2013年11月30日土曜日

エル・ドラド vol.4

道はしばらくカウア川に沿って進んだ。
最高に気分が良かった。
バイクに乗りながら、鼻歌さえ自然と出るほどだった。天気は上々だったし、Tシャツ1枚でも十分な気温だったし、川を横目に眺めながら走ることができた。もちろんそれらは気持ちよく走るための大きな要因だ。いつもなら。だけど、今の最高はそんなものの比ではなかった。

コロンビアの人々の優しさが、僕の胸をいっぱいに満たしていたからだ。それはレストランのセニョーラだけではない。ガソリンスタンドの店員や、名も知らぬ街の屋台の人々だけでもない。至る所でいろんな親切を少しずつもらっていた。

コロンビアって危ないんじゃないの?
コカイン。マフィア。銃。そして血。
僕もそんなイメージを持っていた。そんなイメージしか持っていなかった。だけどコロンビアを走り始めて3日目。たった3日ながら、僕はもうコロンビアが好きになっていた。

日本で得られる偏ったコロンビアの知識、それをいかに鵜呑みにしていたか。そしてその偏見がいかに自分のすべてだったのか。僕はコロンビアの人々の優しさに触れ、1枚づつその偏見を剥がしていくことによって、自分の小ささを思い知ることができた。


川に沿って走っていた国道は、大きな橋を越えるといよいよ山に入るようだった。
そんな橋のたもとには、ちいさな村があった。本当にちいさな村。だけど橋から眺めるその風景は、一瞬にして僕の心を掴んだ。
川岸に建つ教会が目を引いた。川に突き出すように建つ家々がいい感じだった。そんな教会と家々をつなぐように、ちいさな黄色い橋が架かっていた。家の裏の山は、かなりの傾斜だというのに農地として手入れがされていた。

逡巡はしなかった。国道からは外れてしまうけれど、僕は村に向けてバイクを走らせた。教会の前から延びる黄色い橋は人と馬しか通ることが出来なかったから、教会の前にバイクと停めて歩いて渡った。

川岸のかろうじて残っている平らな部分に一本道が伸び、その両側にしがみつくように家が建てられていた。川側の家は川にせり出すように建てられているため、何本もの柱で家自体が支えられていた。しばらく道を歩いてみたものの、ふたりの子供を連れた母親と、馬に乗った老人にすれ違ったくらいで、ほとんど村人に会うことは無かった。だけどこんなところにも人が住んでいる。その光景と事実は、やけに僕の胸を締め付けた。

教会が目を引いた。

家はしがみつくよう。

川と洗濯物と馬に乗った老人。

国道はぐんぐん高度を上げた。登る山はかなり高く、ついには雲の中にまで入ってしまった。さっきまでTシャツで走っていても平気だったのに、もうジャケットのジッパーを目いっぱい締め上げなければ寒くてたまらない。いよいよアンデス山脈突入ということか。南米大陸西部を南北に貫くこの山脈は、これから南米を下るにあたり長い付き合いになることだろう。

最高到達点を過ぎ、道は徐々に下りになった。山中にある街をいくつか抜けながら標高を下げていく。眺める山々は濃い緑で、中米あたりで見てきた山の殺伐とした感じはどこにもない。

 いよいよアンデス。

山の中にいくつも街を見ることが出来た。

道がいよいよ急な下りになったと思ったら、突然片側3車線の大きな幹線道路に豹変した。その変化は本当に突然で、それまでセンターラインも無いような陽の当たらない山道だったのに、少し開けた途端いきなりだ。こんな山の中で?狐につままれたような気分だったが、つまりは僕はメデジンの街に到着したということだった。

メデジンは、僕の想像をはるかに越える街だった。両側を山に囲まれた谷に造られたそれは、赤レンガの家々が遠くの山肌にまでへばりつくように建ち、山の緑とのコントラストを際立たせていた。片側3車線の道は複雑に立体交差していて、街の中心には近代的なビルがそびえていた。
カウア川で見たあのちいさな村とは比較にならない規模だった。それがコロンビア第二の都市メデジンだった。

山肌にどこまでも家が建つ。

ビルはとても近代的だ。

山の中の都市。

おわり。

2013年11月25日月曜日

エル・ドラド vol.3

ひとしきり子供たちと遊んで部屋に戻った僕は、宿に併設されたレストランに足を向けた。
カルタヘナで両替したペソがかなり乏しくなっていたので今晩はおとなしく部屋でパスタでも茹でようかとも思ったのだけど、すっかり腹ペコだったからそれも億劫になってしまったのだ。といっても明日の事もある。財布の中身を計算すると、なんとか3500ペソなら使えそうだった。街の食堂は大体4000から6000ペソが相場。果たして3500で何か食べられるだろうか。

レストランのセニョーラに3500ペソで何か食べられるものはありますか、と頼んでみる。すると彼女は僕をテーブルに着かせ、自分はキッチンへと入っていった。
他に客らしきはいない。飲料用の冷蔵庫の上に置かれたテレビからはコロンビアの番組が流れている。レストランと言っても萱葺きのような屋根があるだけで、キッチン以外の三方は壁も無い。通行人どころか、猫やアヒルも店の中では我が物顔だ。

牛肉のスープ、フリホーレス、トルティーヤ、米それにオレンジジュースが僕の前に運ばれてきた。温かいスープはさまざまな香辛料が効いていてともておいしかったし、何より腹一杯になる量がうれしかった。
すべてを食べ終えてお金を払おうとすると、女性は僕の手から2000ペソしか受け取らなかった。それではあまりにも安すぎる。そもそも3500ペソでさえ足りないかもしれないのに。

「いいのよ」

女性は言ってくれた。僕は素直にその好意を受け取ることにした。

「ありがとう。とてもおいしかったよ」

そうは言ったものの、僕はなんだか自分が恥ずかしくなってしまった。確かに明日のことを考えると使える金はあまり無かった。3500ペソでは食べるものが無いと言われれば、素直にパスタを茹でるつもりだった。だけどまったく金がないというわけではなかった。それなのにあまり金が無いんだということを前置きして、どこかで人の親切を期待していたのではないか。そう思ったら恥ずかしくなってしまったのだ。

