2012年5月29日火曜日

Nicaragua(ニカラグア) ツーリング情報 2012/05現在

【入国】

・人間:12USドル(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス4カ国共通で90日間)
・バイク:1USドル

【出国】

・人間:3USドル
・バイク:無料

【その他】
・保険:12USドル(30日間)
・ガソリン:約32コルドバ/リットル(ハイオク)
・通貨:コルドバ 23.0コルドバ≒1USドル
・走行距離:532.6km

【メモ】

ホンジュラス~ニカラグア間にある国境の中で一番北にあるラス・マノス国境を使用。
ホンジュラス側出国手続きはスムーズ。基本的にどの国でも去るもの追わずで、オーバーステイなどをしていなければいくら車両を持ち込んでいてもあっさり出ることが出来るようだ。

ニカラグア側に入ると保険屋のおやじに(半ば強制的に)連れまわされ、入国に関する一切の手続きを仕切られた。保険の加入(強制なのかいまいち分からなかった)からイミグレーションでのツーリストカードへの記入、税関への申請とすべて彼が行ってしまった。もっともそのおかげでスムーズに事は運んだのだが、一度だけ税関のオフィサーに事務所の外に連れて行かれて賄賂を請求された。丁寧にお断りをして引き下がってもらった。

保険について。ニカラグアに車両を持ち込む場合、保険に加入しなければならないとは聞いていなかった(中米ではベリーズ、コスタリカ、パナマの3国が強制だと聞いていた)。あるバイク乗りの話では、日本の海外旅行保険の証券を見せたら大丈夫だったとも聞いていた。しかし僕の場合税関でも入国ゲートを抜けるときの最終チェックでも保険の加入有無を確認されたので、もしかしたら強制なのかもしれない。ただし保険屋のおやじの献身的な態度を見る限り、どうも彼のポケットマネーになっているのではないかと懐疑的になってしまうのだが。

道路状況はホンジュラスと比べてかなり良い。道に穴が開いてないだけでこれほど走りやすいとは!

ガソリンは他の中米諸国に比べ高い。

単位は距離がキロメートルでガソリンはリットル。

ニカラグアは中米の中でもかなり物価が安いと感じた。また飯もうまかった。メキシコ以来さんざん食べてきたトルティーヤもめっきりお目にかからなくなり、炭水化物はガジョピントと呼ばれる赤飯のような豆ご飯に取って代わった。
ビザの期限のせいであまり長く滞在できなかったのが残念。

2012年5月24日木曜日

Daydream Believer

コバンの北にある山道を走行中に転倒してしまった僕。傷を負いながらも人々に助けられ、なんとかアンティグアの日本人宿にたどり着くことができたのだった。


一旦ふさぎこんだ心はなかなか晴れなかった。宿へ入った翌日、紹介してもらった病院へ出向き傷を見てもらった以外、数日間はなにもする気がおきなかった。立ち上がるだけでじんじんと痛む傷では歩くことも億劫で、トイレに行くのさえ面倒だった。傷はなかなか乾かず、シーツが擦れるだけでも顔がゆがんだ。毎日、傷口をシャワーで洗い流し、劇薬でも塗りこんでいるかのような消毒は、本当に嫌で仕方なかった。

やがて傷口がかさぶたになり、少しずつ歩くことが出来るようになると、徐々に元気を取り戻すことが出来た。

同時期に宿泊していた旅人とも冗談を言い合えるようになり、やがて仲良くなった。そのうちそんな仲間と毎日夕食を作って食べる事がしきたりとなった。
朝起きて談話室へ行く。談話室にはひとりふたりと集まり、飯を食いながら、コーヒーを飲みながら、おしゃべりをする。それは旅の話だったり、他愛もない世間話だったり。やがて朝から学校(スペイン語の語学学校)に通っている人が帰ってくると、昼を過ぎたことを知る。適当に昼食を済ませ、洗濯やらなにやら所用をすませるともう夕方に差し掛かり、皆で近くのメルカド(市場)に買出しに出かける。夕食を作り、ゆっくりと食べながら、酒を飲み、夜をふかした。

