旅行者と出会っては見送った。もちろん僕もそんな彼らから見た旅行者のひとりだった。驚いたのは、宿に着いて呼び鈴を鳴らしたときに扉を開けて出てきたのがメキシコ・シティーで出会ったY君だったことだ。さらには同じくメキシコ・シティーで出会ったM夫妻まで再会することになった。確かに皆向かう先は同じだったけど、バスに比べ移動速度が圧倒的に遅い僕は、まさかここで再会するとは思ってもいなかったのだ。縁のある人とは再会するものだなと改めて実感した。

滞在中は町の中をひたすら歩いてまわった。教会へ、ソカロへ、メルカド(市場)へ。スコールが降ると店先の軒下を借りてやり過ごした。それほど大きくない町は5日もあれば一通り歩いてまわることが出来たが、どの町でもそうであったようにコロニアルな雰囲気のソカロ周辺よりも、人々の息づかいが感じられるメルカドの方を好んで歩いた。食事は観光客向けのレストランではなく地元の人々が利用する屋台や安食堂でとり、軒を連ねる土産物屋で小物を少し買った。とても雰囲気のいい町だったし僕はすっかり気に入ってしまったのだけど、やはり他の都市に比べるとその貧しさは隠すことの出来ない事実だったように思う。

雨宿り。

ゆで卵まるまるタコスが珍しい。
これだけ頼んで8ペソ(約60円)。

鶏肉のモーレ。
トルティーヤの量が…。

メルカドでの1枚。

ツーリストエリアで土産物を売る少女。

サンクリストバルのあるチアパス州はメキシコの最貧困州だ。住民の多くは貧しい農民で、スペイン語を話せないインディヘナも多い。サパティスタという民族解放軍も活躍しているようだが、過去を振り返ると先住民の暮らしは決して楽なものではない。山の中にある小さな村々を実際に訪れると、僕の鼻は飢えた野良犬のようにその貧困の匂いを鋭く嗅ぎ分けてしまう。

ロヤンからサンクリストバルへは深い山の中を進んできた。標高は徐々に上げていく。街道沿いの山腹にぽつりぽつりと小さな村が現れ、僕はバイクのスピードを落としゆっくりと通り過ぎる。村人たちは決まって奇異の目で僕を見つめる。僕は目のやり場に困る。

庭先で織物をしている女性を見かけた。機織りのような要領で極彩色の布を織り上げている。土産物として売りに出されるのだろうか。山の中の畑も満足に耕せない土地では大切な収入源なのかもしれない。それにしてもこんな山の中でどうやって現金収入を得るのだろうか。自分たちの食べる分を自分たちで作ればいいという時代ではもはやない。裸足で遊びまわる子供たちを見つめながら、そんなことをぼんやり思う。

やがて僕はひとつの村で休憩をした。教会の前に市が立っているのをみつけたからだ。バイクを道端に停めヘルメットを外す。同時に周りにいた村人たちの視線を痛いほど感じる。皆が僕を見ているのが分かる。バッグからデジタルカメラを取り出すことさえ忍びない。少し怖気を感じてしまう。こちらが笑顔で接すれば大抵は笑顔で答えてくれるのだが、だからといって両者の間にある溝までは決して埋まることはない。

こじんまりとした市だったが、やはり市は生活の匂いを至るところに感じることができた。売られている物も実にさまざまで、豊富ではないにしろ食料品から衣類、雑貨までおよそ生活に必要なものは一通りある。近くの屋台から香る匂いが胃袋を刺激する。女性たちは鮮やかな刺繍を施した民族衣装に身を包み、今日の夕食の買出しだろうか食材を買い求めている。

民族衣装は村ごとに存在するようで、基調とした色も施される刺繍も通る村々でどれも違っていた。衣装と同じ色のリボンを頭の後ろで編んだ三つ編みに一緒に編みこむのもしきたりのようだ。女性は大抵この衣装を着ていて、小さな子から老婆に至るまで皆同じ衣装に身を包んでいる。この村の民族衣装は濃い青を基調としていて、どこか日本のセーラー服を思わせて懐かしい感じだ。

