2016年12月10日土曜日

ならぬキト日記 母国語編

スクレという安宿に入った初日のことだった。簡単な手続きで受付を済ませると、バイクから荷物を解き、それを部屋に入れた。3階までの2往復は、いくら荷物は極力少なくしているといえど、結構な労力だ。

あてがわれた部屋は4.5畳ほどの広さ。ベッドがひとつと、小さなテーブル、それにプラスチック製の椅子がそれぞれ置かれている。この上なく簡素。だけど十分。これ以上は望まない。テレビも、冷蔵庫もいらない。それよりも、正面の壁にある木枠の窓を開け放てば、路地を挟んだ向かいの屋根の上に、大聖堂の塔がその頭をのぞかせていた。テレビなんかより、この眺めの方が断然いい。

簡素だけどいい感じ。

テレビより。

(路地側の部屋をあてがわれたのは、ラッキーだったな)

満足した僕は、バックパックを開け、洗面用具を取り出した。

(とりあえず、汗を流すか)

階段の往復ですっかり疲れてしまったのだ。洗面用具は、カッパの次にしまってある。どの荷物がどこにあるのかは、長い旅の間に決まってくるものだ。それは必然的に自分が使いやすいようになるし、一度決まってしまえば、テントの暗闇の中でさえ、明かりをつけずに探すことができるようになる。不意の雨に対するカッパの次に、洗面用具はある。

とは思ったものの、他の客によってシャワーが使用されているのではどうしようもなかった。さらには待ち客もいるようで、すぐには浴びられそうにはなかった。共同のシャワーなのだから仕方ない。それが嫌なら、部屋にシャワーが備え付けの宿に泊まるしかない。

(まぁのんびり待つとするか)

不意に日本語で話しかけられたのは、その時だった。
海外を旅していて、日本人に会うとほっとすることがある。それは、同郷の人間だから。そんな当たり前の考えで納得していた。スクレという安宿に入るまでは。


僕の前にシャワー待ちをしていた女性は、韓国人であった。僕が一目で彼女を韓国人だと思ったのと同様に、彼女の方も僕を一目で日本人とだ思ったはずだ。でなければ、僕に日本語で声をかけてきたりはしなかっただろう。

シャワーを待つあいだの会話を、日本語でした。普段、日本語が話せる外国人と会話をするときは、難しい単語、言い回しなどを避けるようにしている。ゆっくり話をしたりもする。しかし、彼女にはそのどれもが必要なかった。なんの気を使うことなく、いつも通りの(日本人同士がするような)会話を楽しむことができた。よくまぁこれだけ他国の言葉を操れるものだと感心をするのと同時に、僕は、日本語に飢えていたのだ、と、実感した。


陸路で、いちにち200㎞ほどの移動を繰り返していると、日本人どころかバックっパッカーにさえ出会わないなんてことは、ざらだ。ブログで書いていない大部分は、単調な移動の日々である。朝起きて、日中移動して、夜眠る。そんな日々の繰り返し。そんな日々を1ヶ月も続けるときがある。来る日も来る日も、スペイン語。異国を旅しているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、言葉の壁は、常にある。以前よりもスペイン語に慣れたといっても、所詮は片言レベル。会話をするときは、まず自分の思考を変換してから口に出し、次に耳に入ってくる言葉を変換してから、理解する。頭を使う。使うから、疲れる。

(あぁ、母国語は、これほどまでに楽なのだ)

言いたいことが、そのまま口から出てくる。耳に届いた言葉は、そのまま理解できる。まったく頭を使わない。どうやらその差は思った以上に大きいようであった。

彼女と話をすることで、日々のスペイン語の呪縛から解き放たれた。僕は、日本人に会いたいのではなく、日本語で会話がしたかったのだ。相手が日本人かどうかは問題ではない。それに気づいてしまった。それは、スクレという安宿に入った初日のことだった。

つづく。

2016年12月6日火曜日

ならぬキト日記 登城編

道は、いつの間にか首都に入ろうとしていたのだけど、僕はそのことに気付かずにいた。
赤道を越えた途端、なぜか死んでしまったメーターのおかげで、自分がどれだけの距離を進んだのかわからなかったのだ。あたりを見回しても、未だアンデスの山道を走っている。

(地図上ではそろそろのはずだけど)

そんなことを考えながら走っていると、途端、煉瓦造りの民家や商店が雑多になり、いっきに町中に入っていった。

キトは、エクアドルの首都だ。アンデスの山々に囲まれた標高2850mの盆地にある。町の中心は、旧市街と新市街に分かれていて、どちらもその名の通りの雰囲気を保っている。僕は、旧市街にハンドルを向けた。そこは細い石畳の路地が迷路のようで、新市街の陽光溢れる目抜き通りとは対照的だったが、陰鬱と重厚な歴史を感じさせてくれる雰囲気は、この上なく素敵だ。小回りの利く小さなバイクはこういう路地には好都合とはいえ、坂道と一方通行の多さには、さすがにうんざりさせられる。

