2011年12月4日日曜日

一時帰国

ブログではまだベリーズあたりをのんびり旅してますが、現在一時帰国しています。


日本はもう冬に向かっていますね。寒いです。どこまでも真っ青なカリフォルニアの空がすでに懐かしいです。

さてさて。帰国の大目的は免許の更新です。本当はもう1年期限はあるのですが、いろいろ考えて一旦帰ってきました。そしてとんぼ返りってのも寂しいので、これから北の大地へと向かい、今年は日本で年越しをしようと思っています。

旅の続き
北海道のあれこれ
ぼちぼち更新していきます。

2011年11月21日月曜日

カリブ海の宝石 vol.5

国境のゲートをくぐり抜け、ついに4カ国目ベリーズに入国した僕。目指すはベリーズ・シティーだ。


いよいよベリーズだ。英連邦王国のひとつであり、ゆえにエリザベス女王が国王ということだが、それよりも僕には「カリブ海の宝石」という響きの方が心の琴線に触れる。果たして美しい海と珊瑚礁が僕を待っているのだろうか。

時折現れる標識を頼りに不案内なベリーズの道を南へ向かって走る。風景は、メキシコとは一変した。とても牧歌的だ。牛や馬がのんびりと草を食み、サトウキビ畑が広がっている。今が刈り入れ時か、サトウキビを満載にしたトラックを何台も見かけた。一面の青空とは言えないが、浮かぶ雲の白さがのどかさを助長しているかのようだ。

目的地のベリーズ・シティーまではほぼ一本道でさほど迷うこともなかった。
途中商店で缶のジュースを買っただけで、ほぼ走りっぱなしだ。国境でBZドルへの両替をしていなかったので、財布の中にあるのはバイク消毒時におつりでもらった5BZドルだけだったのだ。
商店は小さく、周りに牧場しかない場所にあるにもかかわらず、店内はこぎれいで品揃えは十分だった。一通り店内を物色してみる。まだ入国したばかりでこの国の金銭感覚をつかめていないのだが、メキシコに比べて若干物価が高いように感じた。
外のベンチに腰かけジュースを飲む。ジャケットを脱いで走っていても汗ばむ中で飲むよく冷えたジュースはとてもおいしい。僕のとなりでは店の子供らしい少年が、なんとも安らかな顔で昼寝をしていた。

ベリーズは公用語が英語なので、見かける標識も看板もすべて英語表記だ。道すがら話をしたメスティーソさえ英語で答えてくれる。メキシコでの滞在が長かっただけにそれにはちょっと違和感さえ覚えてしまう。そして噂どおり黒人の比率がかなりの割合を占めていたのだ。しかしそれよりも驚いたのは中国人だった。華僑だろうか、こんな小さな国でさえ彼らの数は相当と思われた。

牧歌的。

キビ満載トラック。

どんな夢を見ているのかな。

ベリーズ・シティーに到着した僕は郊外にあるガソリン・スタンドのATMで100BZドルを用意すると、とりあえず町の中心地に向かうことにした。安宿があるのはやはりその辺りだったからだ。少し迷ってしまいバイクで市内をうろついたのだが、ここでまたひとつの違和感を覚えた。

近年首都がベルモパンに移るまでその役割を果たしていたベリーズ・シティーであるはずなのに、大きな建物がひとつもない。しかしそんなことは問題でなかった。問題は、町並みがいたって普通だったことだ。
いったい何を以って普通と言うべきなのかはわからないが、(少なくとも)僕にはそう思えた。メキシコの蹂躙されたスペイン風のコロニアルな町並みにいささか食傷気味だった僕に、この普通な町並みは逆に新鮮に映ったのだ。それはどこかほっとする景観だった。

だからと言ってこの国が植民地でなかったわけではない。町のそこかしこにいる黒人を見るたびに、僕はメキシコでさんざん見てきた美しいカテドラルを思い出した。スペインは、かつての町並みを破壊しその上に自分たちの町を作り上げたが、奴隷政策は取らなかった。しかしイギリスは、奴隷としてアフリカから盛んに黒人を連れてきた。形は違えど、結果感じる胸の重さは同じだった。

中心地にある安宿にチェックインした。径をはさんだ向かい側に割ときれいなゲストハウスがあったのだがベッドに空きがなく、仕方なくあまりきれいとは言えない安宿の方へ入ったのだ。鍵のかかる駐車場はあったのだが、ドミトリーで水シャワーなのに20BZドルもするのだからやはりこの国の物価は高いのだろう。

しかしうれしいことがふたつあった。ひとつはシャワーの水圧が強かったことだ。水周りの弱いメキシコでは壊れたじょうろのようなシャワーである場合が多かったのだが、蛇口をひねると豊富にあふれ出す水にはちょっとした感動を覚えた。
そしてもうひとつはビールの味がしっかりしていたことだ。ずっとメキシコのライトなビールばかり飲んでいたから、味のしっかりとしたBELIKINビールがかなりうまく感じられた。もちろん値段はちょっと張り、小さな瓶で3BZドルもしたのだけど。

夕方、部屋にアメリカ人がひとり入ってきた。大きなバックパックを背負った彼はニューヨーク出身で、南から上がってきたという。お互い旅での出来事を話たあと、空がすっかり暗くなってから、一緒に出かけた。彼は欧米人らしくバーに行こうと言って僕を誘ったのだ。

夜のベリーズ・シティーはどこかうすら寂しいものがあった。道を行く人影はほとんどなく、ぽつりぽつりと灯る街灯を頼りに歩いた。それは異国という言葉がとてもしっくりくる雰囲気だった。
そしてふたりが落ち着いたのは、なぜか海の近くにある別のゲストハウスの談話室だった。なにがどうしてそうなったのか成り行きを説明することが非常に難しいのだが、とにかく気づいたら僕はバーではなくゲストハウスの談話室でビールを飲んでいた。

ベリーズ・シティーの日が暮れる。

談話室には4、5人のツーリストがいて、ビールを飲み、煙草を吸い、会話を楽しんでいた。BELIKINビールはやはりおいしかったのだけど、1時間もしないうちに僕のまぶたはすっかり重くなってしまった。きっと入国のあれこれや朝も早かったことが起因しているのだろう。そっとその場から離れ、バルコニーのハンモックで一眠りすることにした。

陽が沈みいくぶん涼しくなった気温とゆるやかに揺れるハンモックが心地よく、さらにビールの酔いも手伝ってとてもいい気分だった。長い一日だったが、今こうしてベリーズ・シティーにいて、夜風に吹かれながらハンモックに揺られているというのはどこか不思議な感覚だった。

つづく。

2011年11月13日日曜日

カリブ海の宝石 vol.4

ベリーズを目指しメキシコとの国境へやってきた僕。メキシコ側の出国手続きが終わり、いよいよベリーズの入国ゲートへと向かうのだった。


その橋は、ゆるやかな弧を描くように架かっていた。バイクのギヤを低くして、ゆっくりとそれを渡る。もしかしたらこの橋の下に流れる小さな川がふたつの国を別けているのもしれない。だとすれば、僕は今まさにひとつの国から別の国へと移動していることになる。不思議な感覚だ。

橋を渡り終えると右手に小さな箱型の建物があった。保険屋だった。ベリーズ国内に車両を持ち込む場合、必ず保険に加入しなければならない。ベリーズは3日の滞在を予定していたが、1日7USドルの保険料金は1週間で15USドルだということで、迷わず1週間分加入した。

さらに先に進むと、また小さな建物があった。そこでバイクの消毒をしてもらった。保険同様消毒も必須だ。タイヤに消毒薬をスプレーしてもらい、5ベリーズドル(以下BZドル)。USドルでは2.5(ベリーズでは2BZドル=1USドルの固定レートを採用している)。まだBZドルを持っていない僕はUSドルで支払いを済ませた。

保険、消毒と終わり、いよいよ入国ゲートが目の前だ。それはメキシコ側と比べるとかなり簡素な造りに映る。まわりには何もない。
ゲートの前に立っていた職員は僕を見つけると、バイクをゲート脇に止めてオフィスへ行ってこいと指示した。僕はそれに倣い、必要な書類が入ったバッグをもってオフィスへと向かった。

オフィスの中は外にも増して簡素だったが、合理的な造りではあった。入り口から見て一番手前にイミグレーションのカウンターがあり、その奥には税関のカウンター、そして最後に出口があった。つまりひとつずつカウンターを通過していけば事が済むようになっている。

オフィスの中には数人の職員以外誰もいなかった。大きな建物のわりにカウンターがふたつしかない為、がらんとした印象を受ける。
まずは手前にあるイミグレーションのカウンターでパスポートを提出した。聡明そうな顔立ちをした黒人のオフィサーがそれを受け取った。彼はいくつかのページをめくりながら、英語で、君の場合は審査が必要だと言った。さらに申請には100BZドル、もしくは50USドルが必要だとも付け加えた。

僕は彼の言葉を聞いてふっと心が軽くなるのを感じた。と同時に心痛していたビザの問題もなんとかなるだろうという根拠のない自身が沸いてきた。それは、彼が英語を話したからだ。しかもとてもきれいな英語だった。
ベリーズは、中米で唯一英語が共用語の国。僕は英語さえろくに話すことは出来ないけれど、それでもスペイン語に比べればましだ。メキシコ入国以来さんざんスペイン語に悩まされてきたおかげで、英語を耳にしてこれほどまでに安心する自分がいることに驚いた。