旅なんて所詮自己満足以外のなにものでもない。貧乏旅行をしているのも自分のせいだ。そんな基本的なことに蓋をして、当たり前に親切を期待するようになったらお終いだ。いくら長旅をしていようと「金がない」は免罪符にならないんだよ、そう自分に言い聞かせた。何かの本ではないけれど、僕もこれからはそれを禁句にしようと思った。


翌日の天気も上々だった。空に雲は浮かんでいるものの、雨の気配はどこにも感じられない。これなら今日も気分よく走ることが出来そうだ。
部屋を片付け、バイクに荷物を積み込んだら部屋の鍵を返した。出発の準備はできたのだけど、一言レストランのセニョーラにお礼が言いたくて僕は足を向けた。女性は上機嫌で朝の準備をしていた。僕が昨日のお礼を言うと、

「まだ時間あるでしょ?ティントを今入れるわね」

といって昨日と同じように僕をテーブルに着かせた。そして目の覚めるような甘いコーヒーを持ってきてくれた。
行き交う車を眺めながら熱くて甘いコーヒーをすすっていると、なんと今度は朝食まで運んできてくれた。それもまた腹いっぱいの量で。驚く僕に、

「たくさん食べてね」

セニョーラは微笑んだ。僕はありがたくいただくことにした。胃袋と一緒に胸の中もいっぱいになった。何度もお礼を言った。金なんてきっと受け取ってくれないことは分かっていたから、何度もお礼を言った。

ありがとうセニョーラ。

今日の天気も上々だった。僕は、メデジンに向けて最高に気分よく走り出すことができた。

つづく。

2013年11月24日日曜日

エル・ドラド vol.2

メデジンを出たその日、どこか適当な場所で野宿でもしようかと思いつつ、結局街外れに宿を確保した僕は、翌朝の青い空に今日も暑くなることを期待しながらバイクにまたがった。


昨日の夕方は散々だった。朝から走り出してずっと雲ひとつない空を見ることが出来たから、適当な場所を見つけて適当に野宿でもしようとお気楽な考えでバイクを走らせていた。しかしそんなときに限ってうまくいかない。
国道沿いにはテントが張れそうな場所をいくつか見つけることができたのだけど、どれも見通しが良すぎてどうにも落ち着かないのだ。ずっと奥に行けば隠れることはできるのだけど、そうすると今度はテントを張れなくなってしまう。手前か奥か。奥か手前か。何度もわき道に入ってみては首をかしげ、決め手に欠いたままでいた。

国道沿いにオスペダヘを見つけたのは、夕焼けが今にも地平線に吸い込まれるかという頃合だった。街に入る手前、民家がぽつりぽつりと建ち始めたころにそれはあった。国道に向かって掲げられた看板だけが頼りで、建物は至って簡素。コンクリートの箱をそのまま大地に乗せただけのように見えた。
それは部屋の中も同様で、四角四面でじめじめした室内は窓さえない。しかし個室で12000ペソは安かった。さらにあっさりと10000ペソまで値段が下がったのだから二つ返事だ。
だって昨日までヘンスとふたりで部屋をシェアしていたにもかかわらず、ひとり20000ペソ払っていたのだ。約6ドルでベッドとシャワーが手に入るのなら、窓がなかろうが気にならない。

宿の主人であろうオヤジは上半身裸で受付をしてくれた。日本ならあり得ない事かもしれないけれど、こうも暑い国ではそれが当たり前のように思えるから不思議だ。
バイクは裏の駐車場に、そしてほとんど空いている部屋はどこでも好きに使って良いと言われたから、遠慮なく大きめの部屋を選んだ。どの部屋もトイレと水シャワーが付いていたけど、まぁお世辞にも綺麗とはいえない。もちろんそれ以上は望んでいない。安全に一晩寝られるなら、日中にかいた汗を水で流せるなら、それだけで10000ペソの価値はある。

 こんな宿に寝ています。

8時半には走り出した。天気はこの上なかった。太陽はもうすでに昇りはじめ、陽射しは余すところがない。ぎゅっと目をつぶると、太陽はまぶたの裏で紅く染まった。

給油のためにガソリン・スタンドに立ち寄ったのは10時過ぎだった。昨日は一度も給油せずに走ったから、そろそろ頃合だ。いくら燃費のいいイーハトーブと言えど、ガソリンを入れないバイクはただの鉄の塊だ。
ガソリンが思いのほか高いコロンビアだから(これまでの国で一番だ)、ハイオクはやめてレギュラーを入れようかなどと考えていたものの、実際田舎のガソリンスタンドにはそもそもハイオクなどなかった。誰もが一様にレギュラーを給油するしかなかったのだから要らぬ心配をしたものだ。
それにしても1ガロンで8800ペソは、4リットル弱で5ドルということになる。この国の物価から考えればかなり高い。

給油を終えたら店の隅で休憩を取らせてもらった。段差に腰を下ろして地図を広げる。のんびり走るにはこの上ない天気だったが、昨日走った寸分とこの大陸の大きさを照らし合わせると、必然的に複雑なため息が出てしまう。地図ではカルタヘナからわずか数センチも進んでいない。だけどこの大陸は一度に地図を広げることが出来ないほどだ。ため息には、喜びと憂いが等しく混ざり合っていた。

「ティントはどうだ?」

そう言ってくれたのはバイクに給油をしてくれた店員だった。コロンビアではコーヒーのことをティントと呼ぶ。もちろんカフェと言っても通じるのだけど、ティントの方が一般的だった。
彼は店の中に入ると小さなカップにティントを注いでくれた。カルタヘナでもそうだったのだけど、小さなカップで飲むのがコロンビア流らしい。カップに注がれた褐色の液体はやはりというか顔をしかめるほど甘かったけど、豆の味は良いものだった。

