2010年4月19日月曜日

陽気な旅人が地球を回す

強烈な日差し。
絵葉書で見た海。
不思議な苗字の表札。
やたらと量の多い食堂。
真っ赤なハイビスカス。
耳に届く三線の音色。
雑多な賑わいの国際通り。
うらぶれた路地裏には野良猫がたくさんで、飲み屋に掲げられた生ビールののぼりはオリオンだ。

僕は今、沖縄にいる。

鹿児島港から船に乗り、沖永良部島、与論島に立ち寄りながら那覇まで来た。

やはり、南はいい。

どの島も良かった。
どの島も独特な文化を持っていて、どの島でも懐かしい再会と新しい出会いがあった。

南風に吹かれながら初夏を思わせる日差しに肌の色を濃くするにつれ、体内にうず高く蓄積された疲労は薄皮を剥がすかのごとく次第に薄れていった。それはまるで何かの公式で証明されているかのように、きちんと比例していた。もしかしたら実際にそのような公式がこの世のどこかにあるのかも知れなかった。

南の島には陽気な旅人がたくさんいた。温暖な気候と陽気な旅人の関係。もしかしたらそれさえ証明する公式があったかも知れない。学生時代あまり真剣に読む事のなかった数学の教科書のどこかに記載されてはいなかったか。そんなくだらない事をぼんやりと考えながら(実のところもはやぼんやりとしか物事を考えられなくなっている)、僕はこの素晴らしくも怠惰なる日々を過ごしている。

それはもう少し肌が焼けるまで。そう教科書に書いてあったような気がする。

2010年4月17日土曜日

冒険と散歩

それは、壮大な冒険だったような気もするし、ちょっと長めの散歩だったような気もする。

もはや今となってはわからない。3ヶ月を超す旅の日々は、それを終えた時、あっという間に過去のものとなってしまった。
だけど、日本を北から南まで歩いたという事実だけは残っている。この胸の中に。確かに。

ついに、というか。やっと、というか。遥かな旅路を歩き終えた僕は今、憧れの南の島でこれを書いている。南風に吹かれながら。青い海を眺めながら。のんびりと。

とにかく前へ。
ただそれだけを思い、ひたすら歩き続けた日々はもう遠い日の夢となったけれど、目をつむればそれはいつだってまぶたの裏に蘇る。あたかも今自分がその場所に居るかのように。鮮明に。

浮かび上がる情景の多くは出会いの場面だ。見知らぬ土地で見知らぬ人との出会いであったり、古い友人との再会であったり。そしてその度に抱えきれないほどの励ましをもらった。
残せるものはバックパックに積んで、残せないものは僕の一部となって、毎日共に歩いた。この応援なくして旅の成功はなかったと言っても過言ではない。いや、そうだと言い切れる。断言だ。

本当に感謝している。僕はいつだってひとりじゃなかった。

***

「なぜ歩いているの?」

歩いていると、よく尋ねられた。だけどその問いに対する明確な答えを僕は持っていない。旅の最中も。旅を終えた今でも。

僕はただ歩きたかった。歩いて旅がしたかった。それだけだ。それ以上もなければそれ以下もない。
だけど、そう聞いてくる人が求めている答えは、残念ながらそうではないようだった。
「歩いて旅がしたかったんですよ」
そう言うと決まって
「なぜ"歩いて"なのか?」
さらに問われる事となる。簡単には終わらない。僕はいつも困ってしまう。またか。内心うんざりすることもあった。やりたい事の理由なんて、いちいち考えてなんかいない。日々の散歩に高尚な理由を求めてくる人などいないのに、旅となるとそうではないらしい。僕にとっては同じ次元なのに。

バイクで旅をしていた時、なぜバイクで?と聞かれた事などなかった。バイクと徒歩で何が違うのだろう。僕にとってバイクも徒歩も旅の手段のひとつに過ぎず、どちらを選ぶかはそれほど問題ではない。

それでも考えてみた。歩きながら。飯を食いながら。寝袋に包まりながら。"なぜ"についてを。
いくつかの言葉は見つかった。格好良く、もっともらしい言葉が。誰もがうっとりするような言葉が。だけど、どれも僕の心から染み出た言葉ではなかった。
残念ながらというべきか、結局行き着くところはいつも決まっていた。

「いやあ、歩くの好きなんですよ」
僕はいつも照れた笑いを浮かべながらそう答えるしかなかった。それで納得してくれたかどうかはわからないけど、それが本心なのだから仕方がなかった。

***

命の危険を感じる程の出来事などはなかったが、それでも雪深い山を何日もかけて歩いていると普段は到達出来ないような心境に陥った。

何時間と歩いても何もない。あるのは道と、山と、雪だけだった。氷点下の野宿は熟睡など出来ず、短い睡眠を繰り返すだけだった。食べるものは補給せず、日々手持ちの食糧のみでやりくりした。我慢は小さなストレスとなり、日々積み重なっていく。

暖かい布団。贅沢じゃなくていい。ありきたりの食事。そんな当たり前に飢えていた。そんな状態だったから、あらゆる欲が薄れていった。どんな娯楽よりも、どんな音楽よりも、普通に寝られて、普通に食べられる。そのふたつだけが突出して僕の頭を支配した。いや、むしろそのふたつだけしかなかったかも知れない。

とにかく、そのふたつが生きる上でもっとも大切なのだと悟った。それは当たり前かも知れない。当たり前過ぎて、一体何を言ってるんだと言われるかも知れない。だけどやっぱり人が生きていく上で一番大切なのはこのふたつだ。根源的過ぎて見えていないだけだ。

僕は、寒いテントの中で寝袋に包まる度に、粗末だけどなんとか食事にありつける度に、心から感謝した。それだけで幸せだった。
とても大変な日々だったけれど、その事を身を持って感じられたのは、これからの僕の人生をより豊かにしてくれるに違いなかった。

2010年4月15日木曜日

リーチング佐多岬 あれこれ

全5ステージに区切った日本縦断ですが、各ステージのデータをまとめてみました。

・日数 98日

テント 58
友人宅 21
道の駅休憩所 7
バス停 5
ライダーハウス 1
無人駅 1
ファミレス 1
ナイトラン 3

道の駅でもバス停でも、テントを張ったらテント泊と数えました。テントはもはや家ですね。マイハウス。歩き疲れてテントを張って、中に入ると本当に落ち着くんです。あの狭い自分だけの空間に、ふぅ〜っと安堵のため息が出ます。
続いて友人宅が多かったです。各地に僕を迎え入れてくれる心優しい友人がいてくれて本当に助かりました。やはりずっと野宿ばかりだと体も疲れるし、荷物もまとまりなくなってくるし、そういう時に泊まらせともらえるとあらゆる面でリセット出来るのでありがたいです。泊めくれた皆さん、ありがとうございました。
あとは臨機応変に寝る場を確保したって感じですか。そしてナイトランはコメントを控えたいと思います…笑


・歩行距離 約3200km

だいたい3000kmかな?と思っていましたが、200kmもオーバーしてました。下北半島歩いてみたり、峠越えてみたり、丹後半島寄ってみたりしていたらの結果ですね。でもやっぱり冬の奥入瀬きれいだったなぁ。


・費用 約115000円

12万以内で収まりました。
ほとんどが食費です。基本的に野宿で宿泊費がかからないので、当たり前と言えば当たり前ですが。
あまり贅沢をせず、野宿と自炊をすれば安くあがるものです。その分荷物は増えますが。
確かにご当地のおいしいものも食べながらも魅力的ですが、貧乏旅だからこそ見える事もたくさんありました。そして僕にはその方が合っているようです。というのは貧乏旅人のひがみですね…笑


・リーチング佐多岬参加者 16人

僕の予想を遥かに上回る人数でした。というか、スタート前は誰もいないのでは?と思っていたくらいですよ。
参加してくれた皆さん本当にありがとうございました。忘れられない思い出となって心に刻まれています。心より感謝いたします。