審査に必要な書類(これもすべて英語表記だった)の記入が終わり50USドルと一緒に手渡すと、オフィサーはその金をパスポートにはさみ、扉の奥へと消えた。すぐに戻ってはきたがその手にパスポートはなく、かわりに近くの椅子を指差した。そこに座ってまっていろということだ。やはり時間がかかるようだ。いったいどれくらいなのだろう。わからないが待つしかない。

ビザを取るのにこの値段は正直きびしかった。さらにベリーズの場合出国時にも40BZドルほど支払わなければならない。小さな国で、ただ通過するだけなのに、それだけで140BZドルが必要になるのだ。
安宿に泊まり、安食堂で腹を満たすような旅をしている身ながら、ただ通過するためだけに1日の生活費の何倍もの金を財布から出すことは容易ではない。

しかしメキシコのカンクンから中米を南下するためには、もしベリーズを通らなければパレンケまで一旦戻らねばならず、その工程を選ぶと4日はゆうにかかる。宿泊費、食費、ガソリン代、さらに4日分の労力を考えると、多少高くてもベリーズを抜けたほうが楽だった。

国境のゲートにはしばしばバスが到着し、そのたびカウンターには列ができた。その列は実に多様な人種の人々だった。大きなバックパックを背負ったツーリスト。英国貴族風の身なりをした家族。しかし多くは荷物を山と抱えた買出し帰りの人々だった。そして誰もがほんの十秒ほどの手続きで次々にカウンターを通過していった。きっとベリーズ国民もしくはビザの必要ない国のツーリストなのだ。僕はそれをうらやましく思いながら、ぼんやりとビザが下りるのを待った。

1時間半が過ぎた。一度通り雨が降っただけで、蒸し暑いオフィスの中は座っているだけでもじんわり汗をかく。
突然奥の扉が開き、恰幅のいい年配のオフィサーが僕のパスポートを手に現れた。僕の名前が呼ばれ、カウンターの上で重々しくパスポートに入国スタンプが押された。30日間の滞在許可がおりたのだ。

「ありがとう」

安堵の胸をなでおろし、パスポートを受け取った。これで晴れてベリーズに足を踏み入れることが出来る。しかしバイクを持ち込むには税関に申請しなければならない。まだすべて終わっていない。

スタンプの押されたパスポートを手に税関のカウンターへ進む。税関は、イミグレーションとは対照的に拍子抜けしてしまうほどあっさりしたものだった。書類にさっと目を通しただけで、何の質問もなしにいきなりスタンプを押した。

「ありがとう」

なにはともあれこれですべての作業が完了したことになる。時間はまだ13時半だ。これならベリーズ・シティーまで十分走れるだろう。目の前にある出口を抜け外へ出ると、バイクにまたがりゲート前の職員にパスポートを見せた。
職員は軽くうなずくと、無言のままゲートを開けた。

簡素な造り。

がらんとした印象。

やっと。

つづく。

2011年11月12日土曜日

カリブ海の宝石 vol.3

チェトゥマルの町でベリーズ領事館を探すも徒労に終わってしまった僕。ビザもなく、領事館の場所さえわからぬまま入国当日の朝を迎えたのだけど。


7時前に起きたのは理由がある。
それはあわよくば、という悪あがきからだった。もはやビザを持たずにベリーズの国境まで行ってしまおうかとも考えてもいたが、いわゆる最後の望みというやつだ。

昨日の夕方に訪れたイミグレーションは9時からのオープン。一番に乗り込んで話を聞いて(あわよくばビザを取って)戻ってきても、チェックアウトの時間までには十分部屋をきれいにすることができるだろう。それが現在考えうる最善の方法だった。

8時半にバイクにまたがった。イミグレーションには9時少し前に到着した。数人の待ち人と共に扉が開くのを待つ。オフィスは、9時きっかりにオープンした。

せっかく書類一式持ってやってきたと言うのに、カウンターのオフィサーはいともあっさり僕を払いのけた。今朝もまた取り付く島がない。

(おいおい。一体何をどうすればいいんだ!)

なにか情報だけでもと食い下がるが、相手が何を言っているのかさっぱり理解できない。

(なんだよ。やっぱりここじゃだめじゃないか)

そう思っても後の祭りだ。うなだれながら出入り口へ向かう。僕の後ろに並んでいた数人のメキシコ人が慰めの目で僕を見ている。外に出て大きく息を吐く。深呼吸とも、ため息ともいえない。バイクにまたがろうとするがやはり釈然とせず、近くにいた女性職員にもう一度たずねてみた。

「国境に行けばいいのよ」

さらりと答えた。

(それはメキシコ国民の話だ。日本人の僕の場合は違うんだ)

しかしそれを言葉で説明することはできない。

「ありがとう」

気持ちとは裏腹な答えに腹の中は煮え切らない。

さてどうするべきか。
いくら領事館ならすぐにビザが取れるといっても、今から領事館を探し出してと考えると、多少待たされたとしてもこのまま国境へ向かった方が賢いかもしれない。領事館探しに手間取って、まさかチェトゥマルにもう一泊なんてことはごめんだ。仮に半日待たされたとしても、入国できればこっちのもの。国境近くの町ならホテルだってあるだろう。そう考えるとこれ以上見つかる気配のない領事館を探すことがひどく面倒になってしまい、このまま国境に行ってみることにした。

ホテルに戻り、シャワーを浴びる。荷物をまとめて10時少し前にチェックアウトした。近くのガソリンスタンドでガソリンを満タンにし、残った小銭で露天のタコスを買った。これで手持ちのペソはない。もう僕はベリーズに行くしかないんだ。

チェトゥマルから国境は近い。標識どおりに進めば30分で到着だ。国境近くにはいくつかのホテルと食堂、商店があった。それは町と言うほどでもないが、暫時滞在するだけなら問題ないだろう。

コミーダ デ メヒコ。

国境に到着。

まずはメキシコの出国手続きをしなければならない。初めて訪れる国境は、何がどこにあるか分からない。一番手前にあるオフィスでメキシコのツーリストカードと入国税のレシート、パスポートを出すと、あっさりと出国スタンプを押してくれた。

残るはペルミソ(バイクの一時輸入許可証)の返納なのだが、ここで迷う。何人かの係員にペルミソを見せ、返納したいという意思を(身振り手振りで)伝えたはずなのに、なぜか並ばせられたのは入国審査のラインだった。そしてつい数分前に出国したばかりなのに、またもパスポートに入国スタンプを押されてしまった。どうにも話が伝わらない。いや、伝わらないというよりも、誰も話を最後まで聞いてくれないのだ。

「こいつは何を言っているか分からないが、きっと入国スタンプが欲しいのだろう」

などと皆勝手に解釈(早合点!)してしまうのだ。それも僕がまだ事情を説明している最中にだ。
埒が明かず、オフィスの奥にいたボスらしき人を呼んでもらった。その人はいままでの人とは違い、きちんと僕の話を聞いてくれ(しかも英語ができた)、やっと事情を説明することができた。
ボス曰く、

「ペルミソはバイクと一緒にあそこにるカスタム(税関)へ持っていくといい。今受け取ったツーリストカードはさっきの彼に返ぜば問題ない」

実に的確な説明にやっと要領を得た。

ツーリストカードを返し、税関へ行く。実に真面目そうなオフィサーが小さな窓越しに対応してくれた。彼は書類とバイクのシリアルナンバーを見比べ、間違いないことを確認すると、

「まだ有効期限が4ヶ月残っている。返納すると使えなくなるけどいいか?メキシコには戻ってこないのか?」

とたずねてくれた。僕はもう戻るつもりはないと答える。彼はうなずき、コンピューターに何かを打ち込むと、返納証明書(のようなもの)を手渡してくれた。僕はこのとき初めて税関がスペイン語で「ADUANA(アドゥアナ)」と言うのだと知った。

アドゥアナを知っていれば迷わなかったのに。

さぁ、これでメキシコは出国した。次はいよいよベリーズ入国だ。出国手続きに手間取ってしまい少し疲れてしまったが本番はこれからだ。今日中にベリーズ・シティーを目指したいが、審査次第では国境近くの町コロザルになるか。
とにかく無事に入国できればどちらでもいい。

つづく。

2011年11月6日日曜日

カリブ海の宝石 vol.2

メキシコとベリーズの国境に程近い町チェトゥマルへ到着した僕。ベリーズの入国ビザを取得するべく、この町のどこかにある領事館を探すのだけれど。


必要な書類をバッグに入れ、ホテルの部屋に鍵を下ろした。とにかく領事館を探し出さなければならない。情報は、なにひとつ持っていない。
一階に下り、まずはホテルの人に聞いてみる。片言のスペイン語でのやりとりは一苦労だが、ひとりの男性が場所を知っているらしくその道順を教えてくれた。やった。いきなり解決の糸口が見つかってしまった。しかも歩いていける距離にある。お礼を言うと、すぐにホテルを後にした。

今日中にビザが取れれば万々歳だが、今はもう夕方だ。今日が無理でも明日の朝一番でも問題はない。ビザがあればすんなり入国できるはずだ。となれば今日中に領事館の場所だけでも確認しておくべきだろう。