宿の屋上でBBQ。

屋上から望むアグア火山の夕景。

アンティグアにあるマクドナルドの中庭。

中庭2。
奥には廃墟の教会。遠くにアグア火山。
こんな素敵なマクドナルドは他に知らない。

それは実に穏やかな日々だったが、沈んだ気持ちを回復させるにはこの上ない特効薬のように思えた。日々を無為に過ごす僕とは違い、仲良くなった皆は、何かに向けて今を真剣歩んでいるように見えた。痛む傷を抱え、僕にはまだバイクに乗ることは出来なかったけれど、おかげで何かをしなければ、と思えるようになった。

学校へ行くことにした。
幸いにもアンティグアにはたくさんのスペイン語学校があった。そして安いところでは1日4時間の週5日、先生と生徒のマンツーマン、2週間で90ドルと破格の値段だった。他国の言葉を、たかだか2週間足らずでどうこうできるとは思わなかったが、スペイン語自体からきしだった僕はこれにより少しはましになっていった。
久しぶりにフル稼働させる頭は2週間のもの間毎日パンク寸前。とにかく覚えることが多すぎて、4時間の授業はその半分にも感じられた。しかし大変な反面、やりがいもあった。日を追うごとに町の人々とのコミュニケーションが円滑になるのを実感できた。物を買うのにも、道を尋ねるのにも、随分と楽になった。2週間が終わると、旅のあれこれをこなすのになんとか足るだけの言葉が身に付いた。

チキンバスに乗って行こう。

街の風景。

街の風景2。

街の風景3。 

十字架の丘から。

カテドラルと火山。

やがて仲間たちは次の目的地に旅立っていった。どんなに仲良くなっても皆旅の途中なのだ。全員が宿を出て行くのを見送ると、またぽっかり心に穴が開いてしまったような気持ちになった。しかしこのまま陰鬱な世界にずるずると引き込まれ続けることが怖くなり、僕はそれから逃れるように旅支度を始めた。

それまでほったらかしにしていた荷物をまとめる。サイドバッグは転倒時に開いた穴がそのままで、赤土が未だにこびり付いていた。何度か洗おうと思ったが、それを見るたびに苦々しい記憶がよみがえってなかなか手にとることができずにいた。だがもう悠長ことを言ってはいられない。赤土を綺麗に洗い流し、破けてしまった箇所にガムテープを当てる。バイクの洗車をし、オイル交換をし、曲がってしまったシフトペダルを直した。そして1ヶ月ぶりにエンジンを暖めた。久しぶりに触るバイクの感触は懐かしく、今までその存在を遠ざけていたことがまるでうその様に心地よかった。

そのときの日記にはこう書いてある。

***

未だアンティグア。
そろそろ出発、なんて思いながら未だ。
理由は多々あるようで、実はそんなにない。
ようするに、バイクに触れられなかったのだ。

転んだときの記憶は鮮明に覚えている。
無残に流れていく愛車も、アスファルトの冷たさも、傷の痛みも。
小指から流れ出る血はどす黒く、地面に無数の斑点をつけた。

あれから1ヶ月。
体の傷はかなりよくなった。
だけど心の傷はまだだった。

何年も乗り続けている愛車なのに、1ヶ月も放置していた。
手をかけなければと思いつつ、どこかで目をそらしていたような気がする。

昨日、そんな気持ちに克つように、やっと火を入れた。
曲がってしまったシフトペダルを直し、オイル交換をし、洗車をした。
バイクは何の文句も言わず、再び点火されたエンジンを熱くした。
1ヶ月もの間、このときを待ち続けていたのかもしれない。

