2012年7月30日月曜日

コーラーの国 vol.1

6時に目が覚めた。ぼちぼち準備をして8時にホテルを出る。綺麗な宿ではなかったが、オーナー親子は揃っていい人ではあった。

ハルパタグアの町から30分も走ると、ほどなくエルサルバドルとの国境へ到着した。国境は山間にあり、峠道を下っていくと目の前に現れた。そこには一本の川があり、それがお互いの国を分けていた。川には橋が架けられ、向こう側には「ようこそエルサルバドルへ」とスペイン語で書かれた看板が誇らしげにに立っていた。こちら側にも同じ看板があった。裏側なので何が書かれているか分からないが、それが「ようこそグアテマラへ」だということは容易に想像できた。

次の国へ。

まずはグアテマラの出国手続きなのだが、バイクを停めた瞬間、一斉に両替商やら何やらに囲まれてしまった。各々が言いたいことを好き勝手に言ってくるのでやかましくて仕方ない。僕が歩くと、その輪がそのまま動く。僕はひたすら首を横に振りながら何も聞こえないという顔をして税関へと向かった。
税関の窓口まで来るとその輪がぱっと崩れ、周りには誰ひとりとして居なくなった。その辺はきちんとわきまえているらしい。もっとも窓口付近には警備員が愛想の無い顔をして立っているので、あまり派手なことは出来ないのだろう。

税関ではペルミソ(バイクの一時輸入許可証)の返納をするだけなのだが、窓口で差し出したペルミソをあっさり突っ返されてしまった。

「ノーシステム」

何かを早口で言われたが、聞き取れたのはその単語だけだった。そのノーシステムが復旧するまで結局20分ほど待たされてしまったが、イミグレーションではあっさりと出国のスタンプを押してくれた。
これで出国手続きは完了だ。
橋を渡る前に使い切れなかったケツァールをドル(エルサルバドルの通過はUSドルそのものだ)に換金した。600ケツァールで75ドルになった。悪くない。両替商にしつこく付きまとわれるのはうざったいが、いなければいないで僕も困ってしまう。この辺は国境という特殊な場所を舞台に、奇妙にバランスが保たれているのだろう。

バイクにまたがりゆっくりと橋を渡った。両国をつなぐ橋を渡りきれば、そこは間違いなくエルサルバドルだ。
まずはペルミソの作成なのだが、ここでそれに待ったがかかってしまった。ナンバープレートの素材が金属でないと突っ込まれたのだ。

(ついに言われてしまったか)

正直な気持ちだった。
僕のバイクにつけてあるナンバープレートは、プラスチック製だった。それも自分で作ったものだ。遠目にはそれっぽく見えるものの、近くで見ればやはりそれはプラスチックでしかない。
国際用のナンバープレートは、JAFでカルネを作成するときに頼めばきちんとした物(金属製)を作成してくれる。しかし僕はそれをせず、自作した。それもプラスチックで。今までの国境でナンバープレートの素材など気にしていないようだったが、ついに目を付けられてしまったようだ。係員たちはあーだこーだとバイクを取り囲み何かをしきりに話し合っている。こんな状況ではまさかこのプレートは自分で作ったんですなんて言えない。

「日本のナンバープレートはプラスチックなのか?」

ひとりの係員が質問をしてきた。

「そうだ」

僕は思わず答えてしまった。そんなわけがない。さすがにちょっとまずいだろうと思い直し、

「大抵はサルバドールと同じ金属製だ。だけど小さい排気量のバイクはプラスチックなのだ」

と付け加えた。どちらにせようそではある。しかしこれからこの国境を訪れる日本のバイク乗りが何か言われても困る。もっともプラスチックのナンバープレートを付けてくるバイク乗りがいるかはわからないが。

渋々のペルミソ発行となった。係員は納得いかないのだがな、といった顔をしていた。しかしペルミソさえ発行されればこちらのものだ。これで大手を振ってエルサルバドルを走ることが出来る。たとえ警察に止められようが、検問にひっかかろうが、ペルミソがあれば怖くない。なにせ税関が発行した公的文書。印籠代わりというわけだ。

税関のある建物の反対側にイミグレーションがあった。ここでもひとこと言われてしまった。パスポートに押されたグアテマラ入国時のスタンプを見て、

「残りの滞在可能日数が少ないぞ」

と言われてしまったのだ。そんなことは重々承知だ。もちろん違反をしているわけではないので単なる忠告でしかない。手続きは続行された。オフィサーはパスポートをスキャンし、コンピューターに向かって何かを打ち込み、やがてパスポートを返してきた。パスポートに入国スタンプは押されて無かった(グアテマラの出国スタンプがあればいいようだ)が、

「ジャ?(もういいの?)」

とたずねると、うなずきながら一度だけ片手を水平に動かした。完了の合図だ。パスポートと一緒にサインされた小さな紙切れを渡された。それを入国ゲートで手渡すと、目の前のゲートがゆっくりと開けられた。エルサルバドルに入国するためのすべてが整った瞬間だった。

つづく。

2012年7月29日日曜日

そしてまた旅は動き出す vol.2

パナハッチェルからアンティグアまで、一気に走った。おかげで昼前には到着してしまった。アンティグアのペンション田代といえば前回怪我の養生のため1ヶ月お世話になった宿だ。オーナーの田代さんは僕のことを覚えていてくれてうれしかったが、今回はゆっくりしている暇はなかった。なにせビザの期限が迫っている。特に観光することもなく、バイクの整備だけをしてあっさりとアンティグアを後にした。

アンティグアからであれば、エルサルバドル国境まで十分に走ることができた。どこか国境手前の町で一泊すれば、翌日午前中にはエルサルバドルへ入ることができる。首都のサンサルバドルまで走ることもできるだろう。ついにグアテマラを脱出することができる。

アンティグアから首都グアテマラ・シティーは近い。渋滞がひどく道も分かりにくいので大きな都市は避けたいところだが、パンアメリカン・ハイウェイに乗るため一路グアテマラ・シティーへと向かった。
そこは予想をはるかに越える都会だった。道路は立体交差で、あらゆる車がそこを埋め尽くし、空を覆うビルが立ち並んでいた。シェラはグアテマラ第二の都市と言われているが、グアテマラ・シティーとはそもそもの次元が違っていた。グアテマラでも一都集中が進んでいるようだ。

案の定、道を見失ってしまった。とにかく道路標識が難解なうえ在るべきところにないので、あっという間に自分の居場所を見失ってしまう。こんなところは一刻でも早く抜け出したいと躍起になるが、冷静さを欠くほど深みにはまってしまうものだ。曲がり角ひとつ曲がり損ねただけであらぬ方向に進んでしまい、路頭に迷う。その度にバイクを停め、何人もの人に行く先を尋ねなけらばならなかった。
なんとかお目当ての道に出たら、あとはひたすら東へと走るだけだった。道は都会の喧騒から逃れるように山へと入っていった。振り返ればスモッグに煙る首都が見下ろせた。

霞む首都。

山深い峠道を進む。少し標高を下げたあたりで雨がぱらついた。空にはまるで生き物のような巨大で圧倒的な雲が浮かんでいる。それはいかにも雨季らしい光景だった。クイラパ、オラトリオと小さな町を抜け、国境から約20km手前のハルパタグアという町に宿を取った。国境の町まで走ろうと思っていたものの、値段調査の為に入ったひとつめの宿で40Q(約400円)という数字を出され、あっさり承諾してしまったのだ。バイクを敷地内に入れられるというのも決め手だった。

安いだけあってお世辞にもきれいとは言えない宿だった。すすけた部屋にはしょぼくれたベッドがひとつ置いてあるだけだ。机さえなかったがが、一晩寝られればどこでも良かった。
それにしても暑い。標高を下げたせいだろうが気温は30度を超えていて、高地の涼しい気候に慣れきった体からは黙っていても汗が噴きだした。なにせ持っていたチョコレートがポケットの中で溶ける気温だ。ベッドには毛布どころかシーツさえ用意されていなかった。
荷物を入れ、さっそくシャワーをと思ったら、そこにはプラスチックの大きな水がめと、小さな桶があるだけだった。要はこの水がめから桶で水をすくい、行水をしろというわけだ。それがここのシャワーだった。

ハルパタグアの町を散歩した。パルケをかすめ、小ぢんまりとしたメルカドを抜け国道へ出たら、そのまま町外れまで歩いた。といってもものの5分も歩けば町は終わってしまう。どこにでもあるような小さな町だった。観光客などいるはずもなく、そこには人々の生活だけがあった。
晩飯用に屋台でタコスを買った。牛肉とタマネギのタコスだった。シラントロ(コリアンダー、パクチー)の効いたサルサをたっぷりかけ、持ち帰りにしてもらった。この先中米を進むと主食がトルティーヤから米に代わっていく。タコスも食べられなくなるだろう。僕はタコスがことのほか好きなので、それは非常に残念なことだ。

