2011年8月21日日曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.3

古都メリダにあるホテルの一室に宿をとった僕。連日炎天下で何時間もバイクを走らせているせいか、ひさしぶりのベッドが心地よかったせいか、それとも今日の目的地まで150kmもないという余裕のせいか、ゆっくりとした朝を迎えるのだった。


「チチェンイツァ」と言えばあまりにも有名なマヤ遺跡だ。目玉のエルカスティージョは巨大なピラミッド。そして春分と秋分の年2回それは起きる。ピラミッドの頂上へと延びる階段は蛇の形をしていて、自身が作る影によってあたかも羽が生えたように見えるのだという。いつだったか世界遺産を紹介している本を読んでいて、マヤ文明が高度な天文学を持つと知り、えらく関心したのを覚えている。

明日その遺跡を見学する予定だ。だから今日はその近くまで走ればいい。7時に起きたがすぐには準備をせず、シャワーを浴びてソカロまで散歩した。朝の静かな町はまだ夜の涼しさがかすかに残っていて、気持ちよく歩くことが出来る。ソカロのベンチに腰かけ、町行く人々をぼんやり眺めるというのはささやかながらも幸せな時間だ。

ホテルを出たのは10時を過ぎてからだった。遺跡へ向かう国道までの道順は、フロントの青年に地図まで書いてもらって説明されていたたから迷うことはない。たった一晩泊まっただけで特にこれといったサービスを受けたわけではないのだが、なまり英語の青年もオーナーらしき女性も人当たりが良く、ホテルを後にするときは気分がよかった。毎回こういうホテルだったらいいのにと思う。

国道180号はメリダとカンクンの間を、少し湾曲しながらもほぼ直線的に結んでいて、その途中に遺跡がある。両都市とも緯度にそれほど差異がないので、僕はほぼ東に向かって走ることになる。メリダの郊外にはカンクンまで330kmと出ていた。それほど遠くない。

ちょっとわくわくするタクシー。

カンクンの西、メリダの東。

ピステの町には昼過ぎに到着した。遺跡にもっとも近い町だ。オクソ(コンビニ)があったので冷えたコーラを飲んだ。日本ではほとんど炭酸飲料なんて口にしなかったのに、熱帯の国を走っているせいか近頃は頻繁に飲むようになってしまった。そこからさらに進むと遺跡があった。駐車場はかなり広く、大型のバスが数台行儀よく並んでいた。それだけ訪れる人がいるということだ。見学は明日の予定なので中には入らなかったが、結構な人数が来場しているようだ。

翌日、早い時間から遺跡を訪れた。敷地が広いので歩き回るなら涼しい午前中がいい。開場して間もないゲート付近は人もまばらだ。大型バスもまだ来ていない。チケット売り場で学生証(インターナショナルではなく、メキシコ専用のものだ)を提示してみたが難色を示された。首を横に振られてしまったのだ。ここでは使えないのか。しかし料金表にはきちんと学生料金が記載されている。駄目なの?と聞くと、メキシコの(学校名?)じゃないと駄目だ、というようなことを言われた。スペイン語なのでよく分からない。提示した学生証はメキシコ専用のものだが、学校名はアメリカのものだ。メキシコにある学校じゃないから駄目ということだろうか。それでも僕は

「それはメキシコのだよ」

と言った。もちろん「メキシコの」の後には「学生証」という文字が入るべきなのだが、そんな単語は知らない。係員は、よくわからんがまぁいいだろうという雰囲気で学生料金にしてくれた。116ペソが65ペソになるのだから大きい。学生証を作るのにだってお金はかかっているのだ。

ゲートをくぐり遺跡内へ入る。真っ先に目に入ったのがエルカスティージョだった。本で知って以来この目で見てみたいと思っていた。その実物が今目の前にある。

(ふーむ。これがそうか)

それは実に淡白な感想だった。確かに真っ青な空に向かって建てられたかのようなピラミッドは巨大で圧倒的だ。しかし取り立てて興奮するほどではなかった。なぜだろう。今までもそうだったけれど、どの遺跡を見ても鳥肌が立つような感動がない。本で見て、あれほど興味を持ったというのに、不思議だ。これなら山にでも登ったほうがよっぽど感動する。町の市場でも散歩していたほうが刺激的だ。