修道院前の広場に出たのは、旧市街に迷い込んで1時間も経ってからだった。ふたつの塔が天にそびえる修道院の前に、サッカー場ほどの広場があった。やわらかな陽があふれ、ハトが群れを成していた。ぎちぎちとした街並みに突如現れる空間の広がりに驚かされると同時に、いかにこの修道院が歴史あるものかがわかる。見上げる空は、青かった。

(いいところだな)

スクレは、その広場のすぐ脇に門を構えていた。安宿にしては、大きな扉が不釣り合いに感じられる。扉を開けると、目の前に階段があった。

長期旅行者の中で、有名な宿だった。シングルで4.5ドルという安さはもちろんある。しかし、盗難が後を絶たない、という噂で有名であった。シングルルームなのだが、宿の従業員は合鍵でいつでも部屋に入られるわけで、そんな中で盗難があっても、宿側がなにも知らないと言えば、宿泊者は泣き寝入りするしかない。宿泊者が取れる対策と言えば、自分が持っている南京錠をドアの施錠に使うか、貴重品を部屋に置いておかないということくらいだ。もっとも、盗難はどの国のどの宿に泊まっても100%安全とは言えない。結局は自己責任という言葉で、旅を続けるしかない。

もちろん僕はスクレを選んだ。盗難よりも、4.5ドルという安さを選んだのだ。建物の2階から4階がホテルと聞いていたので駐車場を心配していたが、1階入り口の階段脇のスペースにバイクを停めていいということだった。ありがたい。
新市街に行けば、ここよりもきれいな宿に泊まれるのだろうが、倍の金額を出しても足りないだろう。すこしキトでゆっくりするつもりだったから、滞在費は安いに越したことない。それに、今までの経験上、新市街よりも旧市街の方が、好きだった。単純に、面白いという表現もできる。
治安という点からいえば、もちろん旧市街を避けた方が賢明なのだろうが、それ以上に心くすぐるものが、そこにはある。その国の、その土地の、そこに暮らす人々の、隠すことのできない息づかいを感じられる。上っ面じゃない、本当の部分。そういう部分に、新市街よりも旧市街の方が、圧倒的に近い。

 サンフランシスコ大聖堂。
キトっ子の憩いの場。

 こちらは独立記念広場。
修道院からもほど近い。

結局スクレには2週間ほど滞在した。エクアドルは物価も安く、長期滞在に適していた。それに、キトはそれなりに見るところもあった。宿には世界中から様々な旅行者がやって来たし、足しげく通った食堂のおばちゃんとも仲良くなった。なにより、目の前が南米最古と言われる修道院という、大変恵まれた環境が素敵だった。

つづく。

2016年11月7日月曜日

ベロシメトロは赤道を越えて vol.2

オタバロは、民族色の強い村だった。三方を山に囲まれている。ILMAN、FUYAFUYA、CUICOCHA。それらの雄大な山は、村のどこからでも眺めることが出来た。中心地にあるマーケットでは、民族衣装を身にまとったオタバロ族が、所狭しと店を広げていた。どうやらこの村は、ツーリスト向けの、そういった土産物屋が多いようだ。店の間にできた迷路のような通路を、あてもなく歩く。土産物はカラフルな色使いがアンデスらしく、ひと際目をひく。アルパカの毛で編まれたセーターなどはとても暖かそうで、肌寒い高地にいる身としては、ひとつほしくなってしまう。

 オタバロ族の民族衣装。どこか懐かしい。

村のマーケット。果物は豊富だ。

 色鮮やかな土産物がたくさんだ。

アンデスらしい色彩。

ホテルは3件目で落ち着いた。たったの5ドルだ。コロンビアより、格段に物価は下がっている。この値段でありながら、ガスのホットシャワーとは幸せすぎる。途切れることのない暖かい湯に、身も心も癒される。もっとも、そんな物価の安いエクアドルの安宿でさえ、夕食には部屋でインスタントラーメンをすするという節約ぶりは健在だ。

道中、イバラの町の屋台で昼食。
コーヒーをごちそうになった。

小さな村でも、夕暮れのカテドラルは美しい。

翌朝オタバロを出発した僕は、キトを目指した。距離にして約80㎞。エクアドルの首都である。小さな村を出ると、それまでと同じようにアンデスの山々が広がったが、目指す赤道は、もう目の前である。

いったいそれがどういうものかは分からないが、走っていてれば、それと気付くものがあるだろう。そんな気持ちだった。なにせ赤道。軽い気持ちにだってなる。往来の少ない国道だとしても、それなりの目印くらいは出ているはずだ。少し開けた場所で休憩を取り、南へと走り続けた。まさか、その場所が赤道だったとは思いもせず。