小さな村の市。

ポジョアサード(鶏の丸焼き)。
これがまたうまい。

マヤ先住民の集落。

どの村も質素という言葉がしっくりとくる印象だった。だけど僕の目にそれはまったく不幸な光景と映らなかった。確かに貧しい村なのかもしれない。だけどその伝統や生活に僕たち(それは日本人ということではなく、文明社会に浸って生活をしている人々)が心惹かれてしまうのは、きっと利便性と引き換えに手放してしまったものを今でも大切に守り続けているからかもしれない。表面だけしか見ていない僕は何も分かってはいないのだろうけど、少なくとも裸足で遊びまわる子供たちを見ている限り、それは間違ったことではないのだと受け止めることができた。

おわり。

2011年7月27日水曜日

寝床をめぐる冒険 vol.2

山の中の小さな村ロヤンに到着し、テントで静かな一夜を過ごそうとした僕。しかし事は二転三転。なぜか警官に連行される羽目になったのでした。


街灯などない暗く細い道をパトカーは進んでいきました。少し風がでて、いつの間にか現れた濃霧が足早に流されていきます。僕は、パトカーを見失わないようにすぐ後ろを追いました。何度か角を折れ、到着した先はソカロ脇にある警官詰所のような場所でした。パトカーから降りた若い警官はバイクを停めるように指示し、僕はそれに従いました。

(やはり取り調べか…)

身構えるしかありませんでした。旅中警察に連行され、その施設内に一晩拘束された旅人の話を聞かされたことがあります。こんなことならおとなしくホテルに向かったほうが良かったな、なんて思っても時すでに遅しです。詰所の中に連れられ、簡素なカウンターを挟んでひとりの警官と向かい会うような形で座らせられました。部屋の中に余計と思われるものはなにひとつ無く、事務的で殺風景なそれは実際の大きさよりもずいぶんと広く感じられました。向かい合う警官からパスポートの提示を求められ、メキシコのツーリストカードと一緒に手渡しました。

(どうなることやら…)

もはやなるようにしかなりません。しかし、身構えている僕とは対照的に警官はとてもリラックスした雰囲気で、その場の雰囲気はどちらかといえば柔らかいものでした。

(もしかして、これなら悪い方向には転ばないかもな)

思いは的中することになります。

パスポートを受け取った警官は一通りそれに目を通しながら、無言でパソコンのキーボードに何かを打ち込んでいました。やがて一言、旅行か?とたずねました。僕はそうだと答え、明日サンクリストバルまで行くのだと言いました。警官は僕の言葉に浅くうなずきながらパスポートを返し、さらに言葉を続けました。今日はここで寝れば良い。ここなら24時間人がいて安全だと。

まさかの言葉に驚いたのは僕のほうでした。彼らは僕のことを心配してくれていたようです。純粋に。僕は、疑った目で彼らを見ていたことが恥ずかしくなりました。言葉が分からないこともひとつの原因ですが、すべての人を端から疑うというのもなんだかやはり寂しいものだと思えました。

サッカー場に来ていた若い警官の案内で、体育館ほどある大きな講堂の入り口に寝床を作りました。マットの上に寝袋を広げ、その脇に荷物を並べます。いつの間にか濃霧は雨に変わり、空から降る大粒のそれは道に川を作っていました。もしあのままテントだったら今頃間違いなく浸水していたことでしょう。そう思うと屋根の下で寝られる安心感は大きいものです。

(なにがどう転ぶか分からないものだな)

あのサッカー場にふたりの警官がやってきたときは厄介なことになったと思っていたのに、2時間と経たずにこの状況です。篠つく雨を眺めながら、僕はつくづく思いました。

しばらくぼんやりと雨を眺めていました。視線の先にはすっかり人のいなくなったソカロと、はす向かいには小さな教会がありました。教会では何かが行われていたのでしょう。扉が開け放たれると中からたくさんの人が出てきました。老若男女を問わず続々と村人が出てきます。結果、僕はまたしても村人たちに囲まれてしまいました。

詰所の前でパンとコーヒーが配られはじめ、ひとりの警官が僕にもそれを持ってきてくれました。口の中に砂糖の味がダイレクトに広がる甘いパンと甘いコーヒーでしたが、他の村人たちと同じようにそれを食べながら、片言であれこれと話をしました。

22時をまわるとあれだけいた村人もぱらぱらと雨の中へ姿を消し、僕も疲れた体を寝袋に流し込みました。昨日までは寝袋なんていらない気温だったのに、今日はとても寝袋なしでは寝られなさそうです。それは雨が降っているからという理由だけではなく、稼いだ標高によるものでしょう。

横になって目を閉じるとあっという間に寝てしまったようです。誰かの呼びかける声で目を覚ました時はまだ1時間しか時計の針は進んでいませんでした。寝起きでうまくまわらない頭を持ち上げると、そこにはふたりの警官が立っていました。

(何事だ?)