足早に向かった先に、領事館などなかった。教えてもらった角はきちんと曲がったはずだ。しかしそこにそれと思しき建物はなかった。付近も散策してみるが、やはりない。男性はとても親切に教えてくれた。うそをついているとは思えない。きっとうまく話が通じていなかったか、僕の聞き間違いだろう。男性をとがめる気などまったくないが、これで領事館探しはふりだしに戻ってしまった。時間だけが過ぎていく。

とにかく誰かに聞かなければならない。僕ひとりではどうすることも出来ない問題だ。大きな交差点に差し掛かると、そこには警官がふたりいた。迷わずたずねる。やはり警官は親切にもその場所を教えてくれた。少し遠いがそこへも歩いていける距離だった。
しかし、その先にも領事館はなかった。

(なぜだ。なにがいけない?せめて会話がまともに出来れば…)

そうなのだ。うまくコミュニケーションが取れていないのだ。僕は、必死に事情を伝えようとする。彼らは、懸命にそれを汲み取ろうとしてくれる。お互い歩み寄ってはいるのだが、そこにある言葉の壁はなかなか崩すことが出来なかった。
ベリーズ領事館のありかを聞く-
ただそれだけのことが果てしなく困難に感じる。

そもそも「ベリーズ」からして通じなかった。それもそのはず。「ジャパン」が「ハポン」になるように、「ベリーズ」は英語なのだから、スペイン語を話す彼らにはその単語が理解できない。「ベリーズ」がスペイン語で「ベリーセ」(ベリッセという発音に近い)ということを知るまでに、一体何度彼らに訴えかけたことだろう。万事そんな調子だった。

焦燥感が胸を突く。空は夕暮れ色をしていて夜を待ってはくれない。暗い中、見知らぬ町を歩き回って探すわけにもいかない。果たして今日中に探し出すことが出来るだろうか…。

近くにタクシーのドライバーが数人たむろしているのを見つけた。彼らもやはりその場所を親切に教えてくれた。だが今度は歩いていけそうになかった。

(本当にそこにあるのだろうか?)

もはや何を信じていいのか分からなかった。しかしそれを確かめるだけの語力を持ち合わせていない。教えてもらった場所へ行く以外、僕に出来ることはない。
急ぎ足でホテルへ戻ると、鍵とヘルメットを掴み夕暮れの町をバイクで駆け抜けた。

バイクを走らせながら考えた。他の国の領事館がどこにあるかなんて、一般的に考えれば知っているほうが珍しいのかもしれない。僕だって日本にある他の国の大使館や領事館の場所などほとんど知らない。たとえそれが自分の住んでいる町にあったとしても。
チェトゥマルまでくればなんとかなるだろう。それは、少し虫がいい考え方をしていたのかもしれない。

バイクで到着した先には、イミグレーションがあった。

(これはイミグレーション?それもメキシコの…)

やはり話が伝わっていなかったか。ため息が出そうになる。時計はすでに18時を少し過ぎていた。

「お前はいったい何の話をしているんだ?なんだかわからんが今日はもうクローズしたんだ。用事があるなら明日来い」

まるで取り付く島がなかった。
入り口の前で立ち話をしているふたりの職員に声をかけてみたのだ。その期待したものとは程遠い回答に、僕の中で何かが折れてしまった。それ以上領事館を探すことはしなかった。ささやかな挫折感を味わいながらホテルへと戻った。

ホテルの一階には食堂が併設されていた。なんだか外に食事を取りに行く気分にもなれず、バイクを停めるとヘルメットを持ったまま食堂に入っていった。気分が沈んでいても腹は減るものだ。それもそのはず今日は昼食をとっていなかった。

到着時に受付をしてくれた女性が厨房に立ち、馴染みらしい客がふたりテーブルについて食事をしていた。なにか食べたいのだけど、と女性に伝えると、彼女は手招きで僕を厨房に招いた。そして机の上にいくつか置かれた鍋のふたをひとつづつ開け、これは鶏肉、これは牛肉、これは豆を煮込んだスープといった具合に説明してくれた。言葉で説明するのが難しいと判断してのことだろう。僕はそのなかから牛のひき肉とジャガイモの炒め物を指差した。ぱっと見て、いちばん日本食に近かったからだ。

一旦二階の部屋に荷物を置きに行き、食堂に戻ってくると同時に料理が運ばれてきた。そもそもすべて調理済みなのだから時間はかからない。炒め物は塩味の実にシンプルなものだった。そのままでも十分いけるが、テーブルに置かれたチリソースをかけるとうまかった。そもそもそのために味付けが抑えられているのかもしれない。炒め物のほか、米にトルティーヤ、フリホーレスまでついてきて、すべてを食べ終えた僕はとても満腹だった。


こう見えても主食はやはりトルティーヤ。

膨らんだ腹を抱えて部屋に戻り、ベッドの上に身を横たえた。テレビもない部屋では何もすることがない。ビザについてはなんの進展もなかった。
明日できればベリーズに入国し、ベリーズ・シティまで行きたい。ベリーズは小さな国だから距離的には何の問題もない。問題は入国だ。明日の朝もう一度イミグレーションまで行ってみよう。もし要領を得なければ、もはや国境まで行ってしまおう。
満腹感が少し心配事をやわらげてくれたのか、依然ベッドの上で仰向けになりながらもきっとなんとかできるだろうという多少の自信を取り戻すことができた。

つづく。

2011年10月30日日曜日

カリブ海の宝石 vol.1

海に面したトゥルム遺跡を見学し終えた僕。長かったメキシコをいよいよ脱出すべく、ベリーズ国境に近い町へと向けて走るのだった。


トゥルム遺跡を見終わった僕は、チェトゥマルという町に向けてバイクを走らせた。そこはベリーズとの国境に近く、トゥルムからは約250kmほどの距離だった。道は307号一本。迷うこともない。

いくつか小さな町を通り抜けたものの、なんだかタイミングがあわず、昼食もとらずに走り続けた。あまりにも暑すぎた、というのもある。結局道ばたのジューススタンドで冷たいパインジュースを買って飲んだだけだった。おかげで250kmの距離を昼近くからの走り出しだったにもかかわらず、16時にはチェトゥマルに到着することができた。

まずはいつものようにホテル探しなのだが、手持ちのペソがかなり乏しかった。明日メキシコを去るということで、メキシコ通貨への両替を控えていたのだ。残りのペソを数えると約250。ガソリン代や飯代などを考えると、ホテルには出せて150といったところだろう。さすがにガソリンを入れない訳にはいかないから、それを超えると飯が食えなくなる、ということだ。

「HOTEL」と書かれた看板を頼りに何軒かのホテルをのぞいてみた。しかしどのホテルも僕の期待に応えてはくれなかった。もっとも安いホテルでも250ペソだったのだ。これまでの経験から150ペソも出せば安ホテルのシングルルームに一晩ゆっくり寝られるだろうと考えていたのだが、どうも雲行きが怪しくなってきた。こんなことになるとは露知らず、チェトゥマルの宿情報など調べてはこなかった。そもそもこの町自体がガイドブックには載っていないし、ここに来る旅人にも今まで出会ってはいなかった。両替をしようにも銀行はもはや閉まっている。ここで250ペソを払ってしまったら、飯どころかガソリンさえも買えない。

(さて、困ったぞ)

あてもなくホテルを探しに町中をさまよった。目抜き通りを走り、裏通りを抜ける。右に左に。と、海に突き当たってしまった。あまり大きな町ではないようだ。仕方なく折り返し、少しでも賑やかな方へとバイクを走らせる。なかなか見つからない。それらしきものがない。注意を払いながら緩やかな坂道をゆっくり登っていくと、道路から少し奥まったところに「HOSPEDAJE」と書かれた建物を見つけた。

(あれは…)

それは以前たまたま聞いたことがあった。HOSPEDAJEとはスペイン語で宿を意味するらしいということを。それを話してくれた人も、異国の町で同じようにホテルを探してさまよったと言っていた。そのときその話を聞いていなかったら、きっと気にもしなかっただろう。知っているということは強い。
バイクを停め、ヘルメットを脱ぎ、入り口の上に小さくHOSPEDAJEと書かれた建物に入っていった。薄暗く狭い通路を進むと、その先に小さな部屋があった。中には女性がひとりいた。

「すみません。一晩泊まりたいのですが」

目が合った女性にそうたずねた。

「何人かしら?」
「ひとりです」
「ひとりなら140ペソね」
(140!)

