2012年10月13日土曜日

ダリエン・ギャップは優雅に越えろ! vol.6

朝の起き抜けにビールとはなんと贅沢なのだろう。まだ皆が寝息を立てている早朝、ひとり部屋を出て海を眺めながらのんびりとビールを飲んだ。移動中とはいえバイクを運転するわけではないので今は特別だ。


9時に船が島へ到着して僕らを乗せると、カルティ港でひとりの男を迎え入れた。そこには1台の自転車があった。太いフレームのマウンテンバイクはいかにもタフな長旅仕様で、これまでどのような道を走ってきたのだろう、その過酷な旅路を想像させた。持ち主はドイツ人のヘンス。彼もまたこの船で南米へと渡る旅人だった。

この旅で自転車乗りとじっくり話しをするのは初めてだった。もちろん何人かの自転車乗りには出会っていたが、道中で挨拶程度に会話をする程度だった。ヘンスはいかにもドイツ人らしい好青年で、多くのバイク乗り、自転車乗りがそうであるように、アラスカからアルゼンチンを目指して走っていると言った。

ヘンス。

アラスカから走り出してここパナマまで、その道のりはさぞ大変だったことだろう。そしてこの先も間違いなく大変なはずだ。ご苦労なことだと思う反面、それが僕にはうらやましいとさえ思えてしまう。それはバイクを船に積み込む際、大型のバイクを見てもちっともうらやましいと思えなかった気持ちに通じている。大型のバイクはうらやましくないが、自転車はうらやましい。僕の中で旅とは、やはりそういう位置づけにあるのだと強く認識した。

やはりこの旅は南米で一旦終止符を打とう。それはメキシコに到着する頃には芽生えていた気持ちだった。カナダから走り始めてまだ3カ国目のことだ。
世界は広い。アメリカ大陸が終われば、次はヨーロッパ、アフリカと次なる大陸への夢が待ち構えている。しかしこのままバイクで旅を続けようとする情熱は、徐々に薄れつつあった。

理由は多々あるのだが、簡潔に述べるなら「楽」ということだ。メキシコ・シティーの日本人宿で感じていたあの気持ちは今でもはっきりと思い出せる。当時の僕はそれをこう記している。

***

そのときの僕はドミトリーのベッドに仰向けに寝転がり、両手を頭の後ろで組んでぼんやりと高い天井を見上げていた。部屋の中にはゆっくりとした時間が流れていたが、僕の心は激しい浮き沈みを繰り返していた。

(この旅は南米で終わらせようか)

そう思い始めていたのだ。

メキシコ・シティーに到着するころには悶々としていた。カナダのバンクーバーから走ってきた。世界はやはり広かったし、非力な125ccのバイクでの移動は想像通り、いやそれ以上に大変な日々だった。しかし、なにかが足りなかった。いくら非力とはいえ、バイクは文句ひとつ言わず自動的に僕を運んでくれる。さらには荷物までも載せてくれる。なにかが足りなかった、絶対的に。心身を酷使して得られる高揚感というものが。

南米まで行けば、ヨーロッパやアフリカは近い。日本から直接向かうよりも格段に楽だ。航空券も安く買えるし、バイクを渡すための航路もかなりひらけている。だから日本を出る前は(資金の問題はあるが)大陸を変えて旅をしようと思っていた。とくにアフリカは行ってみたい大陸だったという理由もある。だけど、このままバイクで旅を続ける情熱が、徐々に薄れ始めていた。

日本からバイクを持ち出して、それで世界の国々を陸伝いに旅をするなんて、それはもう僕の中では「大冒険」だった。それは「すごいこと」として位置づけられていた。本を読んだり、雑誌の体験記を読んだりするだけで胸が熱くなった。いつか僕にもできるだろうか。そう思っていた時期があった。

だけどいざ自分が飛び出してみると、いつの間にか「すごいこと」が「すごくないこと」にすりかわっていた。確かにバイクだから大変なこともある。厄介なことだってあるし、危険なこともある。だけどあの当時感じていた胸の高鳴りは今、すっかりその居場所をなくしていた。やろうと思えば誰だってやれること。つまりはそういうことだった。

やろうと思っても、本当に困難なこと。それを達成してこそはじめて満足を得られるものだ。達成感は、その工程における困難さに比例する。ならばそれはいったいどんなことだろう。安宿のベッドの上に寝転がり、激しい心の浮き沈みを感じながらそんなことを考えていた。

***

ヨーロッパやアフリカへの夢を諦めたわけではない。だが今一度考え直す必要がありそうだ。ヘンスの自転車を目の前にして、その思いが一段と強くなった。
このバイク旅に向け、他の一切を切り捨て一本にしぼってきた道だったが、それはまたいつの間にか目の前に無限となって広がっていた。

つづく。

2012年10月11日木曜日

ダリエン・ギャップは優雅に越えろ! vol.5

セイルボートは、ゆっくりと僕らに向かって近づいてくる。海に突き出た桟橋の上で、滑るように近づくボートを見つめていた。

(あの船で南米に渡るのか)

期待が胸いっぱいに広がった。

桟橋の上には4台のバイクが一列に並んでいた。すべての荷物がはずされ、船へ積み込むための準備は万端だった。
いざこうやって並べて見比べると、やはり僕のバイクは貧弱だ。650ccの大型と125ccの原付では、宝塚の舞台と幼稚園のお遊戯ぐらいの差がるように思える。だけど、不思議とうらやましいとは感じなかった。事実もしこの場でバイクを交換しても良いと言われたとしても、僕は間違いなく首を横に振るだろう。