とは言いつつも、せっかく来たのだからとくそ暑い中3時間もかけて一通り見てまわった。空には大きな塊のような雲が浮いていて、ときおり太陽がそれに隠れると暑さも和らいでくれた。そんな隙を見ながら歩き回った。やたらとのどが渇き、持ってきたお茶はあっという間に飲み干してしまった。

遺跡には白人たくさん。

これが噂の。

残念ながら現在は登ることができない。

雨神チャック。

昼に遺跡を後にした。次に向かった先はセノーテだ。セノーテはユカタン半島にのみ存在する泉、ということらしいが泉というよりも鍾乳洞というべきだろうか。石灰岩が侵食されてできたそれに地下水が溜まってできたものだ。その透明度は驚異的で、澄んだところでは200mを越えるという。
ユカタン半島には山も川も存在しないから、古代マヤ人たちの貴重な水源であった。と同時に雨神チャックに供物を捧げる場所でもあったらしい。いくつもの装飾品や人骨などが発見されている。

遺跡から東へ5kmほどいくと、イクキルというホテル内にセノーテがあった。セノーテに訪れるのはカンクンに着いてからと考えていたが、こんな暑い日ならばさぞ気持ちよく泳げるだろうと思ったのだ。入場料は結構高く70ペソだった。ホテルはいかにもリゾートっぽい造りで、設備はきちんとしていた。透き通る青い泉に飛び込んで、真夏の太陽が見上げる岩の隙間から降り注げば、気分は最高だ。雰囲気はとても神秘的で、泉にはたくさんの小さな黒いナマズが泳いでいた。

神秘的。

シャワーを浴び、しばらくゆっくりしたあとホテルを出た。ピステに戻り夕食をとってからどこかにテントでも張るつもりだったが雲行きがかなり怪しい。間違いなく雨は降るだろう。さてどうするべきかと考える。そんな時、国道沿いにぽつんとたたずむ小さな教会を見つけたのは偶然だった。そしてそこで一晩過ごすことにした。こんな場所ならきっと誰も来ないだろう。ここなら雨が降ろうが関係ない。

階段をのぼり、小さな部屋ほどの教会に入る。といっても扉などは無い。壁は三面にしかない。教会は黄色とピンクのペンキで塗られていていかにもメキシコらしい。正面の壁には聖母マリアの絵がかけられていて、その前にはいくつものロウソクが置いてあった。

雨雲が大きくなると、ついには雷が鳴り出した。20時を過ぎたあたりから雨も降り出す。雷は激しく空を切り裂き、教会の中を青白く照らした。夕食を済ませてきたのでやることが無い。ベンチに寝袋を広げ、ライトの灯りで本を読んだ。こんな夜にテントならきっと心細かっただろうが、コンクリート造りの教会なら安心だ。雨のおかげで涼しくなっていい、などとのんきに考えながら寝袋に包まった。

つづく。

2011年8月5日金曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.2

メキシコ湾沿いの道があまりにも気持ちよく、結局そのまま浜辺で一夜を過ごすことにした僕。穏やかな夜を過ごし、次なる目的地メリダに向けて走り出すのだった。


早めの6時起床。空はまだうっすらと明るい位だ。ビスケットとコーヒーの朝食。太陽が出ていないからまだ気温は高くない。汗もかかずにテントを撤収できる。それでも太陽が高くなるにつれ陽射しは容赦なく、また今日も汗と格闘するいちにちだ。メリダまでは230kmほどあったが、早めに出発したこともあり昼には残すところ70kmとなった。何度か軍の検問があってその度に止められたが、荷物をあけるほどのことはなくすんなり通過した。

メリダでは安いドミトリーにでも入ろうと思っていたが、目星をつけていたホステルは調べていた値段の倍以上に値上がりしていて、さらに駐車場も無いというので値切る気力にもなれずあっさり断念した。その後ユースホステルにも出向いてみるが、駐車場込みで125ペソといい値段だった。

事前に調べていた情報では100ペソ以下が相場であった。すっかりその気でのこのことやってきた僕なので、125ペソと聞くとどうしても高く感じてしまう。25ペソといえば日本円にして約200円。なんだそれくらい、ときっと思うだろう。だけどすっかり貧乏旅が骨の髄まで染みこんだ僕にはその25ペソが大切だった。たかが25ペソ。されど25ペソ。ここでは屋台で食事が出来てしまう金額だ。