以下はまったく参考にならないデータあれこれです。


・1日の最長歩行距離 65km

荷物背負ってこの距離は軽く死ねます。ていうか死にました…。


・1日の最短歩行距離 1km

東京の友人宅から日本橋までの距離でした。しかも帰りは自転車という軟弱ぶり。


・最高到達点 846m

箱根峠です。さすがは天下の剣。きつかったです。夜はまさかのマイナスでした。


・最低気温 -12度

北海道の赤井川と岩手県の一関でタイ記録です。一関ではちょうど寒波に襲われたのと、峠の途中だったのでかなり冷え込みました。赤井川では普通にこの気温でしたけど。いつも起きてからの測定だったので、寝ている夜中はもう少し下がっていたかもしれません。


・最高気温 26度

26度はもう夏ですよ。島根県の松江と鹿児島県の志布志での記録です。汗だくだくです。


・最長トンネル 3692m

歩き旅のトンネルは避けたいもののひとつですね。大型トラックのすれすれのパッシングに何度ひやりとしたことか。最近はきちんと歩道が整備されているようですが、さすがに3kmを越えると長いですね。抜けるのに40分かかりましたよ。兵庫県の神鍋高原のトンネルでした。


・穴をあけた靴下 8足

靴下はもはや使い捨て状態でした。なので少しくらい穴があいても頑張って履いていましたが、それでも10日も履けばもうぼろぼろです。まぁ歩いた距離を考えると仕方のない事ですけどね。


・履き潰した靴 1足

さすがブリジストン!拍手を送りたいです。まさか岩手県で買った靴で佐多岬まで歩けるとは思いませんでした。2000km以上を歩いて靴底はだいぶ減りましたが、今なお健在です。素晴らしい。
なので潰した靴はスタート時に履いていたブーツだけなのです。


・食べた食パン 星の数

食パンはどれだけ食べたことか!
網を持っていかなかったので基本サンドイッチ。そしてはさめるものはなんでもはさみました。野菜、肉、卵、ハム、ベーコン、チーズ、コーン、揚げ物、ハンバーグ、あんこにきな粉まで。サバ缶なんてのもありました。とにかくはさみまくり食べまくりですよ。
夜のテントでサンドイッチを作っておいて、朝と昼(店で買えない時など)に食べる感じでした。寒い夜は、はさんだ卵がうっかり凍ってた事もありましたけど。


・職務質問 3回

夢の中のも含みます…笑。まぁ3回で済んで良かったなと。
全て西で受けました。関東過ぎるまで受けなかったのはただの偶然ですかね?


・転んだ数 5回

北海道でよく転びました。日中晴れると雪が融け、夜中に凍ってしまうのでかなり危険。つるつるなのです。スケートみたいに歩いてました。
とにかく荷物が重いので、一旦体勢が崩れるとそのまましりもちです。起き上がるのもまた大変でした。


・淡い恋物語 0回

出会いはたくさんありましたけど、恋の出会いはありませんでした。残念…笑


とまぁこんな感じの結果でした。
数値化出来るものは書き記しましたが、それよりも数値では表せないたくさんの励ましがあってこその旅でした。
それは実にいろんな形で受け取りました。電話やメール、寄せ書きだったり。わざわざ差し入れを持って来てくれたり。もちろん泊めてくれた人もそうですし、道すがら励ましの言葉をかけてくれた人もそうです。無事に歩き切れたのも応援してくれた皆さんのおかげです。全員にこの場を借りてお礼を言いたいと思います。
ありがとうございました。

写真1
功労賞。まだまだ健在。

写真2
桜島が噴火してた。地元民はおどろかない。

写真3
帰りは佐多岬から拉致られた。垂水市にある馴染みのライダーハウスまで。90リットルのバックパックも旅慣れたライダーには朝飯前。

2010年4月13日火曜日

九州編 あれこれ

ついに最終の5thステージ。連日のハイアベレージで一気に駆け抜けた感があります。宮崎あたりからは気温もぐんと上がり、夏を感じながら歩きました。
九州では本当にたくさんの声をかけて頂きました。実に温かいですね。
で、各種データのまとめ。


・日数 11日

テント泊 10

九州では全てテントで夜を過ごしました。朝晩も凍えるほどは寒くなく、その分余裕が生まれるので、海辺や桜の下などいいキャンプ体験ができました。


・歩行距離 約485km

九州は400kmくらいかな?と思っていたのですが、意外に距離がありました。10日と計算していたので、日々の歩行距離がその分伸びましたね…。


・費用 約8000円

食費 7000円くらい
風呂代 600円(2回分)
佐多岬到着証明書 105円
その他雑費 300円くらい

最低気温は大分県豊後高田市の2度で、最高気温は鹿児島県志布志市の26度でした。

山陰編 あれこれ

思いがけず雪に見舞われた4thステージ。出だしの1週間は凍えながら友人と行動を共にしました。
この辺りからちらほらと旅人を見かけるようになり、楽しい出会いもありました。
で、各種データのまとめ。


・日数 23日

テント泊 14
道の駅休憩所 4
バス停 1
無人駅 1
知人宅泊 3

人生初の無人駅に泊まりました。快適でした(笑)
そして京都でゆっくりしすぎました:p
今回も僕を快く迎え入れてくれた皆さんには感謝です。本当にありがとうございました。


・歩行距離 約721km

山陰はかなり距離がありましたね。丹後半島経由だったのも少し距離が伸びた理由ですが。


・費用 約18500円

食費 14700円くらい
知人宅にお邪魔した時のお土産代と飲み代 1000円くらい
風呂代 1300円(3回分)エクスパック代 500円
その他雑費 1000円くらい

最低気温は京都の0度で、最高気温は島根の26度でした。たった数日で冬と夏を体感しました。

2010年4月11日日曜日

歩98日目 鹿児島県佐多岬

天候 晴れ
気温 7時 10.3度

これだ。
これがこの旅のゴールだ。

全身に心地よい緊張が走った。僕は、迷わずそこへ歩いた。

5時40分。起床。港の朝は早い。テントから出ると、小さな漁船がすでに沖へと向かっていた。僕も出発準備に取り掛かる。
夜中の風はやんでいて、白み始めた空には雲が浮かんでいた。雨雲ではない。これなら今日はいい1日になりそうだ。やはり雨よりも晴れた方が良い。それは長い旅が終わる日というならならなおのことだ。

7時00分。靴の紐を結んで準備運動。最近の膝は悪くない。疲れは溜まっているが、歩けないほどの痛みはない。今日でこの旅は決着がつく。心配していたがなんとか膝は持ってくれたようだ。よし。行こう。気合いを入れ、いつもの様にバックパックを背負うと、岬へと向かう県道を歩き始めた。

山裾から太陽が顔を出し、田んぼからは蛙の大合唱が聞こえる。朝の清々しい空気の中を歩く。しばらくすると民家は消え、うっそうとした山の中に入っていった。海に向かって大きく突き出した半島は、想像以上に山々しい。深い緑の尾根をいくつも越えて行かなければならない。越えては現れるアップダウンを繰り返し、その度苦しさに喘いだ。

疲れて足か前に出なくなると、峠の途中で道端に座り込んで休憩した。吹き出す汗を拭いながら、周りの山々を眺める。とにかく木々の密度が濃い。北の山とはまるで植生が違っている。うっそうとしていて、緑が濃く、恐い。太陽の恵みをいっぱいに浴びる山々を眺めながら、コーヒーを飲んだ。
この旅で僕は一体どれだけのコーヒーを飲んだのだろう。わからない。そして氷点下の中で飲む温かいコーヒーに、一体何度救われたことか。思えばいつだってお湯を絶やすことはなかった。

休憩中の僕の前を、バイクが数台通り過ぎた。それは排気音だけを残して一瞬で見えなくなってしまった。きっと岬へ向かっているのだろう。コーヒーを飲み干して、僕もそれを追うように歩き始めた。

9時40分。佐多岬ロードパークに入った。昔は有料だったが、今は無料になっている。取り壊されずに残っている無人の料金所をすり抜ける。残りは約8km。足下にはシダが生い茂り、木々からの気根が風になびき、椰子が天に向かって伸びている。道は、さらに山の中へと入っていく。僕は、さらに息を切らした。