船がすぐ近くまで来ている。キャプテンがゴムボートに乗ってやってきて、すべての荷物と(なぜか)僕だけを乗せて船に向かった。荷物を船に上げたらいよいよバイクの番だ。船が桟橋へ近づき、荷物を積み込むための大きなウィンチでバイクを引き上げる。ロープに固定したバイクは大型でさえあっさりと持ち上がった。重量がその半分もない僕のバイクなど、まるでおもちゃのようだ。もう1台バイクがあると聞いていたが、まだ到着していないらしく、明日積み込むことになった。

 桟橋にバイクを移動し、

船が近づき、

ロープで固定してから、

 こんな感じで積み込んだ。


もちろんイーハトーブも。

一通りの作業が終わると、船は沖にあるひとつの島へと向かった。そこで僕らバイク乗りが降ろされる。ツアーは明日からなので、他の乗客は明日にならないとやってこない。だから今日はこの島で一晩を過ごす。

ここサンブラス諸島にはクナという民族が今でも生活をしている。独特の文化をもち、女性たちはモラと呼ばれる色鮮やかな刺繍が施された民族衣装に身を包み、腕や足にビーズの装飾をあしらい、鼻に金のピアスをする。陸のインディヘナたちとは対照的にほっそりとした体型なのも特徴的だ。島の人たちが口にするのは必然的に海のものが主となるためだろうか。推測だがやはり食事による影響が強いのではないかと思う。

宿を探す。といってもぐるりと歩いて5分もあれば十分な小さな島には宿がひとつしかないようだ。宿、とは言っても竹で作られた壁に茅葺の屋根が乗せられているだけの簡素なもので、床などなく地面そのまま。そこにベッドがふたつとハンモックがふたつあるだけで、入り口に扉もなければ電気もない。しかしどの家も似たり寄ったりなので、クナの人々にとってはこれが生活の標準なのだろう。

クナ族の暮らす島へ。
 
 集まったバイク乗りたちと。

さて、これから明日の出航までやることはない。さらに言えば出航後もたいしてやることはないだろう。僕的には南米大陸への移動という大目的を果たすこの航海だが、実際はツアー扱いなので、ベッドも毎回の食事もすべて用意されている。船の上でごろごろしていれば自動的に南米に到着してしまうというわけだ。パナマ・シティーでの奔走に比べると天と地だが、高い金を払っての参加なのでどうせなら優雅に過ごしてやろうと決めた。

島内をぷらぷらと歩いた。小さな小さな島だ。村の中を歩くと子供たちが僕らの周りにワイワイと集まってくる。とても人懐こい。反面大人たちはとてもシャイだ。土産物を売る女性たちは土産物を手に持ち家屋の戸から半身を出してくるのだが、特に呼び込むこともなく、静かに僕らの行方を見つめている。「オラ」とこちらから挨拶をすると、面映そうな笑顔が返ってくるだけだ。観光用に解放された島(他の島は規制で旅行者が立ち入ることが出来ない)なのだが、未だ人擦れしていないところがとても素敵だ。




モラと呼ばれる刺繍。
独特の色使いだ。

女性たちの衣装がとても美しい。

村の少女たちと。

商店を見つけビールを買う。電信柱らしきは見かけたので島内に電気は来ているようだが、冷えたビールを買うことはできなかった。
島の周りには同じような島々が点々としていて、人々はそこを丸太をくりぬいたボートで行き来する。大きな湾の中にあるため波はほとんどない。よって丸太ボートで事足りるのだろう。暮れなずむ海にぽつりと浮かぶ丸太ボートは今も昔も変わらぬ人々の生活を偲ばせ、その日眺めた夕焼けは、この旅で見たどれよりも美しいと思えた。

丸太ボートに乗せてもらった。
不安定でとても怖い。

丸太ボートは今でも生活の足だ。



キャプテンはじめ船のクルーたちが島へ上がってきた。ツアーが開催される度に島を利用するのだろう。キャプテンは島の人々と顔見知りのようだ。

その夜、宿の前でクナの若者たちが民族舞踊を披露してくれた。夕暮れが過ぎ、とっぷりと暗くなった中で厳かに始まったそれはとても幻想的かつ精神的で、僕は一瞬にしてぐいとその世界に引きずり込まれてしまった。

とてもよかった。男たちはゴマと呼ばれる竹筒を組み合わせたサンポーニャに似た楽器を吹き、女たちはマリンバのようなものを手にもつ。輪になり、跳ね、回り、自在に交錯しながら舞う。それは力強くもあり、しなやかでもあった。独特の音楽は、リズムといい音階といい耳に心地よく、体の芯に響いた。生物と自然を尊ぶクナ族の精神が、じかに体内に流れ込んでくるようだった。

心が揺り動かされたクナ・ダンス。

舞踊を存分に堪能した後は、宿の人が用意してくれたディナーを皆で楽しんだ。ペスカード・フリート(魚のフライ)に米、トマトソースとサラダ。目の前の海からとれた新鮮な魚は実にうまかった。

食事中も舞踊の余韻がいつまでも体から抜けなかった。それほど新鮮で興味深いものだった。幸せのため息とともに見上げた空に、零れんばかりの星が瞬いていた。

つづく。

2012年10月10日水曜日

ダリエン・ギャップは優雅に越えろ! vol.4

朝4時に目をさます。まだまだ寝たりないと勝手にまぶたが下りそうになるが、今日はそれどころではない。カルティ港に向けて、南米に向けて、5時には走り出さなければならない。