結局、ペアへでその言葉を聞くまで、まったく気付きもしなかった。3㎞戻った先が、つい10分前に休憩した場所だと知った時は、驚きだった。

休んだベンチからそれほど離れていない所に、小さな地球を模したモニュメントがあった。そこから、赤いラインがまっすぐに延びている。

これか。

小さな広場に、あまりにも簡単に置かれているので、言われなければわからない。

なんて飾り気のない国なんだ。
赤道をこえるんだ。そう興奮していた僕とは対照的だ。

なんだか拍子抜けしてしまい、ベンチに腰を下ろした。あたりはつい先ほどと変わることなく、実に穏やかな雰囲気につつまれていた。ここが赤道だからといって、観光客が来るわけでもなかった。地元の人々が、いつもと変わらぬ時間を、いつもと変わらぬように過ごしているだけだ。

可笑しかったのは、赤道の真上がバス停になっていたことだ。
バス停と言っても、小さな村に、きちんとしたバス停があるわけではない。道がまっすぐで、見晴らしがよく、路肩が十分ある。それだけの理由なのだろう。人々が集まったと思ったら、北半球からやってきたバスに手を挙げ、赤道上で乗り込み、南半球へと去っていく。逆も、またしかり。
 
 これか。飾り気なし。

まさか赤道上がバス停だったとは!

赤道をまたいで、当たり前に行われるその光景には、まっさらな生活観があった。
赤道だろうがなんだろうが、ここに住む人々には、それが常に日々の生活にあるのだ。
いつもと変わらぬ人々の営み。それを目の当たりにし、旅をする意味というものが、なんだかそこに見え隠れしているような気がした。

おわり。

ベロシメトロは赤道を越えて vol.1

「あぁ。それなら、北に少し行ったところだ」

窓口に立つ男は、そう言った。
中南米のいくつかの国では、一般道にもかかわらず、ところどころでPeaje(ペアヘ)という料金所がある。料金所なので、そこを通行する車両はみな一様に課金される。たとえそれが小さなバイクとあっても、例外ではない。旅行者にはあまりうれしくない存在だ。そこの窓口の男は、確かにそう言った。

北?
その言葉に耳を疑った。
北からやって来たのだ。
見逃した、ということか。
見逃したというよりも、この場合、通り過ぎたという方が正しい。

「Linea del Ecuador(リネア・デル・エクアドル)」は、スペイン語で赤道を意味する。地球を二分するそのラインを、まさか、気づかずに通り過ぎるなんてことがあるのだろうか?
仕方なく、料金所のゲートを抜けてUターンをする。窓口にいる男は、顔色も変えず、再度通行料を請求してきた。まじかよ。今さっき20セントを支払ったばかりだというのに…。


エクアドルへの入国は、すべてが滞りなかった。これまでの国境越えで、一番スムーズだったかもしれない。なんのストレスも感じることはなかった。入国カードの記入さえ問われなっかのは、エクアドルが初めてではないか。パスポートを手渡しただけで、バンッと大きな音を立て、査証のページに入国のスタンプを押されてしまった。その小気味良い響きに、体の力が抜けていくほどだった。

エクアドル。
南米第二の国である。その名の通り、この国には赤道が走っている。南米ではエクアドルのほか、コロンビア、ブラジルにもそれが通っている。
カナダから始まった旅だ。南下するにあたり、赤道を、南米の、どこかで。
頭の片隅で考えていた思いは、実はもう目の前で、それがエクアドルということはほぼ疑う余地はなかった。
 
エクアドルの子気味良いイミグレーション。
ちょっとかわいい。

 簡素な標識。僕は、左へ。
Quito(キト)はエクアドルの首都だ。

発給油 de エクアドル。
産油国だけあって、ガソリンはとても安い。

入国初日、オタバロという村に宿を取った。国境から150㎞ある。入国で時間がかかれば、もしかしたらたどり着けないだろう。そんな杞憂もあった。しかし、実に物わかりのある入国審査官のおかげで、たっぷりと余裕をもって到着することができた。ありがたいことだ。

もっとも、余裕というのは時間的にであって、道のりとしては、やはりというか、それは大変なものだった。コロンビアからエクアドル。国を変えても、無辺と思えるアンデスの山々にとってはその関係など微塵もなく、人為的に引かれたラインほど無意に感じるものはない。今日も今日とて登りと下り。延々とそれ繰り返す道が続いていた。


かの有名なロッキー山脈。それを初めて目の当たりにしたのは、カナダであった。素晴らしかった。大陸の迫力に圧倒された。しかし、ここ南米アンデスも等しく素晴らしい。世界は広い。


そんな山道を、重い足取りで、必死にペダルを漕ぐ自転車乗りを見た。延々続くかのように思われる山道を、うつむきながらも、前へ、前へとペダルを回している。ひとつひとつ丁寧に、自らに課せられた仕事を全うするかのように。
広大なアンデスをゆっくりと進むちっぽけな自転車は、現実性というものを伴っていなかった。その光景が、あふれるでかさと不釣り合いで、あまりにも非現実的だったのだ。

だが。

その自転車乗りにとってこれはまぎれもない現実で、戻ることなど許されず、だけどそれを成し遂げることによって得られるものは、この瞳に映るアンデスの山々の様に、計り知れない。

