2012年6月30日土曜日

メキシコふたたび

メキシコに向かうべくシェラの町を出発した僕。目的とするメキシコのサンクリストバル・デ・ラスカサスまでは、パンアメリカン・ハイウェイで西へ向かうだけだった。


とにかくパンアメリカン・ハイウェイを西へ。シェラを出た日、それだけを頭に入れてメキシコ国境を目指した。サンクリストバル・デ・ラスカサス(以下サンクリストバル)までは1日で到着できる距離ではなかったから、どこかで1泊しなければならない。途中にある国境を考えると、今日中にグアテマラ側の国境の町ラ・メシヤまで走っておきたかった。そしてやっぱり夕方から降り始めるスコールには間に合わせたかった。

シェラから幹線道路を使ってパンアメリカン・ハイウェイとの交差点クアトロカミノスまで走り、そこから左折して国境へと向かう。山間いののどかな道を走る。ウエウエテナンゴへの分岐点でガソリンを入れただけで、特にどこに寄ることもせず走り続けた。昼を過ぎたところで川沿いの空き地にバイクを停め休憩をした。川の流れを見ながらクッキーを食べて一息つく。見上げる空には急速に雲が増え始め、その体積を増やしていった。のんびりしてはいられないだろうと腰を上げるが、見るとリアタイヤがつぶれていた。パンクか。もはやつぶれたタイヤを見ても焦りはしないが、ため息は漏れる。

近くに台座になるようなものが無く、500mほど押して民家のある場所まで移動した。通りかかったトラックが、どうしたのかと声をかけてくれる。うれしい。ぽつりぽつりと民家のある場所へ到着すると、興味を持った子供たちが自転車に乗ってやってきた。僕は片言のスペイン語と身振り手振りで(そのときはまだパンクという単語を知らなかった)バイクがパンクしたことを告げる。子供たちはしきりに何かを言ってくれるが、残念ながらこちらは理解できない。

近くにホテルらしき建物があったのでこれはホテルか?と聞くが違った。建物の持ち主にこの辺にホテルはあるか?と聞くと、3km戻ったところにひとつあると教えてくれた。
3km。荷物満載のバイクでも押せない距離では無い。1時間も汗をかけば到着できる。この場で直すか、ホテルで直すか。作業しやすいのは道ばたよりも、もちろんホテルだ。雨が降ってもなんとかなるだろう。頭上の雲を見る限り、雨もそれほど長くは待ってくれなそうだ。道ばたの修理中でスコールなんていたたまれない。
しかし僕はこの場で修理することにした。やはり3kmを押すのは楽ではない。都合よく目の前にはコンクリートブロックがふたつあり、重ねれば十分台座になる。

「よしやろう。1時間でいい。雨よ待ってくれ」

そうと決まれば話は早い。子供たちが見守る中作業を始める。荷物を解き、重ねたブロックに車体を預け、タイヤを浮かす。そしてそれを外しながら、パンクはいつ振りかと考える。メキシコのラパス以来か。そうえいばしばらくパンクしていなかったもんな。などと真っ黒になった手を見ながら思う。

タイヤにはものの見事に太い針金が刺さっていた。長さは3cmもある。これじゃパンクするはずだ。きっと空き地に入ったときに拾ったのだろう。時間短縮のためにチューブは針金が刺さった場所だけをタイヤから引きずり出してパッチを当てた。本来ならチューブを全部取り出して他に穴が開いていないか調べるべきなのだが、頭上では見る見るうちに雲が広がっていく。のんびりしている余裕は無い。他に穴が開いていないことを祈り、チューブをタイヤに収めた。
度重なるパンク修理ですっかりぼろぼろになったタイヤの耳をすべてリム内に収めて携帯用の手押しポンプで空気を入れる。空気漏れは無い。無事に穴はふさがったようだ。とりあえず走れるだけの空気を入れ、バイクに取り付けて完了。すべての荷物を積みなおすまでに1時間を必要としなかった。