ヘルメットもかぶらずに、路地裏を走った。
細いシート。幅の広いハンドル。軽いクラッチ。しっかりしたシフトフィール。効かないブレーキ。
そして単発のエンジン。
どれをとってもその感触は体に染み付いているようだった。

 あぁ。これだ。

頬に感じる風は、どこまでも気持ちよかった。

 なんだ。そうだよ。

わずかに残っていた憂いは、どこかへ消え去った。

 簡単なことじゃないか。

***

旅立つための準備が、すべて整った瞬間だった。

雨あがる。

おわり。

2012年5月23日水曜日

最悪ないちにち

ティカル遺跡も見終わり、静かな湖畔での穏やかな日々を惜しみながら、次なる目的地に向けて走り始めた僕。その先で起こった事態はこの先の旅を変えることになったのだが。


グアテマラ中部に位置するコバンの町に向けて走ることにした。大きな道を選ぶのであれば国の東側を走る国道になるなのだが、コバンを抜けケツァルテナンゴ(以下シェラ)に向かいたかった僕は少しでも近道になるよう、あまり大きくは無い道を抜けることにした。それは何も無いが景色のいい田舎道だった。いくつかの村を抜ける。女たちが川で洗濯しているのが見える。小さな女の子は母親の後ろに付き、同じように頭の上に洗濯物が入った桶をのせ道を歩く。

川に橋はなく、ボートで渡る。

小さな村で休憩した。

コバンまでは予想以上に遠く、夕方のスコールまでに間に合わせることが出来なかった。残り50km。チセクという小さな町を抜けたところで乱暴にバケツをひっくり返したようなスコールにあってしまった。道はすでに山の中に入っており、かろうじて見つけた軒下に緊急避難した。何かの工房らしいその建物には誰もおらず、広い軒先に助けられる形となった。もうこれ以上はないだろうと思った雨脚だが、なおも激しさを増す一方。近くでは雷鳴がとどろき、とてもじゃないがカッパを着ても走りだせる状況ではなかった。

そんな僕にはおかまいなしに、陽は、あっという間に沈んでしまった。

大粒の雨の中、急ぎ足で家に帰る子供たち。

こんな状況においても人間腹は減るもので、軒下でインスタントラーメンを作って食べた。コバンまで行けば宿もあるし食堂もあるだろう。が、仕方がない。篠つく雨に、もうこのままここで寝てしまおうかと考え始める。すると向かいにあった民家からひとりの男が出てきて、何事か話しかけてきた。何を言っているか分からずにいたのだが、どうやら僕を呼んでいるらしい。そして、結局そのままその民家に一晩お世話になることになってしまった。

それは山中にある、明らかに貧しいと思える一家だった。しかし、マグカップになみなみと注がれた暖かいコーヒー(甘い麦茶のような味で、その時はそれがコーヒーだとは思えなかった)と、ベッドをひとつ、僕のために用意してくれた。ベッドはグアテマラ先住民の体格に合わせた大きさのため、僕が足を伸ばして横になると足首から先がすっかりはみ出してしまった。電気が通っていないか、もしくはこの大雨のせいで停電したか、夜はロウソクの灯りで過ごした。そして家族全員夜の9時には就寝した。僕も疲れた体を小さなベッドに横たえると、あっという間に眠ってしまった。言葉の違いのためあまり会話が弾むことはなかったが、お互いの気持ちはきちんと通っていたように思う。
山中にあり、町にある利便性はどこにもないが、質素で、実につつましく生活していると感心した。いったい何をもって豊かと言えるのだろう。そんなことを考えさせられる。

翌朝まだ日が昇る前から起き出した。時計を見るとまだ5時だ。それでも家族のほとんどが起きているらしく、今朝もまた甘い麦茶のようなコーヒーをご馳走になった。雨水を溜めた水瓶で顔を洗い、歯を磨く。トイレはどこかとたずねると、行きがけにノートを2枚、ちぎって手渡された。これを使え。つまりはそういうことらしい。肝心のトイレは穴を掘っただけの粗末なものだった。