暗い部屋の中で出発の準備を進める。周りのベッドでは誰も彼もが寝息を立てている。起こさぬよう静かに行動する。といっても昨日のうちにあらかたパッキングを済ませているので、顔を洗い歯を磨き、服を着替える程度のことだ。

せっかくの僕の苦労を無しにしたのは、隣のベットに泊まっているアルゼンチン人だった。僕が起きたとき、そこに彼の姿はなかった。こんな時間にベッドにいないとなると、外で飲んでいるか他で寝ているか。まさかどこかで野垂れ死んではいないだろう。心配などはしていなかったが、4時半ごろになり案の定かなりご機嫌な様子で部屋に戻ってきた。
酒で思考がまともに働いていない。皆寝ているというのに、普段よりも大きな声で話しをする。なだめるのに一苦労だ。

彼とはベッドが隣ということもあり、よく話しをした。僕のつたないスペイン語でもきちんと聞いてくれる数少ない理解者だった。

「ついに出発するのか」
「うん。これでやっと南米だ」

固い握手で別れた。アルゼンチンに来たら遊びに来いよ。なにか困ったことがあれば連絡してくれ。「Your problem is my ploblem.」その言葉がうれしかった。

5時きっちりにホステルを出た。空は明るさを取り戻し始めたところで、まもなく日の出といったところだ。日中の凶暴な暑さが嘘のような涼しさの中、バルボア通りまではすんなりと出ることができた。しかし、そこから当然のように道に迷う。市街地はやはり手ごわかった。郊外へ抜けるだけで精一杯。仕方なく途中から高速道路に乗り、トクメン空港までたどり着く。パンアメリカン・ハイウェイに乗ればエル・ジャノの村まで一本道だ。そこから左に折れれば自動的にカルティに到着する。

朝焼けのパナマ・シティーを後に。

エル・ジャノに入ると道はダートになった。こうなるとこの先の山越えが心配だ。しかしカルティへ向かう道へ折れると、道は舗装されていた。助かった。それはかなりの峠で、1速を使わなければ登ることが出来ない場所も多々あったから、もしこれが悪路だったりしたらかなりしんどいことになっていただろう。

北へと向かう道を何度も上り下りをして山を越える。道はやがて行き止まりになった。海に突き当たったのだ。聞いた話ではそこがカルティとのことだったが、目印となる空港がみあたらない。あたりを見渡すが、好き放題に雑草が生い茂るただの空き地があるだけだった。
どこかで道を間違えてしまったか。分かれ道らしきは見当たらなかったが、見落とした可能性は十分にある。時計を見るとまだ9時半。時間に余裕はあった。

「すみません。カルティに行きたいのですが」
「カルティ?ここだよ」
「ここが?空港があると聞いたのだけど」
「ここが空港さ」

尋ねた地元民が指差したのは、例の雑草まみれの空き地だった。これが空港?まさか。これはただの空き地だ。こんなところに飛行機が離着陸できるはずない。

「昔の話だよ」

男は肩をすくめて笑った。

約束の時間までたっぷり1時間以上あった。もっとも遅れるよりは良い。男にここで待っているといいと案内されるまま、近くにあった小屋で休ませてもらった。ベンチに座る。水をもらって一息つくとと、朝早かったためかとたんに眠くなってしまった。そのままベンチに横になり、タンクバッグを枕にして少し眠る。

カルティ到着。

 小屋で休ませてもらった。

なんの進展もないまま時計の針が11時を少しまわってしまった。海に目をやるもボートは見えず、まして他のバイク乗りも現れない。海辺の小さな村はのんびりとした雰囲気に包まれているが、そんな雰囲気とは裏腹に僕は心配になった。

ひとりの男が僕の名前を口にしたのはそのときだ。背は低いが横に広く、僕よりもずいぶんと体重がありそうだ。日焼けした肌は浅黒く、つたない英語と片言の日本語を話すインディヘナだった。曰くまだ他のバイクが来ていないのでボートは沖で停泊中らしい。どちらにせよ12時過ぎにはボートが来るというので、それまでのんびりと待つことにした。

男はいくつかの日本語を知っていた。なぜ日本語を知っているのか、と尋ねると、少し前までパナマ・シティーのホステルで働いていたんだ、と言った。それは僕が泊まろうとしたがなくなっていたあのホステルで、訪れる日本人から教えてもらったんだと自慢げだった。なるほど、と納得はしたものの、きっと日本人旅行者が面白半分で教えたのだろう、男は卑猥な言葉ほど良く知っていたので、あまり良い気分にはなれなかった。

しばらくすると太い排気音が聞こえ、目の前に3台のバイクが止まった。スズキのV-Storm650。色違いだがいずれも同じマシンだ。乗っていたのはアメリカ人とカナダ人のタンデムカップルに、チェコ人がふたりという組み合わせだった。

つづく。

2012年10月9日火曜日

ダリエン・ギャップは優雅に越えろ! vol.3

いよいよ南米大陸への道が開けつつある。中米のどん詰まりパナマ・シティーまで南下してきたが、そこから先は陸路で移動することができない。なにせ道がない。だからたどり着いてはみたものの、僕の南米への扉は重く閉ざされたままだった。
しかしパナマ・シティーへ到着して6日目、僕はひとつの鍵を手にしていた。もちろん南米への扉を開けるための鍵だ。