良かった。雨はもう少し先のようだ。僕は見守る子供たちにありがとうと言った。彼らの顔もどこか満足げだった。
作業している僕の邪魔にならないように近くにしゃがみこんで見ていた彼らだが、僕が困るとそっと手を貸してくれた。たとえばタイヤの耳をはめるとき、タイヤが動かないように皆で押さえてくれたり、タイヤをバイクに取り付けるとき、そっとそれを持ち上げてくれたりした。それは僕がお願いしたわけでもないし、誰からとも無く手を差し伸べてくれたものだった。それがうれしかったし、だから完成したときは彼らもひとごとではなかったのだろう。子供たちと握手をし、急いで3km先のホテルへ向かった。

ホテルに到着し、1時間とせずにスコールが降った。長くは続かなかったがその降り方は激しく、部屋の中から大粒の雨を眺めながらほっとした。
雨上がりに散歩に出た。小さな町だった。国道の分岐に店が出来、次第に町が出来あがった。そんな感じの町だった。夕飯用にタマーレスをふたつ買った。タマーレスはあまり好みではなかったが、小さな村ゆえそれ以外にめぼしいものを見つけられなかったのだ。ひとつ3ケツァール(約30円)なのだから味の文句は言えない。

手伝ってくれた子供たち。

ふたたびメキシコ。

翌日はグアテマラを出国してメキシコに入国した。すべての手続きは滞りなく進んだが、前回メキシコに入るときには必要なかったバイクのデポジットを支払わなければならなかった。最近になって改定したようだ。僕のバイクで200ドルのデポジットは決して安くはないが、ペルミソを返納すれば帰ってくるので問題ない。

一仕事終えたところで目の前にある屋台で食事をした。あとはこのまままっすぐ走れば言いだけなので何の苦労もない。と思いきや、国境からコミタンまでの間に3回も検問があってげんなりし、さらにコミタンを過ぎたところから雨が降り出す始末。激しい雨は道を川のようにし、寒さでひさしぶりに心が萎えてしまった。

全身びっしょりと濡らしてやっと目的地のカサカサに到着した。カサカサは以前宿泊したことのある日本人宿。受付も早々に荷物をベッドに適当にぶちまけ、すぐにシャワーを浴びる。暖かいシャワーは生命のぬくもりだ。熱いコーヒーを飲んでやっと生きた心地がした。

おわり。

***

ということで僕はこのカサカサに一旦バイクを預け、夜行バスと飛行機を乗り継いで単身アメリカへと渡り、そしてそのまま予定にはなかった日本への一時帰国をすることとなりました。もう去年の話です。

メキシコ・シティーは革命記念日に向けて盛り上がっていた。

なつかしのロサンゼルス。

その後三度メキシコへ戻り、バイクを引き取ったのが今年の2月です。なので次回のブログはそのあたりから始めたいと思います。

2012年6月29日金曜日

ミサ

世界一美しいと言われた湖を後にした僕。メキシコへ向けて着実に西進するのだった。


向かった先はケツァルテナンゴ。そこは通称シェラと呼ばれる町で、湖畔の静かな村で日々を過ごしていた僕の目にはとても都会に映るのだった。それもそのはずここはグアテマラ第二の都市。高台に登って町を見下ろすと、山に囲まれた盆地にはどこまでも民家が連なり、片道2車線の幹線道路には車やチキンバスがあふれていた。信号がせわしなく、銀行が至るところにあり、マクドナルドやWALLマートまでもあった。町を歩く若い娘たちは綺麗にめかしこんでいて、それでも多くの女性はウイピル(民族衣装)を着ていて、そのギャップがまた楽しかった。

共同の洗濯場。

道ばたで野菜を売る女性。


市場で食べた食堂のおばちゃんとその娘。

器用に頭の上にのせるものだ。

見下ろす町並み。

シェラには1週間ほど滞在した。そこには日本人宿があり多くの日本人が羽を休めていた。アティトラン湖で会った女の子とも再会した。彼女の名前はユイと言い、僕と同じ地元で、家もそう遠くはないという偶然だった。そんな彼女と一緒に出かけた山あいにある村はとても印象的で、今でもその日の出来事をよく覚えている。スニルというその村は日曜に市が立つというのでふたりで出かけた。
シェラからチキンバスで30分も揺られただろうか。到着したスニルは小さな村で、カテドラルを中心とした市もこじんまりとしていた。そこで僕らは別れた。彼女は市を目的としていたが、僕はそうではなかった。ここで行われているミサを見るのが目的だった。「サン・シモン」と呼ばれるそれは土着のキチェ族が持つ独自の宗教と、スペインが持ち込んだキリスト教がないまぜになったもので、かなり独特なものらしかった。