そのまま街の中を抜るように走った。街はどこにでもあるような小さな田舎街で、国道だというのに信号ひとつ見当たらない。道の両側には店や屋台がならんでいて、バイクや車が走り抜ける中をのんびりと馬車がひづめの音を響かせていた。カルタヘナほどの都市ではさすがに馬車を見ることはなかったが、田舎では馬車を多く見る。まだまだ人々の足、道具として現役だ。そののどかな風景に、こちらまでのんびりした気分にさせてくれる。

あまいティント。
ごちそうさま。


馬車はとてものんびり。

大きな橋を渡った。眼下には茶褐色の川が流れ、橋の両側には大きなナマズを売る店が軒を連ねていた。店先には何匹ものナマズが口を開けてぶら下がっている。カルタヘナを出て2日目。道はすっかり内陸を走っていたから、川で捕れる新鮮なナマズは、この辺りに住む人々にとって貴重な食料なのかもしれない。僕はこれまでナマズを食べたことはなかったけれど、特に食べたいとも思えなかったので、ふーんと鼻を鳴らしただけでその場に止まることもなく通り過ぎた。

道はやがてその川沿いに走るようになた。カウア川だろうか。両脇は山に囲まれ、流れが速い。やはり水のあるところには生活があるようで、民家がぽつりぽつりと途切れることなく続いた。

川沿いを走る。

川沿いに見つけた宿は小さな部屋ながらも清潔感があり(やはり窓は無かったが)、値段も15000ペソを13000ペソに下げてくれたために手ごろだった。時間は16時半と少し早い気もしたが、メデジンまで残すところ180kmとなれば遠くは無い。なにより宿の裏に流れるカウア川が良かった。ナマズがたくさん捕れる川。荷物を部屋に入れシャワーで汗を流したら、早速川が見たくなって散歩に出た。

さて、どうやったら川原に下りれるだろう。そう思って宿を出ると、間髪いれずに地元の子供たちに捕まってしまった。瞬間に質問攻めだ。ひとりの子に手をとられては、民家の前に連れてこられた。そしてあっという間に7、8人に囲まれてしまった。家の前では椅子を並べて地元の人々が談笑していた。夕涼みといったところだろうか。

夕涼み。

少し話をしたところで僕は子供たちに、

「どこか川を良く見られる場所はないかい?」

と尋ねた。子供たちは、これは自分たちの使命だ、と言わんばかりに元気に歩き出した。国道を横切り、民家の軒下をくぐり、庭をつき抜け、道も無いバナナ林の中を跳ねるように下っていった。その先に小さくできた砂の岸があった。
なるほどここなら川が良く見える。川の流れは思いのほか速く少し怖さを感じるほどだが、確かにいい場所だった。迷うそぶりも無くまっすぐにたどり着いた感じから、きっと子供たちの遊び場所なのだろう。そんな秘密基地に連れてきてくれたことがうれしかった。

「写真を一枚撮らせてくれないかな?」

カメラを向けた子供たちの笑顔はとても明るく、ちょうど夕焼けが始まった空はなんともいい感じだった。

バナナ林を抜けて。

カウア川の夕焼け。

 秘密基地と子供たち。

つづく。

2013年11月1日金曜日

エル・ドラド vol.1

カルタヘナの街を抜け、南へと延びる国道25号に乗るにはさほど迷うことはなかった。目指すはメデジン。夜寝るのが遅かったために8時を過ぎて起きたわリは支度が早く、10時前には走り出すことが出来た。

カルタヘナを出た。コロンビアに着いて6日目のことだった。次に目指すはコロンビアでもボゴタ、カリと並ぶ大きな都市、メデジンだ。距離にして約650kmは3日の工程だろう。ついに南米大陸の旅が始まった。遥かなる旅路。カルタヘナを出ると、メデジンまで大きな街はない。

同室ですっかり仲良くなったヘンス、船のクルーだったアレックス、それぞれが宿の前まで出てきて僕を見送ってくれた。昨日の夜遅くまで飲んでいた連中はまだきっと夢の中。眠い目をこすりながら見送ってくれたことがうれしい。
もうひとつうれしかったことは、宿の近くのティエンダ(個人商店)のオヤジがいつものようにこれでもかと言わんばかりに大げさに手を振ってくれたことだ。

そのティエンダには毎日のようにビールを買いに行っていた。コロンビア(というよりは中南米全般に言えることだが)では、ビールは小さな缶で買うよりも、1リットルも入った大きな瓶で買う方が断然安かった。だから僕はいつも瓶で買っていた。1リットルほどのビールが、厚いカルタヘナでは乾いたのどを潤すのにちょうど良かった。

しかし瓶にはデポジットが必要になる。購入する際には酢十円ほどのデポジット(瓶を返せば戻ってくる)も一緒に払わなければならない。それはよく考えたら大した額ではないのだけど、たった数十円さえケチる貧乏旅行をしている身にとっては、飲み終えた後のビール瓶はお金と一緒だ。だから僕は毎日律儀にそれを抱えて店に行き、デポジット分を差し引いて新しいビールを手に入れていた、というわけだ。

店のオヤジはたいそう陽気だった。僕らが思い描くラテン気質というものを、キャンバスに書いたならきっこうなる、そんなオヤジ。毎日きっちり(空瓶を持って)ビールを買いに行く僕はすっかりそのラテンキャンバスに顔を覚えられてしまい、何気なく店の前を通るだけでも手を振ってくれるようになった。それも満面の笑みで。

その朝も、彼はいつもように笑顔で、いつもより大げさに手を振ってくれた。うれしかった。だから僕も手を振り替えした。もう二度と会うことはないだろう。

ひとところに長く居ると、しばしばそういうことがあった。
たとえばメキシコで。何気なく足を運ぶようになったタコス屋台の店主は、僕がいつもライムのお替りをするのをいつしか覚えてくれて、ライムをそっと多めに盛ってくれるようになる。
たとえばアメリカで。いつもビールを買いに行っている店だというにもかかわらず、いつもきちっりIDカードの提示を求めるバイトの女の子の申し訳なさそうな顔。
通り過ぎるだけの街では感じることのできない些細なことに、どこか居心地のよさを感じてしまう。そしてその街が好きになる。そんなことはないだろうか。