今日の宿。

国境近くの小さな町ハルパタグア。

バイクで走っている時に気が付いたのだが、この辺りでウイピルを着ている女性は少ない。まったく居ないわけではないが、ほぼ見かけることはない。きっとマヤ文化圏から離れつつあるのだろう。町行く人もマヤの血を濃く引き継いでいるという感じではない。町をのんびり歩いていると、その変化を肌で感じることが出来た。メキシコのユカタン半島から続いたマヤ文化圏からもいよいよお別れというわけだ。

(また旅が動き出したな)

ささやかな変化かもしれなかったが、地続きで移動しているからこそ分かる事だ。それは小さいながらも僕にとっては刺激的かつ心浮き立つ出来事であった。

おわり。

2012年7月28日土曜日

そしてまた旅は動き出す vol.1

4月も中頃をすぎたあたりから目に見えて雨量が増えていった。もうそんな時期に入ったのかと遠く雷鳴を聞きながら焦燥感に襲われたが、重い腰をあげたのは5月に入る直前だった。

中米は一般的に5月から雨季とされる。5月から11月の半年間が雨季で、残りの半年間は乾季だ。だから季節は夏(乾季)と冬(雨季)のふたつしか存在しない。2月にメキシコへ戻ったので、乾季の間に十分中米を抜けられるだけの時間はあった。しかし雨季はもう目の前だった。あっという間と感じていたシェラでの日々は、その取り分をきちんととっていった。

予定のない旅ではあるが、ひとところに2ヶ月以上も滞在するのは予定外だった。5月になると南米北部が乾季に入るので、その境目でうまいこと中米から南米へ移動しようと思っていた。しかし、その境目に僕はまだグアテマラに居た。90日のビザは、気が付けば20日を残すだけとなっていた。つまりその間にグアテマラからニカラグアまで抜け、コスタリカへ入国しなければならない。

広大なアメリカ大陸の中で、中米はひときわ小さい。北米には3ヶ国しかないのに、中米にはあの小さな範囲に7ヶ国もひしめきあっている。グアテマラを除く6ヶ国はどれも日本の国土の3分の1以下しかない。
中米を飛ばす旅行者も多い。大きな目玉となる見所も少なく、治安もあまり良くない。だから国際バスで一気に走り抜けるか、飛行機で飛んでしまう。しかし僕にはそれができない。ひとつひとつの国境を越えていくしかない。それがバイク旅というものだし、だからこそバイクという移動手段を選んだのだ。

シェラを脱出したのは4月の最終日だった。天気は上々で絶好の出発日和。皆に送り出されてタカハウスを後にした。
準備中は後ろ髪を引かれる思いだった。旅に対する不安のようなものも感じた。しかし晴れ渡った青空の下を走り出せば、そんな憂いはすぐにどこかへ吹き飛んだ。また旅が動き始めたんだと期待に胸が膨らんだ。それは足踏みしていたことが馬鹿らしく思えるくらいに。

久しぶりに移動とあって今日は100kmほど離れたパナハッチェルまでとした。そこはあのアティトラン湖のほとりにある村だ。パナハッチェルには日本人宿もあるのだが、一番の目的はクロス・ロードというカフェでコーヒー豆を買うことだった。
グアテマラはコーヒーで有名だ。しかしスーパー・マーケットなどで売っている豆はあまり質が良いとは言えなかった。大抵がすでに挽いたものだったし、いくつか買ってはみたものの好みの味には出会わなかった。いい豆を、豆のまま欲しかった。グラインダーをわざわざ持ってきているのはそのためだ。
クロス・ロードの豆は良質だった。ウエウエ・テナンゴといえばグアテマラでも名のあるコーヒー豆の産地なのだが、そこの豆を自家焙煎して販売していた。その豆が欲しかった。

ソロラの村の男性用ウイピル。
すごく繊細。

パナハッチェルの日本人宿で一泊した翌日、クロス・ロードへ訪れた。オーナーのマイクはアメリカ人で、家族でグアテマラに移り住んでもう長い。実は以前パナハッチェルに滞在していたときにも訪れていたのだが、半年以上前のことなので彼は覚えていなかった。無理もない。なにせ多くの旅行者が美味しいコーヒーを求めてこの店にやってくるのだ。可笑しかったのは、マイクはまたしても僕のバイクを見て驚き、その驚き方が以前とまったく同じだったことだ。そしてやはり彼が若い頃にしたバイクでのアメリカ大陸縦断の話をしてくれた。

マイクはいつも笑顔。

 クロス・ロード。

「そうだ。今晩家に泊まりに来ないか?」

旅の話から一転、突然思い出したようにマイクが言った。

「旅の話をいろいろ聞かせてくれないか?」

逡巡したものの、せっかくの誘いなのでありがたく招待されることにした。

店が閉まる19時までの間、店の奥のテーブルを借りて時間を潰した。客はひっきりなしにやってきたが、午後になるとふたりの日本人女性がやってきて僕を驚かせた。日本人が来ること自体驚くこともないのだが、一見してバックパッカー然としない雰囲気で、ファッション雑誌からそのまま飛び出したような格好をしていることに驚いたのだ。しばらく長期旅行の日本人しか見ていなかったので、どこか不自然さを感じたのかもしれない。

聞くとふたりはゴールデン・ウィークを利用した旅行中とのことだった。なるほどそうか。日本は今そんな時期なのか。セマナ・サンタは気にしていたが、ゴールデン・ウィークはすっかり忘れていた。もっとも旅に出ると曜日さえ忘れてしまうのだから仕方ない。

閉店後、マイクの家へ向かった。それは町外れの静かな場所にあった。家、と言ってもまだ建設中で、自分たちで設計をし、少しづつ作っているのだと言った。マイクの奥さんが用意してくれた食卓を囲み、ロウソクの灯りでディナーを楽しんだ。3人でさまざまな旅の話をし、食後に熱い紅茶を飲んだ。広いテラスに出ると、庭先で無数に飛ぶ蛍が優雅だった。見える山並みはその輪郭だけを残して闇に溶け込んでいた。空には星が浮かんでいた。
ベッドなどないので、寝袋に包まって寝た。いい夜だった。すべてが静かでシンプルに満たされていた。心から人生を楽しんでいるマイク夫妻に大きな元気を分けてもらった気がした。

素敵な家。

朝起きたときには奥さんはもう居なかった。グアテマラ・シティーまで豆の配達に行ったらしい。マイクがコーヒーを入れてくれて、テラスに出てベーグルとバナナで朝食にした。目の前に流れる川のせせらぎと野鳥がさえずりが心地よい。

「家が完成したら多くの人を招待するんだ」

と彼は言った。そして

「君がこの家で最初のゲストだ」

とも。その日、僕は晴々とした気分でアンティグアへとバイクを走らせた。

つづく。

2012年7月27日金曜日

Colombia(コロンビア) ツーリング情報 2012/06現在

【入国】

・人間:無料(90日間)
・バイク:無料(90日間)

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】
・保険:81000ペソ(90日間 ちなにみ250cc以上は約90000ペソ)
・ガソリン:約8800ペソ/ガロン(レギュラー) 約10800ペソ/ガロン(ハイオク)
・通貨:ペソ 1800ペソ≒1USドル(桁が大きすぎてややこしいのだ)
・走行距離:2806.0km

【メモ】

パナマのカルティという港からセイルボートでコロンビアのカルタヘナに入国。
パナマ~コロンビア間の移動はセイルボートを利用した。
詳細は以下
http://www.asian-blues.blogspot.com/2012/07/blog-post_26.htm

パナマ、コロンビアともイミグレーション、税関はセイルボートのキャプテンが先導して乗客全員の手続きを行ってくれた。至ってらくちん。コロンビア入国に1日、バイクの通関に1日がそれぞれ必要だった。

保険は強制で、通関後町の保険屋で加入した。保険屋によってはミニマムが1年だったりするので90日の保険がある保険屋を探すのが得策。それ以上短い保険があるかは不明。

道路状況はとても良いが、アンデス山脈を越える場合かなりの峠道だ。コロンビアでは一般道でも有料でPeaje(ペアへ)と呼ばれる料金所があるが、バイクはすべて無料。

ガソリンはかなり高い。レギュラーとハイオクの価格差が大きい。中米諸国ではほとんど差がなかったのだが。
田舎に行くとレギュラーしかおいてない。それでもアンデスの峠も難なく登ってくれたので、質はそれほど悪くないと思う。
南部エクアドル国境に近くなると値段がなぜか下がるようだ。レギュラーで6000ペソしない。北上する人は南部で満タンがいい。