10時40分。岬まであと3kmという所で2台のバイクに追い越された。そのうちの1台、後ろを走っていたバイクに見覚えがあった。もしかして。そう思った。そしてその予感は後に的中する事となる。

11時15分。白亜の灯台が目に映った。あれは岬の少し先にある島に立つ灯台。ゴールは近い。バックパックを一度背中で揺すり上げると、大きく息を吐き足を速めた。

ロードパークの終点は公園になっている。駐車場があり、その先にトンネルがある。料金所で300円を支払うとトンネルを抜けることが出来、その先が本土最南端佐多岬というわけだ。

駐車場に着いた僕は、汗に濡れながらも笑顔だった。公園入り口まで来たという喜びもあるが、それだけではない。さっきの予感が的中したからだ。
そこには友人がふたり立っていて、僕を笑顔で迎えてくれたのだ。
「ついに来たね」
2年ぶりに会う友人が言う。久しぶりという感じがしない。
「ついに来ましたよ」
僕は言う。
「さぁ行こうか」
もうひとりの友人が言う。箱根を越えた三島まで、巨大なおにぎりを届けてくれたひとりだった。
僕は突然の出来事に何を言えば良いのかうまい言葉が見つからず、促されるままにトンネルへと向かった。薄暗いトンネルを3人並んで歩く。それはリーチング佐多岬の15、16人目だった。

僕がこの旅を計画した時、スタートもゴールもひとりでひっそり迎えるものだと思い込んでいた。雪の宗谷岬も深い森の佐多岬も。何度思い描いても、そこを歩く僕はいつもひとりだった。

ところが現実は違っていた。宗谷岬も佐多岬も、僕はひとりではなかった。初日も最終日も、一緒に歩いてくれる人がいた。僕はなんて幸せ者なのだろう。やはりうまい言葉が見つからない僕は、ただ終着点へと向かって歩いた。

蘇鉄が生い茂る神社を抜け、高台へと向かう細い遊歩道を木々の枝をかき分けて進むと、突然視界が拓けた。目に映ったものは広大な海と、ひっそりとたたずむ小さな木製の立て札だった。そこには確かに佐多岬と記されてした。

これだ。
これがこの旅のゴールだ。

遥か最北の宗谷岬から、この小さな立て札を目指して歩いてきた。毎日毎日、小さな一歩を積み重ねてきた。それが今、僕の目の前にある。

僕は迷わずにその小さな立て札へと歩いた。そっと手で触れる。どんな時もそこにある立て札はなめらかな感触がして、それはまるで僕の訪れを静かに待ってくれているようだった。そしてその瞬間、この旅は終わった。
宗谷岬に立つ大きな碑を降りた時に始まったこの旅は、佐多岬に立つ小さな立て札に触れた時に終わったのだ。

98日間の旅だった。3200kmの旅だった。晴れの日もあった。雨の日もあった。雪の日もあった。寒さに震え、暑さに汗した。幾つもの峠を越え、果てしなく続く海沿いの道を歩いた。太陽が昇ると歩きだし、月が現れたら寝袋に包まった。何人もの人と出会い励まされ共に歩き、同じ数の別れを味わった。そして数えられないほどの一歩を繰り返した。
それも今、終わった。僕の目の前にあるのは、いっぱいに広がる海だけだった。そこにもう道は続いていなかった。
旅での出来事は一瞬で思い出となり、それはまるで泡沫の夢のようだった。

もう僕の前に歩むべき道はない。あるのは海と空の間に見える水平線だけだ。目をつむり、深呼吸をひとつした。

帰ろう。

振り向くと、そこには優しい笑みを浮かべた友人が立っていた。

今日の歩行距離約21km。

写真1
岬へと続く道は深い山の中を行く。

写真2
旅が終わった。リーチング佐多岬の15&16人目。

写真3
もう道はない。帰ろう。

2010年4月9日金曜日

歩97日目 鹿児島県?郡南大隅

天候 雨のち張れ
気温 8時 16.4度
   17時 19.4度

「一緒に歩く?」
「うん」
「佐多岬まで?」
少年は、笑いながら首を横に振った。

リーチング佐多岬の14人目は、ひょんなことから決まってしまった。

5時30分。起床。雨は降り続いていた。こういう時の屋根の下は本当にありがたい。

6時50分。出発準備は完了したものの、すぐには出発しなかった。空模様を伺っていたのだ。もう少しで雨がやみそうだった。
バックパックから昨日もらったりんごとナイフを取出し、段差に腰掛け皮を剥く。大きなりんごだったが小さく切らずにそのままかじり付いた。

7時30分。雨が小降りになったのを確認してから出発。弱い雨なのでカッパは上だけにした。しかしそれもしばらく歩いて脱いでしまう。いくらゴアテックスと言えど、さすがに蒸れるのだ。汗をかくより少しくらい雨に濡れたほうが気持ちいい。

9時15分。鹿屋から海岸線へ抜ける峠を越える。下り坂を歩いていると、木々の間からちらりと海が見えた。薩摩半島と大隅半島に抱えられるようにある静かな海。錦江湾だった。少し歩くと目の前いっぱいに海が広がった。
ここまで来た。ついに。この海岸線を伝って行けば、行き着くところは佐多岬だ。僕はこの静かな海を見て、初めて旅の終わりを意識した。

9時30分。薄日が差してきた。これなら晴れそうだ。しかし対岸の薩摩半島は未だ雨雲に遮られて望めない。
今日も何人かの人と道すがら話をした。自家製の紅茶をくれた人もいた。
「頑張って」
たったその一言だけを残し笑顔で車を走らせたお姉さんもいた。皆温かい。
それにしても鹿児島の人は北海道と聞いてどう感じるのだろう。歩いて来た僕にとってはひとつなぎの土地に感じるが、それは遥か遠い国なのだろうか。

12時30分。大根占に到着。青空が出てきた。日差しが嬉しい。さっきまで見えなかった対岸は、うっすらとだが確かに存在していた。大型のタンカーが静かに進んでいる。錦江湾はいつだって穏やかだ。その先には開聞岳。きれいなシルエットには目を奪われる。

「何年生?」
僕は、後ろから付いてくる少年に話し掛けた。
「5年」
少年は答える。学校帰りだろうか。少年はいつの間にか僕の後を追って来ていた。家がこの先にあるのだろう。僕らは並んで歩く事にした。
「全校で何人いるの?」
「14人」
「5年生は?」
「6人」
「5年生多いね。担任の先生は男?女?」
「男」
「ところで好きな子いるの?」
「…」
「あ、いるんだ?」
「知らない」
実に素直な少年だ。心が澄んでいる。
「お兄さんね、北海道から歩いてきたんだ」
「北海道?」
少年はその言葉の意味を理解出来なかった様だ。
「それも明日終わるんだ」
「ふーん」
いつの間にか僕は少年にそんな話をしていた。子供相手に何を話しているんだか。そう思ったが、邪推なく心のままに聞いてくれる子供だからこそ話せたのかも知れない。その思いを言葉にして誰かに聞いてもらうだけで良かったのだ。

少年の家に到着し、じゃあねと別れた。気持ちの良い少年だ。何か胸の支えが取れたようないい気分だった。僕は、きっと誰かに聞いてほしかったのだ。この旅が明日終わってしまうという事を。

18時20分。佐多町の伊座敷に到着した。小さな港町だ。高台から眺める町は全体が夕陽に染まり、空気が柔らかかった。今日はこの町で最後の夜を過ごす。ここから岬までは20kmしかない。明日の午前中には到着出来るだろう。

港の岸壁を背にテントを張った。少し風が出ていたのだ。町に唯一あるスーパーマーケットで買ってきた夕食を食べる。空にはきれいな星が出ていた。明日はきっと晴れるだろう。
夜が深まるにつれ、僕の心は錦江湾の様に穏やかになっていった。打ち寄せる波の音とテントをすり抜ける風の音を聞きながら、安らかな気持ちで寝袋に包まった。

今日の歩行距離約41km。

写真1
錦江湾はいつだって穏やかだ。

写真2
ここまで来るとバナナも自生する。気候が違う。

写真3
リーチング佐多岬の14人目。澄んだ心。

2010年4月8日木曜日

歩 速報!