何度もお礼を言って7時に民家を後にした。あの雨の中、屋根の下で寝られたことは本当にありがたかった。どこの馬の骨とも分からぬ東洋人を快く招いてくれたグアテマラ人の親切がうれしかった。

快く招いてくれたおじさん。

ありがとう。

民家を出発し、30分も経たぬうちに転倒した。

昨日の豪雨のためか、山から流れ出た水が道路を横切っていたのだ。さらには赤土を含んでいたため、とても滑りやすくなっていた。下りでスピードに乗っていたというのもある。いくつかの条件が重なり、案の定、次のカーブに備え左に体重を寄せた瞬間フロントは接地感を失い、そのまま左へ転倒した。すぐにバイクを放したつもりだが、転倒した瞬間に左手小指をハンドルの下に挟んでしまったらしい。

(あぁ、やってしまった。転んだんだ。これは現実だ)

バイクと共にアスファルトの上を流されながら、そんなことを思った。瞬間的な出来事なのに、意外に冷静に働く頭に我ながら感心する。

冷たいアスファルトの上に停止する。とにかく起き上がる。起き上がれてよかったのだが、左手小指は3センチくらいの幅で皮がむけ、肉がえぐれていた。破けたグローブの間から血が滴り落ちる。さらに左ひざにも違和感を感じた。見るとジーンズはぱっくりと破け、こぶし大の擦過傷ができている。左肩、左腰も打ちつけたのだろう痛みがある。
どうしようか?どうしようもない。とにかくバイクをなんとかしなければ。

近くの民家から村人が数人集まってきた。最初は遠巻きに見ていただけだが、ひとりの青年がバイクを起こすのを手伝ってくれ、崩れた荷物も集め、道路わきまで運んでくれた。なおも心配そうに見ている村人に

「心配ないよ。ほら、大丈夫だから」

とは言ってみたものの、グローブを外した手からは血が止まらず、アスファルトに無数の黒い斑点をつけていた。これではとても大丈夫そうには見えない。

事故を起こしてからそれほど経っていないので、傷の痛みはまだ麻痺しているが、1時間もしたらきっとひどく痛み出すだろう。右手だけでバックパックから水と救急用具を取り出し、村人に手伝ってもらいながら小指の傷を洗い、軟膏を塗り、ガーゼを当て、テーピングで止めた。とりあえずこれで血は止まる。ひざも血が滲み出しているが、包帯までは必要ないだろう。指もひざもきちんと曲がるから骨は折れてなさそうだ。

応急処置は終わったが、さてこれからどうしようかといったところだ。幸い何かにぶつかった事故ではないのでバイクは大きなダメージを受けていない。シフトペダルが曲がってしまい(折れなくて良かった)ギアチェンジがかなり困難だが、そのほかは問題なさそうだ。エンジンもかかるし、ハンドルも曲がっていない。レバーも折れていない。リアキャリアに積んでいたサイドバッグがクッション代わりになったのだろう。おかげで左側のバッグはズタボロになってしまったが、バイクが壊れてしまうよりはいい。そう思うと不幸中の幸いだ。

さらに幸いなことが起こる。

たまたま通りかかったトラックが一台、僕の事故を見て止まっていて、その運転手が(英語で)こう言ってくれたのだ。

「お前走れるか?駄目ならこの先のコバンの町まで乗せていってやるぞ」

地獄に仏。僕はその言葉に甘えることにした。こんな状況ではいくらバイクが無事といっても、とても自走する気になれない。そのトラックには運転手の他に3人乗っていて、ふたりは助手、もうひとりは銃を持った警備員だった。4人がかりでバイクを持ち上げ、トラックの荷台に積み込んでくれた。ロープで縛りつけ、残りの荷物も積み込むと、そこから5人でのドライブが始まった。

コバンまでは40kmほどだった。山道と言えど1時間あれば到着できる距離。コバンに着いたらどうしようかと考えていて、ふとあることに思いあたった。トラックの荷台に荷物は無かった。それを考えると何かを運び終わった帰り道なのだろう。それならコバンではなくグアテマラ・シティーあたりまで走るのではないか?