単位は距離がキロメートルでガソリンはガロン。

日本ではあまり良いイメージを持たないコロンビアだが、人々は底抜けに陽気でとても親切だ。治安が特に悪いという印象もない(中南米のレベルにおいてという意味で)。
海岸線に平地、アンデス山脈から熱帯雨林に至るまで景色の変化はダイナミックだ。走っていてとても気持ちがいい。海沿いや平地はひたすら暑く、アンデスはかなり寒い。バイクで走っていると1日でそれを実感できる。
空がとても綺麗。なぜかは分からないけど、とにかく綺麗。赤道が近いから?などとひとり納得してみたり。

2012年7月26日木曜日

パナマ~コロンビア間のバイク輸送について

パナマ~コロンビア間の国境は地続きであるが道はない。さしものパンアメリカン・ハイウェイでさえこの区間は寸断されている。なので陸路では移動できない。ダリエン・ギャップと呼ばれるそれはアメリカ大陸をバイクで旅する者にとって今も昔も変わらず悩ましい問題だ。

僕が調べた結果バイクを渡すには、貨物船、セイルボート、飛行機で空輸、が一般的なようだ。それぞれ費用や期間、渡航先、さらに手続きなどが大きく変わってくるため一長一短。しかし人とバイクが一緒に渡れるのはセイルボートしかないと思う。僕は飛行機移動が好きではない(一番早く渡せる方法ではあるが)ので、セイルボートにバイクを載せ、5日かけてダリエン・ギャップを超えた。費用は800USドル(正規料金は900USドル)。

使用したセイルボート情報は以下
http://www.stahlratte.org/27.0.html?&L=1

パナマのカルティという港とコロンビアのカルタヘナの両国間を、カリブ沖のサンブラス諸島に寄航しながら行き来している。ボートはほかにもあり、その大きさや設備によって値段はまちまち。ツアーという形をとっているので、期間中の宿泊(ボート内のベッド)と食事は付いている(ソフトドリンクやアルコールは別料金だった)。食事内容の良し悪しはそれぞれの船長による。良くないボートは本当に良くないらしい。
パナマ・シティーでもカルタヘナでもセイルボートの情報は簡単に見つけることができるが、バイクを積めるボートは一部に限られている。

貨物船に比べれば料金的に割高かもしれないが、期間中の宿泊と食事がついているのでなんとも言えない。ツアーに参加できてバイクも渡せると思えば決して高くはないと思う。サンブラスの島でクナ族の暮らしを見たり、カリブの無人島に停泊し、きれいな海と満天の星空を堪能することができる。なかなかできる体験ではない。ただし、サンブラス~カルタヘナ間の外洋を運航中はかなり揺れるので、船酔いする人は(かなり)覚悟したほうがいい。

イミグレーション、税関ともセイルボートのキャプテンが先導して乗客全員の手続きを行ってくれた。至ってらくちん。入国に1日、バイクの通関に1日がそれぞれ必要だった。貨物船を使用した場合はその辺の作業はすべて自分ですることになると思う。

***

パナマのコロン~コロンビアのカルタヘナ間の国際フェリーが5月に就航するという話だったので期待していたが、6月現在でも運行されていない。やはり政治的問題があるのかもしれない。
人がTAX込みで約200USドル(往復チケットのみ)、バイク約150USドルと格安な上、コロンを夕方出発しカルタヘナに朝到着するという便利さ。いずれこのフェリーが就航すればダリエン・ギャップ越えで悩む心配がなくなるかもしれない。
http://thebulletinpanama.com/panama-and-colombia-to-have-ferry-link-in-may

2012年7月25日水曜日

ならぬシェラ日記 ~徒然なるままに日暮編 vol.3~

グアテマラに入国して2ヶ月が経ったあたりからだろうか。僕は

「そろそろタカハウスを出ようと思う」

と言い続けていた。グアテマラのビザはなかなか特殊だ。入国日から数えて90日の滞在が許されるのだけど、それはグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアの中米4ヶ国あわせてのことだった。
グアテマラに2ヶ月滞在したとなると、残りの1ヶ月で他の3ヶ国を抜けなければならないということだ。それを考えると、そろそろ出なければと思うのも当然だった。

それでもなかなか荷物をまとめることができなかった。毎日が同じようにやってきて、同じように終わっていった。穏やかに時間だけが流れ、立ち上がることをさっぱり忘れてしまったようだった。
中米諸国はとても小さいので2日も走ればひとつの国を抜けることができる。しかしそうなると何も見ずにただ国境を越えるだけになるので、それではあまりにもったいない。しかしなかなか荷物はまとめない。

「メキシコにビザを更新しに行ったら?」

見かねた友人が冗談ともいえない冗談を言った。

シェラからメキシコ国境は近い。一旦メキシコへ抜け、ふた晩あけて再度グアテマラへ入れば、パスポートに新しくスタンプが押される。もしふた晩がいやならば、その場で200ケツァール(約2000円)をパスポートにはさめばいい。地獄の沙汰も金次第だ。たったそれだけで90日の滞在が許される。実際多くの旅行者がメキシコ、グアテマラ間の国境を行き来していた。

それは簡単なことだった。しかしそれをやってしまったらこの先の旅がすべて崩れてしまう気がして、僕はついに出る決心をした。ある土曜の朝だった。

***

最後の日曜、皆で近くの村へ遊びに行った。ナワラとトトニカパンという村だ。

ナワラは女性のみならず男性もウィピル(民族衣装)を着ている数少ない村だ。その手の込んだ鮮やかな刺繍は見事としか言いようがない。しかし村の若者たちは誰もがジーンズにTシャツという格好だった。一体この先何年ウィピルが着続けられるのだろう。僕には分からないことだ。

市をのんびりと歩き、織物を生業としている民家で機織機やさまざまな織物を見学させてもらった。一通り説明を受けたのだが、その作成工程はあまりに複雑すぎて僕にはよく理解できなかった。当たり前だが刺繍の一本一本がすべて手作業によるものだ。オートマチックな機械で大量に生産されているわけではない。

土産物屋で何気なく売られている織物1枚に、これほどの手間と時間がかかっているとはそのときまで知るよしもなかった。それを知ると値段交渉で、最後の一滴まで搾り取るかのような値切り方をすることが不当な行為のように感じられた。もちろん言い値で買うというわけではないが、きちんとした仕事には、きとんとした対価を支払うべきだ。

トトニカパンでは陶器工場と大衆浴場を見に行った。残念ながら陶器工場はやっておらず見学ができなかったが、大衆浴場ではおどろくべき光景を目の当たりにした。

浴場内はむっとした熱気が充満していて、50人ほどの人であふれていた。四面の壁に棚があり、そこが脱衣所だった。中央に湯船がある。それは浴槽というよりもプールのような造りで、湯は乳白色。かなりぬるめだった。老若男女が入り乱れて湯につかって様はある意味迫力だったが、さらにおどろいたのは、多くの女性が風呂に入りながら洗濯をしていたことだ。湯が乳白色をしていたのは泉質などではなく、せっけんの色であった。

「ここに入るのはちょっと遠慮したいよね」

全員一致の意見だった。洗濯をした湯につかるなら、きれいになるどころか逆に汚れてしまうのでなはいか。その辺は日本人の感覚なのだろうか。

シェラへ戻るバスの中で、突然トイレに行きたくなってしまった。昼に食べたスープが辛すぎたのだろうか。あと20分ほどで到着だからと言われたが、揺れるバスで20分も我慢できそうにない。人間切羽詰ると行動が大胆になるものだ。バスがどこかの町に入ったことを確認した僕は、運転手に無理やりバスを停めさせ、その場で降車した。去り行くバスの窓から皆の心配そうな顔が見えた。

とにかくトイレを探した。が、なかなか見つからなかった。人間切羽詰ると行動が大胆になるものだ。見つけたホテルに飛び込んでトイレを貸してくれと懇願した。ありがたいことにすんなり借りることが出来た。きっと悲痛な顔をしていたのだろう。

事を終えフロントで礼を言うと、そこに居たひとりの男がやたらと話しかけてきた。最初は従業員かと思ったがそうではないようだ。僕が外に出ると、男も付いてきた。しばらく一緒に歩きながら話をしたのだが、突然

「俺は近くの村に住んでいるんだ。お前今日暇か?どうだ。良かったらうちに泊まりに来ないか?」

と言いだした。なんと親切な男だろう、とは思えなかった。その誘いはあまりに不自然だった。僕はシェラに帰らないといけないからと適当な理由をつけて断った。男は少し残念そうな顔をした。無為に断ってかわいそうだったかな、とも感じたが、別れ際握手をした手に熱いキスをされてしまった。あぶないところだった。

***

最後の夜、皆でビリヤードをしにいった。グアテマラのビリヤード事情はあまりよろしくない。テーブルもキューもコンディションは言わずもがなだ。もっとも1時間遊んでも6ケツァールなのだから文句は言えない。