国道25号へ出た。だけど、やはり市街地での運転マナーなどはここ南米でも存在しなかった。バスは我が物顔で車線を行き来するし、その間隙を縫ってバイクは縦横無尽。車は人よりも強く、クラクションの洪水。
こんなところで事故など起こしたくない僕は、どうしても一歩引いてしまう。後塵を拝まされる。だけどそれでいいと考える。今は張り合っても仕方ないと、のんびり走ることにする。

国道にはありがたいことにメデジンへの案内看板が時折現れ、頭の中を空っぽにして走ることが出来た。ひたすら南下すれば良いだけだ。街を抜けると緑まぶしい風景が広がり、絶好の天気。これぞツーリング日和。すっかり気持ちを良くして走る。そこにはさすが南米と思える無辺の大地が広がっていた。




昼食に、どこか小さな街の屋台に立ち寄った。最初は食堂にでも入ろうかと思ったのだけど、たまたまバイクを道端に停めた先に屋台があった。吸い込まれるように足が向かった。
店は女性(女の子?)たちが切り盛りをしていて、その子供たちやらその友達やらが近くで遊んでいてたいそうにぎやかだった。
ゆで卵を小麦粉の生地で包んで揚げたものを食べた。味はよかった。だけど、なんとも日本人が珍しいのか、子供たちは大騒ぎ。あれよあれよと大勢集まってきて、こぼれるような笑顔に僕は囲まれてしまった。


この街がどんな名前かも知らない。道端に立つ小さな屋台なんて星の数だ。ただ通り過ぎるだけの街だけど、こういうふれあいがあると心に底に残る。そして旅はやっぱりいいものだと、改めて思える。

つづく。

2013年10月27日日曜日

グラン・コロンビアへようこそ vol.3

朝目覚めたらパティオにイクちゃんがいたのは、彼女がサンタマルタから少し離れた小さな街へ移動する日のことだった。どうやら最後の挨拶に来てくれたらしい。彼女はこれから中米へ上がり、僕はこれから南米を下る。この先もうお互いの旅路が交差することはない。

パティオに置かれたテーブルを囲んで、チェコ人のバイク乗りピーターと談笑していた。イクちゃんは壁を作らない人だ、と僕は思う。誰とでも(たとえそれが日本人でなくても)すぐに打ち解けてしまう。それは特技と言ってもいいほどだ。旅を楽しんでいるな、と僕は思う。ヘンスも起きてきて4人で1時間ほどおしゃべりを楽しみ、見送った。

朝のパティオで。

彼女を見送ったからという訳ではないけれど、僕もそろそろ走ろうかと考え始めていた。ここカルタヘナに到着して数日が経っていた。宿には一緒に中米からボートで渡ってきた仲間がいて、2分と歩けば汗が噴出す暑いカルタヘナの街並みは美しかったけれど、地図を眺めるたび喜びと憂いが等しく混ざり合ったため息がでるほど、南米大陸は大きかったのだ。

2日も走れば次の国境がやってくる国土の小さな中米とは訳が違う。中米すべての国をひとつにまとめたってコロンビアの国土にかなわないんじゃないか、とさえ思えるほどだ。はやくその広大な南米大陸を走ってみたい。気持ちがはやった。

それから2日間、僕はバイクのメンテナンスをし、ピーターが持っていた南米の地図をコピーさせてもらい、銀行で手持ちのドルをコロンビア・ペソに替え、次の目的地メデジンの情報を仕入れた。
連日の晴天続きで陽射しは容赦なく街を歩くとやたらとのどが渇いたが、街角にはジューススタンドがたくさんあり、よく冷えたライムジュースが数十円で飲めるから干からびることはなかった。宿に戻って浴びる水シャワーも最高に気持ちよかった。これほど水シャワーが気持ちいいと感じたのはこの旅初めてのことだ。

各自メンテナンスをした日。
暑いので皆はだか。

街中のジューススタンド。
冷たいフレッシュジュースがうれしい。

最後の夜、一緒にボートに乗っていた仲間たちの多くが集まり、小さな教会の前にある広場で酒を飲んだ。ビールとコロンビア産のロンのボトルとコーラを買い、長く緩やかに弧を描く石造りのベンチに座り、とりとめのない話をした。ひとりの女の子が誕生日だと言い、皆で祝福した。

誰が言い出して集まったのか分からなかったけど、皆ぼちぼち次の街を目指しているようだった。サンタマルタへ行くやつもいたし、首都ボゴタへ行くやつもいた。皆で集まれるのも今日が最後というわけだ。

楽しかったのは、ボート仲間だけでなく他のバックパッカーたちがどんどん輪に加わっていったことだ。カルタヘナの旧市街、それも安宿が集中している地域だっただけに、誰かの友達とか、その友達の友達とか、もうどういうつながりなのか分からない旅人たちも集まってきた。オープンな雰囲気がいい。

その中に、ベッツィーがいた。彼女はヨーロッパ(確かオーストリアだったと思う)からのバックパッカーで、パナマ・シティーで同じホステルだった。何度か軽いおしゃべりをしただけだったけど、彼女は僕のことを覚えていて声をかけてくれたのだ。嬉しかった。なぜなら僕はすっかり彼女のことを忘れていたのだ。言われて初めて気がついた。だから正直に

「ごめん。言われるまで気づかなかったよ」

と話すと、彼女は怒るどころか笑顔で

「たくさんの旅人がいたからね」

と言い、そして再会の乾杯をした。オープンな雰囲気がいい。

彼女はこれからどこかの農場へ行き、しばらくボランティアをすると言っていた。バックパッカーの中には案外そういう人たちを見かける。僕はただバイクで走っていくだけの旅だけど、いろんな人がいて、いろんな旅を楽しんでいるのだな、と思った。