最大19台載せられるセイルボートにバイクが5台では、人が少ないのかもしれない。このセイルボートを逃すと近々バイクを積めるボートは出向しないにもかかわらず。たまたまなのか、時期的なものか。世界を走るバイク乗りたちは今どこを走っているのだろう。

英文作成は四苦八苦だ。インターネットの翻訳サイトを頼りに、脂汗をかきながらセイルオートのキャプテンに返事を書く。えいと送信ボタンをクリックすると、着実に南米へと歩んでいることを実感できた。清々しい気分だ。
これでなんとかコロンビアへ渡ることが出来そうだ。一時はどうなることかと思ったが、目の前の霧が晴れ、すっと肩の荷が下りたようだった。人とバイクで900ドルという金額は痛い出費だが、無事に渡れるなら喜ばしいことだ。

送られてきたPDFファイルを何度も読み返した。英文書なのでとても一読しただけでは細部まで理解できない。何度も読み返し、出航までの流れを飲み込む。
スケジュール上ではパナマ・シティーより北東へ進んだカリブ側のカルティ港を9日発としているが、バイク乗りだけは8日の昼11時までに港集合との指示だった。前日にバイクを積み込む必要があるらしい。今日は6日なので、それはもう明後日のことだ。にわかに忙しくなった。

翌日は出航に向けての準備に精をだした。メールのやりとり、港までの道順の確認、食材整理、パッキング、そしてビールの買出し。
道順がちょっとやっかいかもしれない。11時までに港に行くとなると、距離的に見て朝5時には出発したほうが無難だ。だいぶ余裕を持たせているが、パンアメリカン・ハイウェイから港まで北上する道は悪路のようだし、市街地を抜けるまでに道に迷うことが十分に考えられた。間に合わないのは致命的だ。

とりあえず歩いて見られる範囲で、バルボア通りまでの道順を確認する。市街地はやたらと一方通行が多いので、事前に調べておかないとスムーズに走られない。とりあえずバルボア通りまで出れば、イメージ的には一本で郊外のトクメン空港近くまでいける。なんとかそこまでたどり着ければ、あとは比較的分かりやすいだろう。

しかし暑い。ホステルの部屋でさえ30度を超えている。外に出てぎらつく日差しを浴びた途端、汗が吹き出てる。買い物から帰るだけでシャワーを浴びる始末。ボケテでの涼しい日々が懐かしかった。

すべての用事を終わらせ、明日からのことを考えるとなんとも不思議な気分だった。パナマのカルティからコロンビアのカルタヘナまで、4泊5日の工程で南米へと渡る。それにより長かった北中米の旅が終わり、新たに南米の旅が始まる。まだ見ぬ大陸で、いったいどんな出来事が僕を待ち受けているのか。ドミトリーのベッドにごろりと寝転がり、ぼんやりと天井を眺めながらそんなことを考えた。答えは行ってみなければわからない。それでもあれこれ想像するだけで自然胸が高鳴った。

やはりセイルボートを選んだのは正解だと思えた。バイクと共に移動できるのもうれしいが、なんといっても海を渡るという行為が心の琴線に触れる。旅心が踊る。飛行機にこの昂揚感はない。

セビチェ&ビール。
この昂揚感!

つづく。

2012年10月8日月曜日

ダリエン・ギャップは優雅に越えろ! vol.2

バイクで新市街へと出かけた。これから南米へ渡るには、どうなるにせよまとまった現金が必要だったし、必要な書類のコピーも作成しなければならなかった。ついでに新市街にあるママジェナ(タクシーの運転手に教えてもらったホステル)にもセイルボートの情報があるというので、出向いてみることにした。

 泊まったホステル。

 ホステルの目の前は教会だった。

新市街のビル群の中、渋滞につかまりながらもバイクを走らせる。ひとりの警察官にバイクを止められたのは交通量の少ない路地裏に入ったときだった。それ自体よくあることなので、そのときは「またか」程度にしか思わなかった。

しかしこの警察官がいけなかった。陰湿という言葉がこれほど似合う男はいないんじゃないかと思えるほどで、パスポートから免許証、登録証、ペルミソ、保険証書に至るまで、必要な書類は細部までチェックされた。国境や検問でならそれも分かるが、町中の警察官にここまでされたのは初めてだった。

しかもあろうことかペルミソの欄に記入漏れがあるなどと言い始めた。(何を言っているんだこいつは?)自国で発行した書類に文句をいうなと思った。もし仮にそれが本当に駄目だったとしても、それはお前の国の落ち度になるのではないか?

「これはパナマ税関が作ったペルミソだ。税関のオフィサーはこれでパナマに入っていいと言ったんだ。どこか問題があるのか?」

強い口調になっていることに自分でもおどろいた。なるべく穏便にと思っていたのに、重箱の隅をつつくようなこの警察官のしつこさのせいだ。しかしこいつとはまともに話しをしても埒が明かないと思えたのも事実だ。
もしこれでも開放してくれないなら「僕ではもうわかない。日本大使館に電話をするから」という最終手段も辞さない気分だった。

警察官は折れた。さっさといけと言わんばかりに僕を手で払いのけた。もうこいつは面倒くさい。そう思ったのだろう。いい気分はしなかったが「グラシアス」とだけ言い残してその場を立ち去った。