僕はビリヤードが好きで、日本ではよく遊んでいた。普段遊ぶときはビールなど飲まないのだが、その日は飲んだ。ビールを飲んだ方が楽しく遊べるのは間違いない。ほろ酔い気分で9ボールを撞いた。客は僕らの他にほとんどいなかったが、10人以上で4台も貸しきって遊んでいたから店内は大変な盛り上がりだった。

こうやって皆で楽しく遊んでいると、明日の朝シェラを出るという実感が未だわかなかった。汚れた服はすべて洗濯したし、食材も整理した。バイクの整備だって終わっている。準備は万端だった。あとは明日の朝、皆にさよならと言うだけだった。

これといって何もない町だったけど、わいわいと騒ぐ皆を見ているとここで過ごした2ヶ月は輝いた記憶となって僕の心の中に存在し続けるだろうと思えた。

おわり。

2012年7月24日火曜日

ならぬシェラ日記 ~徒然なるままに日暮編 vol.2~

タカハウスに2ヶ月ちょっとの滞在中、3度下痢をした。以前グアテマラを訪れたときも入国してすぐに腹を下した。どうも僕にはグアテマラの水が合わないらしい。

単なる下痢ならば、腹がゆるくなって1日に何度もトイレに駆け込むことにはなるが、それだけだ。だまっていても1週間ほどでおさまっていく。しかし1度は38度を超える熱を伴った。さすがに38度を超えると起き上がるのもしんどく、とてもシェア飯を作るどころではなかった。食欲さえもわかず、バナナ1本食べるのがやっとだった。

熱にうなされながら2日寝込んだ。なかなか回復しない僕を見て心配した友人は

「もしかしてアメーバ赤痢なんじゃないのかな?」

と言った。そして

「いい薬があるよ」

と付け加えた。

それは町の薬局で風邪薬として売られているのだが、それを飲むとなぜかアメーバ赤痢が治るということだった。そんな馬鹿な話があるものかと思ったが、どうやらグアテマラが風邪薬を作るとアメーバ赤痢まで治ってしまうらしかった。

そんなわけの分からない薬は飲みたくなかったので、僕はおとなしく日本から持ってきた抗生物質を飲んだ。翌日安静にしていたら、その次の日には無事に熱も収まり食欲も復活した。

***

ロンにはまっていた。ロンとはサトウキビを原料とした蒸留酒で、つまりはラム酒のことだ。カリブと言えばやはりラムなのである。メキシコに居たときにはテキーラを飲んでいたように、その国へ行ったらその国の酒を飲む、というのも旅の大きな楽しみだ。

ライムがただのような値段で売られているので、贅沢に搾ってストレートでちびちび飲んでいた。シェア飯を作るようになってからは調理をしながらやるようになったので、ボトル1本のロンは1週間ともたなくなってしまった。

いつも近くのスーパーでロンを買っていた。よく買っていたのはボトラン(グアテマラ産)とバカルディー(キューバ産)のオロ(ゴールド)だ。バカルディーのオロで1リットルのボトルが55ケツァール(約550円)ほどだった。しかし同じ棚には750ミリリットルのボトルが58ケツァールで売られていた。

(はて、量の多い方が安いとはどうことか)

いつも不思議に思っていた。友人もそれについては同様に思っていたらしく、ある日スーパーの店員を捕まえて問いただしたらしい。返ってきた言葉は「プロモーション」というものだった。なるほどそうかと納得したが、そのプロモーションは僕がシェラにいた2ヶ月間、ついに終わることはなかった。きっとこの先も終わることがないだろう。

***

ある日タカハウスにひとりの女の子がやってきた。この春大学を卒業し、香港に本社のある旅行会社に就職が決まっていると言った。そして最後の休みを利用し、カリブの島々と中米をまわる旅に出た。

いつものようにシェア飯を食べ終わり、皆でテーブルを囲んで話をしていた。日付が変わる頃になると、次第にひとり、またひとりと自分のベッドに戻っていき、テーブルには僕と彼女だけが残った。僕はふたりで話すこともさほどないだろうと思い、適当に話を進めながら頃合いをみて皆と同じように自分のベッドにもぐりこもうと考えていた。しかし、そうはいかなかった。

ことのほか彼女との会話が楽しかった。時間が経つのを忘れてしまった。彼女は頭が良かった。落ち着いた話し方は耳に心地よかったし、なによりお互いの価値観が似ていた。ひとまわりも離れた年下の女の子だが、そのことは大して問題にならなかった。旅の話はもちろん、仕事や趣味、これまでの生きてきた時間や好みの異性のタイプに至るまで、実にいろんな話をした。

気づけば時計は朝の5時半を示していた。さすがに疲労感を覚えた僕は、そろそろ寝ようと彼女に提案した。早朝に宿を出るという彼女も少し寝た方がいいかなと言い、それぞれがそれぞれの部屋に戻った。見上げる空はうっすらと朝の雰囲気が漂っていた。僕は充実した気持ちでベッドにもぐりこんだ。

つづく。

2012年7月23日月曜日

ならぬシェラ日記 ~徒然なるままに日暮編 vol.1~

タカハウスでは、毎晩のシェア飯がしきたりになっていた。調理は代々の管理人が担当することになっていたので、僕もご多分に漏れず毎晩宿泊者分の晩飯を用意した。宿泊者が少ないときは比較的楽だったが、それが連日15人以上ともなるとさすがに大変で、2時間は台所に立っていないといけなかった。毎日の献立にも頭を痛めた。1週間やそこらならまだしも、2ヶ月となるともはや万策尽きてしまう。

「今日はどうしようか?」
「さて、どうしましょう」

午後にもなるといつも決まってタカさんとそんなやりとりをした。料理上手でレパートリーも豊富というなら問題もないだろうが、大して料理もできない男が作るのだから作れないものは逆立ちしたって作れないのだ。日本から遠く離れた異国の地で、僕は母親の偉大さを痛感した。

「シェア飯に正解はない」

台所に立ちながら、誰かが言ったその言葉がいつも頭の中を駆け巡った。そんな料理を毎晩皆にお見舞いしていたので大変申し訳なかったが、心ある人々に助けられながらなんとか日々をこなすことができた。

グアテマラにありながらタカハウスには日本の調味料が揃っていたので、作る料理は基本和食だった。長く日本を離れていると、どうしたって日本の味が恋しくなるもの。やってきた旅行者が味噌汁一杯で癒される姿を見るのは、とても心が和むものだった。同時にある白人バックパッカーが

「日本人旅行者が数人集まると、なぜいつも食べ物の話ばかりするのだ?」

と不思議がっていたのを思い出す。そしてきっと彼には味噌汁を飲んで癒される日本人の気持ちなど永遠に分かるまいと、ひとり確信するのだった。

***

皆でカジノに行ったことがある。グアテマラのそれはカジノと聞いてぱっと思い浮かべるような代物ではなく、日本のゲームセンターのような雰囲気だった。仕事帰りのおじさんやら買い物ついでのおばさんがスロットマシーンを楽しんでいる、そんな感じだ。もちろんテーブルゲームもあった。ルーレットやブラック・ジャックなどは本格的なものだった。

アメリカでもカジノに行ったことがあった。それはホテル内の広いフロアにあるもので、煌びやかな雰囲気はぱっと思い浮かべるそれそのものだった。もっとも目的はカジノではなくレストランでの食事だったから、食後に少し遊んだ程度だった。ものの数分で1ドルが40ドルになって返ってきた。その夜のビールはやけに美味かった。

そのときの甘い思い出があるせいか、もしいっぱい勝ってしまったらどうしよう、などと要らぬ心配をしながらカジノに向かった。

しかし現実はそう甘くはなかった。チップ1枚が1ケツァール(約10円)からあるので、最初はルーレットでちびちびと遊んでいた。当たったり外れたりを繰り返したが、30枚のチップは1時間もせずに消えた。その後テーブルを変え、ブラック・ジャックをした。ブラック・ジャックが得意というわけではなく、単にそのテーブルのディーラーが美人だったからだ。

そもそもブラック・ジャックなんてやっとルールが分かるくらいなのだから、百戦錬磨のディーラー相手に勝てるわけがない。ミニマム5ケツァールのベットをしていたにもかかわらず、10回カードを配られたら50ケツァール分のチップはきれいになくなっていた。つまり1度も勝てなかったというわけだ。

(ねぇ、もう少しビギナーに対して甘くても良いんじゃない?)