サン・シモンが行われているのは教会ではなく普通の民家ということだった。場所は持ち回りということで見つけにくいかと思われたのだが、数人の村人に尋ねると意外にもあっさり見つかった。
入場料として5ケツァール、カメラ使用代として10ケツァールを払い中に入る。
薄暗い部屋の中には数人がいるだけで、部屋の一番奥に人形が椅子に座らせられていた。話に聞いていた通りその人形はサングラスをかけ、帽子をかぶっていた。そんな人形が黙って椅子に座る光景はどこか滑稽だった。人形の前にはいくつものロウソクが灯されていて、それは赤、青、白、黄とさまざまだった。色により願い事の意味が違うらしかった。黒いロウソクは「呪い」のためと聞いたが、そのときは一本もなかった。

ひとりの女性が人形の前に立っていた。祈祷師らしき男性がなにかをつぶやきながら女性の周り歩き、人形がかぶっている帽子を手に取り女性にかぶせ、日本のお祓いにも似た儀式を行った。言葉は理解できず一体なにを祈っているのかは分からなかったが、これがとてもキリスト教の色が入っているとは思えないほど不思議なものだった。

さらにその家屋の屋上ではキチェ族の儀式が行われていた。それはサン・シモンよりもさらに異様なものだった。砂糖で魔方陣のような模様を書き、その上にテニスボール大の木の実(それが何であるかはよくわからなかった)を積み、色とりどりのロウソク、、葉巻、菊のような花などを積み上げ、火をつける。その炎を前にやはり何かを祈る。時折酒をかけると、炎は盛大に燃え盛る。炎の勢いが増したところで祈祷師は生きた鶏を持ち出し、その首を押さえつけ、ナイフで切り落とした。鈍い音がする。切り取った頭を火の中へ放り込み、首からしたたる血を火にくべ、さらにナイフで鶏をさばく。両足を腿からもぎ取り、腹を裂き、臓物を取り出し、それらを次々に火に放り込んていった。さまざまな物がさまざまな思いで燃えていき、煙がいっせいに立ちこめた。むせ返るような匂いに息苦しくなる。一連の作業は流れるように行われ、火が消えかけた頃、何かの種を火にくべる。辺りにはパチパチという乾いた音が響きわたった。何かを犠牲にする代わりに何かを得ようとすることは、人間の深い部分に存在する普遍的な思いなのかもしれない。

なんとも言い難い気持ちで市に戻った。市は村人の生活のためといった感で、土産物屋はほとんどなく、食料品や生活用品を売る店が主だった。その生活観溢れる猥雑な雰囲気が、ついさっきまで見ていたミサとは対照的で、いつもより太陽の明るさが目に染みた。

サン・シモン

いろんなものが燃える。

色合いがいかにもグアテマラらしい。

素晴らしい刺繍。

見つけた屋台で昼飯を食べているとどこからともなくユイちゃんが現れた。小さな市は1時間もあれば十分で、時間をもてあました彼女はしばらく本を読んでいたという。
来たときと同じ場所でバスを待った。時刻表などないので、バスがやってくるまでのんびり待つしかない。

スニルとシェラの間にはロス・バーニョスという村がある。そしてその名の通りそこには温泉がいくつかあるのだった。だから僕らは途中下車をして温泉に入ることにした。個室の風呂場を1時間かりても100円足らずで、1年ぶりに入る風呂はどんなに気持ちいいだろうかと考えながらバスを待った。