結局ユースホステルは保留にして、ソカロ周辺をバイクで走り、目に入ったホテル一軒一軒の値段を聞いてまわった。何軒目かのホテルに入ると、フロントには僕と同い年くらいと思われる青年がいて、事務的な椅子に座り事務的な仕事をしていた。
一見白人とも思えるような顔立ちをしている彼は、かなり強いスペイン語なまりの英語を話した。ホテルはいかにも洋館と言う造りで、清潔な感じが悪くない。床一面に白と茶のタイルが交互にはめられ、まるで自分がチェスの駒にでもなったような気分になる。中庭の植木は吹き抜けいっぱいに伸びて、2階の廊下を優に越していた。ぱっと見他に宿泊者はいないようで、フロントもロビーも閑散としていた。値段はシングルで180ペソだった。

(まぁそんなもんだろうな)

素直な感想だった。これではいくら値切っても100ペソは望めないだろう。僕はありがとうと言いホテルを出ようとした。

「150でどう?」

きびすを返した僕に、フロントの青年は待ったをかけた。そこから交渉が始まった。

「もちろん駐車場もあるよ」

しかしいくら個室といえど、ユースホステルのドミトリーは125ペソだ。一晩寝るだけならシャワーとベッドさえあればいい。残念だけど、と首を振り立ち去ろうとすると、どこからか女性(きっと青年の母親だろう)がやってきて、青年となにかを話し始めた。スペイン語の会話はまったく理解できなかったけど、女性は洒落たブラウスにスカートという身なりで、どこにもラテンな雰囲気はなかった。手には大きなブレスレットがはめられている。きっとあまり血が混ざっていないのだろう。これならチェスの床の洋館というのもうなずける。そんなことをぼんやり考えていると、ふたりの間では何かが決定されたようだ。

「小さな部屋だったら100ペソでいいよ」

青年はなまり英語で言った。いきなり目標の金額を目の前に出されてしまったら、もう帰るわけにはいかない。僕は部屋を見せてくれとお願いし、青年に案内されて2階の部屋に通された。小さな部屋といっても日本人の感覚からすればどこも小さくは無い。四畳半の部屋の方がまだ小さい。ベッドがあり、ファンがあり、机があり、テレビがある。もちろんシャワーとトイレもついている。
もう個室でこの値段はなかなか見つけられないだろうと、僕は部屋を見たときに即決したのだが、そうとは知らない青年はなんとしても僕を泊まらせたいらしく、リモコンでテレビをつけ(リモコンがあるというのはかなり”売り”のようだ)、電灯をつけ、ファンを最強でまわし、ホットシャワーまで出して部屋の設備をひとつひとつ丁寧に説明してくれた。

「問題ないよ。オーケー。今日はここに泊まることにするよ」

「そうか。それなら下で受付をしよう」

清潔感のある洋館。

4日ぶりの宿はやはり快適だった。
荷物を入れたら真っ先にシャワーを浴びた。外はいつの間にかスコールだったから、テレビをつけてベッドに横たわった。見上げた天井からぶら下がるファンは身をくねらせるようにまわっていて、いつかちぎれて落ちてくるんじゃないかと心配になる。テレビでは映画の「レオン」がやっていて、スペイン語に吹き替えられて言葉はわからなかったけど、なんだかんだで最後まで見てしまって、外はいつの間にか雨があがっていたから夕暮れの散歩に出た。

やはりと言うか古都メリダにおいてもソカロ周辺はコロニアルで、カテドラルは荘厳だった。おかげで僕は胸やけ寸前という気分だった。食傷。つまりはそういうことだ。唯一救いだったのは州庁舎の壁画が素敵だったことだ。それは今まで見てきたどの壁画とも似ておらず、見応えがあってよかった。

町の彫刻は、スペイン人がインディヘナを踏みつけていた。

今まで見たことの無いタイプの壁画。

州庁舎に並ぶ壁画。
どの壁画も物語性が強かった。

メルカドをぶらつき、安食堂街でポジョアサードとトルティーヤを買い、部屋に戻って夕食にした。この炭焼きの、ちょっと焦げたチキンが実にうまい。素手で身をほぐし、ハラペーニョと一緒にトルティーヤで巻いて食べるとかなりいける。ベラクルスで初めて食べて以来、すっかりお気に入りの食事になっている。