すべての警察官がこうではない。ヘルメットのシールドを上げ、僕が旅行者だと分かると、形式上書類のチェックこそすれ(それさえしない場合も多々あるが)、大抵は友好的に接してくれる。中には冗談を交えたり、「気をつけて」と声をかけられる場合も多い。ちっぽけないち旅行者に目くじら立てるなんてナンセンスだと思うのだが、稀にこういう対応をされることはあった。

それにしてもコピーを作成するためにあらゆる書類を持っていたのが幸いした。もしこれがパスポートさえ持っていない時ならば、本当に何らかの処罰を受けていたかもしれない。そう思うと運が良かったし、ざまぁみろとさえ思えてた。

新市街のホステルでは、結局今まで調べた以上の情報を得ることはできなかった。こうなるといよいよもって9日発のセイルボートに絞られてくる。
銀行ではトラベラーズ・チェックから500ドル、さらにATMから500ドルをそれぞれ作った。できればチェックで1000ドル作りたかったのだが、唯一チェックが換金できたスコティアバンクでは、トラベラーズ・チェックの換金は1週間500ドルまで、という制限があった。

書類のコピーも作成しホステルに戻ると、9日発のボートのキャプテンからメールが入っていた。果たして乗れるのか、乗れないのか。期待と不安を抱きつつ開封する。そこにはうれしい内容の言葉が綴られていた。

人もバイクも乗せることが出来る。英文だったために何度か読み返す必要があったが、メールには確かにそう書かれていた。さらに僕の他に4台のバイクが乗船するとも。
今まで閉ざされていた扉がついに開き、南米への光が差した瞬間だった。


つづく。

2012年10月6日土曜日

ダリエン・ギャップは優雅に越えろ! vol.1

パナマ・シティーのホステルで会った日本人ふたりはそれぞれ、ヒロシさん、アキ君と言った。ふたりともやはりというべきか、これから南米に渡るためにここへやってきたのだ。

なんの因果か出会った3人ではあるが、あれこれとたくさんの話しをした。これからどうやって南米を周るのか。主にはそんな話題だった。ホステルのパティオで酒を飲みながら、日付が変わるまで旅の話しに花を咲かせた。

高層ビルをバックに。

マテ茶をご馳走になる。結構好き。
アルゼンチン人パッカーは例外なくマテ茶セットを持っている。

僕がホステルに入った翌日、皆でパナマ運河へも出かけた。パナマと聞いて真っ先に思い浮かぶのはやはりパナマ運河だろう。実のところ僕らもそれくらいしか知らなかった。必ず見たいと思えるような場所でもなかったが、他にパナマで見るべきものも思い当たらないので、35度はあるんじゃないかと思えるような真夏日に、すし詰め状態のローカルバスに揺られてやってきた。

2000年からパナマに返還された運河は一般にも公開され、今は観光スポットとして開発が進み、休日ということもあってか思いのほか多くの人が訪れていた。それ以上に驚いたのは、日本語のパンフレットをインフォメーションで渡されたことだ。きっと団体客も多く訪れるのだろう。

13時に到着したというのに、船が通過するのは15時過ぎということで、仕方なくベンチで談笑しながら時間を潰す。視界の隅に見えた小さな粒がやがて巨大なタンカーだと分かり驚いたのも束の間、予想以上の速さで目の前の水門を抜けていく。威風堂々たるタンカーはかなりの迫力だ。それも効率化のためか一度に何隻も渡すのだからか、見ていて大変面白い。たかが運河と思っていた僕らだが、期待以上に興味深く、3人とも大満足だった。

到着したけど入り口がよくわからん。

 ワニ。

ミラフローレス水門。

タンカーが続々と。

見ごたえ十分。

そんな3人だったが、アキ君はすでにペルーへ飛ぶチケットを持っていたので、ある日僕らをおいてさっさと南米へ飛んでしまった。ひとりが欠けることで急に現実に引き戻されたふたりだったが、ヒロシさんも僕も、その時はまだどうやって南米に渡るかも決まっていなかった。

ヒロシさんは飛行機で飛ぶか、パナマから出航するセイルボートのツアーに参加して海路でコロンビアに入るかで悩んでいた。

セイルボートでの移動は飛行機よりも高くつく。しかしツアーという形を取っているので、カリブに浮かぶサンブラス諸島(クナ族という少数民族が今でも生活する島々)に寄航しながら、多国籍な参加者とともにセイルボートでのカリブクルーズ(というほど楽なものではないと後で思い知ることになるのだが)を楽しむことができる。ボートはいくつかあり、気に入ったツアー(料金や日程などが微妙に違う)を見つけたら各自でそれに申し込むという流れだ。文字通り海を越えるそのツアーは、時間を贅沢に使える旅人的にはとても魅力的であった。

しかし結局はうまく日程が合わず、すんなりと飛行機のチケットを手に入れたヒロシさんは、やはり一足先に南米へと飛んでいってしまった。僕は、ひとり残された。そして未だ南米に入るためのチケットさえ手にしていなかった。

もちろん何も進めていなかったわけではない。どうすればバイクを南米に送ることができるか、さんざん頭を痛めていた。頭の中では「It was realy hard.」パナマ国境で老夫婦から聞いた言葉が何度も思い出された。

いろいろ情報を集めた結果、有力なのはやはりセイルボートだった。小さなボートには無理だが、大きなボートならバイクを積むことができるようだった。貨物船という案もあったが、手続き、日数、人は結局飛行機に乗らねばならない、などを考慮すると、多少費用はかかっても海路でバイクと一緒に南米へ渡れるセイルボートが僕の心を惹いた。サンブラス諸島に寄航するというのも大きかった。