おわり。

2012年6月17日日曜日

かつて世界一美しいと謳われた湖での日々は一瞬のまばたきの中に

転倒時の怪我を養生するという名目で、なんだかんだと1ヶ月以上もアンティグアに居てしまった僕。ついにその町を離れることにした。


怪我はかなり回復していた。ひざのかさぶたはまだ完全に取れていなかったが、ゆっくりとなら屈伸もできるようになった。これならバイクにまたがっても問題はない。左手の小指も肉がえぐれただけに一番心配していたのだが、今では逆に肉が盛り返し、もう心配がいらないまで回復した。未だ曲げることは出来ないが、小指を使わなくてもクラッチは握ることが出来る。今や停滞している理由はなくなった。

宿の宿泊費は1600ケツァールを超えた。それはかなりの金額と思えたが、37泊もしたのだ。当然の結果。支払いを済ませ出発の時が近づくが、どうしてもここを出るという実感がわかない。ともすればこのままもう1泊してもいいかなとさえ思えてしまう。しかし、今や停滞している理由はなくなったのだ。ここにいてもただ時間を浪費するだけだ。そう自分自身に言い聞かせ、体に染み付いた手順に従い、余計なことは何も考えないようにして、すべての荷物をバイクに積んだ。

8時半。宿のオーナーに見送られながら宿を出た。

「また来ます」

そう言ったのは建前などではなく、本当にそうするつもりだったからだ。
途中のガソリン・スタンドで給油をし、タイヤの空気圧調整をする。チマルテナンゴの町でパンアメリカン・ハイウェイに乗ると、一路西へ向かった。

これから中米を下り南米に向かうのであれば、逆だ。西ではなく東へ進まなければならない。しかし、僕は西へ向かった。コバンを出た日、シェラに向かおうとしていたというのもある。シェラはアンティグアから西へ向かったところにある町。しかし本当の目的はメキシコだった。メキシコのサンクリストバル・デ・サスカサスを目指していた。

中米は、今や完全に雨季の只中にいた。午後にもなると決まって激しいスコールが町をおおい、道は川のようになった。これからそんな状況が10月いっぱいまで続く。だから今、中米の国々をバイクで走る気にはなれなかった。
メキシコにバイクを預け、アメリカへ行こうと思った。あと3ヶ月もすれば中米の雨季も終わる。それから走り出そう。どうせ今から急いで南米に入っても、僕のペースでは向こうの夏に間に合わない。ならば次の夏に。そう結論を出したのだ(そしてその結果僕は一旦日本に帰国することになるのだが…)。

その日、僕はアティトラン湖のほとりにあるパナハッチェルへと舵をとった。アティトラン湖は一昔前、世界一美しいと謳われた湖だ。今ではすっかりその影もないが、周辺にある村々はとても落ち着いていて、民族色が濃く、物価も安い。だからヒッピーの溜まり場になっていて、のんびりするにはうってつけという事だった。

話どおり、僕はアティトラン湖のほとりの村々で実にのんびりした時間を過ごした。湖にカヤックを浮かべたり、仲良くなった連中とバーに飲みに行ったり、バーベキューをしたり、ジャパニーズ・レストランで久しぶり日本食に舌鼓を打ったり、そこで寿司パーティーをしたり。そして宿のバルコニーから眺める朝夕の太陽と月にため息をもらした。

世界一と謳われた湖。

村から村へはボートに乗る。

村の娘っ子。

町の壁画。

グアテマラではこんなものを食べてます、その1。
 鶏肉のスープと温野菜に米、そしてもちろんトルティーヤ。

グアテマラではこんなものを食べてます、その2。
牛肉の煮込みに米、サラダ、トルティーヤ。
ジュースは米から作った甘いもの。

カフェでおいしいコーヒーも飲んだ。そこでは久しぶりに「コーヒー」と思えるものを飲んだ。グアテマラはコーヒーで有名だが、山中の民家で飲んだものも、アンティグアのスペイン語学校で飲んだのも、どれも味が薄かった。最初それを口にしたときはそれがコーヒーだとは思えなかったくらいだ。例えるならそれは「甘い麦茶」で、なぜコーヒーで有名な国の人々が「甘い麦茶」を飲んでいるのか不思議だった。皆おいしいコーヒーを飲んでいるものとばかり思っていた。その答えは「輸出」ということだった。高級な豆はすべて輸出用として他国へ運ばれ、庶民層が口に出来るのは輸出に向かない粗悪な豆だけということだった。結果人々にはそれがコーヒーの味として浸透したようだ。

そのカフェは陽気なアメリカ人夫婦が経営してた。マイクと名乗るオーナーは僕のバイクを見て驚いて、排気量を聞いてさらに驚いていた。聞くと彼も25年前、スズキの650ccで中南米を1年かけて旅したそうだ。

「南米はどうだったの?」

僕が尋ねると

「ビューティフル!」

両手をいっぱいに広げてそう言った。それは美しい、という以外にも多分に意味が込められているようだった。そしてアドベンチャーだね、そう言って笑った。


アドベンチャーだね!