本日4月8日11時30分。
ついに佐多岬ゴールしました!

98日の歩き旅が無事に終了しました。

応援して頂いた皆さん、本当にありがとうございました。
心より感謝いたします。

取り急ぎご報告を。

2010年4月7日水曜日

歩96日目 鹿児島県鹿屋市

天候 晴れのち雨
気温 7時 10.3度
   17時 22.9度

僕は翼をひろげてるだろうか?

ふたりを初めて見たのは夏の事だった。去年の夏。場所は青森。ねぶた祭のキャンプ場での事だ。

とにかく目立っていた。何せ人力車だ。日本一周と大きく書かれた垂れ幕を付けた人力車。そこに法被の男女がふたり。目立たない訳がない。

その時の僕は、また変わった旅人がいるなと感心したが、特に話をした訳でもなく横目に眺めるだけだった。(旅人はとかく変わっているものだ)
その人力車が今、山道の向こうからやってくる。一目で思い出した。あの時のふたりだと。

まさか去年の夏に青森で見かけたふたりを、今日鹿児島の山中で見つけるとは思わなかった。
僕は声をかけた。
「ねぶた祭にいましたよね?」
ふたりは驚いた顔をして、そして喜んでくれた。もちろんふたりは僕を知らない。話もしていないし、僕が横目に見ただけなのだから。

不思議な再会だった。青森と鹿児島。夏と春。その差を飛び越え、こうして出会う。旅とは不思議なものだ。

ふたりから一枚の紙をもらった。そこには旅のタイトルやコンセプト、ふたりのプロフィールが書かれていた。その中に
「翼ひろげてる?」
という文字があった。その言葉は僕の心の中の秘密な部分に、とげの様に刺さった。

翼。
僕は今でも翼をひろげてるだろうか?

4時40分。起床。朝もやの中にいた。テントの外は物凄い朝もやだった。視界は20mほどしか効かず、テントはびしょ濡れだった。

6時30分。濡れたテントをポリ袋に入れ、まだ晴れぬ朝もやの中を出発。しかし朝もやが出ると言うことは太陽も顔を出すはずだ。気温が上がったらテントを干さなければならない。霞んで先の見えない道を、僕は南へと歩きだした。

8時30分。コンビニに立ち寄る。現在地を地図で確認する。もうすでに鹿児島に入っているようだった。気付かなかった。標識を見落としたか、存在しなかったか。まぁ良い。僕はついに鹿児島までやってきたのだ。
俯瞰すれば、都城から国道269号はほぼ直接的に佐多町まで続いている。鹿屋を抜け、明日の夕方には国道の終点にある佐多町の伊座敷まで到着しているだろう。

9時20分。
「どこまで歩くんだい?」
おじさんに声をかけられた。缶コーヒーを3本も頂く。その内の1本を飲み干す。朝もやもすっかり消え去り、照りつける太陽に汗をかき始めていた頃なので、冷たく甘い缶コーヒーはとてもおいしかった。

10時00分。
「ちょっと待って!」
歩道を快調に飛ばしている時に、いきなり後ろから呼び止められた。
「飲まんね?」
ひとりのおばさんが小走りにやってきて、缶ジュースとみかんを差し出してくれた。
「さっき見かけてね」
そう言って僕に手渡す。
「毒は入ってないから」
笑顔が温かい。お礼を言って有り難く頂戴した。

10時30分。大隅の道の駅に到着。その頃には日も高くなり、気温も上がっていた。何しろ歩いていて汗が吹き出すほどだ。芝生の上にテントを乾かす。ついでにマット、寝袋、カッパ、タオル、靴下、パンツ。およそ乾かせるものは全て乾かした。これだけ暑いと乾くのも一瞬だ。

13時00分。志布志市に入った。ゆるいカーブを右に曲がると、目の前に高隈山がそびえていた。なかなか迫力がある。歩くほどに見る角度を変え、違う表情を見せるのがいい。

それにしても暑い。25度はあるだろう。汗が吹き出す。歩きの旅も冬は冬で大変だが、夏に旅するのも大変だ。飲み水は絶やせない。荷物の中でなにが重いって、飲み水が一番重いのだ。苦労する。
しかしこう暑いと夏を感じてしまう。なんたって北海道との差が40度近くもあるのだ。わずか3ヶ月の歩きでこの気温差を味わうのだから、日本はいかに南北に長いかという事だ。
吹き出た汗を、神社の水場で流す。顔を洗い、腕を流す。その時、袖をまくって驚いた。くっきりと日焼けをしていたのだ。まさかこの旅途中で日焼けをするとは。本当に夏を感じてしまう。

16時00分。峠の途中で鹿屋市に入る。中心部まではあと14km。到着は20時近くになるだろう。
ピークを過ぎ、下り坂で今晩の竹の子を掘っている時、ふたりに会った。人力車のふたりだ。道端で少し話す。仲の良さそうなふたり。歩いて日本一周。羨ましい。
竹の子と、みかんとりんごを物々交換した。僕は掘った竹の子で申し訳ないと思ったが、
「いいの。これも貰い物だから」
そう言って笑っていた。

20時20分。鹿屋市内の公園に到着。少し雨が降っている。急いで屋根の下にテントを張った。中に入り、荷物を配置し終えたところで雨は本降りになる。間一髪間に合った。予報よりも早い降りだしだ。

テントの中でパスタを茹でながら、僕は人力車のふたりを思った。彼らは今頃どうしているだろう。夕方に峠の入り口にいた。どこに寝るのだろう。テントにしても、張れそうな場所などない。あまつさえ雨だ。大丈夫だろうか。

そう思ったが、人の心配をしても仕方ない。彼らにしても長く旅をしているのだ。それなりの考えはあるだろう。
マーガリンで炒めた竹の子、にんにく、鷹の爪を茹でたパスタにからませながら、僕は一向にやみそうにない雨音に耳を傾けていた。

今日の歩行距離約54km。

写真1
朝もやの中を歩く。太陽がまるで月の様。

写真2
ついに佐多の文字。鹿児島に入った。

写真3
翼ひろげてる?

2010年4月6日火曜日

歩95日目 宮崎県都城市

天候 雨のち晴れ
気温 7時 14.1度
   17時 19.8度

「細過ぎて気持ち悪いで」
旅仲間の女の子からはそう言われた。

「skinny!」
外国人の友人からはそう驚かれた。

いいさ。何だっていい。それは今の僕にとってとても大切で、とても頼もしい存在なのだから。

日がすっかり落ちた18時過ぎ。スーパーマーケットのベンチに腰掛けながら、僕は自分の足をさすっていた。手の平の中にあるそれは、細く骨と皮ばかりの太ももだった。

その時点で48km歩いていた。出発してから11時間とちょっと。かなりのハイペースだ。しかも峠を越えての結果である。

50kmを12時間で歩こうと試みたのはいつだっけ?あれは宮城の時だったか。まだ2月の頭だ。試みはなんとか成功したのだけど、その時の代償は大きかった。
50km歩いた先の道の駅には、足を引きずりながら辿り着いた。足のマメが痛く、もう半泣きだったのを覚えている。あの時の僕にとって50kmという距離はひとつの壁だった。それは間違いない。

あれから2ヶ月。その距離は、それほど困難なものではなくなっていた。確かにあの時は買ったばかりの靴だったし、荷物も冬装備を積んでいたから重かった。それでもその条件を考慮しても、今では50kmくらいならと思えてしまう。

あの時よりも一回り太くなったふくらはぎと、気持ち悪い位に細くなった太ももが、それを可能にしたのだ。そう思うと改めて日々の積み重ねの大切さに気付かされる。

6時00分。起床。やはり雨が降っている。あれは夜中の2時頃だったか。一度目が覚めた時にはもうすでに降っていた。橋の下を選んで良かったと安心して夢の中に戻ったのだが、起きてなお降り続いているのだからカッパは避けられないだろう。雨に降られながらの撤収ではないのでまだましだが、果たして予報通り午後からは晴れるのだろうか。遠くに聞こえるひばりの鳴き声だけが希望だった。