状況がうまく判断できずにいると、警官は床を指差し何かを言いました。見ると僕の寝ている足元の床まで水浸しになっているではありませんか。幸いマットの下に敷いたシートのおかけで何も濡らすことはありませんでしたが、今なお降り続けている激しい雨は建物の2階から侵入し、階段を伝って僕の寝ている所まで押し寄せてきたようです。

あわてて寝袋から這い出し、荷物を非難させます。ふたりの警官は手に懐中電灯を持ち、体育館のような大きな講堂へ入っていくと、雨漏りしていない場所(結局それはステージの隅だった)を手分けして探してくれ、ここなら大丈夫だといい、次々を荷物を運んでくれました。

ものの2分で移動が終わり、僕は警官にお礼を言いました。まさかこんなに親切にされるとは夢にも思っていませんでした。するとひとりの警官は僕の持っていた辞書指差し、それを貸してくれと言いました。そして肩と頬の間に挟んだ懐中電灯で辞書を照らしながら、一つ一つの単語を指で示します。それは「荷物」「危険」「雨」「明日の朝」「休む」というものでした。

何度もありがとうと言いました。彼は満足したようにうなずくと、自分の持ち場へと戻っていきました。僕は再び寝袋に入り仰向けに寝転ぶと、屋根を叩く雨音を聞きながら今日いちにちの出来事をひとつひとつ丁寧に思い出してみるのでした。

おわり。

2011年7月13日水曜日

寝床をめぐる冒険 vol.1

山で出会ったメキシコ人とも再会でき、メキシコ湾でのスノーケルを楽しんだ僕。海で遊んだ翌日の朝は日焼けした背中が少し痛み、同時にきれいだった海を思い出させるのでした。


早い時間にホテルをチェックアウトしました。ベラクルスから次の目的地であるサンクリストバル・デ・ラスカサスまでは2日で走ろうと考えたからです。とくに先を急ぐ旅ではないのですが、地図を見る限り3日かけるには短く、2日で届きそうな距離だったからです。

とは言いつつも、それは頑張ればという前置きがついた話で、のんびり走っていてはとても到着できないでしょう。ならばとひたすら先に進むことに専念します。ベラクルスの町を抜けたら国道180号を東へ東へ。そして今日もまたくそ暑い。信号待ちで止まっただけで汗が吹き出ます。こんなときは休憩時に飲む冷たいコーラがこの上なくおいしく感じます。

バナナ畑で。

海沿いから離れ、ミナティトランに到着したのはもう17時を過ぎていましたが、日没までにはまだ時間がありました。よし。まだいける。少し道に迷いながらもさらに先に進みます。19時をまわり、紅い太陽が地平線に近づいたところで、国道沿いの小さな公園に到着しました。そこは町からだいぶ離れた集落にあって、何人かの人がベンチに腰かけ夕涼みをしていまいした。公園の奥には村役場のような事務所があり、僕はそこの事務室にいたおじさんにここで寝ていいか?とたずねてみました。普段はあまりそういうことをしないのですが、このときはなぜか自然と聞くことが出来たのです。

おじさんは僕の申し出を快諾してくれて、しかも事務所脇の屋根の下を使っていいと言ってくれました。とてもありがたいことです。早速テントを張り、パスタを茹でて夕食にしました。陽が落ちてあたりは暗くなりましたが、公園の街灯のおかげで一連の作業に困難はありません。食べ終わって公園のベンチに座ると、いつの間にかそこには多くの人が集まっていました。大人たちはベンチに集まり会話に花を咲かせ、子供たちは走り回って遊んでいます。きっといつもこうやって夕暮れの時間を楽しんでいるのでしょう。僕は目に映るのんびりとした風景を少し離れたベンチから眺めていました。それはとても穏やかで心安らぐものでした。

夜になったとはいえ気温はわずかに下がっただけで、暑いことには変わりありません。寝袋なんかは足元に追いやったきりで、マットの上で大の字になって目を閉じました。テントのインナーのメッシュ部分からわずかに吹き込む夜風が実に新鮮でした。