パナマ・シティーへ入ってから5日目。6月6日夕方時点で、打診したふたつのセイルボートからそれぞれ返事を得ていた。9日発と12日発。返事といっても1通は「あなたのメールはキャプテンに転送したのでそのうち返事がくるでしょう」という内容のメールと、「今うちのボートでバイクを運ぶことはできない(車両運輸の許可が云々というのが理由)」という残念な結果のメールだった。

もしこのふたつが駄目となると、しばらくの間バイクを運べるセイルボートは出航しない。僕にできることは、まだ望みがつながっている9日発の返事に期待する他なかった。


つづく。

2012年10月5日金曜日

三者三様パナマ・シティーのホステル騒動

ボケテを出発した僕が次に目指したのは、中米最後の都市となるパナマ・シティーだ。パナマ・シティーからは何らかの方法でバイクを南米に渡さなければならない。北米から刻んできた轍はここで一旦途切れることとなる。

道は、パンアメリカン・ハイウェイ一本だった。ボケテからゆるく下る坂を終え、ハイウェイに乗ると、途端暑かった。それはなんの前触れもなく思い出したかのようにあっさりと暑くなったので、涼しく過ごしやすいボケテがすでに懐かしく思えてしまう。

道は海近くを走っていたのだが、やがて中央山脈に突入していった。峠と言うほどでもない峠を越える。パナマもコスタリカ同様道路状況はすこぶる良好で走りやすいというのが感想だ。他に東西を結ぶ幹線道路を持たないパナマでは、きっと多くのバイク乗りたちがこのパンアメリカン・ハイウェイを走っただろう。そんなことを考えながら、僕も同じようにこの道を走った。

パナマ・シティーまではとても1日で走られる距離ではなかったので、途中どこかの町の建設途中らしい建物に忍び込み、夜を明かした。ホテルを探してみたものの、納得のいくものが見つけられず、そうこうしているうちに陽は完全に落ちてしまい、さまよった挙句の苦肉の策だった。それでも次の朝日を無事に迎えられたら、それはそれで正解なのだ。僕はそう考えている。

朝に飲むあまーいコーヒー。

パナマ・シティーの高層ビル群を見ることが出来たのは、走り出して2日目の昼だった。大きな橋を渡ると、遠くに高層ビル群が現れ、道は、そのままそのビル群の中に飛び込んでいった。
それにしてもパナマ・シティーは都会だった。まさかこれほど栄えているとは思いもしなかった。中米一の都市だろう。海岸沿いに高層ビル群が乱立する様などは、まるで日本の横浜を思い出させた。

大きなラス・アメリカス橋。
パナマ運河の出口に架かっている橋だ。

横浜か。

新市街へ入りホステルを探す。住所を頼りに何度も何度も同じ場所を通ってみる。しかしなかなかそれを探し出すことができない。町行く人に尋ねても、住所に間違いはないのだが、見つけられない。
それもそうだ。もはやそのホステルはそこに存在していなかった。

(そうか、なくなってしまったか)

特に驚きはしなかった。いつのものかも知らない情報を頼りに訪れたのだ。そんなことはしばしばあることだったし、パナマ・シティーにおいては事前に2軒のホステルを調べていたので焦ることもなかった。もうひとつの住所に向かえば良いだけのことだ。
しかし、焦りを感じ始めたのはその1時間も後のことだった。あろうことかもうひとつのホステルもなくなっていたのだ。

(おいおい、ちょっと待ってくれよ)

額に浮かぶ汗を拭いながら、僕の思考はしばし停止することとなった。これではどこに泊まればいいというのか?他のホテルを何件か尋ねてみたが、どこも35ドルなどという北米並みの値段だった。とてもじゃないが高すぎる。
時間を早送りにしたような都会の喧騒の中、僕とバイクだけがぽつりと置き去りにされたような気がして、急に心細くなってしまった。

しかしここはパナマ・シティーである。中米と南米を結ぶ都市であるからして、バックパッカーが多く集まるであろうこの場所にパッカー宿がないはずがない。つまりはそんな彼らがどこをねぐらとしているか、それを探し出せばいいのだ。そう考えると心細さから一転、なにかゲームでも楽しんでいるような気分になった。

見つけたネット屋に飛び込み情報を漁る。こんなときにインターネットは本当に役に立つ。世界中のホステルを探すためのサイトだっていくつもある。カスコ・ビエホという旧市街にひとつのホステルを見つるまでにそう多くの時間はかからなかった。ドミトリーのみだが11ドル。これだ。住所と電話番号をひかえ店を出る。すぐに電話をしようと思ったが、近くにいたタクシーの運転手に話しかけられ、他にもホステルがあることを教えられた。

つい先刻までの焦りが嘘のようだった。インターネットで調べ、タクシーの運転手に教えられ、今では新たに2軒のホステル情報が手元にある。知っているということは強い。

とにかくインターネットで調べたホステル・カスコ・ビエホへと電話をかけた。運良くベットは空いていた。僕はこれから1時間で行くからと伝え、ベッドをひとつ確保して電話を切った。これでなんとか寝ることができそうだと胸をなでおろす。安心ついでにタクシーの運転手に教えてもらったホステルも探してみることにした。ママジェナというホステルはドミトリーで13ドルだった。バイクも停められるしここでもいいかと思えたが、もうひとつに電話でこれから行くと伝えたてしまったので話しだけを聞かせてもらい、旧市街のカスコ・ビエホへとバイクを走らせた。