大変そうだ。もちろん大変だろう。荷物は満載。エンジンもない。あるのは自らの動力のみ。ガソリンの代わりに、己の身体を燃やす。
なぜそこまで?
身を削ってまでも旅をすることは、生きることそのものの様にも感じられる。圧倒的な自然を目の前にして、日常では感じることのできない感覚に陥る。その領域に、彼はある。

彼も、きっとエクアドルで赤道を越えるだろう。それは、陸続きで旅をする者にとって、ひととき心躍る出来事なはずである。

つづく。

2016年9月21日水曜日

国境の町、深い谷、麗しき協会 vol.4

今日はコロンビアで過ごす最後の夜。明日には長かったコロンビアにも終わりを告げ、エクアドルへの扉を開いているはずだ。そう思うと自然と朝も早い。しかしながら、寝ぼけまなこでバイクを取りに行くために、ホテルから駐車場まで歩かなければならないというのは、やはり面倒なことではある。

工程をいちにち多く刻んだ(というか、アンデスの山が手強すぎて刻まざるを得なかった)おかげで、今日の走行距離は100kmもない。いつもの半分以下。走行中、休憩をたっぷり取ったにもかかわらず、13時過ぎに国境の町イピアレスに到着することができた。

早い時間に到着したのには、ひとつ理由があった。この町の近くに、世界一美しいと言われる教会があるという。果たして世界一かどうかは定かではないが、それはぜひ見てみたいと思った。コロンビアの南端、小さな山中の町に立ち寄る理由として、これ以上が必要であろうか。

「サントゥアリオ・デ・ラス・ラハス」

それがその教会に与えられた正式な名前だった。しかし、旅人からは単に「ラス・ラハス」と呼ばれていた。僕は(もちろん)コロンビアに入ってからその存在を知ったのだけれど、北部から南部へ歩むにつれ、その噂話を聞く機会は明らかに増えていった。そして誰もが押し並べて良かったと口にした。そんな教会を素通りするなんて忍びない。

いざ。町から8㎞ほど走ると、眼下に突然それが現れた。道端の展望台からは、小さく見下ろすかたちで眺められる。

(おぉ。これは意外にいいじゃない)

正直さほど期待していなかった。期待していなかっただけに、これは素直うれしい。坂道を駆け下る。近づくにつれ、徐々に迫力を増していく。深い谷に佇む、麗しき教会。これまで多くの教会を見てきたが、造形美、ロケーション、それにまつわるストーリーを含め、かなり良かった。眺めていると、時がたつのも忘れてしまいそうだった。

緑の谷の教会。

 教会内部も良かった。

サントゥアリオ・デ・ラス・ラハス。

だけれども、僕にはメキシコのグアダラハラの教会を抜くほどではない、というのが正直な感想だ。グアダラハラで、生まれて初めて目の当たりにしたカテドラル。夕照の中、美しくもはかなく佇んでいて、旅の序盤、ラテンの世界にまだなじんでいなかった僕に、否応なく強烈な印象を残した。今でもその姿をまぶたの裏に思い出すことができる。

「旅をしていて、どこが一番良かったですか?」

1度や2度ならず、旅人ならきっとうんざりするほど答えてきた質問だと思う。同じような旅をして、同じ場所、同じ物を見てきたにもかかわらず、答えは千差万別だ。それが、旅をする理由であり、面白さなのかもしれない。
教会を後にし、来た坂道を駆け上がりながら、ふとそんなことを考えた。


おわり。

2016年9月12日月曜日

国境の町、深い谷、麗しき協会 vol.3

朝、ベッドから抜け出したら、バイクを取りに駐車場に向かった。外に出ると、とても良い天気だった。雨の心配はない。これなら国境の町まで、問題なく走れそうだ。
荷物をまとめ、チェックアウトをする。いざ宿代を払おうとしたら、なんと代金はUSドルでもいいよ、と言ってくれた。

(あれ?昨日聞いた時、ドルはだめで、コロンビア・ペソだけと言われたのだけど)

なにはともあれラッキーなことだ。レートは1USドルが1700コロンビア・ペソ。悪くない。20ドル紙幣を払うと、宿代を差し引いて22000ペソがおつりとなった。これで少し懐が潤った。

ポパヤンからは、コロンビア初のパン・アメリカン・ハイウェイ(パンナム)に乗った。広大な南北アメリカ大陸を、国境を越えて縦に貫くそれなら、さすがに昨日のようなダートはないだろう。
よし、国境まで一気に走るぞ!と意気込んでみたものの、それが折れるまで、さほど時間を必要とはしなかった。道路標識にはパストまで250km、さらに国境のイピアレスまで90kmとあり、出鼻をくじかれた。さらに、道はいよいよアンデス山脈の懐に飛び込んでいく。景色は一変した。

(よくぞまぁこんなところに道を通したものだ)