その考えは当たっていて、トラックはグアテマラ・シティーまで戻る途中ということだった。ならばコバンではなくグアテマラ・シティーまで連れて行ってくれないか、そうお願いした。グアテマラ・シティーから30kmほど離れたところにアンティグアという町がある。さらにそこには日本人宿がある。知らない町で、知らないホテルに部屋を取り、知らない病院へ行って傷を癒すよりも、日本人宿へ行ったほうがはるかに得策だと思ったのだ。

運転手は少し考えてから問題ないといい、僕とバイクをグアテマラ・シティーまで運んでくれることとなった。僕はその返事を聞き、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。

(これでなんとかなりそうだ)

転倒した直後、旅が終わってしまうのではないかとさえ思えただけに、ささやかな希望を見出すことができ安心したのだ。

コバンの町へ到着すると給油を兼ねて少し休憩するというので、ガソリンスタンド近くの薬局へ連れて行ってもらい、消毒液を買った。傷口にたらすとそれは音を立ててあわ立ち、同時にぐっと息を止めてしまうほどの痛みが走った。しかし山から流れ出る泥水の中での傷口だ。消毒の痛みよりも破傷風の方が心配だ。

途中の村で昼食をとり、15時にグアテマラ・シティーに到着した。道路わきの空き地にトラックを止めたドライバーは、隣に座っていた僕に

「ここまで運んできてやったんだ。100ケツァールでどうだ?」

と言った。

それは最後に言われる言葉として後味のいいものではなかった。確かに無償で好意を受けるつもりはなかったけれど、露骨にそれを言われるとは思わなかった。それも100ケツァールだ。それを出すだけの金額がポケットには入ってはいたのだが、僕はそれを快く出すことが出来なかった。こういう状況においてどれくらいの金額が妥当なのか見当もつかなかったけれど、結局50ケツァールで折り合いをつけた。

地獄の仏たち。

そこからアンティグアまで、雨に打たれながら峠を越えた。ギアチェンジの度に左手も左ひざも痛みが走った。なんとか目的の宿を見つけ出し、すがる思いで呼び鈴をならす。傷まで負った濡れネズミの僕を宿のオーナーは快く迎え入れてくれ、バイクを車庫へ運び入れると、もうがっくりと力が抜けてしまった。
とにかく寝よう。ドミトリーのベッドに体を投げ出すと、もう他に何もする気になれなかった。心臓が脈を打つたびに痛む傷を抱えながら、最悪ないちにちだったと思えた。けれど、それでもまだ旅が続けられそうだ思えることが唯一の救いだった。

おわり。

2012年5月19日土曜日

湖の色は空の色 vol.2

綺麗な湖のほとりにある小さな村に宿を取った僕。ゆったりと流れる時間はいつのまにか僕の体の中にまで浸透してくるかのようだった。


エル・レマテ2日目。本当はティカル遺跡見学にあてる予定だった。しかし宿代さえ払えないほど金がないのではどうにもならない。30kmほど離れたフローレスまで金を作りに行くことにした。しかし今日は日曜日。銀行は閉まっているだろう。本当はトラベラーズ・チェックを使いたいところだが、ATMで金を下ろすしかない。

フローレスは噂どおり小綺麗な町だったが、これといって見るものも無く、ATMで500ケツァールを作り、屋台でポジョアサード(鶏の炭火焼)を食べ、スーパーマーケットで買い物を終えると、おとなしく静かな湖畔の村へ戻った。