心中穏やかではなかったが、その華麗なカードさばきにすっかり戦意喪失し、ものの10分テーブルに付いただけで尻尾をまいて退散するはめになってしまった。

結局僕らの中で勝ったのは女の子ひとりだけだった。彼女はルーレットが止まるたびに当たった外れたと一喜一憂し、ギャンブルというよりもゲームそのものを楽しんでいる様子だった。無欲の勝利というわけだ。いっぱい勝ったらどうしようとか、ディーラーが美人だからなどと下心丸出しでは勝てるはずもない。

つづく。

2012年7月22日日曜日

ならぬシェラ日記 ~スペイン語学校編~

スペイン語学校に通うことにした。
タカハウスを訪れる多くの旅人は学校に通う。しかもそれだけでは物足りないのか、学校のみならずホームステイまでする。学校以外の時間はグアテマラの家族に囲まれて過ごすのだから、望めば24時間スペイン語漬けの環境というわけだ。
僕は管理人をしていたのでホームステイは無理だったが(もしホームステイまでしてしまったら、スペイン語の聞きすぎて頭がおかしくなっていたと思う)、それでも2週間は午前中の4時間を学校に費やした。

以前アンティグアで2週間学校に通っていたので、ある程度授業は理解できるだろうと変な自信があった。しかし伸ばした鼻は初日にしてあっさりと折られてしまった。根元から。

簡単な受け答えならまだしも、少し突っ込んだ話になるとてんで答えることが出来なかった。あーとかうーとか言いながら手のひらで額を押さえ、必死に考えをめぐらせるのが精一杯だ。単語ひとつ出てこないことも珍しくなかった。語彙が極端に少なすぎた。そのたび辞書でいちいち調べねばならず、しばしば先生をこまらせた。

先生は若い女性だった。名前はファラといい、弁護士になるための勉強をしていると言った。知的な顔立ちをしていて、とてもお洒落だった。毎日同じズボンに同じジャケットで授業に出る僕とは対照的に、毎日綺麗な格好をして現れた。アンティグアでは男の先生だったのだけど、やはり若い女性が先生となると授業に対する意欲ががぜん違ってくる。我ながら単純とは思うのだが、4時間もの間顔をつき合わせて授業をするのだから、それはやはり重要なことだ。

「昨日は何をしたの?」

授業は決まってその質問から始まった。毎日聞かれるくせに毎日何も考えないで授業に出向くので、昨日のことをその場で思い出して答えなければならなかった。僕の語力ではせいぜい事実を羅列することしかできず、

「昨日は友達と日本食のレストランに行って食事をしました。僕はカツ丼を食べました。友達はお好み焼きを食べました。とてもおいしかったです」

やら、

「市場に買い物に行きました。そして果物を買いました。マンゴーとリモン(ライム)を買いました。マンゴーもリモンも日本ではとても高いです。でもグアテマラはとても安いです。市場にはたくさん人がいました」

など、まるで小学生然のかわいらしい回答をするのが精一杯だった。そして最後には忘れずに

「夜は酒を飲みました」

と付け加えた。最初は冗談のつもりで言い始めたのだが(もちろん酒を飲んだことは事実だけど)、毎日必ずそれを口にするので先生にはすっかり酒飲みのレッテルを貼られてしまった。終いには僕が言うよりも先に

「で、昨日の夜もまた飲んだんでしょ?」

と苦笑いされるようになった。一時体調を崩して学校に行ったら

「飲みすぎたんじゃないの?」

とまで言われてしまった。出来の悪い生徒に当たってしまったと後悔していたかもしれない。

授業は楽しかった。アンティグアで受けた先生よりも教え方は数段上手だった(マンツーマンの授業なのだからそれはとても大切だ)し、授業中に携帯電話でメールを打つようなこともなかった(日本とはその辺の感覚がまるで違う)し、課外授業で近くの村の市に行ったときにはグアテマラの文化や習慣についていろいろ教えてくれた。

授業も終盤に差し掛かったある日、こんなことを言われた。

「あなたはいろんな国を旅行しているわね。だけど私たちにはそれができないの。なぜなら国が貧しいから。もし私が日本に行こうとしたら、メキシコのビザを取り、アメリカのビザを取り、日本のビザを取り、そのために多額の支払いをし、さらに高い高い航空券を買って、それでやっと日本に行くことができる。だから現実的には日本に行くことなど夢のまた夢なの」

諭すよう口調だった。さらにこう続けた。

「あなたから見て貧しい国はどのように見えるのかしら」

言葉に詰まった。
貧しい国について。それは先進国と言われる国で育った旅行者が貧しい国を旅する場合、誰もが一度は陥るジレンマだ。僕もそのことについて考えたことがなかったわけではない。それでもただでさえ答えに詰まる質問に、スペイン語で答えられるはずもなかった。僕は辞書をひいてふたつみっつ単語を並べた後、もはやなにも言うことが出来なくなってしまった。

「ブエノ(いいでしょう)」

先生はそれ以上なにも口にしなかった。

あの時先生はどういう意味を持ってあんな質問をしたのか、未だ知るよしもない。しかしその質問をされた僕は答えられない自分に腹がたった。同時にどんな質問にも答えられるくらいスペイン語を話せるようになりたいと強く思ったのも事実だった。

ありがとうございました。

つづく。

2012年7月21日土曜日

ならぬシェラ日記 ~セマナ・サンタ編 vol.2~

スニルでの聖行列を見終わった翌日、皆で出店を出した。
出店の内容はお好み焼き屋、腕相撲屋、グアテマラ人の名前を漢字で書く、という内容に決まった。参加は強制でなかったが、宿泊者のほとんどが参加するようだった。僕は管理人という立場からかなぜか最初からメンバーに名を連ねていた。さらにその日の売り上げで焼肉を食べに行こうということにもなった。実際それだけの売り上げがあるのか疑問だったが、目標は高い方がやりがいがある。

当日は朝からなにかと忙しかった。出店に必要な机から焚き火台から習字セットに至るまで、宿から歩いて10分の公園まですべて運ばなければならず、荷物を持って何度も往復した。すべての準備が整い、公園を歩く人に声をかけた。天気も良く、公園で出店をひらくには最高の休日だった。

お好み焼きも習字もまずまずの売れ行きだった。果たしてお好み焼きがグアテマラ人の口にあったかどうかはわからないが、それでもトータルでは結構な数が売れた。
腕相撲はなかなか盛況だった。小さな子供から若い力自慢まで参加者は多彩だ。さすがラテン・アメリカというべきか、一旦人が集まりだすと次から次と人がやってきて、知らぬうちに人だかりができていた。白熱した試合が行われると、当人以上にまわりが盛り上がり、やんやの歓声があがる。そして僕らが勝つと大きなため息をつき、グアテマラ人が勝つと一斉に湧き上がった。静かな休日の公園の、その場所だけが異様な盛り上がりを見せた。

作戦ミスだったのは、相手は次から次へと現れるのに僕らはそれを数人で相手せねばならないということだった。交代で試合をしても1時間もするとあっという間に腕が上がらなくなってしまった。もちろんそんなことは最初から分かっていたのだけど、考えたからといってこればかりはどうしようもない。結局その場の勢いで楽しんでしまおうという魂胆だった。そのやけっぱちの開き直りがかえって場を盛り上げたかもしれない。その雰囲気はとても心地良いものだった。

呼び込み中。

自分の名前はどんな漢字なのかな?

腕相撲は子供たちにも大人気。

お口に合いましたか?

夕方に店じまいした。朝と同じように荷物を皆で運び、宿に落ち着くとぐったりと疲れてしまった。が、満足感はあった。お楽しみの売り上げは材料費などの必要経費を差し引くと、約200ケツァールが手元に残った。200ケツァール(約2000円)ではとても焼肉など食べられるはずもなかったが、そんなことは最初から分かっていた。実際のところ赤字にならないだけでも御の字だった。結局200ケツァールの売り上げで宿の備品として新しいフライパンとやかんを買う、ということで落ち着いた。

準備不足だったり改善すべき点はあったが、とても楽しい休日を過ごせたと思う。それはなんだか学園祭のようで、かすかに懐かしさが胸に残るものだった。

つづく。

2012年7月20日金曜日

ならぬシェラ日記 ~セマナ・サンタ編 vol.1~

セマナ・サンタは1年に1度の祭りだ。キリスト教圏の国ではかなり大切な伝統行事としてある。
聖週間というだけに、それは復活祭に先立つ1週間を指すのだが、その期間は毎年一定ではない。なぜならキリストが復活した日は春分の日から数えて最初の満月の次の日曜日とされているため、だから今年は4月の第1週がそれにあたるようだった。

タカハウスでも1ヶ月ほど前から「セマナ・サンタ」という言葉をよく耳にするようになった。それは宿泊者の中にキリスト教徒がいたからという訳でもなく、その期間はすべての学校も会社も休みになるからだった。それはちょうど日本のお盆のような感覚で、だから多くの国民が日本と同じく旅行に出るらしかった。
会社が休みなので当然長距離バスも路線バスもほとんどなくなってしまう。そうなると移動が困難になる上、皆がいっせいに旅行に出るので観光地には人が溢れ、宿の値段が跳ね上がり、その確保さえ難しくなってしまう。だからセマナ・サンタの期間をどこでどうやり過ごすか、というのが安宿にたむろしている旅行者たちのもっぱらの話題だった。移動を考えている人にはなかなか深刻な問題のようだったが、そもそもどこにも行く気がない僕にはあまり関係のないことだった。