感心してしまうほど大変な峠道である。登っては下り、また登っては、また下る。川や大きな沢がある度に、その下部までひたすら山肌を降りていき、そしてそれをまたぐと、今度は目の前に立ちはだかる尾根を越えるため、ただひたすら登る、それの繰り返し。日本ならそこに大掛かりな橋をかけそうなものだが、ここでは自然の地形そのままに道を通しているので、九十九折りの道がどこまでも続いた。こんなんじゃとてもスピードが出せない。非力な僕のバイクでは、登りとなれば時速30㎞が関の山。

(こりゃ今日中にイピアレスなんて、とても無理。ごめんなさい。アンデス。甘く見てました)

堂々たる山並みに、自身のちっぽけさを感じた僕は、素直に現実を受け入れることにした。それどころか、どこまでも連なる山々の壮大な景色に、朝の予定などどこかへ吹き飛んでしまって、清々しささえ覚えた。

すごい。言葉が出ない。

 沢があるたび、下っては登る。

そんな峠道が、気が付いたら終わっていた。

(おかしいな。まだひとつも山を下りていないのに?)

山の上の台地に出たのだった。標高は、そうとう高いはずだ。こんな広大な台地が山の上にあるとは。ところどころ町まで散見された。一旦道が下り始めると、ひらけた視界の先に、大きな町が見えた。パストだった。

町はとんでもないお祭り騒ぎで、僕を迎えてくれた。
至るところに赤いTシャツを着た人がいて(というか車道にまで溢れていて)、赤い旗を持ち、赤いラッパを狂ったように吹き鳴らしていた。往来の車もをそれに応えるかの如く、クラクションを鳴らしまくる。うるさいったらありゃしない。いったい何なんだ?

あまりに異常な光景だったので、僕は道すがらのおやじに尋ねてみた。この騒ぎはいったい何なの?すると、今日、まさにこれからコロンビア・プロサッカーリーグの決勝が行われ、この町のチームであるデポルティーボ・パストが優勝を賭けて戦うのだ、というようなことを鼻息荒く説明してくれた。なるほどそうか。

しかしさすがはラテンの人々である。もう町全体がお祭り騒ぎ。セントロ(町の中心地)に出向くと、町中の人が集まったんじゃないかと思えるほど混雑している。若者たちは意味もなく走り回り、道はまったくの渋滞。おかげで、お目当てのホテルにたどり着くのに大変難儀した。

パストの町。ここが山の上とは思えない。

道すがらグッズを売る人がたくさん。

町の中心は大変なことに。
 
その日取ったホテルはとてもレトロな作りで、名前もマンハッタンといかしていた。建物は古く、駐車場がまたしてもなかったが、シングルで12000コロンビア・ペソはありがたい。20畳ほどの部屋にベッドがみっつもあり、テレビまであった。表通りに面した大きな窓を開け放つと、町を行く(お祭り騒ぎの)人々を眺められたし、床がなんと板張りだった。大抵のホテルはコンクリートで固められた箱のような造りの部屋なので、床が板張りというのはめずらしい。宿の中央はロビーになっていて、レストランがあり、おおきく抜かれた天井からは太陽のあかりが柔らかかった。

レストランが併設されていたので、夜は久しぶりにまともな食事にありつけた。テレビではちょうどサッカーの試合が放映されていて、ビールを片手に、他の宿泊者のコロンビア人たちと一緒に盛り上がった。残念ながらパストは惜敗に終わってしまったけれど(もし優勝しようものなら、その夜はとんでもない騒ぎになっていたかもしれない)、たまたま通りかかったアンデス山中の町での一晩としては、大変印象に残る出来事だった。

落ち着いた部屋だったマンハッタン。

こんなごはん食べてます。
それにしてもサッカー盛り上がったなぁ。

つづく。

2016年9月8日木曜日

国境の町、深い谷、麗しき協会 vol.2

財布のコロンビア・ペソが、もう底をつきかけていた。実は、サン・アグスティンに居る時点で、すでに赤信号は灯っていた。だけど、山奥の小さな町では両替レートがすこぶる悪く、手持ちのUSドルを両替をしようとはとても思えなかった。日増し薄くなる財布に不安は感じたが、僕は見ないふりをした。あとちょっと。国境は近い。コロンビアを抜ければ、そこはエクアドル。通貨はUSドルだ。

風の吹くまま気の向くまま。バイクにまたがり、行きたいところに行き、居たいところに居たいだけいる。何のストレスもなく、自由な旅を続けている僕ではあるが、国と国をまたぐときには、それなりに色々なことに気を付けている。
国境を抜けるには、何が待ち構えているか予想もつかない。大抵はスムーズに事は運ぶのだが、とにかく時間がかかることもある。持ち物検査?システムトラブル?もしかして賄賂を請求されるかも?そうなったら持久戦。何があってもいいように、なるべく午前中には国境に付くようにしているし、評判の悪い国境は避けて通る。要らぬ難癖をつけられぬよう、身の回りを清めてから臨む。