無事ホステルにチェックインできたのはもうすっかり夕方だった。昼にパナマ・シティーに到着したので、5時間以上も宿探しに駆けずり回ったことになる。すっかり疲れ果ててしまった。

しかしここで面白いことが起こった。べとつく汗をシャワーで洗い流し、さっぱりついでにビールでも飲もうかと思っていた矢先、ふたりの日本人に会ったのだ。ふたりとも昨日このホステルにチェックインしたらしいが、話を聞くとやはりどちらも新市街のふたつのホステルを訪れたのだという。そして僕同様なくなっていることに落胆し、紆余曲折を経て、このホステルに流れ着いたのだと。

ひとりは乗っていたタクシーの運転手に喧嘩腰で挑み、「ここなら知っていると言ったホステルを見つけられないのはお前のせいでもある」という言いがかりにも近い難癖をつけ、半ば強引にここまで連れてきてもらったと言った。ひとりはパナマ・シティーのバスターミナルに夕方到着したため、新市街から旧市街にたどり着いた時にはすっかり闇に包まれ、治安の悪いこの場所をバックパックを背負い辺りにおびえながらなんとかたどり着いたと言った。

3人が3人とも同じホステルを調べていて(パナマ・シティーではとても有名なホステルだった)、そしてなくなっていることに肩を落とし、どうにかこうにかこのホステルに流れてきていた。
中米という旅行者の少ない地域において日本人に会うのはひさしぶりだったし、ひとつのホステルに3人も日本人が集まるのはとても珍しく、さらに同じような境遇だった偶然がなんとも可笑しく思えた。

おわり。

2012年10月4日木曜日

コモノ氏 vol.2

チャンギノーラの町にホテルを取った僕は、夜の町へと繰り出した。たまたまホテルを探しているときに道を尋ねたプールバーで陽気なパナメーニョたちに出会ったので、ものは試しと店に入ることにしたのだ。

プールバーinパナマ。

いったいパナマではどんなゲームが遊ばれているのか、興味津々だった。キューを借り、誰か相手をと店員に申し出る。すると、道を教えてくれたパナメーニョたちが、ならばと相手をしてくれた。

ゲームは10番から15番のハイボールを使ったナインボールのようなルールだった。最後の15を落とせば勝ちなのだが、15のみコールショットだ。よってフロック勝ちはない。ファールの場合はツーポイント以内で手球フリーとなり、落ちた球もフットに戻る。球が少ない分9ボールより断然スピード感があり、展開も早い。セーフティーを使うことはなく、どんな球でも入れにいくのがパナマ・スタイルらしい。

コンディションはまずまずだった。どの貸しキューも救いがなかったが、ラシャの破けやヨレはなかった。雨上がりのおかげで湿気がものすごく、ブラシもまともにかけていないラシャは毛足がほとんどないにもかかわらずかなり重い。穴は甘くもなく、渋くもなく。ただ角がへたっているようで、クッション沿いの球をはじき気味に撞くと大抵嫌われた。

久しぶりのビリヤードだったが、勘を取り戻すほどに楽しくなった。C級程度のパナメーニョたちを蹴散らすと、カウンターで静かに成り行きを見つめていたひとりの男が立ち上がった。

「俺と遊ばないか?」

男はケースから自前のキューを取り出しながらそう言った。歳は40半ばといったところか。雰囲気からしてこの店の常連であることが瞭然だ。フォームを見るだけでかなり撞きこんでいるのが分かる。入れが強く、A級の腕前といったところだ。

最初は取られっぱなしだった。しかし、後半はなんとか五分五分まで持ち込んだ。球が少ないのでとばせば負ける。そんな展開だった。一球一球に神経を集中させる。えも言われぬ緊張感が体を駆ける。これだよ。この感覚。これがビリヤードだ。白熱したいい勝負。ひとしきり遊ぶと、その男は僕にビールをご馳走し、握手をして店を去っていった。

翌日はダビを抜け、ボケテという町に入った。ボケテはダビから緩やかな登りを1時間ほど走った先にある、山に囲まれた小さな町だった。常春の避暑地。そんな言葉がしっくりくるほど吹く風がさわやかで、バイクで走っているだけで汗をかく海岸線とはその快適さが雲泥だった。

カリブから太平洋へ。
中央山脈を越える。

 眺めの良い道1。

眺めの良い道2。

それはちょっと登りすぎ。

パルケ脇にある小さなホステルに入った。ドミトリーで8.5ドル。部屋は10畳ほどの広さにまさかの5ベッドでかなりせまいのだが、客は僕ひとりで個室状態だったから問題ない。
宿の主人がまた良かった。とても背が高い男で、丸顔でしゃがれた声が特徴的だ。その彼はいつも顔をあわせるたびに、

「Como estas? Todo bien?(調子はどうだい?)」

と聞いてくるのだった。それがいついかなるときもなので、そんなにしつこく聞かなくてもと思えたが、別段悪い気はしなかった。さらに僕がなにかを尋ねたりお願いしたりすると、決まって、

「Como no(もちろん)」

といった。それが彼の口癖だった。

「Como no, como no, como no」

やけに「como no(コモノ)」を連発するので、3日も経つとすっかり耳にタコができてしまった。しかも誰に対してもそうなので、しまいに僕は彼を(ひそかに)コモノ氏と呼ぶに至った。