それでもまったく関係ないかといえば、そうでもなかった。スペイン語学校も休みになる金曜は、皆で近くの村に行って祭りを見ようということになったのだ。キリストが十字架に架けられたとされるその日は、どの町や村でもプロセシオンと呼ばれる聖行列が行われるということだった。

当日、聖週間をタカハウスでのんびり過ごしている宿泊者でスニルの村に出かけた。そこは僕がサン・シモンを見に来た村だ。そのときはバスでやってきたのだが、やはりその日はバスがなく、ピックアップ・トラックが代わりに人々の足として走っていた。スニル行きのバス乗り場へ行くとそこにはきちんとトラックが停まっていて、僕らを含め荷台に十分な人が乗り込むとおもむろに出発した。

バス代わり。

スニルの村では村人たちの手によって祭りの準備が進められていた。行列が行われる道に色を付けたおが屑で装飾を施していた。それは動物や花をモチーフにしたものから幾何学的なものまであり、色とりどりの模様は目を楽しませてくれた。
装飾は行列が始まる地点から終点の教会まで一本の道で続いていて、型を抜いた板を使ってうまいこと模様をつけていた。僕は作業をしていた村人にお願いしてその一部を作らせてもらうことにした。花の模様をくりぬいた型を使い、鮮やかな赤で染めたおが屑をその上に乗せ、そっと持ち上げれば出来上がる。作業は単純だが、かなりの距離でそれを作らねばならず大変な労力だ。

村は祭り一色。

こんな感じで。

延々続く。

少し手伝わせてもらった。

配色がいい。

昼から始まった行列は見応えのあるものだった。ひときわ目を引いたのは大きな神輿だった。十字架を背負ったキリスト像が載せられたそれは左右それぞれ20人ほどの人でやっと持ち上がる大きさで、紫の衣装を着た巡礼者たちが先導し、後には楽隊が続いていた。神輿は左右に揺らめきながらゆっくりと進んで行くので、まるでキリストが歩いているかのように見える。行進は、粛々と進められた。

最初は女性たちで神輿を担いでいたのだが、それが男性に代わる場面があった。その時、僕ともうひとりが神輿を担ぐことになってしまった。祭りの主役である神輿の担ぎ手は重要な役割だと聞いていた。それが外国の、ましてキリスト教徒でもない輩が担いでいいものか分からなかったが、まわりの人々に担げ担げとはやし立てられるがままにその列に加わった。最初は列の後方に忍び込んだ僕らだったが、背の高い順に神輿の先頭から並ぶのがしきたりらしく、小柄なインディヘナよりも背が高かった僕らは押し出されるようにして先頭まで追いやられてしまった。

華やかに飾られた道を、神輿を担ぎ、楽団を引き連れて練り歩くのは実に気持ちが良かった。しかし先頭にいた僕らはとにかく目立ってしまった。道の脇にびっしりと並んだ見物人からやたらと声をかけられ、多くの人が僕らに視線を集めているのが分かった。しかしそれは歓迎の色を感じられるもので、中には歓声が上がることもあった。

粛々と。

村の娘たちも担ぐ。

所々にお香が焚かれている。

まさか先頭とは。

終着点の教会まで行進は続き、そこで神輿は下ろされた。神輿は見た目にも十分重たそうだったが、実際にはそれ以上で、担いだ左肩はかなり痛んだ。強い日差しの中で行われたので、汗もかなりかいていた。のどはからからで体も疲れてはいたが、その分充実感もあった。

スニルという山間の小さな村だったから、神輿を担ぐことが許されたのかもしれない。祭り自体が厳格に行われる大きな町ではこうはいかなかっただろう。何事も体験してみるとそのものの見え方が大きく変わってくるものだ。思いがけず貴重な体験ができたことに僕は大変満足し、興奮覚めやらぬままスニルの村を後にした。


つづく。

2012年7月15日日曜日

ならぬシェラ日記 ~タフムルコ編~

サンタ・マリア山を終えた僕は、次にタフムルコ山(4220m)を目指した。やはりツアーに参加することなく、仲間を募って登ることにした。

タフムルコには6人で行った。
タフムルコはシェラから離れた場所にあるので、通常なら山中一泊の工程を組む。しかしテントや寝袋などの装備を人数分用意することが難しく、なので日帰りの強行軍で行くことにした。調べた結果バスは5時から走り始めるということだったので、その時間から移動をすればなんとか日帰りができる算段だった。

朝目を覚ますと4時を少し回ったところだった。眠い目をこすりベッドから起き上がる。談話室に入ると、他の部屋から起きてきた仲間がぞくぞくと集まってきた。僕はコーヒーをいれ、パンを食べた。これからさんざん歩かなければいけないので、何か腹に入れておいた方がいい。皆も軽くなにかを口にしていた。

5時に宿を出ると、まだ暗い町を歩いてバスターミナルに向かった。大通りに出たところで運良く目的地へ向かうバスが通りかかったので、それを停めて乗り込んだ(バス停でなくてもバスを停めればどこからでも乗り込むことができる)。サン・マルコスのバスターミナルで一度乗り換えると、宿を出てから3時間強で登山口に到着した。

そこに小さな集落があるものの、周りは山ばかりの場所だった。連なる山に阻まれそこからタフムルコを臨むことはできなったが、白地に黒の文字で書きなぐった看板がひっそりと立っていたので間違いなく登山口であることがわかった。

真っ青な空の下、ゆっくりとではあるが着実に登っていった。登山口からしばらくは車も通れるほどのしっかりとした道が続き、ぽつりぽつりと民家があったが、最後の民家を過ぎるといよいよ山に入っていった。道はしばしば途切れ、どこをどう進んでいいか分かりづらかった。なんとか登山道らしきものを見つけながら標高をあげる。サンタ・マリアとは違い地形は変化に富んでいたので、だらだらとした登りが続いた。開けた草地を歩き、涸れた沢を超え、岩場を登り、松林を抜けた。さすがに4000m付近になると空気が薄いのがはっきりと分かった。それでも急がずに登れば足は動いた。日帰りということで荷物が軽いというのもありがたかった。山頂から東にのびる尾根に出ると、見晴らしが利き、頂をはっきりと捉えることができた。


登山口で。

登る、登る。

下界。

木漏れ日。

ここで僕らはミスを犯す。手前に見えるピークがタフムルコであるのに、その左奥に見えるもうひとつのピークがそれだと勘違いをしてしまったのだ。奥に見えた山はコンセプシオンといい、標高はタフムルコよりも100mほど低い。しかし遠近感が目を狂わせ、奥のピークの方が高いものだと思い込んでしまった。

コンセプシオンを目指した僕らは尾根からの分岐で左に折れた。そしてその頂を目指して登るにつれ、実際は隣に見える頂の方が高いことに気づかされた。それは僕以外の皆も気づいているようだったが、誰もそれを口にすることはなかった。今から尾根に戻り登り返すだけの余裕はなかったし、実際どうしてもタフムルコに登らなければならないと思っているわけでもなかった。口には出さなかったが皆同じ気持ちだったのだろう。

コンセプシオン山頂からの眺めは抜群だった。左を見れば連なる山々が見え、右を見れば雲海がどこまでも広がっていた。切り立った岩場に立つと、足がすくんでしまうほどだった。風をよけられる場所を探し、昼飯にした。皆が持ってきた食べ物を一同に広げ、好きなものを好きなだけ食べた。僕はストーブを持ってきていたので、お湯を沸かしコーヒーをいれた。山頂で飲むコーヒーはやはり格別だった。

雲の上で。

手前の缶は、もちろんビール。

十分に満足して山頂を後にした。タフムルコ山頂ではなかったけれど、皆満足そうな顔をしていた。その頃には間違えたことさえどうでもよくなっていた。気の知れた6人で登ったのが良かったのかもしれない。最後尾を歩きながら5人の姿を見つめ、ひとりで登るタフムルコよりもいい体験になっただろうと思った。きっとそれは間違いなかった。

間違いない。

つづく。

2012年7月8日日曜日

ならぬシェラ日記 ~サンタ・マリア編~

シェラの町からから少し足をのばすと、いくつかの山に登ることが出来た。ムエラもそのひとつだったが、登山という意味では少し物足りなかった。その点、サンタ・マリア山とタフムルコ山は十分登山といえるものだった。どちらもシェラから日帰り(タフムルコはかなりの強行軍だったが)で行くことができた。