ポルファボール(お願いします)と言う前に、一応部屋を見せてもらうことにした。だがそもそも今の僕に選択の余地などなかった。今まで値段を聞いたどのホテルにも泊まれるだけの金など持っていなかったのだ。それは当たり前だ。140ペソで泊まれるなら、今晩まともな飯が食える。女性の後について薄暗い階段を昇りながら、どんな部屋でもいいや、そんな気持ちだった。

部屋は期待以上にきれいだった。キングサイズのベッドはスプリングがしっかりしていたし、大きな鏡の付いたドレッサーがひとつ壁際に置いてあった。窓からは陽が射し込んでいる。シャワーは水のみだったがこの気温ならむしろ気持ちいいくらいだ。
無事に部屋のカギを受け取り、部屋に荷物を入れるや否やシャワーで汗を流した。

よく冷えたパインジュースでのどを潤す。

やっと見つけたオスペダヘ。

(さて…)

いつもならのんびり散歩にでも出かけるところだが、ここチェトゥマルではやるべきことがあった。それはベリーズの入国ビザを取得することだった。

これは本当にありがたいことなのだが、日本のパスポートを持っていれば入国時にビザが必要な国はさほど多くない。ほとんどの国にビザを持たずに入ることが出来る。しかし中米のベリーズに関してはビザが必要だった。以前は国境のイミグレーションでもすぐにビザが下りたらしいのだが、審査が厳しくなった今では約2時間、悪ければ半日待たされることがあると聞いた。審査で半日も待たされたのではたまらない。だから事前にベリーズ大使館や領事館でビザを取得しておくのが懸命だった。

しかし僕はその大切な領事館の場所を知らなかった。チェトゥマルの宿情報さえ調べずに来たのだから、ベリーズの領事館がどこにあるかなんて知るわけがない。そもそもどうやって調べればいいのか、それさえも分からなかった。すべては行ってから解決しよう。
簡単に考えていた。

つづく。

2011年10月22日土曜日

最後で最初の城塞

カリブの海でジンベイ鮫と泳ぐという夢のような体験をした僕。夢から覚めたのは、宿にチェックインしてから1週間以上も経ってからだった。


暑い暑いとぼやきながら、日がないちにち本を読んだりしていた。雨季に入ったユカタン半島は午後になると決まって雨が降りだしたが、その時までは抜けるような青空が広がる。それでも宿の外に出かけることなど指折り数えるくらいだった。いつのようにリビングの所定の場所に腰を据えると、いつものように時間が過ぎていった。見渡せば、まわりには同じような旅人たちがいた。そしてその誰もが長期の旅人だった。それは1年とか2年とか、中には日本を発ってから3年が過ぎたという者もいた。

誰も急ぐことをしなかった。皆自分の中に時計を持っているようだった。宿に入るや否やガイドブックに従うように観光地を足早に巡り、わざわざそれと同じような写真を撮り、そしてすべてをチェックし終わるとさっさと次の場所へ向かう。そんなことをする者は誰ひとりとしていなかった。
この場所に「いた」という事実を、その時計が刻む時間のみが満たしてくれた。そしてある一定の時間が経ちそれが満たされたとき、ひとりまたひとりと宿を出て行った。

9時には宿を出ようと思っていたのだが、起きた時にはすでに8時半だった。その日の行動計画は一旦白紙に戻さなければならかったが、白紙のままにしておくことにした。結局リビングで連泊者とのんびり話などをしていたら、あっという間に昼近くになってしまった。

その日、カンクンに来て初めてホテルゾーンを訪れた。何度となく来るタイミングはあったのだが、最後の最後になってしまった。もっともあまり魅力を感じていなかったというのもある。訪れたところで今の僕には別世界だからだ。しかし実際来てみたらそれはラスベガス以来の衝撃だった。突如として高層のホテル群が目の前に現れたのだ。まさにカリブのリゾート。文字通りの光景だった。
ホテルゾーンを抜けると307号線に乗り、そのまま南へ向かった。

衝撃のホテルゾーン。

トゥルムの町に到着したのは16時だった。日はまだ高い位置にあり、幸いなことに雨雲はない。トゥルムと言えばマヤ文明が最後にたどり着いた地であり、スペイン人が最初に目にしたマヤの都市だ。今でもカリブ海に面してその遺跡が残っており、多くの観光客が訪れているようだった。
遺跡観光は明日にして、まずは今夜の寝床を確保しなければならない。トゥルムの町は遺跡観光の拠点になっているためだろうツーリストの姿も多く、それを狙った店も多かった。探せばわりと簡単に安宿を見つけられるはずだ。

しかし僕は町を離れ、海に向かった。遺跡から南にのびる海岸線に沿い、かなりの距離にわたってキャンプ場があるようだった。そして、遺跡に一番近いキャンプ場に入った。料金は75ペソ。広い敷地のどこにでもテントを張って良いといわれたが、ざっと見て海から少し離れた大きな屋根の下にテントを張ることにした。風が少し出ていたのだ。客は、僕のほかに誰もいないようだった。

目の前に広がる真白な砂浜と真青な海は、その正しさを僕に主張するかのようだった。テントを張り終わると我慢できずに服を脱ぎ捨て海に飛び込んだ。陽が傾き始めているというのに気温も水温もほどよく、移動中にかいた汗を気持ちよく流してくれた。風のためか、少し波が高い。離れた場所には遺跡の神殿が見える。波が無ければ泳いでいける距離だ。あそこではその昔、マヤの人々が生活を営んでいたのだろう。独自の文化を持ち、独自の言語を使って。

ひとしきり泳いだあとは浜辺を散歩した。青い海で泳ぐ者もいれば、白い浜辺に寝転ぶ者もいた。赤い夕陽が西の空に落ちる頃、テントに戻った。キャンプ場に電気は通っていないようで、ちいさな発電機が弱々しい灯りを確保していた。


テント張り放題。

昇る朝日。

翌朝は海から昇る朝日を見た。サンドイッチとコーヒーの朝食を済ませ、すべての荷物をまとめ終わっても、まだ7時半だった。キャンプ場にバイクを預け、遺跡まで歩いていった。入り口にはすでに数人の客がいて、8時にオープンすると同時に入場していく。僕もそれにならった。

 歩いてきたのでバイクはなし。

入り口は狭い。

この景色はなかなかない。

トカゲもでかい。

城壁に作られた入り口を低くかがんでくぐり抜けると、目の前に遺跡群が広がった。遺跡は三方を城壁で囲まれ、残りの一方は海に落ち込んでいた。そもそもトゥルムとはマヤ語で城塞と言う意味をもっているらしい。その規模は小さいものの、海の素晴らしさと相まってとても魅力あるものだった。密林の中の遺跡もいいが、海を背景に見る遺跡もおつなものだった。

おわり。

2011年10月16日日曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.6

カンクンの日本人宿で何をするわけでもなくまどろんだ時間の中にいた僕。事の成り行きに任せ、カリブ海にジンベイ鮫を見に行くことになったのだが。


朝焼けのウシュマル通りは交通量が少なかった。それでも通りかかった何台目かのタクシーを捕まえることができた。まずは料金交渉だ。日本とは違いタクシーの料金なんてものはドライバーの言い値で決まってしまうこの国では、降りるときになってからもめないためにも最初に目的地までの料金を決めたほうがいい。僕らはプンタ・サムの港まで50ペソで行ったもらうことにした。コレクティーボという乗り合いバスならひとり数ペソ払えば行けるのだが、乗り場も時間もよく分からなかったのだ。50ペソを4人で割ればたいした額でもない。

港までいったいどれくらいの距離があるのか、誰も知らなかった。海沿いを北に向かえばある、というなんとも頼りない情報しか持っていなかった。4人を乗せたタクシーは、早朝の海沿いを結構なスピードで結構な距離を進んだ。そう遠くないと思っていた僕は若干心配になった。と同時に、料金交渉の時にドライバーが50ペソの値段でなぜ渋い顔をしたのか、理解できた。

しばらく走り、ドライバーはどこまで行けばいいんだ?と聞いていきた。最初の説明ではうまく伝わらなかったのだろうか。しかしどこまでといわれてもプンタ・サムという港の名前と、イスラ・ムヘーレスという島へ渡るフェリー乗り場があるということ以外何も知らない。道案内など無理だ。僕ではなく、4人のうち一番スペイン語がまともな男がそれを説明する。果たしてきちんと理解できたのかどうか分からなかったが、ドライバーは北へ向けて車を走らせ続けた。

ほどなくしてタクシーは停車した。そこには確かにフェリー乗り場があり、イスラ・ムヘーレスという文字が書いてあった。到着したか。ほっとした僕らはドライバーに料金を払い降車した。
さほど大きくはないフェリー乗り場だった。あたりを歩いてみる。しかし、それらしい雰囲気ではない。フェリー乗り場の脇に小型ボートが停泊できる桟橋があると聞いていたのだが、それが見当たらないのだ。おかしい。
そして、その予感は的中してしまう。

フェリー乗り場は場所を分けてふたつ存在したのだ。まさか同じ島へ行くフェリー乗り場がふたつあるとは思いもよらなかった。そして僕らは違う方のフェリー乗り場で降りてしまったようだ。目的の場所は、さらに北へ5、6km行ったところにあった。

4人で顔を見合わせた。歩けない距離ではないが、歩いていく時間は無い。結局フェリー乗り場の前でたむろしていたタクシーのドライバーに尋ねてみるしかなかった。ひとりの恰幅のいいドライバーが僕らを推し量るような視線を向けた後、

「100ペソで行ってもいい」

と言った。

そんなはずは無い。
セントロからここまで50ペソだったのだ。それなのにたった5、6km走るだけで100ペソなはずがない。完全に足元を見られてしまったようだ。しかも彼はディスカウントにも応じず、コレクティーボの有無を聞いても首を横に振るばかりだった。

安宿にたむろしているような貧乏旅行者がそんな金を払ってタクシーに乗るはずも無い。かといって歩くわけにもいかない。もはや打つ手なしかと思ったそのとき、僕らのまさに目の前に1台の乗り合いバスが停車した。それはこれ以上ない、というタイミングだった。フロントガラスには白ペンキで「CENTRO - PUNTASUM」と大きく書かれている。僕らはすぐさまきびすを返すと、まっすぐバスに乗り込んだ。