村人たちが夕涼み。

朝を迎え、6時に目を覚ましました。コーヒーを入れ、パンとチーズの朝食。テントを撤収したらメモ用紙にありがとうとメッセージを残し、誰もいない公園を後にしました。進行方向にはまだうっすらと赤みを帯びている大きな太陽が低い位置に浮かんでいます。朝のこの時だけが、一日のうち一番過ごしやすい時間です。しかし空を見上げれば雲ひとつなく、きっとまた今日も暑くなることを教えてくれました。

ほどなくビジャエルモサの町に到着しました。そこから195号に乗り換えて南へと進行方向を変えると、道は次第に山に入っていきました。地図で見た限りそれほどでもないと思ったのですが、実際それは結構な山道で、進むのにかなり時間がかかってしまいます。登りではスピードが出ず、また曲がりくねった道は地図で読むよりずっと距離があるからです。朝の計算では18時、遅くても19時にはサンクリストバル・デ・ラスカサルに到着できるだろうと踏んだのですが、このままでは21時になってしまうでしょう。

(この山道を暗くなってから走るのか)

そう思うとなんだか急に馬鹿らしくなってきて、結局もう一泊することにしました。

そこは、山の中にある小さな村でした。周りはすべて山に囲まれ、地図にはロヤンと書かれていました。どの町でもそうであるように、その村にも小さな教会とソカロがあり、その1ブロック隣には小さなメルカド(市場)がありました。夕暮れにはまだ少し早い時間でしたがソカロの脇にバイクを停め、目の前にあったティエンダ(個人商店)で水を買い、ベンチで休憩をしました。

(明日もあるならもうこれ以上進む必要もないだろう)

そう思うとそれまで張り詰めていた緊張が解け、ふっと心が軽くなりました。同時にもうこの村で泊まればいいかと考えるようになりました。

山の中を行く。

ロヤンのソカロにて。

村の子供たち。

始めはこのソカロで寝ようかとも考えたのですが、さすがにそれはまずいだろうと思いなおし、村はずれのサッカー場にテントを張ることにしました。今は数人のメキシコ人たちがサッカー場脇にあるバスケットゴールを直していて、その周りで子供たちが遊んでいますが、暗くなれば明日の朝まで誰も来ないでしょう。

しかしこの状況でいきなりテントを張るわけにもいかず、僕は作業をしていたメキシコ人たちにここで寝てもいいかとたずねました。彼らは一様に、そんなことは問題ない、いくらでも寝ていけといった感じで、僕はほっとしてサッカー場の隅にテントを張り始めました。

いきなり現れてはテントを張り始めた僕を珍しがったのは子供たちで、僕を取り囲みあれやこれやと質問攻め。山の中の小さな村に異国の旅行者がいること自体珍しいのに、さらにバイクでテントなのだから彼らはもう釘付けです。

スペイン語で、しかも皆が一斉に質問するのでその内容は良くわかりませんでしたが、とにかく、僕は日本人で、バイクで旅をしていて、カナダからアメリカと走りメキシコまで来たのだ、と説明しました。子供たちはお互いの顔を見合わせ何かを確認するように話し合っています。きっと僕の話した内容が理解できなかったのかもしれません。カナダやアメリカはもちろん知っているようでしたが、山の中の小さな村からあまり外に出ることもないだろう子供たちにとってそれは地図でしか見たことのない国なのでしょう。

名前を聞かれたので答えると、子供たちはすぐに覚えてくれました。そして自分たちの名前もひとりひとり教えてくれました。好奇心が旺盛な子供もいれば引っ込み思案な子供もいて、どの国の子供も接していてとても楽しいものです。

質問攻めがひと段落し、子供たちもいなくなってやっと夕食にありつけました。米を炊き、カレーを作り食べていると、またも先ほどの子供たちがやってきました。今度はきっと噂を聞いたのであろう女の子や大人たちもやって来て、総勢20人くらいに囲まれてしまいました。先ほどいた子供たちがまわりの大人たちにいろいろと説明をしています。僕は、ぼんやりと動物園のオリに入れられた白熊の気持ちを思いやりました。

すっかり仲良し。

きれいな夕焼けだった。

実際それはなかなか楽しい時間だったのだけど、やっかいだったのは話を聞きつけた警察がやってきたことでした。ふたりで現れた警官は自動小銃を肩からかけ、なにやら怖い面持ち。そして手に持ったライトで僕を照らし、パスポートを見せろと言います。ライトでパスポートをチェックしながら、無線機で何かを確認しはじめました。先ほどまでテントの周りを取り囲んでいた村人たちは警官に追い払われ、少し離れた場所から成り行きを見守っています。