当初サンタ・マリアにもタフムルコにも、ひとりで登ってしまおうと企んでいた。しかしなかなかそれは実行できずにいた。それを躊躇させるだけの理由があった。

グアテマラでの登山は危険だった。それは登山道が険しいとか、雪山だとか、特別な装備や技術が必要だとかいった類ではなく、山賊に襲われる危険性があるからだった。登山とはまったく違う次元の危険性のために、僕は山に登れずにいた。
事実昨年のタフムルコでは登山者が襲われたらしく、それ以降はしばらくツアー会社さえタフムルコ登山のツアーを自粛していたらしい。そういう話を聞いてしまうとさすがにひとりで行くのが躊躇われた。

現在どの山もツアーに参加すれば登ることができた。しかし宿代10日分もの料金を払ってまで登りたいとは思えなかった。もしツアーでしか登ることが出来ないのなら登らなくてもいいかとさえ思っていたが、タカさんの話では、週末の登山客が多い時に複数人で登るなら問題ないだろうということだった。だから僕は一緒に登ってくれる人が現れるのを待った。それは、案外簡単に見つかった。

サンタ・マリアには3人で登った。
僕以外のふたりはどちらも女の子だった。ひとりは日本人の女の子でアヤコちゃんといった。もうひとりは金髪碧眼のロシア人で、皆からはマリアと呼ばれていた。聖マリア山にマリアと一緒に登るのだからなんとも可笑しかったが、そのマリアのおかげで僕らが無事にサンタ・マリアに登ることができたのは事実だった。

サンタ・マリアは美しい山だ。綺麗な円錐形をしていて、その優美な姿はシェラの町の至る所から臨むことが出来る。その容姿から日本の開聞岳を思い出させたが、標高はそれよりもずっと高く(3772m)、富士山と変わらなかった。それでも登山口からは4時間程度で登頂することができるのは、シェラの町自体2300mの標高にあるからだった。すでに富士五合目に居るようなものだ。

日曜の早朝、まだ他の者が起き出さぬうちに出発した。宿を出るとひんやりとした朝の空気がすがすがしかった。空に雲はなく、天候の心配はまったく必要ないのがうれしい。
しかしいきなり問題が生じてしまった。日曜の早朝は普段走っているはずのバスが走っていなかったのだ。山麓の村まで行くバスがないのでは、シェラの町から出ることさえ出来なかった。山登り以前の問題だ。

(タクシーで行くしかないのかな)

こんな早朝に流しのタクシーを捕まえることが困難であるとは分かりながらも、バスを待つ場所から山麓の村に向かってのびる道まで歩いて移動した。目の前に朝焼けに染まったサンタ・マリアが広がったが、その麓まで歩いたらたっぷり3時間はかかりそうだった。

「ヒッチハイクをしよう」

言い出したのはマリアだった。いい考えだった。バスもタクシーも駄目となれば、いよいよヒッチハイク以外有効な手段は見当たらない。山に向かって歩きながら、背後から来る車に手当たり次第手を挙げた。マリアが一台のピックアップ・トラックを捕まえるまで、それほど時間はかからなかった。

マリアと聖マリア山。

麓の村から。

麓の村に到着すると登山口はすぐに見つかった。誰が先頭というわけでもなく、3人でのんびりと登り始めた。初めはなだらかだった道も、次第にその勾配をきつくしていった。
円錐形の山は、ひたすら登る。尾根とか沢といえるものがないのだから、道は蛇行しながらも常に標高を稼ぐことを止めない。急な登りは胸を突いた。標高はほぼ富士山とかわらないのに、少し息苦しいと感じる程度で済んだのは、2300mの町に長く滞在していたためだろう。体が高所に慣れているのだ。

グアテマラでも娯楽として山に登るのは当たり前らしかった。道中何組かのグループに出会った。年齢は幅広く、若い男女も軽快な足取りで登っていた。中には毛布や鍋をぶら下げて降りてくる人もいたから、山頂あたりで一晩過ごしただろうことが分かった。

登場直下まで生い茂る松に森林限界を見ることもなく、雲の上に出るとやがて頂に行き当たった。絶頂は岩の連続するなだらかな台地で、ところどころ野営できるだけの平地を見つけられた。雲が出たため期待したほどの眺めは得られなかったが、その切れ間から見下ろす景色は素晴らしかった。
肌寒い気温だったが、照りつける太陽は強く、日差しの中にいるとぽかぽかと暖かかった。適当な場所に腰を下ろし、持ってきた弁当を広げた。おにぎりに玉子焼き、デザートにオレンジにマンゴーという内容だった。アヤコちゃんが日本から持ってきた梅干を入れたおにぎりは泣ける味だった。

地元の人もけっこういる。

見上げるサンタ・マリア。

松の巨木の中を歩く。

山頂ランチ。

1時間ほど山頂に滞在し、山を降りた。くだりはあっという間だった。ひたすら登る道だったので、登りは時間がかかったがその距離は短い。一度休憩しただけで、2時間ほどで登山口に戻ってきてしまった。

見つけたバスに行き先を聞いてまわったが、どれもシェラの町に行くものではなかった。結局帰りもヒッチハイクをしなければならなかったが、またしても簡単に捕まえることが出来た。風に吹かれるピックアップ・トラックの荷台で

「運がよかったね」

と言うと

「Good day」

マリアが言った。その一言が今日のすべてを物語っているように思えた。

Good day.

つづく。

2012年7月3日火曜日

ならぬシェラ日記 ~ムエラ編~

ある天気の良い日曜、ムエラと呼ばれる山を登りに行った。
溶岩で出来たそれは山といっても標高はそれほどなく、一応頂上を目指してはいたが、その頂が目的ではなかった。溶岩台地でおこなわれているインディヘナのミサを見ることが目的だった。そのためわざわざミサの行われている日曜を選んだのだ。

僕を含めた4人で朝の宿を出発し、バスに揺られた。登山口まではそう遠くない。のんびり出発しても十分日帰りの範囲内であった。

ムエラの山自体、たいした登りでもなかった。岩場の連続だったが危険と言うほどでもない。地元のインディヘナのおばちゃんなどは、民族衣装のウィピルにつっかけサンダルという格好でずんずん岩場を登っていた。インディヘナの人々にとっては娯楽のために登るのではなく、ミサという大切な儀式を行うために登るのだからつっかけサンダルだろうがなんだろうがお構いなしだ。何度も往復した道なのだろう。大抵のおばちゃんは水さえ持っていなかった。

岩の連続する頂上付近の少し開けた場所で、最初のミサを見かけた。老若男女が輪になり、風に吹かれながら熱心に歌を歌っていた。歌詞の中から時折ヘスス(神)の単語が聞き取れる。僕らはその脇をすり抜け、岩の突き出た見晴らしのいい場所へ向かった。近くを通るときに彼らと目が合うので、歌の最中ではあったが「ブエノス・ディアス(おはよう)」と声をかけた。その誰もが笑顔を返してくれた。ミサの様子を写真に収めたかったが、カメラを向けるのがはばかられたので、そこから見下ろす景色だけにシャッターを切った。頂上付近とあって眺めはとてもよかった。

ちょっと休憩。ムエラの山が見える、

ずんずん登るおばちゃんたち。

見晴らしの言い場所で。

見晴らしがいいだけに吹き抜ける風も強く、じっとしていると寒さを感じてしまう。僕らはインディヘナの人々にさようならを言い、その場を後にした。頂上直下をトラバースし、肝心の溶岩台地へと向かった。登山道などなく目印になるものもないので、何度もルートを確認しながら進んだ。いくつかの尾根を越えたとき、目の前に広大な溶岩台地が開けた。大小の溶岩がまるで牙のように無数に散乱し、そこを歩くのは困難に見えた。

(この中を歩いていくのか?)