飯を食ったら眠くなる。疲れているせいかベッドでうとうとしていると21時になっていた。あわてて部屋を出る。今日はサンタルシア公園で歌と舞踊がおこなわれている(メリダは毎日どこかでそのようなイベントがあるらしい)ので見に行こうと思っていたのだ。というのもフロントの青年がぜひ行ったほうがいいと(なまり英語で)強く勧めたからだ。

公園はすでに結構なにぎわいで、特設のステージでは3人のメキシカンがギターを抱えて陽気に歌っていた。やっと涼しくなってきた気温と陽気な歌は疲れた体に心地よく、植木のブロックに適当に腰掛けて聞いていた。

メキシコはなぜかトリオが多い(と思う)。

そんな僕の前に、ときおり土産物をたくさん抱えた少女が現れて、色とりどりの布やらネックレスやらを目の前に差し出す。そして(あなたお金あるでしょ。買ってよ)という目で僕をみつめる。僕は、ただ目を伏せて首を横にふることしか出来ない。確かに金はある。いくら貧乏旅だといっても、少女からみたらとんでもない大金をポケットに入れているのだ。少し心が痛む。少女は、そんな僕にあっさり見切りをつけ次の客を探しにいく。

ベンチに座っていた恰幅のいい白人女性ふたり組みが、少女からいくつかの品を購入していた。僕はそれを見て少しほっとする。と同時に、胸の中にもやとしたものを感じてしまう。
心を痛めながらも、自分では買わない。しかもそのくせ品が売れているところを見て、ほっとする。なんという傲慢さか。僕はどうしようもないジレンマに苛まれる。

22時過ぎにイベントは終了した。歌も踊りも楽しいものだった。ステージでは民族衣装に身を包んだ女性が美しい笑顔で終演に花を添えていた。
観衆はくもの子を散らしたように自分の帰る場所へと歩いていった。僕も、ホテルに向けて歩き出す。今日はひさしぶりのベッドだ。それにファンもある。きっと快適な睡眠となるのは間違いない。真っ暗な夜の空にライトアップされた教会は煌びやかで、僕はそれを横目に足早にホテルへと歩いた。

素敵な笑顔で花を添える。

夜の空に見上げる教会。

つづく。

2011年8月3日水曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.1

マヤ先住民の伝統と文化が色濃く残る町サンクリストバル・デ・ラスカサスを後にした僕。次なる目的地パレンケ遺跡ではその密林のむせかえるような熱気に、山の涼しさに慣れた体は悲鳴を上げるのだった。


サンクリストバルの次に向かった先はマヤ遺跡の残るパレンケだ。メキシコ国内にあまたある遺跡でも、密林に覆われるようにあるそれは神秘的な雰囲気で人気も高い。僕もメキシコでの訪れたい遺跡のひとつだった。

サンクリストバルの宿を9時に出発した。予定通りだが、特にその時間に出なければいけないわけでもない。バイクでの移動は時間に縛られなくていい。バスや電車だとこうもいかない。まだ夜も明けぬうちにそっと宿を出ていく旅人も少なくないし、深夜バスに乗るために夜になって荷物を担ぐ人もいる。バイクなら自分の好きな時間に出発ができる。たとえ寝坊したとしても、多少の遅れは道中で挽回できる。
といってもバイクにはバイクなりの問題というものがあるので、何がいいとは一概には言えない。結局その人のやり方次第だ。自転車だって歩きだって、本人がやりたいようにやるのが一番だ。

さすがに標高2100mからとなると道は延々下りだ。パレンケまで一気に山を駆け下りていく。下りは非力なバイクでもスピードに乗って楽なのだが、ときおり現れるトペが舌打ちをしたくなるほどやっかいだ。前後ドラムブレーキな上に荷物満載。そして下り。となれば急停車などは間違っても出来ず、うっかりトペに気づかずにいると前輪を跳ね上げられて大変危険だ。カーブの先にトペが現れようものならブレーキさえまともにかけることが出来ず、ただもうあきらめるしかない。

それにしても驚くのはどんな小さな村にも教会があることだ。さんざんメキシコ国内を走ってきたけど、例えそれがこんな山の中であっても、また砂塵の舞う砂漠の中であっても、集落というものには必ず教会があった。そもそもメキシコの先住民はカトリックではない。それでも人々を改宗させ、教会を至るところに散りばめたスペイン人の徹底さに嘆息せずにはいられない。そして僕がこれから向かう先のそのほとんどがそうであるのだと思うと、否が応でも胸が締め付けられてしまう。