そのうちに誰かが買ってきた屋台の食べ物なんかが回ってきて、さらにもはや飲んでいる酒は誰が買ってきたものなのかも分からなくなった。ぼちぼち宿に戻るころにはもう夜中の1時を過ぎていて、シャワーを浴びてベッドにもぐりこんだらあっという間に眠りに落ちていた。

大きなコロンビア国旗と夜の街。

おわり。

2013年10月12日土曜日

グラン・コロンビアへようこそ vol.2

早朝の桟橋に集まったのは5人のバイク乗り。ボートでコロンビアに入国したその翌日で、バイクの通関作業を行うためだった。

集合時間の7時には全員が揃っていた。幾分早い集合時間だなと思ったが、いよいよバイクを陸に上げるという段階なのに、やはりボートは沖に停泊させたままなのがその理由のようだった。コロンビアの港は基本的に軍の支配下にあるようで、簡単にボートを桟橋につけられないらしい。

いったいどうするのかと思ったら、ゴムボートで1台づつバイクを渡すようだった。ウインチでバイクを吊り上げてゴムボートに乗せたら、バイクの持ち主がそれにまたがって押さえ、そのまま桟橋まで移動し、あとは数人の男たちが人力で桟橋まで持ち上げる、というなんとも力技だ。確かにそれはでは時間がかかる。

きっと今までもこの方法でやってきたのだろうが、万が一がないとも言えず、もしバイクが海に落ちでもしたら大変なことだ。考えただけでぞっとするので、そのことを考えないようにして作業を進める。僕の愛車は乾燥重量で100kgを切るほど軽量なので、作業は至って簡単だったのだけど、他のビッグバイクはその倍以上の重さがあるため、一連の作業にかなり骨を折っていた。

ゴムボートにバイクを乗せて、

そのまま桟橋まで。

桟橋近くの税関に全員が集合したのは9時にもなっていたのだけど、そこからさらに3時間、すべての通関作業が終わるまで待合室でひたすら待つこととなった。太陽が高くなるにつれ気温も上がる一方だったので、空調の効いた待合室は非常に過ごしやすいとはいえ、何もない待合室での3時間はその倍以上にも感じられた。

通関作業が終わり、ペルミソ(一時輸入許可証)を受け取ったら昼食をはさんで近くの保険屋へ出向いた。
しかしその保険屋では1年間からの保険しか扱っておらず、おかげで保険料が高かった。僕を含め他のバイク乗りたちもそんなに長い期間は必要としない(そもそも人間が90日の滞在しかできない)。一旦宿へ戻り、バイクを駐車場へ入れ、皆で歩いて街中の保険屋を探すことにした。

やっと通関を終えて。

午後の一番暑いさかりの中、汗だくになりながら街を歩き回り、何件目かの保険屋でやっと3ヶ月間の保険を取り扱っている店を見つけることができた。しかしドルでの支払いが出来ず、コロンビアペソを多く持っていなかった僕はその場で加入することが出来なかった。
結局手続きは明日に持ち越しとなり、手続きを進める皆を横目にひとり宿に帰ることにした。朝早くから行動していたにもかかわらず、時計を見るともうすでに16時をまわっていた。

翌日、宿を移ることにした。新しい宿は今居る宿から角をひとつ曲がった場所にあるホステルだったのだけど、同じ値段でありながら部屋が広く、なによりパティオ(中庭)にバイクを入れることが出来た。駐車場は宿代とは別に1日5000ペソ必要だっただけにこれはありがたい。同じボートに乗っていた他のバイク乗りも皆この宿に居るようだった。

部屋に荷物を運び、パティオにバイクを入れたら保険屋に向かった。途中銀行でトラベラーズ・チェックをコロンビアペソに両替すると、銀行の前でイクちゃんにばったり出会った。散歩中だという彼女とふたりで保険屋まで歩く。
保険は90日分で81000ペソ(約45ドル)だった。いささか高い気はするが、コロンビアは保険の加入が必須。手にした保険証はなんとも頼りない紙切れ一枚だったが、これで晴れてコロンビアを走れることは喜ばしいことだった。

つづく。

2013年10月11日金曜日

グラン・コロンビアへようこそ vol.1

ボートはゆっくりとカルタヘナの港へ滑り込んだ。水平線にうっすらと見えていた街の影は今やもう目の前で、立ち並ぶビルがこの街の大きさを物語ってた。港沖にはいくつものボートが停泊し、岸壁に張り付いている大型のタンカーからはコンテナが次々と下ろされ、山と積まれていた。

南米大陸だった。今、僕の前には南米大陸がある。果てしなく広い大陸が、手を伸ばせば届きそうなところに。
これから始まる新しい旅に胸がおどった。やはり船で渡ってきたことは正解だった。もし飛行機で空港へ降り立っていたなら、これほど心が昂揚することもなかっただろう。

ボートは港沖に碇を下ろした。てっきり着岸するものと思っていたがそうではないらしい。カルタヘナの街並みを見ながら最後の朝食をデッキでいただくと、クルーが小型のゴムボートを運転し、乗客全員を桟橋へと渡した。僕の足は、初めて南米大陸を踏んだ。

ボートでの最後の食事。

そして上陸。

イミグレーションまでは数台のタクシーに分乗して移動した。入国カードを記入するだけで、どこかの部屋に入るわけでもなく、役人のいるカウンターに並ぶわけでもなく、そのへんをぶらぶらしているだけでほどなくしてボートに乗っていた全員のパスポートにコロンビアの入国スタンプが無事に押された。

船に戻る。バイク乗り以外の乗客はこれで解散のようだった。が、バイクの通関作業は明日ということなので、僕らバイク組みはまた明日の朝桟橋に集合ということだった。
とりあえず一日過ごせるだけの荷物を持って陸へあがる。他の乗客たちはタクシーだったり歩きだったり、皆思い思いの場所へ散っていく。僕は、ドイツ人の自転車乗りヘンスと一緒にカルタヘナの旧市街へと足を向けた。

明日の通関作業ももちろんだが、数日はカルタヘナに滞在しようと思っていた。
これからのルートを考えたかったし、コロンビアの通貨も必要だった。カリブ海に面したこの港町は、古びた要塞と、歴史的建造物が世界遺産にも登録されている。さらに国内きっての観光地だとも聞く。