残りの持ち金もそのひとつ。使いきれなかった他国の紙幣など、国境を越えればただの紙切れだ。国境を越えて両替しようものなら、いいように買い叩かれて、両替屋のおやじの懐を潤すだけだ。と、いうほど深刻には考えていないものの、貧乏旅行で札束を余らせるのも忍びない。なるべくなら使い切ってからの出国が望ましい。
そんなわけで、財布に赤信号が点灯していることに気付きながらも、僕は国境へ向けて走り続けていた。

国境の町は、どうにかなることが多い。それは僕が旅をして得た経験でもある。国境の町は、いろいろなことが流動的だ。後から思い起こすと不思議なんだけど、なんだかんだごまかしが効くのは確かだ。だから国境の町まで行けばなんとかなる。そんな期待を持っていた。


それにしてもポパヤンに到着した時点で、手持ちが21000ペソ(約12USドル)とういことはいかがなものか。ポパヤンは国境の町ではない。国境の町イピアレスまでは、さらに350㎞ある。どんなに安く見積もっても、ガソリン代と今日の宿代を考えたら、もう飯さえ食えない。


ポパヤンでは、ロンリー・プラネットに載っていた安宿に泊まった。ドミトリーで1泊12000ペソ。駐車場はなかったが、近くの駐車場を尋ねると、夜だけなら2000ペソでいいと言ってくれたので、そこに入れた。ということは残り7000ペソしかない計算。すべてガソリン代に充てたとしても、距離的に国境を越えられるかどうかぎりぎりのラインだ。

そんなこんなで夕方散歩には出たものの、外食などできず、おとなしく宿に帰って手持ちのパスタを茹でた。金がないからビールも飲めない。

(ま、なんとかなるよ。USドルのキャッシュはあるし)

暮れ方に映えるポパヤンの素敵な町並みを思い出しながら、ひとりさみしくパスタを食べる夜だった。


ポパヤンは白壁の町だった。
セントロの建物は、銀行から食堂に至るまで。素敵。

つづく。

2016年9月1日木曜日

国境の町、深い谷、麗しき協会 vol.1

サン・アグスティンを出た日、僕はバイクの上で激しく後悔していた。

(なぜだ?なぜこんな日に出発してしまったのだろう)

やはりというべきか。降りだした雨は、僕の期待とは裏腹に次第に強さを増していった。それは山越えのダートをぬかるみへと変えただけでなく、体温まで容赦なく奪っていく。体が小刻みに震えだす。

その日は朝から激しい雨だった。強い雨音を聞きながら、宿の温かいベッドの中で、もういちにちテレビでも見ながらグダグダするか、などと甘い誘惑にかられていたのは事実だ。今更何を言っても始まらないが、雲の切れ間から薄日を見ただけで安易に出発してしまった朝の自分を、寒さと、バイクがはね上げる泥水に耐えながら、ひたすら呪うしかなかった。

こんな日にバイクで走るやつなんて誰もいないよ。
なんて思っていたら、まさか二人乗りのもう1台が後方からやって来るではないか。そして僕の少し先に停車し、こう尋ねてきた。

「タイヤがパンクしてしまったんだ。空気入れを持っていないか?」

泣きっ面に蜂なのは、彼らの方だった。ただでさえ雨のダートで不快なのに、そのうえパンクだなんて。雨の日のパンクなんて考えたくもない。僕は、持っていた空気入れを渡した。応急用の小さな手押しポンプでは十分に空気は入らないが、ある程度弾力を取り戻したタイヤなら、山を下るくらいはできるだろう。

「ありがとう。助かったよ。で、いくらだ?」

ひとりの男が尋ねてきた。

「まさか。お金なんか要らないよ」

今の僕にはこんなことしかできないが、困ったときはお互いさまだ。むしろ、僕の方が多くの人の親切を受けて旅を続けている。先を急ぐ彼らを見ながら、小さくても人の役に立つというのはうれしいものだな、と思えた。

なんだか気をよくした僕は、雨の中を再び走り始めた。すると、とたんに雨脚が弱まるではないか。峠を越えたところで、雨はついにやんでしまった。どうやら山を挟んだこちら側は、まったく降っていなかったらい。山を下りるに従い、気温も上がってくる。やがてダートも終わりを告げる。泥色の山道から、黒いアスファルト。乾いた舗装路がこんなに楽だなんて!
さっきまでの愚痴はどこへやら。やっぱりこうでなくちゃ。現金な僕は、突然山間に現れたポパヤンの町中へとバイクを走らせた。

つづく。

2016年8月31日水曜日

今度はいつ戻ってくるの? vol.3

サン・アグスティンには4泊した。そのうち、雨の降らない日は1度もなかった。
1日中降りっぱなし、ということもなかったけれど、薄日が射しこみ、ぼちぼちやんだかな?と思うと、気まぐれにまた降りだす、そんな降り方をした。