果たして到着した港は間違いなくプンタ・サムだった。まだ人影は見当たらなかったが、フェリー乗り場の脇にはきちんと桟橋があり、ツアーの受付にでも使うのであろう小屋のようなものがあった。
まずは無事に到着できたことに安堵した。そもそも当日の飛び込みであるというハードルがあるにもかかわらず、現地にたどり着けないのであれば論外だ。

ツアーのボートが来るまで各々が好きに過ごした。僕はみつけたベンチに腰かけ、ジンベイ鮫について想像をしてみた。実物は、見たことが無い。それどころか写真でも映像でもまともにそれを見たことが無いことに気づいた。
とにかく大きいということ。体に無数の斑点を持っているということ。そしてダイバーの憧れだということ。それくらいしか僕の知識にはなかった。いったいどんな魚なのか。巨大で、未知で、憧れの魚が、もしかしたら大群で見られるかもしれない。それを考えるのは、足が地に着いていないような感覚だった。

7時半を過ぎると、にわかに人が集まり始めた。ツアー会社の送迎らしきバンが現れては、数人の欧米人を降ろして去っていく。そんなことが何度か繰り返されるうち、桟橋のたもとには30人くらいの人だかりが出来た。この小さな港から毎日これだけの人がツアーに参加しているのか。そう思うとジンベイ鮫の人気の高さが伺えた。きっと他の港からも、同様かそれ以上の人数が参加しているはずだからだ。1年のうちたった2ヶ月ほどの期間しかその姿を現さないというのも人気を高めている理由かもしれない。

続々と集まるツアー客。

そうこうしていると、いくつかのボートが現れ、桟橋に停泊した。僕らはそのうちから1艘のボートを見つけだす。それは前日ツアーに参加したダイバーから教えてもらったボートだ。彼はそのボートの船長と話をし、その内容を僕らに教えてくれていたのだ。

「俺がキャプテンだ」

そう言ってボートから降りてきたのは、日焼けした肌にサングラスが似合うひとりの男だった。僕らはさっそく交渉を始めた。ここが一番肝心だ。どこのツアー会社も通していないうえに、当日の朝いきなり4人も現れたのだ。果たしてそんな飛び込み参加ができるのだろうか。

もし駄目なら仕方ない。昨日の夕方そんな話をしていた僕らだが、やはりここまで来てしまったからには参加したい。いったいどんな答えが返ってくるのだろう。心配していた僕らとは裏腹に、彼の答えは拍子抜けするほどあっさりしたものだった。

「ひとりだろうが4人だろうがもちろんかまわない。料金はひとり78ドルだ」

その言葉の中に、喜ぶべきことがふたつあった。まず無事にツアーに参加できるということ。そしてその金額が78ドルだということ、だ。100ドルを上限として、できれば80ドルでと考えていた僕らにその金額は予想外だった。値段交渉の手間もかからず、僕らは助手らしき若い男に金を払うと、キャプテンに促されるままちいさなボートに乗り込んだ。

ボートには全部で10人乗り込んだ。このボートのキャプテンとその助手。白人カップルが2組。そして僕ら4人。ボートは一旦イスラ・ムヘーレスに立ち寄り水や氷を補給したあと、北の水平線目指して進んでいった。
島から離れたボートは、それまでの運行がうそのようにスピードを上げた。今までふたつ付いている船外機のうちひとつだけが作動していたのだが、ふたつめが作動したとたん狂ったように走り始めたのだ。エンジン音は甲高くなり、船首が空に向かって跳ね上がった。一番船首寄りに座っていた僕は、両手でしっかりとつかまっていないと海に投げ出さてしまいそうだった。実際激しく上下に揺れる度、体は宙に浮いた。

いざ。

ダイバーの彼の話では、ジンベイ鮫が群れを成すポイントは日によってさまざまらしいが、おおむねボートで1時間はかかるとのことだった。いくら体長の大きな鮫が群れを成しているからといって、そんな遠く離れた場所にいる魚をこの広大は海原からよく見つけられるものだと思ったのだが、どうやら早朝のうちにヘリコプターが沖合いを飛び、あらかじめその群れを発見しておくらしい。なるほどそうか。それならほぼ100%の確立でジンベイ鮫が見られるという話もうなずける。

高速で飛ばすボートにどれくらい乗っていたのだろう。やはりたっぷり1時間はかかったと思うのだが、遠くにちらほらと見えていた同じくジンベイ鮫を見に行くであろう他のボートが視界に集まってきた。キャプテンも無線でせわしなく会話を続けている。きっと群れが近いのだろう。ボートは少しづつスピードを落とした。

やがて前方にボートの群れが見えた。エンジンの出力を最小にした僕らのボートは、ゆっくりとその群れに近づいていく。と、誰かが何かを叫んだ。何事だ。そう思った僕がボートから海面を見下ろすと、そこには体に無数の斑点を持った巨大な魚が、実に悠然と泳いでいた。たまらず僕も何かを叫んだ。想像以上だ。それは想像以上に大きく、そのためどこか現実味に欠けていた。

ふたりひと組になり、ひと組づつ助手について海に入っていった。自分の順番がまわってくるまで僕はずっとボートから海を見下ろし、巨大な魚を見ていた。それは口を大きくあけ、海面を優雅に泳いでいた。こうやってプランクトンや小魚を捕食しているのだ。いったいどれくらいの数の群れなのだろう。キャプテンにたずねると、今日は50匹ほどだといった。

順番がまわってきた。僕は足ヒレやゴーグルを装着すると、思い切って海の中へ飛び込んだ。深い藍色をした海は、とても気持ちがよかった。ライフジャケットを着ているため、海面に浮遊する感覚もいい。ボートから少し離れ、あたりを見渡す。助手が、なにやら指差している。その方向に、目をやる。1匹のジンベイ鮫が、こちらに向かって泳いできた。僕は、またしても叫んだ。海の中で見るそれは、ボートの上から見るのとはまったく異なっていたのだ。魚と同じ海の中にるというだけで、これほどまで臨場感に違いがあるものか。欠けていた現実味は、現実以上の迫力に変わった。

その開かれた口に、このまま吸い込まれてしまうのではないかと思えた。躍動するエラやヒレは、生命力にあふれていた。胴回りは両手いっぱいに抱えてもとても足りない。そしてゆっくりだと思ったその泳ぎは、かなり速いものだと分かった。
底がまるで見えない深い海で、たぶんずっと昔から姿を変えていないだろう巨大な生物と一緒に泳ぐという体験が、これほどまでに神秘的だったなんて。

彼らは四方から現れては消えていった。人に危害を加えることは無く、進行方向に人がいると判断すると器用に身をくねらせ脇をすり抜けていく。しかしその小さな目はほとんど見えていないようだった。体長は、大きなもので8メートルほどあった。これだけ大きければ天敵などいないのだろう。おっとりした性格なのも、目が見える必要性がないのも、その結果なのかもしれない。
50匹すべてを見ることはとても出来ないが、それでも海の闇から次々と現れる巨大なジンベイ鮫の姿には、息を呑むものがあった。

ボートのすぐ近くまで来る。

悠然。

予想以上。

神秘的。

交代で何度か海に入った。参加した皆が満足したところで、ボートは帰路に着いた。途中イスラ・ムヘーレスのリーフに停泊し、シュノーケルを楽しんだ。海は本当にきれいだった。あまりに海がきれいすぎるために魚の姿を見つけられないほどだった。餌となるプランクトンがいないのだ。プランクトンがいないために透明度は驚くほど高いが、その代わりに珊瑚も魚もほとんどいない。つまりはそういうことらしかった。以前メキシコ湾で遊んだ海は、本当に珊瑚と魚の楽園だった。同じきれいな海でも場所によってその表情がまるで違う。

ため息の味。

ボートの上ではセビチェ(魚介のマリネ)が振舞われ、ビールが飲み放題だった。僕は冷えたビールをもらい、メキシコらしくライムを搾ると、一気にのどに流し込んだ。コバルトブルーの海を眺めながら飲むビールはため息をつくほどおいしかったが、そのおいしさよりもさっき見たジンベイ鮫の姿が忘れられなかった。

おわり。

2011年10月15日土曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.5

海碧の海と、石竹の湖と、紅のフラミンゴを楽しみつつエルクヨの町まで到着した僕。今日もまた湧き出した雨雲なんかには負けじとカンクンへ向かって走るのだった。


コバルトブルーの海とお別れをして一路カンクンを目指す。もっともカンクンと言えばカリブ海の一大リゾートだ。きれいな海には事欠かないのだろうけど。

誰もいない浜辺。のんびりできる。

エルクヨの町を抜けると空に真っ黒な雨雲を見る。潔いほど青空と雨雲がはっきりとわかれていて、そこを境にして雨が降っているのは一目瞭然だ。そして悪いことに僕はそこへ向かって走っている。これは間違いなく降られるな。当然。何度も雨宿りをするはめになった。それでもずっと降り続く雨ではない。時には木の下に、時には軒先を借りて、しばらく待つと決まって雨脚は弱くなる。そのすきに先に進む。そしてまた雨宿り。そんなことの繰りかえし。