ヘンスもそのつもりらしく、それならふたりで宿の個室をシェアした方が良いだろうという話になったのだ。個室をふたりで使えるなら気兼ねがないし、部屋代も折半すればドミトリーに泊まるより安い場合が多い。普段ひとりで動いていると難しいことなのだけど、船の上で知り合えたのはラッキーなことだった。

港から歩き出すと、すぐに汗がふきだた。暑さにのどが渇く。コロンビアのカルタヘナは暑いところだと聞いていたのだけど、これはかなり暑いと形容しても足りないほどだ。
旧市街まで歩き、ヘンスが調べていたホステルに部屋を取った。ツインルームでひとり20000ペソ(約11ドル)は妥当な値段だったが、あいにく駐車場はなかった。明日バイクを引き取ったらどこか駐車場を見つけないといけないな、そんなことを考えていると、ホステルのロビーにひとりの日本人が入ってきた。

(あれ?どこかで見たことがあるな)

それは相手にしても同じだったようで、まるで時間が止まったかのように、ふたりの動きも止まってしまった。

イクちゃんだった。それは本当に偶然の再会だった。彼女とはグアテマラのアンティグアで会っていた。僕が走行中に転倒してしまい、怪我のために1ヶ月ほど停滞していたときに同じ宿だった。毎日一緒にシェア飯(食費を出し合い共同で食事をすること)をしていた仲間で、コロンビアに入ったとは聞いていたが、この広い国で、まさか僕が入国したその日に出会うとは。

「なんでこんなところに?」

可笑しかったのは、お互いの言い分が一緒だったことだ。

彼女はコロンビアからパナマへ向かうため、ここカルタヘナでパナマ行きのボートを探しているところだと言った。なるほどそうか。やはり中南米の間を空路を使わず移動しようとすれば、必然的にパナマ・シティー、カルタヘナ両都市に集まるというわけだ。

うれしい再会を祝して3人で出かけることにした。宿の前の食堂で昼食をとり、カルタヘナの旧市街を散歩した。街並みはとても美しく、多彩な建造物はどれもすてきだった。街を抜けて海に出ると一面のカリブ海を見渡せた。海岸に沿って城壁が作られ、いくつかの砲台が無造作に海に向かって置かれていた。
まさに今日、この海を越えて南米に降り立ったのかと思うと、長かった北中米の日々がすでに懐かしく思えてしまった。

まさかの再会。


要塞の砲台はいまでも海に向かっていた。

通りに立つ両替商に手を出したのが失敗だった。ATMでカードが使えなかったので、つい通りで声をかけてきた両替商にお願いしてしまった。レートは1ドル2000ペソとかなり良かった(銀行は1800ペソ前後)。後から思えばその時点で気づくべきだった。やっと南米大陸に入れたという浮かれた気持ちがあったのかもしれない。

40ドル分両替したつもりなのに、僕のポケットに入っていた金はたったの20000ペソだった。残りの60000ペソはどこへ消えてしまったのか。
最初に勘定したときには79000ペソが確かにあった。でもこれじゃ1000ペソ足りないよと相手にそれを確認させたときに抜かれたのだろう。その場にはヘンスもイクちゃんも居て事の成り行きを見ていたのだけど、誰もまったく気づかなかったのだから、相当手馴れているに違いない。

今までこういった手口をやられたことがなく、また盗難や強盗にも運良く出会っていなかっただけに、旅が長くなるにつれ鈍感になっていたようだ。

「That's Columbia!!」

ため息をつく僕の肩を、イクちゃんは励ますようにポンとひとつ叩いた。

「やれやれまったくコロンビアだね」

南米初日にして洒落た歓迎を受けてしまったけれど、これから続く長い陸路を考えれば今まで以上に気を引き締めて走らなければと、消えた30ドルはいい授業料と思うことにした。

つづく。

2013年10月4日金曜日

バイク輸送情報 アルゼンチン(ブエノスアイレス)~日本(成田)

長い旅を無事に走りきってくれた愛車ですが、帰国前に待ち構えるもう一仕事。それは「バイクを日本に持ち帰る」というものです。

長期で海外ツーリングを楽しむ人は、僕を含め大抵は日本からバイクを持ち出しています。やっぱり自分のバイクで走りたいという気持ちはありますよね。
で、海外に持ち出す際、基本的には「一時輸出」という形をとって持ち出します。旅が終わればいずれ日本に帰国するので、持ち出すとき(輸出)も、持ち込むとき(輸入)も、関税を払わずに済ませたい。それを実現するのが「一時輸出」というわけです。これであれば関税を払わずに済みますが、「一時」という名がつくおかげで、旅が終わったら日本へ「再輸入」をしなければいけません。よく「海外で売ってしまったら?」と言われましたが、輸出時に関税を支払わずに持ち出しているのでそれができないのです。

一度ペルーでバイクが故障したときにJAFのカルネ担当の人に相談したのですが、壊れた状態でもいいのでなるべく現状のまま日本に持ち帰ってくださいと言われました。一瞬旅の中断さえ頭をよぎりました。その後無事にバイクが直ってくれてまた走り出すことが出来ましたが、日本に持ち帰るという制約はよほどのことがない限り守らねばならないようです。

ということで、最終的に到着したアルゼンチンのブエノスアイレスから日本にバイクを輸送することにしました。ブエノスアイレスはご存知の通りアルゼンチンの首都、大都会です。大きな国際空港もあるし、海に面した都市なので港もあります。港があるなら貨物船が出てるだろうし、きっと日本航路もあるだろう。そんな軽い気持ちでいたのですが、なかなか手ごろな貨物船を見つけることが出来ませんでした。なので結局空輸することにしました。

お願いしたのはダカール・モト(www.dakarmotos.com)というところ。オフィスはブエノスアイレス市郊外にあり、ヨーロッパ出身のご夫婦が経営しています。バイクの販売、修理がメインのようですが、宿泊施設もあり、他国への輸送(空輸のみ)も受け付けています。英語対応してくれるし、ヨーロピアンのバイク乗りが多く利用しているようでした。