標高を下げるにつれ気温は上がり、出発時にはダウンを着込もうかと悩んでいたのがバカらしくなるほどになった。それもそのはず。最終的には暑さのあまりTシャツだけで走ってしまったのだから。

見渡す限りの密林が広がる。
そして暑い。

時間がかかるかと思ったパレンケまでの道のりは、下りのせいもあってか夕方のまだ早い時間に到着してしまった。宿を取るかキャンプ場にするか決めかねていたけど、遺跡に近いとあってマヤベルというキャンプ場に入った。60ペソはちょっと高いと思うが、シャワーがあるのでありがたい。

テント設営ですっかり汗だくになった僕はさっそくシャワーを浴びに行こうと洗面用具と着替えを持って歩き始めたのだが、近くのコテージに泊まっている初老の白人に呼ばれてしまった。彼は、僕を見つけるとそれが当たり前とでもいうように手招きをしてきたので、僕は誘われるままに開け放たれている入り口の扉をまたいだ。部屋は狭く、壁には不可思議な絵が掛けられていて、ステレオからはクラシック音楽が流れていた。そして入るとすぐにその匂いがした。マリファナの匂いだった。

彼はすでにかなり酔っているようだった。目を見ればすぐに分かった。まるで雪が降り積もったかのような真白い髪をしていて、着ているシャツもズボンも白だった。それはまるでなにかの儀式にでも参加するかのような感じを受けた。小さな銀色のパイプとライターを両手に持ち、突然何かを思い出したように話しはじめた。

(ちょっと面倒だな)

思いつつもすぐにその場を離れるわけにもいかず、少し話を聞いていた。どこから来たと聞かれ、カナダからバイクで走ってきたと答える。それを聞いた彼は満足そうな顔になり、それはとても良い経験をしていると握手を求められた。が、相手の話はあちこちに飛ぶし、もちろん英語だ。聞いている僕は疲れてしまう。さらにこれからカンクンへ向かいベリーズに入ると言うと突然彼は大笑いした後、急に変調して悪態をつきだした。最初は何がどうしたのか分からなかったが、どうもベリーズのことを快く思っていないようだ。独り言のように毒づく姿には僕もさすがに閉口してしまい、これからシャワーを浴びるからとその場を後にした。

シャワーを浴びて出てくると、彼は若い従業員を捕まえて何か大声で話をしているようだった。僕はなるべく近寄らないようにしてその夜を過ごした。テントに入って横になると、ホエザルの猛々しい声と野鳥の高く透明な声が折り重なり、脳に突き刺さるように聞こえてきた。夜中には雨が降った。

翌日の午前中はテントをそのままに、パレンケ遺跡を見学に行った。2時間をかけて歩いてみてまわった。人も多くなく、密林に覆われるようにある遺跡は雰囲気がよかった。それほど広くもないのもいい。広大な乾燥地帯にあるテオティワカンとはまた違う印象だ。

遺跡は密林の中にひっそりとある。

壁の彫刻が当時を偲ばせる。

土産屋の親子。

キャンプ場に帰ってテントをたたみ、かいた汗をシャワーで流して昼に出発した。午後からの走り出しだしそんなに進まなくてもいいかと思ったが、意外に走り200kmを越えた。途中もくもくと沸いて出た積乱雲の中につっこみ雨に打たれそうになるが、バス停でなんとかやり過ごした。雨季が本格的に始まったのだろうか。雨季でのバイク移動は避けたいところなのだが。

パレンケを出て2日目。その日はメリダ近くまで走ろうと思っていた。そうすれば明日の昼にはメリダにつくことが出来、午後から半日ゆっくり過ごせるからだ。
しかしサバンクイの町に到着したのはまだ10時で、しかもそこからメキシコ湾をなぞるようにのびる海沿いの道が気持ちよく、コバルトブルーの海を見ながら木陰で休憩なんかをしていると、そういえばまだこの旅が始まって浜辺でキャンプをしていないことに気がついてしまい、こんなにきれいな海と砂浜がありながらキャンプをしないなんてもったいないと気もそぞろになり、こうなったらメリダ近くまで行くのをやめにして(メリダに近づくと道は海から離れてしまう)海沿いのどこかいい場所を見つけてのんびりしようと決めた。
メリダまで200kmは残ってしまうが、頑張れば夕方には着くだろう。それよりもこんな天気のいい日は浜辺キャンプの方がいい。