このまま進んでいいものか逡巡した。しかし遠くにはタルチョのような旗が見えた。行けない事はない。台地に入ると溶岩で見え隠れする旗を目指して進んだ。

小さく人の声が聞こえるようになったのしばらく歩いてからだった。風に乗って僕らの耳に届くそれは、声というよりもうめきのようなもので、どこかおどろおどろしい雰囲気を感じた。この先でミサが行われているのだろうが、目に見えず発せられるうめき声に恐怖心が先に立ち、このままうかつに近づいたら取って食われるんじゃないかなんて冗談にも素直に笑えなかった。

遠くに見えた旗を過ぎると、溶岩の間にできた小さな隙間を利用してインディヘナの人々がミサをしていた。いくつかの組に別れ、その数はざっと数えただけで100人は居るようだった。ムエラの溶岩台地はインディヘナの人々にとって聖地とされている。そのため多くの人がこうして出向いているのだろう。

それにしても近づいて尚おどろおどろしい雰囲気は増す一方だった。天に向かい両手を広げ大声を張り上げる人。四つん這いになって苦しそうに何かを吐き出す人。泣き崩れるように一心不乱に祈りを捧げている人。完全に精神世界に浸っているようだった。取って食われる心配はなさそうだったが、その様はかなり異様な光景として目に映った。ミサという言葉からはとても想像することが出来ない光景だった。ところどころから立ち昇る煙が、のろしの様に風に吹かれていた。

溶岩台地。

歩くのは結構大変。

聖地にて。

それまでは冗談を言い合い歩いていた僕らも、めっきり口数が少なくなってしまった。今起きていることを黙って見ていることしかできなかった。どんなに言葉を尽くしたところで、目の前の現実以上のリアリティーは持たせる事が出来そうになかった。

山を降りた。麓の村に出ると、日々の生活の匂いにどこかほっとする自分がいた。振り返ればごつごつとしたムエラが目に入ったが、ここにあの異様な雰囲気はなった。山の上界と下界では世界が違っていた。ムエラがなぜ聖地とされているのか、少し理解できたような気がした。

つづく。

2012年7月2日月曜日

ならぬシェラ日記

預けていたバイクを受け取り旅を再会させた僕。メキシコを抜けるとグアテマラのシェラへ向かってバイクを走らせるのだった。


グアテマラに入国した僕は国境の町で一晩を過ごし、次の日シェラの町へと向かった。シェラは国境から1日走れば到着できる距離にある。以前にも訪れたことがあり、そのときはタカハウスという日本人宿に滞在した。そして今回も同じようにタカハウスに入り、そしてそこをねぐらに2ヶ月半もの間滞在することとなった。

所用があり、しばらくネットが使えて安く滞在できる宿を必要としていた。その点では日本人宿は都合が良かった。大抵の日本宿には長期割引があり、宿代を月で支払うと日払いするよりもずっと経済的だった。キッチンもあるので食費も抑えられる。少しでも旅費を節約したい僕としては好条件が揃っていた。そしてタカハウスはバイクを屋内に保管できるというのも良かった。

オーナーのタカさんにしばらく滞在したい旨を話すと、好きなだけ居ればいいと言ってくれた。タカさんはとても人が良く、面倒見も良い。グアテマラという魅力的な国でにありながら、シェラというあまり魅力的ではない町(僕がそう思っているだけだが)で長く宿を経営できているのも、ひとえにタカさんの人徳と言えた。タカさんがいるからと、その人柄を慕ってシェラを訪れる旅人も少なくなかった。

滞在中のある日、僕は近くの山に登りに行くことにした。僕を含め3人で行くことになったのだが、そのうちひとりの女の子はタカハウスに泊まっておらず(宿近くにホームステイをしていた)、朝5時半にタカハウス集合ということになった。そのことは一応タカさんの耳にも入れておいた。

当日、朝起きると飼い犬のボビーがぽつんと談話室に座っていた。いつもはタカさんにべったりのボビーが、こんな朝早くにぽつんと談話室に居るのはおかしいと思った。しかしボビーに問いただしたところで何の要領も得ないので、僕はコーヒーをいれ、皆が集まるのを待った。
しばらくしてホームステイ先から女の子がやってきた。それもなんとタカさんと一緒にである。
強盗や発砲事件さえその体験談を身近に聞くことの出来るグアテマラで、朝晩の暗い時間帯に女の子をひとりで歩かせることはできないと、タカさんは女の子を迎えにわざわざ朝の5時から出かけていたのである。

なかなか出来ることではない。ホームステイ先の道ばたにうずくまっていた人影が突然立ち上がり、自分の方に歩いていたときは本当に心臓が止まるかと思ったと、そのときの心境を思い出して今にも泣き出しそうな顔をする女の子には笑わせてもらったが、そんなことをさらりとやってしまうのがタカさんなのだった。

そんなタカハウスで、僕は、ひょんなことから管理人をすることとなった。まさか宿の管理人をするとは思いもよらなかったが、いろんな事情が複雑に絡み合い、いち宿泊客として滞在していたはずだった僕は、なぜかやって来る旅人を迎え入れ見送る立場になってしまった。

2ヶ月間も日本人宿で管理人なんかをしていると実にたくさんの、そして面白い旅人に出会うことができた。放任主義の僕はきっと管理人としては役立たずだったのだろうけど、そんな楽しい旅人たちと過ごす時間は快かった。今振り返ってみると、タカハウスで過ごした日々はまさに珠玉だった。

シェラの町から。

つづく。

2012年7月1日日曜日

メキシコみたび

メキシコへバイクを預け、一旦アメリカへ渡り、そしてなぜか日本へ一時帰国することにした僕。旅を再開させるために雪の日本を飛び出すと、まずは真っ青な空が広がるカリフォルニアの空の下に降り立つのだった。


成田からロサンゼルス経由でメキシコ・シティーへと飛ぶ航空券だった。というよりも、ロサンゼルス~成田間の往復航空券を買って日本に一時帰国したため、新たにロサンゼルス~メキシコ・シティーの航空券を買い足した形だ。乗り継ぎが悪く、ロサンゼルスで11時間の待ち時間があったものの、なんとか朝の5時過ぎにメキシコのベニートフアレス国際空港に降り立った。ぼんやりと明け始めた空を見上げながらメキシコ独特のすえた匂い胸いっぱいに吸い込むと、またここまで帰ってきたことを実感する。

メトロを乗り継ぎ7時半にアミーゴに到着した。もはや3度目のメキシコ・シティーでは、空港から宿までの道中に地図を出すことさえ必要としない。宿に着くとそこには知った顔が7人もいた。宿に半ば住み着いている人も居れば、旅の途中で会った知り合いにも再会した。その偶然が旅を楽しくする。

部屋に荷物を入れ、ベッドに身を投げ出す。もうこれ以上移動しなくていいという安堵感に包まれると、ほとんど眠ることが出来なかった疲れのせいか、フワフワとした感覚に陥った。10時ごろ横になったと思ったのに、気が付いたら17時近かった。すでに空は夕暮れ色で、いちにちがゆっくり終わろうとしていた。
完全に時差ボケだった。おかげで夜はまったく寝付けず、だけどアミーゴにはそんな僕を快く迎えてくれる夜更かし組みがいて、そんな彼らと結局朝方まで起きていた。

昼夜が完全に逆転した生活はしばらく続いた。さらに悪いことに麻雀に手を出してしまった。毎夜、図書室と称した麻雀部屋で繰り広げられる熱戦を横目に楽しんでいただけだったのだが、面子はひとりでも多い方が良いからと執拗な誘いに折れて参戦したのがきっかけだった。麻雀は高校生くらいのときに遊んだくらいであまり良く知らなかったのだけど、下手ながら皆で遊ぶのは楽しかった。中南北というアメリカ大陸限定の旅人ルール(中南北を刻子で揃えると役満)があることも初めて知った。毎日日付が変わる頃に卓を囲み、朝になって健康的な宿泊客が起き出す頃にベッドに入った。

そんな怠惰なる生活も長く続けることは出来なかった。メキシコには一時輸入という形でバイクを持ち込んでいるので、その期限があった。180日間という決して短くないと思っていた期限は、もう目前に迫っていた。それまでにはメキシコを出国しグアテマラに入国しなければならなかったので、僕は慣れ親しんだアミーゴを抜け出し、夜行バスで15時間揺られてサンクリストバルへと向かった。

サンクリストバルの宿に戻ると、愛車は数ヶ月前と変わらずそこにあった。埃をかぶってはいるが、それ以外は以前となんら変わるところはなかった、洗車をし埃を落とすと、押しがけ数回で奇跡的にエンジンがかかった。その瞬間これでまた旅が始まったんだと思うと単純にうれしかった。

預けていた荷物を受け取り、そのすべてをバイクに積んで、数ヶ月前に通った道をたどるように、東へ向けて走った。同時に記憶もあの頃をたどるようによみがえった。バイクを預けていた数ヶ月もの期間がまるで一瞬にして消えてしまったかのようだった。


メキシコからの出国も、グアテマラへの入国も一度通った国境だけに慣れたものだった。グアテマラに入ってすぐにあるラ・メシヤの町は、国境の町特有の猥雑な感じのする町だった。両国間を行き来する人や車で賑わい、それに群がる商人や店で唯一の目抜き通りはごたごたと入り乱れていた。

沈没ライダー復活。

国境。

いくつかの宿をまわり50ケツァールの部屋に荷物を入れた。部屋は広かったがベッドがひとつあるだけの簡素なものだった。共同のシャワーは水が出ず、汲み置きされた水を桶で頭からかぶって汗を流した。特にやることもないので屋台で食事を済ませると早々とベッドに横になった。深夜に銃声と思われる乾いた音が6発続けて聞こえた。

おわり。