さて、空輸すると決まれば話しは早かったです。ダカール・モトのオフィスで予約した日から数えて4日目にバイクは空を飛びました。貨物船とはえらい違いです。梱包も簡易梱包(バイクをパレットに載せて巨大なラップでぐるぐる巻きにするだけ)なので、船のように木箱に入れる必要もありませんでした。空港の税関まで走って行きその場で梱包。大変らくちんです。

主な流れはこんな感じでした。

1日目
ダカール・モトのオフィスで受付。空港での作業手順、税関、保税倉庫の場所を詳しく教えてくれます。ダカール・モトへ手付金100USドルもしくは800アルゼンチンペソを支払います。所要時間は1時間くらい。

2日目
空港の指定場所へ10時半までにバイクを持ち込みます。もちろん自走です。一緒に梱包するものも持っていきます。僕はヘルメット、ウェア、スペアパーツ、工具、予備タンク、サイドバッグ、タンクバッグを一緒に同梱しました。ダカール・モトでの説明ではキャンプ道具や個人の持ち物は同梱できないとされていましたが、実際バッグの中身を確認することもなかったので、これらを入れても問題ないと思います。キャンプ道具を持ち帰るのも大変ですからね。
その後は保税倉庫へ移動し、バイクを梱包します。梱包サイズによって運賃が変わるので、僕はハンドルとフロントタイヤ&フェンダーを外しました。面倒ならそのままでも大丈夫です。タンクに入ったガソリンを抜き、バッテリーの端子を外します。梱包は係りの人が行います。作業は1時間半くらいで終わりました。
あとは通関作業が終わるのを待ち、空港からシャトルバスに乗って街へ戻りました。夕方ダカール・モトから輸送の総費用の連絡がきます。

こんな感じで梱包されていきます。

3日目
ブエノスアイレスのセントロにあるNAVICONという会社のオフィスへ行き、輸送費を支払います。オフィスで説明を受けたあと、指定の銀行で支払いをします。僕の場合の総費用は1651.76USドルもしくは8902.99アルゼンチンペソ。このときのアルゼンチンは闇両替(公定レートよりずっとレートが良かった)が出来たので、手持ちのドルを闇両替でペソに変えてから支払うと、1000ドルちょっとで済みました。この差は大きいですね。支払いが済んだら必要な書類(AirWayBill)を受け取ります。

4日目
バイクが日本へ向けて出発。

以上でアルゼンチン側での作業は終了です。貨物船に比べるととてもあっさりですね。

あとは日本側での受け取りですが、こちらも1日で済みました。送り先は成田空港なので、到着連絡を受けたら空港の貨物地区へ出向き、受付(僕の場合はユナイテッドカーゴでした)を済ませ、税関で通関作業をしました。

税関では輸入申告所の書き方が分からずに困ってしまいましたが、税関職員の方が親切に教えてくれたので問題ありませんでした。バイク本体の検査も、
「輸出時と特に違ったところはありませんか?」
「ありません」
あっさり終了です。
といっても検査員は輸出時の状態を知らないので仕方ありません。同梱した荷物も同様にあっさりと検査を通りました。いくらバッグを引っ掻き回したところで、出てくるのは長旅で薄汚れた道具ばかり。個人装備の範囲ならなんら問題なさそうです。
かかった費用は横持ち料や所在地証明書発行手数料(400円分の収入印紙が必要)をあわせて6559円でした。

あとは保税倉庫の片隅を借りてバイクを組み立て、日本のナンバーに付け替えれば一件落着(パレットやその他のゴミはユナイテッドカーゴの職員さんが無料で処分してくれました)。さらに空港内にガソリンスタンドがあるのですぐに走り出せます。

無事に帰国した愛車。組み立て中。

バイクの個人輸送は骨の折れる作業ではありますが、どの大陸間においてもその道が用意されているので、やはり情報収集と自分のやる気次第だと思います。
大雑把な説明でしたが、これから海外ツーリングをしたいと思っている人の役に立てたならうれしいです。

2013年5月14日火曜日

Argentin(アルゼンチン) ツーリング情報 2013/05現在

【入国】

・人間:無料(90日間)
・バイク:無料(200日間 長い!)

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】
・保険:未加入
・ガソリン:7.6ペソ/リットル(オクタン価?)
・通貨:ペソ 5ペソ≒1USドル
・走行距離:?km

【メモ】

アルゼンチンもチリ同様何度も出入りをした。パタゴニア地方では両国の国境が入り組んでいるため、どうしてもそうなってしまう。といってもそれだけに多数往来があるため、出入国は至ってスムーズ。そしてパスポートにはアルゼンチンとチリの入出国印ばかりが増えていく。

保険は強制ではない。

パタゴニア西部の40号線は未だ未舗装区間が多く走りにくい。現在舗装工事中のようだが、完成は何年も先のことだろう。東部3号線は全区間舗装されている。
アルゼンチン、チリではガソリンスタンドにシャワーがあるところが多い。野宿続きの時、給油ついでにさっぱりすることができてありがたい。ついでにwifiも飛んでいたりするので、スタンドは絶好の休憩スポット。
さらにパタゴニアの何も無い場所ではよくガソリンスタンドにテントを張らせてもらった。パタゴニア特有の風がしのげるばかりか、水も確保できるので助かる。テントを張らせてくれと頼んで断られたことは一度もない。

ガソリンは日本と同程度か。パタゴニア地区は経済特区らしく、1リットル5ペソ前後と安く買える。アルゼンチンのガソリンは青い。赤いガソリンに慣れているのでどうにも不思議な感じである。

単位は距離がキロメートルでガソリンはリットル。

アルゼンチン国土の大半を占めるパンパ(草原地帯)。そこに延びる道は本当にまっすぐで、そのまま地平線に消える。壮大だが単調。さらにパタゴニア地方が風が強い。基本的に西風で、向かい風になるとまったく進まず、トップギアに入れることが出来ないことも。反面追い風をもらうと楽で燃費も良い。もっとも風のある中での休憩は休憩にもならず逆に疲れるので、やはり風のない日が一番走りやすい。