雨が降るということは、必然的に宿で過ごす時間が長くなる。広い部屋。ベッドがふたつに机と椅子は、雨音を聞きながら、のんびりスペイン語の勉強をして過ごすには、すこぶる快適だった。


有名な遺跡に足を向けたのは、滞在3日目だった。その日は珍しく朝から晴れていた。この機を逃してはならないと、急いで支度をする。またいつ雨が降りだすとも限らない。
バイクにまたがり、9時には遺跡のある公園「パルケ・アルケオロヒコ」に到着した。緑豊かな園内をたっぷり3時間歩く。3時間も歩くのは結構な労力だったが、それだけ大きな公園ということだ。園内には古代インディヘナたちが彫った石像が、至るとことに(ちょっとやりすぎた感も否めないくらいに)あった。なかなかかわいらしい石像なので、眺めているだけで楽しい。
しかし、これだけ大きな公園なのに、朝早いせいか他の観光客はほとんどおらず、作業をしている職員も、園内にひとりしか見かけなかった。ほぼ貸し切りで楽しめたのだが、どこかもの寂しさも感ずにはいられなかった。

不思議な石造がたくさん。

 作業していた唯一の人。
いろいろ説明してくれた。

昼を少し過ぎたところで、公園を後にした。雲は多いものの、空は青い。雨はまだ先のようだ。せっかくだから町はずれの、少し山を登ったところにある滝までバイクを走らせた。
時間があれば行こうかな?くらいに考えていた場所だったが、よく考えれば時間はたっぷりあるわけで。行かない、という選択肢は前向きな消去法により棄却する。まさか滝を見るのにお金を取られるとは思わなかったが(1000ペソ。約50円)、たまの晴れ間には動いている方が気持ちがいい。

金を取るだけあって、一応展望用のデッキらしきが切り立った崖の上に設けられていた。が、手作りで木製のそれはあまりにも頼りなく、長いことそこから滝を見ていたいとは到底思えなかった。それよりも、滝が落ちる場所まで歩いて行けるのがよかった。勝手にそこまで行って良いのかな?という疑問もあったが、柵も何もないので誰でも好きに行けてしまう。万一足を滑らせても自己責任ということだ。

 展望デッキから。結構な落差。

翌日には、「ラ・チャキーラ」と呼ばれる、渓谷の玄武岩に刻まれた彫刻を見に出かけた。入口の道端にバイクを止め、ぽつりぽつりとある土産屋で通り雨をやりすごし、上品に馬を乗りこなすツアーの欧米人たちに追い越され、見晴らしの良い渓谷を歩くこと2時間。お目当てのそれは思ったほど大きくはなかったが、そこからの眺めは大変良かった。雨でぬかるんだ道にもめげず、来た甲斐があった。

ラ・チャキーラと。
名前からして女性の神様だろうか。

サン・アグスティンでの主な観光はそのみっつ。どれもそれなりに良い観光だった。
だけど僕のサン・アグスティンでの思い出といえば、毎日雨の中、買いに行くようになったパン屋のおかあさんが、10個注文しているのに、二日目からさりげなく袋に11個入れてくれるようになったこと。
それに5日目の朝、宿を出る際、バイクにまたがった僕のありがとうという言葉に、

「今度はいつ戻ってくるの?」

と女将が冗談交じりで、だけどやさしく言ってくれたことだった。

おわり。

2016年8月25日木曜日

今度はいつ戻ってくるの? vol.2

客引きに捕まったのは、いつぶりだろうか。
サン・アグスティンに到着し、サレントで教えてもらったエル・マコという宿を探そうとしていた時、ふいに一人の客引きに声をかけられた。バイクにまたがった客引きだった。

(客引き?なんか久しぶりだな)

僕が移動中に立ち寄る田舎町で、客引きに遭遇することはあまりなかった。そもそも僕が立ち寄るような田舎町には観光客がいないので、当然それを目当てにした客引きも居ない。大きな都市に行く場合には、あらかじめ宿の情報を仕入れていくので、やはりあまり関係がない。しかも、バイクで移動している手前、バス停や空港など、彼らがいそうな場所に立ち入らない、というのも大きな理由だった。

そのバイクの客引きは、僕が何度も「エル・マコ、探しているのはエル・マコだよ」と口にしてもどこ吹く風だった。あげく自らのバイクで先導をはじめ、町から少し離れたひとつの宿に僕を連れて行った。もちろんその前に断ることもできたのだけど、その時はそうしなかった。なんだかあまり客引き然としていなかったことと、どこか憎めない感じが、そうさせたのかもしれない。


到着した宿は、果たして良かった。値段は15000ペソ。すこぶる安い。通された部屋にはベッドがふたつもあり、バーニョがプリバードで(シャワーとトイレが別なのは、安宿ではめずらしい)、大きな机と椅子があり、なんとテレビまで付いていた。バイクも、屋根の下に置いて良いという。
何にもまして良かったのが、町外れの緑多き場所にある、ということだった。町の中心部まで距離はあったが、この豊かな静けさは、それ以上の価値があるように思えた。
宿の人たちも大変感じがよく、僕は結局この宿に決めてしまった。値段と質で考えると、コロンビアのこれまで過ごした宿の中で、一番かもしれない。