起きるのが遅かったので急いで支度をした。コーヒーだけは入れて、夜のうちに作っておいたサンドイッチを流し込む。もう外は明るい。

6時50分。小雨の降る中を慌ただしく出発。昨日の遅れも上乗せされ、今日は都城まで50kmは歩かなければならない。少しでも早く出なければいけなかった。

9時00分。清武の町を歩いている時、それを見つけた。竹の子だ。宮崎まで南下したおかげでかなり暖かくなっていたし、もう田植えが始まっているというのなら、きっと竹の子もあるだろうと思ったのだ。道すがら竹林を見かける度に目を光らせていた。そしてついに発見した。春の味覚。今晩のおかずはこれで決まりだ。

10時30分。田野を通過する。雨はまだやまない。道は峠に差し掛かる。車やバイクなででは峠とも言えない様な峠だ。でも歩きにとっては過酷なものとなって立ちはだかる。
今までいくつもの峠を越えてきた。マイナス10度の毛無も、雪の発荷も、一泊二日の箱根も、真夜中の鈴鹿も。だからこんな峠は楽勝なのだ。そう自分に言い聞かせ、今にも上がりそうなあごを気力で引き戻す。一歩づつ足を前に出す。

峠の下りに差し掛かった頃、ついに雨がやんだ。空が少しずつ、本当に少しずつ明るくなる。望む山々はどれも蒸気を立ち上らせ、それはさながら呼吸をしているようだった。
雨を吸い込んだ帽子のつばからは雫がしたたり落ちる。後ろで束ねた髪が濡れ、首筋をひやりとさせる。だけど靴の中まで濡らさずに済んだのは幸いだった。

14時10分。山之口の道の駅に到着。ベンチで休んでいるとまた霧雨が降り始めた。もう雨は無いと思っていただけに、なかなかしつこい雨雲にうんざりする。仕方ない。再度カッパの上だけを着て歩き出す。

峠を下りきり、山之口に到着すると完全に雨があがってくれた。雨雲が去り、青空が見えたのだ。やっと解放された。差し込む光に心が軽くなる。山々は黄金の緑に輝き、虹が架かった。

16時50分。一台の軽トラックに話し掛けられた。ご夫婦が乗っていて、いつもの様に旅の説明をすると、いつもの様に驚かれた。いつもの事だ。
それじゃあと一度は別れたはずなのに、僕の目の前にまた同じ軽トラックが停まった。なんだろう。運転席のおじさんが袋を手渡す。差し入れだった。僕は有り難く受け取る。そして中身を見て驚く。袋には甘乳蘇(かんにゅうそ)が入っていたからだ。

それは日向の道の駅で初めて知った食べ物だった。搾りたての牛乳を煮詰めて作るチーズのようなもので、物凄くおいしくて驚いた。さらに値段を見て驚いた。カマンベールで贅沢と言っている僕には到底手が出せる値段ではなかったのだ。

そんな物を差し入れてくれるなんて申し訳ない。そう思ったが、好意は受け取った方がいい。おじさんは、これは宮崎でしか作ってないし、体に良いから食べて元気を付けてよと言ってくれた。僕は何度もお礼を言いそれを受け取った。

18時20分。都城の市街地に到着。スーパーマーケットで買い物。約48kmは歩いたが、まだまだ余裕がある。やはりこの3ヶ月で体力、筋力とも向上しているようだ。

今日もまた大淀川を見た。川の近くの公園にテントを張ったのだ。川は、昨日とはその姿を変えていた。川幅はわずか数メートルしかなく、源流に近い事を教えてくれる。昨日見た河口近くのゆったりした流れとは対称的だ。

テントに入ると早速甘乳蘇をつまみに買ってきたワインを飲んだ。それはやはり物凄くおいしかった。
昼に取った竹の子は、茹でてから味噌マヨネーズで食べた。それはやはり春の味がした。
今日の夕食はいつになく贅沢なものとなった。食が満たされるというのは精神的に大変良い。僕は満ち足りた気持ちで寝袋に包まった。

今日の歩行距離約51km。

写真1
早朝の宮崎市内を。大淀川から。小雨。

写真2
雨に煙る山々。まるで水墨画の様。

写真3
春の味覚ゲット。今晩のおかず。

2010年4月5日月曜日

歩94日目 宮崎県宮崎市

天候 曇り
気温 6時 10.4度
   17時 18.0度

彼は、今頃どこを走っているのだろう?

ぬるめの露天風呂に首までどっぷりと浸かり、ねずみ色の空をぼんやり見上げながら、そんな事を考えていた。

彼とはもちろんあの彼の事だ。自転車で旅をしている、山陰で出会った彼。彼も今頃九州のどこかを旅している。きっと僕よりもずっと先に九州入りしているはずだ。

その後のルートは分からない。西へ行ったか、東へ行ったか。山に海に温泉に。九州は見所がたくさんで、どこを走ってもきっと楽しい事だろう。

またどこかで会えるかな?
会えたらいいな。

僕はそう思う。それは温泉に浸かりながら。海沿いの道を歩きながら。寝袋に包まりながら。そう思う。
もし彼も同じように思ってくれているなら、それはすてきな事だ。彼は今、荷物を満載にした自転車でどこを走っているのだろう。

5時30分。起床。満開の桜の下で目を覚ます。テントから首だけ出すと、やはり見事な桜が目に映った。朝から気分がいい。

それにしても日本人はつくづく桜が好きだと思う。嫌いだという人を、僕はまだ見たことがない。
なぜだろう。きれいだからだろうか。もちろんだ。しかし、それだけではない。僕は、その儚さに理由があるのではないかと思う。厳しい冬が終わり、春の訪れと共に桜は開花する。見事なまでに咲き誇る。しかし、それはほんの一瞬でしかない。まるで生き急ぐかの如く、実に儚く散ってしまう。盛衰。きっとその姿が日本人の心を打つのではないだろうか。

7時20分。テントをたたみ、荷物をまとめ、ゴミを残さず、最後にそっとありがとうございましたとつぶやく。出発。

9時10分。高鍋町を通過。最近はとても暖かい。歩き出して日が昇るとすぐにTシャツになる。それでもまだ暑いと、ズボンの裾を膝まで捲り上げる。今日も午前中からすでに20度近い。20度と言えば北海道なら初夏だ。北から南へ。季節の移ろいを楽しんでいる。

12時00分。日向大橋を渡る。河口が近く、川は海の色をしていた。
すぐに佐土原の町に着く。スーパーマーケットで昼食。バナナが食べたくなって買ってしまうが、それはとても重いのでその場で一気に食べる事になる。今日も3本食べた。行動食としてバナナは最高なのだけど、買った時はいつも決まってバナナ腹になる。

そろそろ風呂に入りたかった。宮崎の市街地を通る時うまく見つかれば入ろう。もし見つからなくても明日都城でまた探せばいい。そう考えていた。しかし国道添いにふと温泉を見つけてしまった。
まだ14時半だ。一生懸命歩かなければならない時間である。歩行距離は30kmにも到達していなかったし、明るい時間に入ってしまうのはもったいない気がした。
しかし昼風呂も気持ちいい。なにより贅沢だ。歩道に立ち、しばらく腕組みをして考え込んでしまったが、この先うまく風呂が見つかるとも限らない。結局誘惑には勝てずに足を向けた。

ぬるめの露天風呂に首まで浸かる。自然とため息。癒される。露天風呂から見上げる空はねずみ色で、まるで雨の訪れを予言しているようだった。明日はカッパか。仕方ない。まぁ今から心配しても損だ。今はゆっくり温まろう。

18時00分。湯上がりの火照った体を町の風で涼ませる。風呂上がりの外出は気持ちがいい。気付けば宮崎の市街地に入ったようだ。道幅が広くなり、店が増え、マンションが立ち並んでいる。標識にはついに鹿児島の文字。距離は130。やっと捉えた。鹿児島市があるのは薩摩半島で、目指す佐多岬は大隅半島にあるのだけど、鹿児島の文字を見るのは単純に嬉しい事だった。