両替レートについて。どうにもアルゼンチンの経済が不安定らしく、両替レートは現在二重になっている。公定レートは1ドル5.15ペソだが、闇レートでは1ドル7.5~8.5ペソで交換できる。つまり闇レートで両替すると所持金が一気に1.5倍になる計算だ。ATMでペソを引き出したり、クレジットカードで決済をすると公定レートで計算されるので、この差はかなり大きい。しかしアルゼンチンではUSドルを用意できないので、あらかじめ隣国でドルを作らなければならない。そしてやはり100ドル札の方がレートが良い。

2013年5月12日日曜日

Chile(チリ) ツーリング情報 2013/04現在

【入国】

・人間:無料(90日間)
・バイク:無料(90日間)

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】
・保険:未加入
・ガソリン:約770ペソ/リットル(オクタン価93)
・通貨:ペソ 475ペソ≒1USドル
・走行距離:5748.6km

【メモ】

チリには何度か出入りをしたのでその度に異なる国境を使用した。どこの国境でも人、バイク共スムーズに手続きを行うことが出来たので問題ないが、注意すべきは食料である。チリには生鮮品や牛乳などの一部食料の持ち込みが禁止されている。一応荷物の検査がある(場所によってはX線検査もあるらしい)ので入国前にそれらを処分しなければならない。米やパスタ、缶詰などは問題ない。所持が見つかると最悪罰金処分になるらしい。といっても僕が受けた検査はとても形式的なものだった。バイクから荷物を外さず、バッグの口を開けて「はい、いいですよ」で終わる時もしばしば。
それにしてもボリビアのウユニからチリのカラマへと抜けるアバロア国境はかなりタフな道のりだった。

保険は未加入。

南北に細長いチリでは、5号線がその国土を貫いている。日本の高速道路のようで距離を稼ぐには楽ではあるが、景色の変化に乏しく走っていて面白くない。さらにPeaje(料金所)が多数あり結構高い。なので僕は極力5号線を使わずに南下した。
5号線を外れるとほとんどが生活道路といった感じ。北部アタカマ砂漠を除けば程よい感覚で町があるので、給油や食事に困ることは無い。景色の綺麗な未舗装区間があったり、川に橋が架かっておらず渡し舟で渡ったりという楽しみがあった。となりのアルゼンチンへ向かうときには峠越えもあるが、基本的には海岸線を走られるためきつい坂道は無い。

ガソリンは高い。これまでの国で一番。特にパタゴニア地方は高く、チレチコなどではレギュラー1リットルが920ペソ(約2ドル)もした。

単位は距離がキロメートルでガソリンはリットル。

南北に細長いチリ。北部はアタカマ砂漠、南部はパタゴニアと対極の表情を持つ。じりじりと太陽の照りつけるアタカマ砂漠の果てしない一本道も、世界一美しい林道と言われるパタゴニアのアウストラル街道も、バイクで走っていて本当に楽しかった。

2013年1月28日月曜日

Bolivia(ボリビア) ツーリング情報 2012/11現在

【入国】

・人間:無料(30日間 90日まで延長可能)
・バイク:無料(30日間 90日まで延長可能)

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】
・保険:未加入
・ガソリン:9.25ボリビアーノ/リットル(オクタン価?)
・通貨:ボリビアーノ 7ボリビアーノ≒1USドル
・走行距離:1156.5km

【メモ】

ペルーのユングーヨからボリビアのコパカバーナへと抜ける国境を使用。
ペルー側出国も、ボリビア側入国も大変スムーズ。書類のみの提出ですんなり通過できた。ボリビアのイミグレーションにいたっては僕の代わりにオフィサーが入国カードをちゃちゃっと記入し、ぽんとスタンプを押してくれた。しかもなにか質問されたと思ったら「彼女はいるのか?」だった。まったく関係ない。いないと答えると「ボリビアはペルーより寒いぞ。彼女のいない夜は特にな」ときた。審査などどうでもいいといった雰囲気。

保険は強制ではない。

幹線道路が基本的に舗装されているが、全体的に舗装率は低い。田舎に行くと未舗装な場合が多く、状態も悪い。特にウユニからチリに抜けるダートは洗濯板状の道が続いていた。雨が降るとかなりぬかるむので雨季の通行は避けたいところ。

ガソリンは安い。どのガソリンスタンドでも一律料金で3.75ボリビアーノ。なのだが、最近になって外国人価格が設定されたため、ツーリストが買うと現地価格の2.5倍もする9.25ボリビアーノになる。どんなに頼んでも3.75ボリビアーノでは売ってくれなかった。
あまりにも価格差があるので僕はいつも「レシートは要らないからリットル5ボリビアーノで売ってくれ」と言って買っていた。たいがいの場合それで売ってくれる。差額はポケットマネーになっているのだろうか。そのあたりはボリビアクオリティー。

単位は距離がキロメートルでガソリンはリットル。

滞在期間の延長について。ボリビア入国時にもらえる滞在期間は30日。だけど90日までの延長は簡単に出来る。僕はラパスにあるイミグレーションで90日まで延長した。必要なものはパスポートのコピーのみ。2分とかからない。
同時にバイクのペルミソの有効期限も30日なので、これも延長しなければならない。ラパスにある税関では出来ず、30分ほど走ったエルアルトという町の税関へ出向かなければならないのでこれはちょっと面倒。手続き自体は1時間もあれば終わる。詳細を残したメモをなくしてしまったので税関の住所が分からないのだけど、日本大使館で調べてもらった情報なので、大使館へ電話をしてみるといいだろう。
また聞いた話では、入国時に「ビザを60(90)日くれ」と言えばもらえる場合があるらしい。どのみち延長を考えているなら駄目もとでも試してみる価値はある。

ボリビアといえばウユニ。見渡す限り真っ白なウユニ塩湖をバイクで走れば、今までにない最高の体験ができる。