(これはちょっと厄介なことになったな)

テントの中に座り相手の出方を待っていた僕に、警官はこのテントをたため、と言いました。もう夕食も食べたしあとは寝るだけだという状況で、今から撤収とは面倒このうえありません。本当にたたまなければ駄目か?とたずねてみましたが受け入れてもらえず、さらにそれが終わったらホテルに行けと言います。

(今さらホテル?)

金を節約したいからテントなのに、これからただ寝るためだけに高いホテル代を払うのは厳しい。こんな小さな村ではホテルなんてあってひとつだけで、きっと値段もそれなりでしょう。僕はテントから出てさらに粘ってみました。ふたりの警官のうち年配の方は険しい表情を決して崩さず、僕の言葉に耳を貸そうとしません。若い方の警官は英語が片言ででき、なおかつ話が分かりそうだったので、彼にそのことを説明しました。一通り説明すると、彼はなるほどそうかと納得したように何度もうなずき、年配の警官になにか話しはじめました。

(よしいいぞ。頑張るのだ)

心の中で若い警官を応援しました。しかし年配の警官は一文字に結んだ口を開くこともなく、一向に険しい表情を崩しません。それから年配警官が心の中でどういう決断を下したのかは分かりませんが、テントを片付けたらパトカーの後について来いと短く言いました。

(さて。吉と出るか。凶と出るか)

心配そうに見守る村人たちの中、僕はテントを撤収し、パトカーの後についてすっかり暗くなったサッカー場を後にしました。

つづく。

2011年7月11日月曜日

潮風香るベラクルス ~ナツイチがくれた夏~ vol.2

山で出会ったメキシコ人と再会するべくベラクルスまでやってきた僕。なんとか海に行く約束を取り交わし、当日の朝を迎えるのでした。


朝7時。約束どおりの時間にメキシコ人に電話を入れました。彼は集合場所と集合時間だけを的確に僕に教えると(手持ちのコインが少なく長電話ができなかった)電話を切りました。
ホテルのフロントで延泊を申し出て、料金を支払い、必要なものを小さなバッグに入れて部屋に鍵をおろしました。駐車場の扉を開けてもらいバイクにまたがると、教えてもらった集合場所へ向かって走り出します。

早朝の町はとてもさわやかで、昨日の夜の賑やかさは欠片もありません。車もまばらで、地元の人たちが朝の散歩を楽しんでいました。煌々とライトを灯し、おいしそうな匂いで胃袋を刺激するたくさんの屋台もみつけられません。ホテルのまわりにだって何軒もの屋台があったはずです。いったいどこへ行ったのだろう?そしてまた夜が来れば、昨日と同じように魅惑的な匂いで僕を誘うのでしょう。

海沿いの道をしばらく走り集合場所に到着した僕は、バイクに腰掛けながら彼の到着を待ちました。20分ほどすると見覚えのある鮮やかなオレンジのバイクがやってきて、僕の前に停まりました。リアシートには彼女の姿もあります。

「誘ってくれてありがとう」

ふたりと握手をして再会を喜びます。

「山はどうだった?」

彼はたずねましたが、僕はただ首を横に振るだけでした。

ここからさらに20分ほど走った場所に知り合いの舟があるらしく、僕は彼の後に従ってバイクを走らせました。到着した先は一面の浜辺で、いくつかの舟と、いくつかのレストランが並んでいました。浜辺にはちょうど日本の海の家のようなつくりの建物があり、僕らはそこのテーブルについてビールを注文しました。きれいな海を見ながら飲むビールはまた格別です。

彼とは英語で話しができるのですが、彼女のほうはスペイン語しか話せなく、なんとも片言の会話になってしまいます。ですがそれでも言いたいことはお互いなんとなくわかるようで、彼女の地元であるオアハカの話で盛り上がりました。オアハカには行ったの?と聞かれ、行ってないと答えると少し悲しそうな表情を見せたのがとても印象的で、なぜか少し胸が痛みました。