向かう先は雨か…。

木陰の一休み。

チャンポトンの町ではいい具合に大型スーパーがあって、1.5Lの水と2Lのオレンジジュース(暑くてやたらのどが渇く)と1Lのワイン(浜辺キャンプに酒がないなんて!)を買い込んだ。町を出て10kmも走らないうちに国道から浜にのびる道を見つけ、その先にきれいな海ときれいな砂浜があったから、まだ午後の2時前だというのにバイクを木陰に止めてのんびり過ごした。陽射しが暑く、木陰からなかなか出られないが、人も来ず、Tシャツを脱ぎジーンズをひざまでまくり海に入れば最高の気分だ。風が少し出ているので風をよけられる場所にテントを張り、ワインを飲んだ。日が落ち、夕食を食べ、テントに入る。ほとんど波の打ち寄せないメキシコ湾でのキャンプは、月に見守られながら実に静かな一夜となった。

メキシコ湾独り占め。

波の無い鏡のような海の夕暮れは、
空と海の境界線が判然としなかった。

つづく。

2011年8月2日火曜日

Belize(ベリーズ) ツーリング情報 2011/06現在

【入国】

・人間:100BZドル(30日間)
・バイク:無料

【出国】

・人間:?
・バイク:無料

【その他】

・バイク消毒:5BZドル
・保険:15USドル(7日間)
・ガソリン:約10.9BZドル/ガロン(オクタン価87)
・通貨:ベリーズドル 2BZドル=1USドル(固定レート)
・走行距離:295.0km

【メモ】

メキシコのチェトゥマルからベリーズのコロザルに抜ける国境を使用。
保険とバイクの消毒は強制。いずれもメキシコを出国してベリーズ側入国ゲートまでの間にある。ないと入国できないと聞いたが、税関で特にチェックはされなかった。保険は1日単位で加入できるが、1日7USドルだったので、3日以上滞在する場合は1週間のプラン(15USドル)に入ったほうが得だ。

ベリーズ入国にはビザが必要。以前は国境でもすんなりとビザが取れたらしいのだが、今は審査が厳しくなって1~2時間(最悪半日ほど)待たされる。事前にベリーズ大使館などで取得しておけば待ち時間はないが料金は60USドル(国境だと50USドル)だと聞いた。僕はメキシコのチェトゥマルでベリーズ領事館を探したが良くわからず、結局国境へ直接向かった。やはり1時間半待たされたが、問題なくスタンプをもらえた。

バイクの通関はとてもあっさりしたものだった。必要書類(パスポート、国際免許証、バイクの登録証)を見せるだけ。荷物のチェックもなし。

それにしてもビザ代の100BZドル(50USドル)は高い。多くの日本人旅行者はベリーズを避け、メキシコ~グアテマラ間の国境を使用しているのもうなずける。小さな国だし治安もあまり良くないからだろう。ただしカリブ海はきれいだ。

出国時に37.5BZドルを払わなければならないようだったが、そのときの支払いカウンターには誰もおらず、僕はなぜか払わずにイミグレーションと税関のカウンターでそれぞれ出国のスタンプを押してもらった。イミグレーションのオフィサーにもう出ていいの?と聞いたらいいと答えたのでそのまま通過した。スタンプさえもらえばこっちのものだ。もしかしたらなにかしら記録が残っているかもしれないが、そうそうベリーズに行くこともないからまぁいいかといった感じ。

ベリーズ国内はUSドルがかなり流通していて、イミグレでも町の小さな商店でも不便なく使うことが出来た。というかUSドルの方が喜ばれた。おつりはBZドルで返ってくる。レートは固定なのでいちいち気にしなくてもいいのが楽。

道路状況は良い。国道は舗装されている。トペは、もちろんある。町と町の間には牧歌的な風景がどこまでも広がっていた。

ガソリンについて。ベリーズでは未給油だった。300kmしか走っていない。小さな国ゆえガス欠を気にすることもないだろう。ガソリンの値段はスタンドの看板を見てだが、結構高い。

単位はマイルとガロン。

中南米で唯一英語が公用語の国。イミグレの書類から町中にある店の看板まですべて英語表記だ。スペイン語もかなり話されているが、メスティーソの人々でさえ英語で話しかければ英語で返ってくる。僕はスペイン語がからきしなのでこれにはちょっとほっとした。ベリーズ・シティーはほぼ黒人の町。田舎にいくとマヤ先住民系の人々が多かった。