雨宿り。

小さな村のスクールバス。

雨雲がはけてきた。

カンクンに近づくにつれ雨雲がはけてきた。向かう先は青空だ。気持ちを上げて一気に走る。
カンクンはカリブ海の一大リゾート。よってこんな僕でもその名前を知っているような一流ホテルがずらりと軒を連ねる。しかしこんな僕はそんなホテルなど泊まれるはずも無い。煌びやかなホテルゾーンへは目もくれず、セントロへと向かった。

そこはカンクンがリゾートとして開発される前からある市街地だ。今ではホテルゾーンで働く人々のベッドタウンになっているようで、大型スーパーからティエンダ、露店まであり、庶民的な雰囲気が漂う。

そこにロサスシエテはある。カンクンのセントロに2軒ある日本人宿のひとつだ。ふたつあるうちのどちらに泊まろうが大差はないのだろうけど、事前情報でバイクが十分停められるスペースがあることと、サンクリストバルで知り合った女の子と「お互いカンクンに行くなら、じゃぁロサスでまたゆっくり酒でも飲もうよ」なんて何気なく約束をしていたからだ。

国道180号から外れ、セントロと示された道路標識に沿って進む。が、案の定どこを走っているのかわからなくなる。そろそろ誰かに道を聞かないとまずいなと思った頃、意外と宿の近くまで来ていることが判明した。今止まっているウシュマル通りは確かに手持ちの地図にのっていて、少し戻るような形になるけれど宿までは数百メートルの場所にいるようだった。

宿に到着し鈴を押す。しばらくたって現れたのはオーナーだった。

「バイクがあるんですが」

僕の言葉に

「バイクなら中庭に入れればいい」

といって鉄の扉を開けてくれた。

バイクを中庭に入れ、受付のためにヘルメットとタンクバッグだけを持って中に入る。と、驚いたことにそこには知った顔があった。メキシコ・シティーで会った女の子がリビングにいたのだ。

「久しぶりだね。カンクンに来てたんだ」

シティーで別れた後、どこをどうたどって来たのかは分からないが、またカンクンで会うことになった。
同じ時期に旅をしている者同士、何度も再会することは珍しくない。北か南か西か東か。大体の進行方向と移動スピード(旅の期間というべきか)が同じようなものなら、それはよくある。とても自由な旅だから地球上のどこへ行こうがかまわないのだけど、結局はだいたい同じような行き先になる。そして旅を続けていく限り、こんな再会は幾度となく味わうことになるのだろう。

悪い癖がでてしまった。またしてもだ。日本人宿に入るとそれは出てしまうのだけど、ついついゆっくりしてしまうのだ。カリブ海のリゾートだというのにカンクンに到着して数日海にも行かず、行った場所と言えばスーパーと市場とコンビニと銀行くらいのものだった。一日のそのほとんどの時間を宿で過ごし、他の宿泊者と旅の話をしたり、本を読んだり、まだ明るいうちからビールを飲んだりしていた。日の高い時間に動き回るには陽射しも気温も厳しかったというのもあるが、一番の理由は純粋にゆっくりしたいという欲求からだった。
移動中の日々はその大半をバイクの上で過ごす。その日の寝床を確保するのにも骨を折る。そして耳に入るのは聞きなれないスペイン語ばかりだ。

ここにいればそんな心配事はなにひとつない。自分のベッドがあり、いつでも浴びられるシャワーがあり、冷蔵庫には冷えたビールがあり、そして会話はすべて日本語だ。
要するに楽なのだ。
僕は今回それほどストイックに旅をしようとは思っていないので、ゆっくりする時間を惜しまないようにしている。それが良いとか悪いとかいう問題は別にして、実際それが長く旅を続けるコツのように思う。

朝のドミトリー。まったり。

午後のリビング。まったり。

近くの公園でやっているサルサ教室に行ってみた。

そんな穏やかな日々が流れていたのだが、ひょんなことからジンベイ鮫を見に行くことになった。
一年のうちのこの時期、カリブ海沖にジンベイ鮫の群れが現れるという情報は知っていた。そしてなぜかそんな時期にカンクンに来てしまった僕は、その現生する中では世界最大といわれる魚を見に行くことになってしまった。

事の発端はひとりのダイバーだった。彼(もちろん日本人だ)はアメリカから夏休みを利用してカンクンにやってきた。もちろんカリブの海を潜るのが目的なのだけど、ジンベイ鮫を見ることも大目的だと言った。その彼がある日セントロにある会社を通してジンベイ鮫ツアーに申し込みをしてきたのだ。

「思ったより安くて、全部で100ドルだったよ」

僕が知っていた値段はツアーなら200ドルというのが相場だった。一泊10ドルもしない宿に泊まっている身として、200ドルというのは結構な出費だ。しかしそれはどうやら煌びやかなホテルゾーンから出るツアーの値段であるらしかった。セントロにあるツアー会社では、その料金が一気に半分になってしまう。200ドルというのは金のある観光客向けの値段だったのだ。

翌日、早朝から宿を出た彼が宿に戻ってきたのはまだ夕方前だった。そして興奮冷めやらぬといった口調でその始終を話してくれた。ボートで1時間揺られた先で見たものは、100匹を超えるジンベイ鮫の大群だったのだ。体長7、8メートルもある魚が100匹も回遊していれば、尋常じゃない。そしてその群れの中を泳ぐのだ。話を聞いただけでこちらまで興奮してしまう。

さらに彼はこう付け加えた。ツアー会社を通さずに直接港まで行って船長に交渉すれば80ドルでいけるらしい、と。安いと思った料金がさらに安くなってしまった。差額の20ドルは、思うにツアー会社のマージンなのだろう。これは確実な話ではないが、一方で決定的でもあった。僕は俄然行く気になった。こんな機会はこの先もう無いかもしれない。これを逃す手はない。にわかに心が浮き立った。

早速他の宿泊者から参加希望者を募った。参加者は僕を含めて4人集まった。夕方のリビングで作戦会議をする。まず明日直接港まで行き、船長と交渉をする。もし参加できないようなら仕方ない。物見遊山ということで帰ってくればいい。料金は100ドルをボーダーとしてできるだけ下げる。目標はひとり80ドル。朝6時半に宿を出発。港まではタクシー。そういう話で落ち着いた。

つづく。

2011年10月2日日曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.4

雨を避けるため、国道沿いにある小さな教会に逃げ込んだ僕。今まで散々いろいろなところで寝たことはあるが、教会で朝を迎えたのは実は初めてだった。


昨夜の雷雨もすっかり姿を消している朝。教会のコンクリートに守られ、何も濡らすことなく一晩を過ごせたのは幸いだ。壁にかけられた聖母マリアは今日も静かに祈りを捧げている。ありがとう。そっとつぶやいて教会を後にした。

ここからカンクンまで、今日中に走ろうと思えば行ける。しかしこのまままっすぐ180号を東に向かうのも面白くないな。そう思いつき、もう一泊どこかでキャンプでもしてからカンクンに入ることにした。地図を見て、この先のバジャボリドという町から北に進路をとる。そのまま北に100kmほど走れば海に突き当たるはずだ。せっかく余分に移動するわけだし、少し足を伸ばして海でも見に行こうと思ったのだ。

180号から295号へ左折。道はほぼまっすぐ北に向かっていて、通りかかる名も知らない町のソカロで休憩をする。どの町のソカロにもベンチがあって、木陰があって、地元民で賑わい、雰囲気がよく、休憩するにはもってこいだ。これまで田舎町のソカロで何度休憩したことだろう。今日もまた旅行者がとても訪れないような小さな町のソカロでのどかに休憩をしている。それもバイク旅のいいところだ。

見上げる空にいつの間にか雨雲らしきが発生し、風も少しでてきてしまった。午前中は快晴だったのにまた今日も雨だろうか。昨日のような雷雨は勘弁してもらいたいものだ。せめて雨が降る前にテントを。そう思い、隣においてあるヘルメットを掴むと、小さなベンチを後にした。

海に出たの夕方だった。すれ違う車のほとんどない国道はやがて小さな町に入り、さらにそのまままっすぐ町を進むと海に突き当たった。きれいな海だ。町の西側には小さな漁港がある。夕暮れの漁港には誰も居らず、静かな時間が流れていた。

静かな漁港。

このあたりにはフラミンゴが生息しているらしい。小さなツアー会社の前を通りかかった僕は執拗に勧誘を受ける。ガイドらしきおやじは客を獲得しようと必死だが、今の僕にそんな暇と金はない。ツアーといってもきっとボートでフラミンゴがいる場所まで行って帰ってくる、それだけだろう。何万羽もいるというならまだしも、フラミンゴをわざわざお金を払って見たいとは思えない。こっちはとにかく雨が降る前にテントを張りたいのだ。ノーサンキューだよ。あっさりと断ってその町を後にした。

海に突き当たってしまったのでもう北には進めない。東に向けて走る。道路一本はさんで左手には海が、右手にはピンク色の湖がある。なぜ湖がピンク色をしているのか。わからない。不思議だ。
バイクを降りて浜辺まで歩くと、雲の隙間から斜陽が射しこんで海に落ちていた。もう海まで到着したし、ここまで走れば町からだいぶ離れたはずだ。おそらく誰も来ないだろう浜辺がそこにあったが、風があったのとバイクを乗り入れることが出来なかったため、そこにテントを張るのはやめた。