ほどなくして彼の知り合いが現れ、軽い挨拶のあといよいよ舟に乗り込みました。舟といっても大きなものではなく、日本の港町にあるような漁船とまったく同じです。知り合いが船長らしく、馴れた手つきで日本製の船外機をスタートさせました。小さな舟は7人も乗るといっぱいで、だけどそれは海の上を波から波へ文字通り飛ぶように進んでいきました。

浜辺は砂まじりのチョコレート色だった海の色も少し沖に出るとコバルトブルーで、透明度の高さが一目でわかります。遠くには南国の木を生やし、どこかのパンフレットで見たような小さな島がいくつか浮かんでいました。今日も気温が高く紫外線は有無を言わさず肌を刺しますが、風を切って海の上を走る舟の上はとても爽快でした。

メキシコ湾クルーズ。

結構なスピード。気持ち良い。

30分ほど走ったところで舟はスピードを落とし、僕たち以外に乗り合わせたメキシコ人たちが次々と海に飛び込んでいきました。彼らは漁師で、スノーケル一式と手にモリのようなものを持つとあっさりと海に入っていくのです。モリのようなものは木の棒の先にかぎ針のような鉄の棒が付いているだけで、これでタコをとるのだと言いました。素潜りで、しかもそんな道具ひとつでタコをとるのだからなんとも驚きですが、中には20歳そこそこに見える青年もいてさらに驚きました。きっと小さな頃から海に潜ってきたのでしょう。

船長と僕たちだけを残した舟はそこからさらに少しだけ進み、いかりを下ろしました。陸からかなり離れた場所でありながら水深は3mほどで、その一帯だけ海は淡い色をしていました。船長は何かを言い残すと(僕には理解できなかった)やはり先のメキシコ人たちと同じように海に潜っていきました。

「僕らはここで泳ごう」

彼はそう言うと僕のためにスノーケルセットを貸してくれました。そして陽差しが強いから気をつけたほうがいいとも忠告してくれました。だけど僕はTシャツにハーフパンツしか持っておらず、上半身は裸になって海に入るしかありません。

飛び込んだ海の中は魚の楽園で、鮮やかな体をしたさまざまな魚が大きな珊瑚のまわりを気持ち良さそうに漂っていました。僕と彼はときに一緒に、ときに気ままに、どこまでもでも見えるのではないかと思えるきれいな海を堪能しました。水温はまだ少し低いけれど陽射しが気持ちよく、どれだけでも泳いでいられそうでした。こんな世界を目にすると、人知れず存在する南国の海はまさに楽園なのかもしれないとさえ思えます。

ひとしきり泳ぎ(結局2時間くらい遊んでいた)舟に戻ると、メキシコ人たちもぽつりぽつりと舟に戻ってきました。腰に巻いたロープの先には何匹ものタコが通されています。すごいものだなと感心していると、ひとりのメキシコ人がとても大きなロブスターを手に戻ってきました。このあたりから中米にかけてロブスターが盛んに取れることは聞いていましたが、実際にその姿(それも巨大な)を目の当たりにするとやはり興奮してしまいます。

どこまでも透き通る海。
珊瑚と魚の楽園だった。

採れたてのタコ、うまそう。

今日の成果はどうだったのだろう。普段を知らない僕にはわかりませんが、ロブスターまでとれたのだから悪くないのかもしれません。全員を乗せた舟は、行きと同じく猛スピードで浜に向かいました。浜に到着すると朝と同じテーブルに戻り、ビールを飲み、ポジョアサード(チキンの丸焼き)を食べ、とりとめのない話で午後のゆったりした時間は過ぎていきました。心地よい海風が吹き、子供たちは声を上げて遊んでいて、それは時間が引き延ばされたような午後でした。

僕はずいぶん昔からデジタルカメラにナツイチ(集英社文庫が夏に行うキャンペーン)のストラップ(はちが本を読みながら涙をながしているデザイン)をつけているのですが、彼女はそれをいたく気に入ったようで、僕はそれを彼女にあげました。彼女はとても喜んでくれ、大切にすると言ってくれました。

暑い国で飲むビールは格別。

ゆったりした午後。

おりゃー。

夕方になって街に戻り、彼らとは途中の交差点で別れました。ホテルに帰ってシャワーを浴びると、肩から背中にかけてひりひりと痛みました。太陽の下にさらした肌はあっさりと焼けてしまったようです。ナツイチのストラップがくれたものは、少し痛む背中の日焼けと、忘れられない旅の思い出でした。

おわり。