18時20分。空が明るさを失いつつあり、町の明かりが灯り始めた頃、山形屋の交差点を左に折れた。国道10号にならうとそういう事だった。が、僕はまたすぐに右に曲がった。都城まで国道269号を選んだのだ。犬飼から延岡までと同様に、宮崎から都城までは10号を歩くより269号の方が近い。もちろん山越えになる。しかし歩きの僕にはその方が早かった。

市街地を抜け大淀川を越える橋の上で、またしても腕組みをして考え込んでしまった。今日の寝床だ。もういい時間になっていたが、昼風呂のおかげであまり進めていなかった。あと1時間くらいは歩きたいのだ。しかし夕方の天気予報では、明日の宮崎は朝から雨だと言っている。迷った。1時間分の距離か、雨の撤収か。

答えはあっさり出た。僕は土手を下りると橋の下にテントを張った。出した答えはそういう事だった。
雨の中で濡れたテントを撤収するよりも、明日は午後から晴れるだろうという天気予報に賭けてみたのだ。
果たしてこの選択が吉なのか凶なのか。それは明日にならなければわからない。だけどわかないからこそ、旅は楽しいのかも知れない。

今日の歩行距離約38km。

写真1
曙桜。夜明けの桜もまたいい。

写真2
南国チック。宮崎は至る所に椰子がある。

写真3
ついに鹿児島の文字。ラストスパート。

2010年4月4日日曜日

歩93日目 宮崎県児湯郡川南町

天候 晴れ
気温 6時 9.2度
   17時 18.1度

小さな町だった。
学校があり、神社があり、小さな川が流れ、店は個人で営んでいるものがほとんどだった。この町のメインストリートはわずか数百メートル。夕暮れ時にもなると、歩いている人を見つける方が困難だった。

地方のどこにでもある町だった。だけどさびれた町とは言いたくない。この町にはこの町の良さがある。それは自然かも知れないし、農作物かも知れないし、町に住む人々の温かさかも知れない。通り過ぎるだけの僕には分からない事だ。

いくつもの町を通り抜けてきた。北から南へと。一体いくつ歩いただろう。もう数える事が出来ない。
僕はそんな小さな町をひとつ、またひとつと通り過ぎる度に、少し切ない気持ちを抱く。ずっと昔からそうだった。きっとこれからもそうだろう。

どんな小さな町にもそこに暮らす人々がいる。そして僕はいつだってただ一瞬通り過ぎるだけだ。誰も僕の事を知らないし、見かけた人だって僕の事を覚えている訳ではない。その町に住む人々の人生と僕の人生とは、決して交わる事はない。

通り過ぎる人とすれ違いざま、挨拶をする。だけど、交わらない。子供達が家路を急いでいる。交わらない。窓から漏れる光の先には、一家団らんの楽しそうな声が聞こえる。交わらない。
この土地に根を張り生きている人々がいる。でも決して僕の人生と交わる事はない。そう思うと、なぜだか少しだけ切なくなるのだ。

4時40分。起床。波の音で目が覚めた。相変わらず穏やかな音だった。テントの入り口を開けると、まだ空には星が見えた。太陽の出番はもう少し後。あとわずか夜の支配下だ。

朝からやたら腹が減っていた。やはり夕食を抜いたのが効いているようだ。空腹に任せてサンドイッチをふたつ食べた。つまり食パン4枚。それでも足りなくてさらにビスケット数枚。これだけ食べてやっと腹の虫が鳴きやんだ。どれだけカロリーを消費しているのか。まるで胃袋が知らぬ間にふたつに増えてしまったようだ。

7時00分。出発。今日の降水確率は終日0%。雨の心配はしなくてもいいのだと天気予報は言っている。それはどれほど精神的に楽な事か。それが例え今日1日だけだとしても、とてもありがたいのだ。

延岡から国道10号は海に沿う。左手に絶えず海を意識しながら歩く。それにしてもさすが宮崎。サーフィンのメッカだ。快晴の土曜とあり、サーフボードを積んだ車が行き交っている。サーフショップもよく見かける。さらにはコンビニにサーフィンの本のみならず、サーフワックスまで売っている。種子島、宮崎、高知。冬でも暖かい南のサーフスポットは、北国のサーファーから見ればまさに楽園のようだ。

12時30分。日向の道の駅に到着。休憩と昼食。人が多い。土曜の道の駅は駐車場も満杯だ。14時になって出発。

国道沿いの水田にきらきらと陽の光が反射していた。用水路から水が引かれていたのだ。もう田植えの時期なのか。まだ4月の頭だ。かなり早い。やはり南国か。雪が降らないのだから雪解けを待つ必要もないのだろう。

太陽が西に傾き始めた午後。気温は20度を越えた。道端の小休止は木陰を選ぶ。汗を乾かしながら地図を見る。今日は高鍋町辺りまで行けたらと思っていたが、まだまだ遠くて30km近く残っている。
予定変更だ。明日までに宮崎を通過できればいいのだ。今日の歩行は日没までとしよう。その辺りは臨機応変にだ。

16時40分。国道10号を外れ、都農の町中を歩いた。小さな町だ。なぜだか少しだけ胸が締め付けられる。いつもそうだ。なぜだろう。なぜだかわからないけど、それは大切な事のような気がする。なくしてはいけない様な気がする。僕は、僕の胸の中にまだその感覚が残っていることを確認して、安心する。

18時10分。川南の町に到着した。もうすぐ日没。この町で寝床を決めたい。町の入り口に運動公園の看板を発見した。そこだ。そこしかない。運動公園は大抵いい条件を揃えている。
スーパーマーケットで買い物をして運動公園へ向かった。いい公園だった。きれいで、芝生の手入れが行き届いていた。さらに決め手だったのは、桜が満開だった事だ。

満開の桜の下にテントを張った。日が暮れても寒くはなく、入り口を開け放しビールを飲んだ。思えば今年初めての花見だ。宮崎の地で、夜桜を見上げながらひとり静かに桜を楽しむとは、全く予想出来なかった。
夜空に浮かぶ桜は幻想的で、風になびくと小さな花びらを儚げに舞わせた。それはいつまで見ても見飽きる事がなかった。

今日の歩行距離約42km。

写真1
海辺。心地よい波音。

写真2
水田。もう田植え。

写真3
夜桜。儚く幻想的。

2010年4月3日土曜日

歩92日目 宮崎県延岡市

天候 曇り
気温 7時 14.5度
   17時 16.1度

卵かけご飯が夢だった。

炊きたてご飯に生卵。それに醤油。たったそれだけ。たったそれだけの料理とも言えない食べ物。それが夢になる。
普段なら、いつだって簡単に食べる事が出来た。だけど歩いて旅をしているとそうもいかない。旅をしていると、普段の簡単が簡単ではなくなり、卵かけご飯ひとつ食べることが困難になった。

歩いていると、とにかく腹が減る。自分でも驚くくらい、四六時中何かを食べている。食べなければ体がもたない。足が出ない。それでもいくら食べても体重は変わらない。すべて消費しているのだ。

歩いていると、食べたいものが次から次へと頭に浮かんでくる。自分でも驚くくらい食に対する欲が強くなる。食べることと寝ること。このふたつが今の僕にもっとも大切で、僕に生きる幸せを教えてくれる。

卵かけご飯を急に食べたくなったのはいつだったっけ?熱々ご飯に生卵をかける瞬間を、何度も想像した。そして腹の虫を鳴らした。その度に我慢する。ゴールしたら食べるんだ。そう言い聞かせて。

4時50分。起床。今日はコーヒーではなく牛乳を温めた。昨日牛乳を買っていたのだ。そこに黒糖をふた欠片。優しい甘さのホットミルクで目を覚ます。

子猫が鳴いている。テントのすぐ外だ。野良だろう。かわいそうに。甘やかすつもりはなかったが、あまりに切ない鳴き方をするので、ついに観念してパンの耳を放った。子猫の勝ちだ。子猫は素早くそれをくわえると、暗闇に消えた。

しかし、またやってくる。もう一度投げる。また消える。またやってくる。三度目はない。
「もうないよ」
子猫はその言葉の意味を理解したのか、明るくなっておねだりの時間が終わったのか、どこかへ消えてその後二度と姿を見せなかった。小さいながらもたくましく生きている。