不思議な色をしている。

雲の隙間から降り注ぐ。

海から少し離れた空き地にテントを張る。ポツリポツリと小雨が降り始める。テントのフライシートをつけ、荷物を入れたところで一台のパトカーが止まった。道路から完全に死角になるような場所が無く、進行方向によってはその姿が見えてしまう場所だったのだ。暗くなれば問題ないだろう。そう思ったのだが、暗くなる前にパトカーが止まってしまった。

「なにをしているんだ?」

テントを張っている者に対して何をしているかと聞かれても困る。テントを張っているんだ、そう答えればいいのだろうか。

「ここは駄目か?」

もはやテントを張ることを前提とした言葉で質問し返した。降り始めた雨の中、俺はもうここで寝るぞという意思表示だ。しかし駄目と言われれば撤収するしかない。山の中の小さな村の出来事が頭をよぎる。少し考えた警官はバケーションか?と聞き、僕がそうだと答えると、彼は笑顔で問題ないと言った。

晴れていた。夜中に降っていた雨は上がり、今朝もやはりすがすがしい青空だった。
今日はこのまま東へエルクヨという町まで海沿いを走り、そこから一旦南下して180号に戻りカンクンまで走る予定だ。
持っている地図ではエルクヨまでかろうじて道がつながっているようだが、それはかなりあやしい。海と湖(ラグーナと言った方が的確か)の間に出来た砂州のような場所を行く。それはまともな道じゃないかもしれないし、もしかしたら行き止まってしまうかもしれない。でもとりあえず行ってみようと思った。駄目なら引き返せばいい。どうしても今日中にカンクンに到着しなければ明日が無いというわけでもない。それに誰も来ないようなところを走れるのもバイク旅のいいところだ。

果たして道はまともじゃなかった。アスファルトはあっけなく途切れ、締まったダートに変わったと思ったらそれもほどなくして砂地の道に変わった。ハンドルを取られてうまく進めない。曲がることのないまっすぐに伸びた道だというのが救いだ。

左手の海は茂みに阻まれ眺めることが出来なかったが、右手の湖は楽しめた。紅色のフラミンゴが散見され、それはピンクの湖と相まって幻想的な雰囲気をしていた。さらに進むと塩田を見ることが出来た。湖は塩湖だったのだ。ミネラルが豊富でピンク色をしているのかも知れない。数人が作業する塩田で、そのピンク色ひとかけらを拾って口に入れた。それは結晶が固く、あたりまえにしょっぱかった。岩塩というものだろうか。

道はまっすぐに伸びる。

紅色フラミンゴ。

ラグーナを見ながら。

薄紅色の結晶。

神経を使うダートは進めども終わりが見えず、まさかこのまま行き止まりなのではと心配になった頃、エルクヨの町に抜けた。たどり着いた舗装路は快適そのものだ。見つけた売店で冷たいジュース買うと、日陰に座り一気に飲み干した。

どこからか笑い声が聞こえる。左を見るとそこには学校があった。東洋人が珍しいのか、塀の上から顔だけ出した女学生たちがひそひそと何かを話している。目が合うとさっと隠れる。そしてまた顔を出す。そんなことを何度か繰り返す。ためしに手を振ると、わぁっと歓声があがった。彼女たちに僕が日本人だということがわかるだろうか。きっとわからないだろうな。メキシコの、それもカリブの海に近い町では東洋とはどこかおとぎ話でも聞いているような感覚だろう。実際僕だってカリブ海なんて言われてもそれがおとぎ話のように聞こえるのだから。

やっと到着した町。

汗がひくのを待ち、今日もまたどこからともなく湧き出した雨雲に立ち向かうようカンクンに向けて走り出した。

つづく。

2011年8月21日日曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.3

古都メリダにあるホテルの一室に宿をとった僕。連日炎天下で何時間もバイクを走らせているせいか、ひさしぶりのベッドが心地よかったせいか、それとも今日の目的地まで150kmもないという余裕のせいか、ゆっくりとした朝を迎えるのだった。


「チチェンイツァ」と言えばあまりにも有名なマヤ遺跡だ。目玉のエルカスティージョは巨大なピラミッド。そして春分と秋分の年2回それは起きる。ピラミッドの頂上へと延びる階段は蛇の形をしていて、自身が作る影によってあたかも羽が生えたように見えるのだという。いつだったか世界遺産を紹介している本を読んでいて、マヤ文明が高度な天文学を持つと知り、えらく関心したのを覚えている。

明日その遺跡を見学する予定だ。だから今日はその近くまで走ればいい。7時に起きたがすぐには準備をせず、シャワーを浴びてソカロまで散歩した。朝の静かな町はまだ夜の涼しさがかすかに残っていて、気持ちよく歩くことが出来る。ソカロのベンチに腰かけ、町行く人々をぼんやり眺めるというのはささやかながらも幸せな時間だ。

ホテルを出たのは10時を過ぎてからだった。遺跡へ向かう国道までの道順は、フロントの青年に地図まで書いてもらって説明されていたたから迷うことはない。たった一晩泊まっただけで特にこれといったサービスを受けたわけではないのだが、なまり英語の青年もオーナーらしき女性も人当たりが良く、ホテルを後にするときは気分がよかった。毎回こういうホテルだったらいいのにと思う。

国道180号はメリダとカンクンの間を、少し湾曲しながらもほぼ直線的に結んでいて、その途中に遺跡がある。両都市とも緯度にそれほど差異がないので、僕はほぼ東に向かって走ることになる。メリダの郊外にはカンクンまで330kmと出ていた。それほど遠くない。

ちょっとわくわくするタクシー。

カンクンの西、メリダの東。

ピステの町には昼過ぎに到着した。遺跡にもっとも近い町だ。オクソ(コンビニ)があったので冷えたコーラを飲んだ。日本ではほとんど炭酸飲料なんて口にしなかったのに、熱帯の国を走っているせいか近頃は頻繁に飲むようになってしまった。そこからさらに進むと遺跡があった。駐車場はかなり広く、大型のバスが数台行儀よく並んでいた。それだけ訪れる人がいるということだ。見学は明日の予定なので中には入らなかったが、結構な人数が来場しているようだ。

翌日、早い時間から遺跡を訪れた。敷地が広いので歩き回るなら涼しい午前中がいい。開場して間もないゲート付近は人もまばらだ。大型バスもまだ来ていない。チケット売り場で学生証(インターナショナルではなく、メキシコ専用のものだ)を提示してみたが難色を示された。首を横に振られてしまったのだ。ここでは使えないのか。しかし料金表にはきちんと学生料金が記載されている。駄目なの?と聞くと、メキシコの(学校名?)じゃないと駄目だ、というようなことを言われた。スペイン語なのでよく分からない。提示した学生証はメキシコ専用のものだが、学校名はアメリカのものだ。メキシコにある学校じゃないから駄目ということだろうか。それでも僕は

「それはメキシコのだよ」

と言った。もちろん「メキシコの」の後には「学生証」という文字が入るべきなのだが、そんな単語は知らない。係員は、よくわからんがまぁいいだろうという雰囲気で学生料金にしてくれた。116ペソが65ペソになるのだから大きい。学生証を作るのにだってお金はかかっているのだ。

ゲートをくぐり遺跡内へ入る。真っ先に目に入ったのがエルカスティージョだった。本で知って以来この目で見てみたいと思っていた。その実物が今目の前にある。

(ふーむ。これがそうか)

それは実に淡白な感想だった。確かに真っ青な空に向かって建てられたかのようなピラミッドは巨大で圧倒的だ。しかし取り立てて興奮するほどではなかった。なぜだろう。今までもそうだったけれど、どの遺跡を見ても鳥肌が立つような感動がない。本で見て、あれほど興味を持ったというのに、不思議だ。これなら山にでも登ったほうがよっぽど感動する。町の市場でも散歩していたほうが刺激的だ。

とは言いつつも、せっかく来たのだからとくそ暑い中3時間もかけて一通り見てまわった。空には大きな塊のような雲が浮いていて、ときおり太陽がそれに隠れると暑さも和らいでくれた。そんな隙を見ながら歩き回った。やたらとのどが渇き、持ってきたお茶はあっという間に飲み干してしまった。

遺跡には白人たくさん。

これが噂の。

残念ながら現在は登ることができない。

雨神チャック。

昼に遺跡を後にした。次に向かった先はセノーテだ。セノーテはユカタン半島にのみ存在する泉、ということらしいが泉というよりも鍾乳洞というべきだろうか。石灰岩が侵食されてできたそれに地下水が溜まってできたものだ。その透明度は驚異的で、澄んだところでは200mを越えるという。
ユカタン半島には山も川も存在しないから、古代マヤ人たちの貴重な水源であった。と同時に雨神チャックに供物を捧げる場所でもあったらしい。いくつもの装飾品や人骨などが発見されている。

遺跡から東へ5kmほどいくと、イクキルというホテル内にセノーテがあった。セノーテに訪れるのはカンクンに着いてからと考えていたが、こんな暑い日ならばさぞ気持ちよく泳げるだろうと思ったのだ。入場料は結構高く70ペソだった。ホテルはいかにもリゾートっぽい造りで、設備はきちんとしていた。透き通る青い泉に飛び込んで、真夏の太陽が見上げる岩の隙間から降り注げば、気分は最高だ。雰囲気はとても神秘的で、泉にはたくさんの小さな黒いナマズが泳いでいた。