それにしても、あの客引きは不思議だった。彼は宿の女将らしきに僕を紹介すると、さっさと自分のバイクにまたり、ふいと行ってしまった。なんだったのだろう?もしかしたら、ただのお人よしなコロンビア人だったのかもしれない。

緑の中の静かな宿だった。

 サン・アグスティンのパルケ(中央広場)。

そんな彼のおかげもあり、素敵な部屋に荷物を運び入れる。すべて終えると、時計の針は16時をまわっていた。サン・アグスティンはその遺跡が有名だが、今日はもう疲れてしまった。観光はしないことにして、町に散歩がてら買い出しに出た。
初めての町なので土地勘はない。といっても小さな町だから、帰りの方角だけ気を付けていれば、迷うこともない。気の向くままふらふら歩く。と、ボゴタのファティマという宿で知り合ったコロンビア人に、ばったりと出くわした。こんなところで再会とは珍しい。そう思ったが、さらに驚いたことに、彼はこの町に住んでいるようだった。

(へぇ。そんなこともあるんだな)

などと感心していると、彼の友達(といってもやはり旅のどこかで知り合ったらしい)アメリカ人と、一緒にパブに飲みに行く流れになってしまった。こんなところでアメリカ人とは珍しいと思ったが、さらに驚いたことに、彼はスペイン語を流暢に操るようだった。
まことに偏見なのだけど、アメリカ人が英語以外を好んで話すとは思っていなかったので、僕よりも上手なスペイン語を話すアメリカ人を目の前に、その考えを改めさせられることとなった。
ともあれ、薄暗いパブの丸テーブルに3人落ち着いて、コロンビアのビールで「サルー」と乾杯すれば、ちいさな旅のいちにちが楽しく過ぎていくのは間違いがなかった。

つづく。

2016年8月21日日曜日

今度はいつ戻ってくるの? vol.1

宿近くの小路を右に折れると、それはすでにダートだった。路端の小さな看板に、イバゲ106㎞とあった。

サレントを出た日、僕はアンデスの奥深くを走っていた。それは、地図にさえ載っていない道だった。通る車は、見当たらない。道の状態も、良くない。スピードがまったく出せなかったが、おかげでアンデスのダイナミックな景観をゆっくり楽しむことができた。
ときおり人家が散見されたが、これといった集落もない。すなわち食堂はおろか、売店さえ見当たらないというわけで、なんの準備もしていなかった僕は、手持ちのクラッカーと水のみ、というさみしい昼食を余儀なくされてしまった。


行きと違うルートを選んだのには訳があった。といってもたいした理由でもなく、ジュンペイさんにおすすめのルートを教えてもらった、というだけの話である。サレントは、主要な国道からわき道に入ったどん詰まりにある小さな町だから、そこから出るには当然来た道を戻るしかないと思っていた。事実、僕が持っている地図では、それ以外のルートは見つけられなかった。だけど、その土地に住む人たちは、地図に載っていないことを知っている。

「山の中を行く道だけど、景色はすごくいいし、なによりたくさんのココラが見られますよ」

そんな言葉で勧められたら、行かないわけにはいかない。地図にも載っていない道を走れるのだから、これぞバイク旅冥利に尽きる。という訳で、僕は目の前いっぱいに広がる山々を眺めながら、何の味もしないクラッカーを水で流し込んでいる、という訳だ。

群生するココラ。自然の力強さを感じる。

アンデスの山道。

こんな山奥にも人々の営みがある。

次の目的地は、サン・アグスティンだった。これまたサレントに負けず劣らず小さな町。小さな町ではあるが、遺跡群が有名で、ツーリストの多くが、そこを訪れているようだった。まさかその遺跡群が世界遺産だったとは、クラッカーをのどに詰まらせている時点では、まったく知る由もなかったのだけど。


イバゲ。カンポアレグレ。それぞれの町で、それぞれ一晩を過ごした。イバゲでは以前立ち寄った宿に入ったのだが、宿の親父は僕のことを思えていてくれて、なんだかうれしかった。しかも前回と同じ2階の角部屋の鍵を渡してくれた。

コロンビアも、だいぶ南部まで進んできたせいか、ごちゃりとした雰囲気が町に戻ってきたように思う。北部では大きな都市ばかり見てきたからかもしれないが、すでに大型スーパーに取って代わられていたメルカド(市場)も、南部の町にはきちんとあった。どこも同じ匂いで、このすえたような何とも言えない匂いが、なんだかちょっとうれしく思う。

カンポアレグレの安宿。
ベッドひとつだけの簡素な部屋だ。

涼しい山岳地帯から抜け出し、赤茶の水をたたえた川に沿って南に走る。サンアグスティンに到着したのは、サレントを出て3日後の夕方だった。

つづく。