6時50分。出発。小雨がぱらついているが、雨は大丈夫だろう。午後からは晴れの予報。雨を降らせた前線が過ぎ去り、高気圧が近づいて来ている。

7時40分。宮崎県に入った。残すはゴールの鹿児島県のみとなる。
延岡までは渓谷に沿って歩いた。川は深緑で、桜が散り始め、遠くでうぐいすが鳴いていた。のどかだ。静かでいい。

「歩きね?」
一台の車が停まった。
「ずっと歩いちょっと?」地元の言葉が嬉しい。
「今日はどこまで?」
えーと、延岡の市街地は過ぎたいんだけど、あれはなんて町だったっけな…
「歩いてるなら乗せられんね。そうだ、昼飯食べていきなさい。うん。そうしなさい」
おじさんは僕の返事を待たず、電光石火で話を決めてしまった。
「なんか食べたい物あると?」
食べたい物なんて両手で数えても足りないくらいある。しかしそんなことは言えない。
「よし。うまかもん食わしてやる」
言われるがままだった。この先20kmほど進んだところで待ち合わせをした。
「いやぁ楽しかね」
おじさんは独り言のように言うと、車を走らせ行ってしまった。僕はただ何も出来ず立ち尽くしていた。

10時20分。国道10号にぶつかった。1泊2日の山越えによるショートカットが終わった。出てきた標識には宮崎まで100kmとある。宮崎市まで行けばゴールが見えてくる。都城。鹿屋。根占。佐多。4日あれば佐多岬まで行けるだろう。

12時00分。北川の道の駅に到着。少し長めの休憩。空は本来の明るさを取り戻しつつある。日が差せば、もっと気温も上がるだろう。上着を脱ぎTシャツになる。

周りを取り囲んでいた山々の尾根が徐々に低くなり、目に映る田畑の占める割合が増えた頃、約束のトンネルが見えた。抜けると、おじさんがいた。
「もう着く頃かと思って」
自転車にまたがりながら微笑んだ。僕の到着を待ってくれていたようだ。なんて親切なのだろう。

14時30分。おじさんの家には上がらせてもらう。奥さんが迎えてくれる。すぐに食卓へと通された。座った目の前にはおじさん夫婦の友人が買ってきてくれた宮崎名物のチキン南蛮があった。
「宮崎といえばチキン南蛮だけど、延岡のこの店のはタルタルソースがかかってないんだよ」
そんな風な事を宮崎弁で言った。見ると確かにタルタルソースはかかっておらず、僕のイメージするチキン南蛮とは違っていた。

さらにおじさんは席を立つと、どこからか卵を持ってきた。これは高千穂の農家から直接買った生みたての卵だ。やはり宮崎弁でそう言った。
生みたて卵?なんて贅沢な!
今、僕の目の前には炊きたてご飯に生卵という、夢にまで見たふたつが並んでいた。それは紛れもない現実として。
「いただきます!」
僕は、無心で食べた。卵かけご飯も、チキン南蛮も泣けるほどうまかった。しかしそれだけではなかった。次から次へと料理が出てきたのだ。鰻の蒲焼き。鰺の煮付け。ふきの煮物。デザートには奥さん手製のアップルケーキ。食後のコーヒーまで。これでもかと並べられた料理には目移りして、ぐるぐると目がまわるほどだった。

ご飯は3杯食べた。コーヒーも2杯飲んだ。満腹だ。あまりの食べっぷりの良さに、見ていて気持ちがいいとまで言われた。
「うちはよく旅人を連れてきてはご馳走してるのよ。みんなよく食べてくれるから気持ちがいいわ」
奥さんは楽しそうに言った。

聞くと、旅人を見かけては声をかけ、食事をご馳走したり泊めてあげたりしているらしい。僕の他にも何人か歩きの旅人を迎え入れた事があるようだった。

楽し時間はあっという間で、気付ば1時間半も居座ってしまった。僕はまだまだ先に進まなければならない。ご夫婦とその友人にお礼を言い、お互いの住所交換をして家を出た。

国道に戻り、いつもの様に歩き出す。もしかしたらさっきまでの出来事は夢だったんじゃないだろうか、そう思えてしまう。卵かけご飯も、チキン南蛮も、おじさん達の笑顔も、全て。朝の子猫の様に、腹を空かした僕の妄想だったんじゃないだろうか。そう思えてしまう。それはあまりに信じがたい出来事だったからだ。
しかしもらった住所のメモと、満たされた腹がそれは現実だと語っていた。

延岡の町を幸せな気分で抜け出し、土々呂公園を見つけたのはもう日が暮れて薄暗くなった頃だった。
いいタイミングだったし、いい公園だった。トトロ公園。名前もいい。海辺にあるのもまた良かった。
海の見える場所にテントを張った。小さな漁港が見え、湾になった内海は穏やかで、心地よい波音が聞こえた。しばらくテントから海を眺めていた。普段ならすぐに夕食の準備に取り掛かるのだが、昼過ぎにあれだけ食べたから全く腹が減っていなかったのだ。

結局何も作らず何も食べず、ただ波の音を聞きながら昼間の出来事を思い出していた。皆の笑顔が波の音と共に浮かんでは消えていった。見上げた夜空には、もう丸くはない月があった。宮崎に、忘れられない旅の思い出が出来た。

今日の歩行距離約41km。

写真1
渓谷沿いに歩く。九州らしい風景。

写真2
夢叶う。この数秒後、新鮮エッグが炊きたてライスに豪快ダイブするのであった。

写真3
旅のお守りをもらった。くるみ。バックパックに付けると、歩くたびにカチカチと乾いたいい音がした。

2010年4月2日金曜日

歩91日目 大分県佐伯市

天候 曇りときどき晴れのち雨
気温 6時 13.0度
   17時 20.5度

今日は長距離を歩いた。結果は56km。とても長い1日となった。

50kmを歩くとすれば、やはり体力のある午前中に25kmは進みたい。夕暮れにもなると明らかにペースが落ちてしまうし、早く着けばそれだけ長く休めるからだ。
しかしそのためには休憩を減らすか短くするか、足を一生懸命動かすかのどちらかの方法しかなく、その分疲労は溜まる。決して50kmの距離が縮まる訳でもないし、楽になる訳でもない。世の中実にうまくできているものだ。

5時00分。起床。寝不足だ。重いまぶたをこじ開け、さらに重い体を地面から引き剥がすように起きた。寝起きはいつも体の節々が痛む。寝袋のままでストレッチ。それでもテントからトイレまでの間をよたよたとまともに歩けない。
いつもの朝食。スープ、サンドイッチ、コーヒー。ゆっくり目が覚めていく。

6時40分。出発。空は薄曇り。今のところ雨は降っていないが、今日は雨予報。荷物にはしっかり雨対策をして、カッパは一番上に入れた。

それにしても暖かい。朝から13度もある。今日は暑い1日となりそうだ。
歩き初始めてすぐに大分川を渡る。薄いナイロンヤッケを着ていたが、歩いているとそれさえも要らず、朝からすでにTシャツになった。

今日は宇目の道の駅まで行きたい。50km以上はある。かなり遠い。それでも睡眠の事を考えると、なんとか21時までには到着したいところだ。

国道10号はこのまま宮崎方面に続いているが、今日は国道326号を歩く事にした。なぜなら延岡市まではその方が近道だったからだ。
地図を見るかぎりでは20km以上は違う。10号は山を迂回するように佐伯市を通り延岡へ向かう。326号はそのまま山に入り、まっすぐに延岡へ向かう。多少山に入ろうが、なにせ20kmだ。車ならちょっと遠回りで済むが、歩きだとそうはいかない。僕の半日の工程にあたる。時間にして約6時間。そのためなら喜んで山を越えよう。

11時10分。約20kmで進んだところで326号に乗った。犬飼の町のコンビニで休憩する。20kmといってもまだ今日の工程の半分も来ていない。肌にまとわり付く汗が引くのを待ち、これからこれから、自分にそう言い聞かせて立ち上がった。