神秘的。

シャワーを浴び、しばらくゆっくりしたあとホテルを出た。ピステに戻り夕食をとってからどこかにテントでも張るつもりだったが雲行きがかなり怪しい。間違いなく雨は降るだろう。さてどうするべきかと考える。そんな時、国道沿いにぽつんとたたずむ小さな教会を見つけたのは偶然だった。そしてそこで一晩過ごすことにした。こんな場所ならきっと誰も来ないだろう。ここなら雨が降ろうが関係ない。

階段をのぼり、小さな部屋ほどの教会に入る。といっても扉などは無い。壁は三面にしかない。教会は黄色とピンクのペンキで塗られていていかにもメキシコらしい。正面の壁には聖母マリアの絵がかけられていて、その前にはいくつものロウソクが置いてあった。

雨雲が大きくなると、ついには雷が鳴り出した。20時を過ぎたあたりから雨も降り出す。雷は激しく空を切り裂き、教会の中を青白く照らした。夕食を済ませてきたのでやることが無い。ベンチに寝袋を広げ、ライトの灯りで本を読んだ。こんな夜にテントならきっと心細かっただろうが、コンクリート造りの教会なら安心だ。雨のおかげで涼しくなっていい、などとのんきに考えながら寝袋に包まった。

つづく。

2011年8月5日金曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.2

メキシコ湾沿いの道があまりにも気持ちよく、結局そのまま浜辺で一夜を過ごすことにした僕。穏やかな夜を過ごし、次なる目的地メリダに向けて走り出すのだった。


早めの6時起床。空はまだうっすらと明るい位だ。ビスケットとコーヒーの朝食。太陽が出ていないからまだ気温は高くない。汗もかかずにテントを撤収できる。それでも太陽が高くなるにつれ陽射しは容赦なく、また今日も汗と格闘するいちにちだ。メリダまでは230kmほどあったが、早めに出発したこともあり昼には残すところ70kmとなった。何度か軍の検問があってその度に止められたが、荷物をあけるほどのことはなくすんなり通過した。

メリダでは安いドミトリーにでも入ろうと思っていたが、目星をつけていたホステルは調べていた値段の倍以上に値上がりしていて、さらに駐車場も無いというので値切る気力にもなれずあっさり断念した。その後ユースホステルにも出向いてみるが、駐車場込みで125ペソといい値段だった。

事前に調べていた情報では100ペソ以下が相場であった。すっかりその気でのこのことやってきた僕なので、125ペソと聞くとどうしても高く感じてしまう。25ペソといえば日本円にして約200円。なんだそれくらい、ときっと思うだろう。だけどすっかり貧乏旅が骨の髄まで染みこんだ僕にはその25ペソが大切だった。たかが25ペソ。されど25ペソ。ここでは屋台で食事が出来てしまう金額だ。

結局ユースホステルは保留にして、ソカロ周辺をバイクで走り、目に入ったホテル一軒一軒の値段を聞いてまわった。何軒目かのホテルに入ると、フロントには僕と同い年くらいと思われる青年がいて、事務的な椅子に座り事務的な仕事をしていた。
一見白人とも思えるような顔立ちをしている彼は、かなり強いスペイン語なまりの英語を話した。ホテルはいかにも洋館と言う造りで、清潔な感じが悪くない。床一面に白と茶のタイルが交互にはめられ、まるで自分がチェスの駒にでもなったような気分になる。中庭の植木は吹き抜けいっぱいに伸びて、2階の廊下を優に越していた。ぱっと見他に宿泊者はいないようで、フロントもロビーも閑散としていた。値段はシングルで180ペソだった。

(まぁそんなもんだろうな)

素直な感想だった。これではいくら値切っても100ペソは望めないだろう。僕はありがとうと言いホテルを出ようとした。

「150でどう?」

きびすを返した僕に、フロントの青年は待ったをかけた。そこから交渉が始まった。

「もちろん駐車場もあるよ」

しかしいくら個室といえど、ユースホステルのドミトリーは125ペソだ。一晩寝るだけならシャワーとベッドさえあればいい。残念だけど、と首を振り立ち去ろうとすると、どこからか女性(きっと青年の母親だろう)がやってきて、青年となにかを話し始めた。スペイン語の会話はまったく理解できなかったけど、女性は洒落たブラウスにスカートという身なりで、どこにもラテンな雰囲気はなかった。手には大きなブレスレットがはめられている。きっとあまり血が混ざっていないのだろう。これならチェスの床の洋館というのもうなずける。そんなことをぼんやり考えていると、ふたりの間では何かが決定されたようだ。

「小さな部屋だったら100ペソでいいよ」

青年はなまり英語で言った。いきなり目標の金額を目の前に出されてしまったら、もう帰るわけにはいかない。僕は部屋を見せてくれとお願いし、青年に案内されて2階の部屋に通された。小さな部屋といっても日本人の感覚からすればどこも小さくは無い。四畳半の部屋の方がまだ小さい。ベッドがあり、ファンがあり、机があり、テレビがある。もちろんシャワーとトイレもついている。
もう個室でこの値段はなかなか見つけられないだろうと、僕は部屋を見たときに即決したのだが、そうとは知らない青年はなんとしても僕を泊まらせたいらしく、リモコンでテレビをつけ(リモコンがあるというのはかなり”売り”のようだ)、電灯をつけ、ファンを最強でまわし、ホットシャワーまで出して部屋の設備をひとつひとつ丁寧に説明してくれた。

「問題ないよ。オーケー。今日はここに泊まることにするよ」

「そうか。それなら下で受付をしよう」

清潔感のある洋館。

4日ぶりの宿はやはり快適だった。
荷物を入れたら真っ先にシャワーを浴びた。外はいつの間にかスコールだったから、テレビをつけてベッドに横たわった。見上げた天井からぶら下がるファンは身をくねらせるようにまわっていて、いつかちぎれて落ちてくるんじゃないかと心配になる。テレビでは映画の「レオン」がやっていて、スペイン語に吹き替えられて言葉はわからなかったけど、なんだかんだで最後まで見てしまって、外はいつの間にか雨があがっていたから夕暮れの散歩に出た。

やはりと言うか古都メリダにおいてもソカロ周辺はコロニアルで、カテドラルは荘厳だった。おかげで僕は胸やけ寸前という気分だった。食傷。つまりはそういうことだ。唯一救いだったのは州庁舎の壁画が素敵だったことだ。それは今まで見てきたどの壁画とも似ておらず、見応えがあってよかった。

町の彫刻は、スペイン人がインディヘナを踏みつけていた。

今まで見たことの無いタイプの壁画。

州庁舎に並ぶ壁画。
どの壁画も物語性が強かった。

メルカドをぶらつき、安食堂街でポジョアサードとトルティーヤを買い、部屋に戻って夕食にした。この炭焼きの、ちょっと焦げたチキンが実にうまい。素手で身をほぐし、ハラペーニョと一緒にトルティーヤで巻いて食べるとかなりいける。ベラクルスで初めて食べて以来、すっかりお気に入りの食事になっている。

飯を食ったら眠くなる。疲れているせいかベッドでうとうとしていると21時になっていた。あわてて部屋を出る。今日はサンタルシア公園で歌と舞踊がおこなわれている(メリダは毎日どこかでそのようなイベントがあるらしい)ので見に行こうと思っていたのだ。というのもフロントの青年がぜひ行ったほうがいいと(なまり英語で)強く勧めたからだ。

公園はすでに結構なにぎわいで、特設のステージでは3人のメキシカンがギターを抱えて陽気に歌っていた。やっと涼しくなってきた気温と陽気な歌は疲れた体に心地よく、植木のブロックに適当に腰掛けて聞いていた。

メキシコはなぜかトリオが多い(と思う)。

そんな僕の前に、ときおり土産物をたくさん抱えた少女が現れて、色とりどりの布やらネックレスやらを目の前に差し出す。そして(あなたお金あるでしょ。買ってよ)という目で僕をみつめる。僕は、ただ目を伏せて首を横にふることしか出来ない。確かに金はある。いくら貧乏旅だといっても、少女からみたらとんでもない大金をポケットに入れているのだ。少し心が痛む。少女は、そんな僕にあっさり見切りをつけ次の客を探しにいく。

ベンチに座っていた恰幅のいい白人女性ふたり組みが、少女からいくつかの品を購入していた。僕はそれを見て少しほっとする。と同時に、胸の中にもやとしたものを感じてしまう。
心を痛めながらも、自分では買わない。しかもそのくせ品が売れているところを見て、ほっとする。なんという傲慢さか。僕はどうしようもないジレンマに苛まれる。

22時過ぎにイベントは終了した。歌も踊りも楽しいものだった。ステージでは民族衣装に身を包んだ女性が美しい笑顔で終演に花を添えていた。
観衆はくもの子を散らしたように自分の帰る場所へと歩いていった。僕も、ホテルに向けて歩き出す。今日はひさしぶりのベッドだ。それにファンもある。きっと快適な睡眠となるのは間違いない。真っ暗な夜の空にライトアップされた教会は煌びやかで、僕はそれを横目に足早にホテルへと歩いた。

素敵な笑顔で花を添える。

夜の空に見上げる教会。

つづく。