アティトラン湖畔での日々はまるで凪いだ海のようで、時計の針はその動きを止められたかのようだった。そして気が付いたら半月が過ぎていた。瞬きをしている間に日々が過ぎてしまっていた。居心地のよさに後ろ髪を引かれながら、僕は皆にさよならと告げてそこを後にした。
湖を離れると道は山を駆け上がり、あっという間に湖は眼下に広がった。同時に過ごした日々は一瞬で過去のものになった。


おわり。

2012年6月14日木曜日

Panama(パナマ) ツーリング情報 2012/05現在

【入国】

・人間:無料(90日間)
・バイク:3バルボア(30日間)

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】
・保険:15バルボア(30日間)
・ガソリン:約4.5バルボア/ガロン(ハイオク)
・通貨:バルボア 1バルボア=1USドル(通貨はUSドルそのもの。名称のみバルボア)
・走行距離:1062.1km

【メモ】

コスタリカのシクサオーラからパナマのグアビートへ抜ける国境を使用。

イミグレーション、税関とも事務手続き自体はいたってスムーズ。保険以外はすべて無料だった。しかし税関からペルミソ発行場所、保険屋とコピー屋(この3つは同じ場所)が結構離れていて歩いて往復すると汗が吹き出た。バイクに乗れば問題ないのだが。

両国間には川があるため鉄橋を渡らなければならないのだが、鉄道用に作られた橋に板を敷き詰めただけなので慎重に渡らないと板と板の隙間にタイヤをとられて転倒、なんてことになるかも。また1車両分しか幅がないので、対向車が来ないことを願わなければならない。

保険は強制なので入らなければペルミソを作成してくれない。

道路状況はとても良い。

ガソリンは他の中米諸国に比べ安く感じる。

単位は距離がキロメートルでガソリンはガロン。

コスタリカの物価が高かっただけに、パナマに入って物価が下がって一安心。特にアルコールがとても安いので、酒飲みの僕には大変ありがたい。
それにしても人間は90日間のスタンプがもらえるのに、バイクのペルミソと保険の有効期限が30日とはどういうことか。バイクで走る身としては実質30日しか滞在できないということになる。

2012年6月8日金曜日

Costa Rica(コスタリカ) ツーリング情報 2012/05現在

【入国】

・人間:無料(90日間)
・バイク:無料(90日間)

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】

・保険:836500コロンもしくは17USドル(90日間)
・ガソリン:約765コロン/リットル(ハイオク)
・通貨:コロン 500.0コロン≒1USドル
・走行距離:803.6km

【メモ】

ホンジュラス~コスタリカ間はパンアメリカン・ハイゥエイの走るペニャス・ブランカス国境を使用。
イミグレーション、税関とも事務手続き自体はいたってスムーズ。保険以外はすべて無料だった。しかし税関からペルミソ発行場所、保険屋とコピー屋(この3つは同じ場所)が結構離れていて歩いて往復すると汗が吹き出た。バイクに乗れば問題ないのだが。

保険は強制なので入らなければペルミソを作成してくれない。コロンでもUSドルでも支払えるが、換金レートからすると少しだけコロンの方が得か。

道路状況はとても良い。が、運転マナーはやはりラテン気質。

ガソリンは中米で一番高い。

単位は距離がキロメートルでガソリンはリットル。

グアテマラ~ニカラグアまではどの国も物価が安く、その感覚がすっかり身についていた僕にコスタリカの物価はかなり高く感じられた。コスタリカ入国初日、スーパーマーケットへ入って目を丸くしたものだ。