12時45分。三重の道の駅に到着。暑い。日陰のベンチで昼食と休憩。残りは30km弱か。かなりある。果たして21時までに到着出来るだろうか。
まだ雨の気配はない。雲は流れておらず、このままもってくれれば、なんて淡い期待を抱いてしまう。

15時00分。三重の市街地を通過。ついでに買い物。今日はそばにした。肉とろろそば。わさび菜入り。最近はまた麺類続きだ。でももう2kgの米は買いたくない。ゴールまであと少しの我慢。

15時30分。ついに風が出てきた。雲が動きだす。まだ青空が残っているが、それも猫の額ほどだ。やはり予報は当たってしまうのか。いつ降られてもいいように覚悟はしておいた方がいいだろう。

峠に入った。三国峠を息を切らせながら登る。長い長い登りだ。いくつものトンネルを抜け、その度にもう頂上なんじゃないかと期待するが、僕の勝手な願いなどお構いなしに道はどこまでも登っていた。
やはり峠きつい。それでも20kmが縮まると思えば頑張れる。峠から眺める景色にも救われる。

17時40分。三国トンネルを抜けると佐伯市に入った。やっと道は下っていた。しかし、下りは登りよりも慎重だ。焦って歩けばすぐに膝をやってしまう。大切な膝をかばうように山を降りていく。

19時30分。道の駅まであと7kmの地点で、すっかり暗やみに包まれた。宇目の町を過ぎると街灯一本ない道で、左右には山が迫り、ライト無しでは足元さえ見えなかった。
それでも見上げる空には星があった。まさか星を見ながら歩くとは。今頃はカッパを余儀なくされているはずなのに、気まぐれで雨が遅れているようだ。ありがたい。今のうちに道の駅まで歩いてしまおう。

20時40分。宇目の道の駅に到着。なんとか21時前に到着出来た。しかし全身かなり疲れている。重いバックパックを下ろすと突然身が軽くなって歩き方がおかしくなる。
テントを張り、マットの上で足の裏をマッサージする。痛みが心地よい。足の裏も膝も、連日の酷使に耐え、本当によく頑張ってくれている。佐多岬まであと少し。願うような気持ちでマッサージをした。

雨は結局夜にやってきた。テントを軒下に張ったので濡れることはない。今日は雨に打たれるだろうと思っていただけに、星を見ながら歩けた事はとても幸運だった。寝袋に包まりながら耳にする雨音は、いい子守唄となってくれた。

今日の歩行距離約56km。

写真1
大分川を越える。長い1日の始まり。

写真2
三国峠を越える。果てしない登りに息が切れる。

写真3
小さくても孤独でも、強く生きる。

2010年4月1日木曜日

歩90日目 大分県大分市

天候 曇りのち晴れのち雨
気温 7時 8.4度
   17時 13.1度

「こちらは改装したてですから、新しいのがよければおすすめです。で、こちらは古くからやってますから、情緒を楽しみたいならおすすめです」

そう言われたら、あなたはどちらを選ぶ?

温泉の話だ。別府に到着した僕は、駅の観光案内所にいた。温泉の場所を聞いていたのだ。目の前にいるお姉さんは、地図にふたつ丸を書き加えながらそう説明してくれた。

4時30分。起床。いつもより早めに起きた。明るくなる前にすべて片付けておかなければならない。朝食を食べたらすぐに片付けにかかった。5時過ぎに電車の音がした。駅には停まらず、長い通過音だったからきっと貨物列車だろう。徐々に空が白みはじめた。なんとか6時前には撤収が完了した。

6時30分。駅の待合室でしばらく休憩してから出発した。今日は一面の曇り空。雨は大丈夫だろうか。明日から天気は下り坂だという。前回雨に濡れたのはいつだっけ?まだ山陰を歩いていた頃だ。最近は雨に当たっていない。幸運なことだ。

9時20分。赤松峠を下ると別府の町が見えた。鈍色の海を抱え込むように左に大きくカーブしている湾があり、町はそこにへばりつくようにあった。背後には背の高い山々が見える。あれを越えれば由布院に着く。
湾の向こう岸には、乳白色の幕に包まれたように大分の市街地がうっすらと見えた。高い建築物があり、まるで洋上の要塞だ。
今日、僕はあそこまで歩く。遠い。海の向こうに霞んで見える町は、遥か遠くに感じる。ぐるりと海をまわりこむように、これから僕が歩くべき道が続いていた。

11時00分。青空になった。気温は14度。日差しも強い。たまらず上着を脱ぐ。吹き抜ける潮風が心地良い。Tシャツになったのは久しぶりだ。九州に入ったら暖かいだろうと思っていたのだが、寒い日が続いていてなかなかTシャツにはなれないでいた。やっと春らしくなったようだ。

13時30分。別府駅に到着した。観光案内所に入る。カウンターにいたお姉さんに温泉の場所を尋ねると、とても親切に教えてくれた。
駅の近くにはみっつあった。しかしひとつは以前に入った事があり、なので残りのふたつでどちらがおすすめかを聞いた。お姉さんは少し考えたあと、実に的確なアドバイスをくれた。僕は、迷わず情緒を選んだ。

14時00分。情緒ある温泉に到着した。そこは、竹瓦温泉という本当に情緒溢れる温泉だった。外観からしてすてきだったが、中はさらにすてきだった。明治12年創業で、現在の建物は昭和13年に造られたという。
入浴料の100円を払い、湯に浸かる。いい湯だ。とてもいい。浴室の天井が見上げるほど高く、雰囲気も最高だ。もちろんシャワーなんてない。昔からの風呂屋にそんなものはない。桶ひとつで十分なのだ。

ゆっくりと温まり、休憩所でくつろぐと、時計は16時近くまで回っていた。しかし、僕はなかなかそこから立ち上がれずにいた。いつの間にか雨が降っていたのだ。いくら待てども雨はやまず、仕方なくカッパを着て外に出た。すでに16時20分になっていた。

強くはないが決してやむことのない雨は、しっとりと全ての物を濡らしていた。もちろん僕もその中のひとつ。徐々に近づく大分の町を見つめながら、海沿いの道をひたすら歩いた。

18時20分。要塞の様に見えた町に入った。明日の事を考えると少しでも先に進みたい。しかしこの雨では屋根が欲しいところだ。とりあえず地図で目星を付けておいたが、実際には行ってみないとわからない。最悪橋の下でも仕方ない。

20時00分。候補の運動公園に到着した。ぐるりと見てまわる。予感は的中。いいあずまやがあった。十分テントを張れる。よしよしやったぞ。そう思い近づこうとして、やめた。なぜならそこには恋人達が肩を寄せ合って愛をささやいていたからだ。
なんてことだ!
これじゃあとても近付けない。僕は、ただ指をくわえて見ているしかなかった。

とにかくだ。考えよう。まずここに突っ立っていても仕方ない。そうだな。コンビニに行ってビールでも買ってこよう。ゆっくり戻ってくれば、もう居なくなってるかもしれない。

甘かった。そう簡単に愛のささやきは終わらない。どうしたものか。僕は疲れているし腹も減ったしこんな時間だし早く休みたいのだが、テントを張るからちょっとそこをどいてくれないか、なんて事はとても言えない。雨の日のあずまやの使い方として、正しいのは僕じゃなく彼らの方なのだ。
だからといって今から他を探すわけにもいかない。とにかく僕は、彼らがささやき疲れるのを待つしかなかった。

21時50分。やっとささやき疲れたようだ。空いたあずまやに素早くテントを張る。10分で全て完了した。手慣れたものだ。
すぐに夕食をる。せっかくのビールはもう冷たくなかったけど、飲み終わる頃には強烈な睡魔に襲われていた。まぶたを閉じればすぐにでも夢の世界へ引きずり込まれそうだった。必死の思いで歯を磨き、誘われるがままに寝袋に包まると、安堵のため息と共にトーチのスイッチを消した。

今日の歩行距離約41km。

写真1
日出(ひじ)の町から別府を望む。峠を越えたらこの景色。

写真2
こちらは情緒を楽しみたい方おすすめとなっています。入浴料は衝撃の100円。価格破壊。

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要塞への入り口。司令塔は、恋人達による甘く強固な守り。