コモノ氏のおかげでボケテでの滞在はすっかり快適だった。

ボケテでの見所はどこかと聞けば、(もちろん「コモノ」を連発しながら)丁寧に地図まで書いて教えてくれた。近くにあるおいしいレストランも教えてくれた。キッチンで料理でもしようものなら、「コーヒーはまだあるか?」と言いながら、別に催促したわけでもないのに小さな袋に入ったコーヒー豆をほいほいと与えてくれた。さらにコモノ氏が毎朝きちんとモップがけするので、ホステルの中は至ってきれいであった。

さらにホットシャワーなのが良かった(これはコモノ氏とは関係ないかもしれないが)。それもやけどするほど熱いお湯だ。中米の安宿は例外なく水シャワーだったから、ホットシャワーには自然幸せのため息が漏れた。気温が高いところでは水シャワーでもなんら問題ないのだが、久しぶりに浴びるホットシャワーがこれほど気持ちいいものとは、そのときまですっかり忘れていた。

パナマは酒が安いのがうれしかった(これに至ってはまったくもってコモノ氏とは無関係だが)。他の国に比べても格段に安い。ビールもワインも日本では考えられないような値段で売られている。パナマではなぜそんなにアルコールが安いのか分からないが、嗜好品である酒が安いというのは節約を常とする旅においては気分的にとても楽ではあった。

そんな快適なボケテでの日々だったが、ある日ドミトリーにひとりのスイス人がやってきた。もちろんドミトリーなので誰がいつ入ってきてもいいのだが、この数日すっかり我が物顔で部屋を使っていた僕には、なんだか急に堅苦しさをを感じてしまった。

(そろそろ走ろうか)

ある日のスイス人入室は、ボケテを抜けるための良いきっかけだったのかもしれない。

その向こうからスコールだ。

 山間の小さな町ボケテ。

おわり。

2012年10月3日水曜日

コモノ氏 vol.1

「帰りのチケットはあるか?」

おもむろにそう聞かれた。パナマのイミグレーションでだ。

帰りのチケット?そんなものは持っていなかった。飛行機であるとかバスであるとか、そんな類のチケットなどバイクで移動する僕には必要でない。しかしパナマへ入国する際、帰りのチケット(ビザ期間内に他国へ出国することを証明するもの)の提示を求めれらるという話しは聞いたことがあった。もし持っていないなら、国際バスのチケットをその場で買わされるはめになるとも。

(もしかしたらそのパターンか?)

内心面倒だと思った。今の僕に使いもしない国際バスのチケットを買う必要も、金もない。

「バイクで来たんだ」

小さな窓口の奥に座るオフィサーに向かって、これ見よがしにヘルメットを見せた。こちとらチケットを買う気などさらさらないのである、という意思表示だ。するとどうだろう。彼は「あ、そうなの」といった面持ちでパスポートを受け取ると、いともあっさり入国のスタンプを押してくれた。
ヘルメットを見せるだけでチケットの確認が免除されてしまうのなら、誰もダミーチケットなんて用意はしない。国境での入国審査など、やはり運次第だ。

パナマ側から。

この橋を渡る。
トラックが来るともう一大事。

パナマへの入国手続きがすべて完了し、税関のオフィス内の時計を確認すると、13時半を示していた。おかしい。コスタリカ国境に到着したのは10時過ぎだった。これまでの手続きに3時間もかかっていないはずだ。持っている時計を見ると、まだ12時半を示していた。
時差が発生したのだ。メキシコ・シティーからコスタリカまで、まったく時差を気にせずに走ってきたが、まさか中米最後の国境で時差があるとは思いもしなかった。

今日はカリブ海側から一気に太平洋側まで走り、ダビという町まで走ろうと考えていた。しかし、1時間の時差は痛かった。おまけにチャンギノーラの町を過ぎてこれから本格的な峠というところで、ひどいスコールにあってしまった。
1時間ほど激しい雷雨が続いた。うまく教会を見つけ、バイクともども避難できたのは幸いだったが、これではもうダビまで走ることは諦めざるを得なかった。

(まぁ急ぐ旅でもあるまい)

教会のベンチに座りながら、軒先から滝のように流れ落ちる雨にそう考えることにした。車でさえ徐行しなければならないようなスコールだ。とてもバイクでは走ることができない。

そんな教会にぽつりぽつりと人が集まりだしたのは、雷鳴が遠くなった頃だった。雨脚が弱まり、じきに雨も上がるだろう、そんな頃だった。ミサのために集まってきたようだ。

教会にあわられた少女たちはベールを被り、教会正面に掲げられた十字架に向かいひざまずくと、静かに手を組み、各々に賛美歌を歌いはじめた。一瞬にして教会内はおごそかな雰囲気に包まれた。異国の言葉で歌われる賛美歌はたっぷりと情緒を含んでいて、少女たちが高らかに歌い上げるそれに僕はすっかり聞き惚れてしまった。

そんな彼女たちと話をした。他愛もない会話だったが、それは楽しいものだった。日本語を聞いてみたいという要望にこたえ、持っていた本を朗読したりもした。初めて耳にするだろう日本語に、きょとんとした表情をしていた彼女たちがとてもかわいらしく見えた。さらにお返しにと聖書をスペイン語で朗読してくれたのはうれしかった。

聖書を朗読してくれた。

その頃にはすっかり雨も上がっていて、僕はこれからミサが始まる教会を後にし、チャンギノーラの町まで戻ってホテルを探すことにした。

つづく。