宿代を払い終わると特にやることも無くなり、湖畔をあてもなく散歩した。途中、車で旅をしてるスイス人家族に出会った。ベリーズで中古のフォードを手に入れ、キャンプ道具を積み、中米をまわっているという。そして驚いたのはまだ乳飲み子ほどの幼児を連れていることだった。その自由な感覚がとてもうらやましい。

エル・レマテの村。

宿の前の道。

湖畔の空き地で少年たちはサッカーだ。

湖にのびる桟橋はいい遊泳場。

とても自由なスイス人の家族。

翌日、ティカル遺跡へ赴いた。雨季に入ったグアテマラは決まって午後から雨が降る。そのことを考えると早めに行動した方がいいのだが、その日はあいにく朝から小雨だった。雨がやむのを待ち、雨に濡れてもいい格好をして、バイクにまたがる。ティカルまでの道中、バイクにふたり乗りした警察に止められ、なぜお前はヘルメットをしていないのかと注意(グアテマラに入ってからヘルメットをしてバイクに乗っている人を見かけたことが無かったので、つい僕も横着したのだ)されてしまった。

(いやいやなにをおっしゃる。そもそもお前たちがヘルメットをしていないじゃないか!)

のどもとまで出かかったが、穏便に済ませた。

遺跡への入場料は150ケツァールだった。ガイドブック(かなり前のではあるけれど)には50ケツァールと書いてあったので、それはかなりの衝撃だった。150ケツァールと言えば20ドルに値する。しかもそれは外国人料金で、グアテマラ国民の場合その数分の1程度の料金だ。完全に足元を見た値段設定に腹立たしさを感じたが、しかしだからといって引き返すわけにも行かない。

遺跡はうっそうとした密林の中にあり、ひたすら広大だった。メキシコでいくつか訪れたどのマヤ遺跡とも似ていない。広大であるが故復旧された建造物は一部に限られていて、その多くは未だ密林に飲み込まれたまま、ひっそりと身を隠していた。それはまるで時の流れから逃れているようにも思えた。

神殿は独特のシルエットを持ち、天高くそびえていた。そんな神殿に登ると、眼下には世界が広がった。見渡す限りの密林があり、そこからぽつりぽつりと神殿が、その頭だけをのぞかせている。頂上に腰掛け、古代から変わっていないのだろうその情景をただぼんやりと見つめているだけで、十分すぎる価値があった。

(よくもまあこの場所に…)

これだけのものを造り上げた古代の人々の労力を思うと嘆息せずにはいられなかった。

神殿から降りる階段の途中で、ひとりの女の子に声をかけられた。

「Where are you from?」

Japanと答えたら

「日本人ですか?」

驚いたことに日本語で返された。
まさかこんなところで日本人に会うとは思わなかった。神殿の上だ。お互い一通り遺跡内を見終わっていたので、一緒に出口に向かって歩くことにした。

さらに驚いたことに彼女は、コスタリカで野生ザルの研究をしているんです、と言った。そして休暇中の今、少し足を伸ばしてグアテマラまで来たんです、とも。野生ザルの研究と言われても僕にはピンと来るものがないが、なかなか興味深い仕事だと思った。それでも朝3時には起きてジャングルに入り、1日中サルの群れを追いかけながらその生態を調べるのだから楽ではない。言葉にすれば簡単だが、高温多湿のジャングルで、晴れの日も雨の日もかまわずなのだからかなりタフでなければ務まらない。自然も動物も好きだという彼女は、大変だけど楽しいですよなんてあっけらかんと笑っていた。花が咲いたように笑うその顔はとても素敵なものだった。

時の流れか。

修復作業は今も続いている。

神殿の上で。

元気な娘だ。

コレクティーボ(小さな乗り合いバス)に乗ってフローレスに帰る彼女を見送って、僕もバイクで宿に帰った。心配していた雨には打たれなかった。それどころか雲の切れ間から薄日が射して暖かいくらいだったから、宿に到着したらまっさきに湖で泳いだ。周りには人がちらほらいたけれど、気にせず裸になって泳いだ。
最高に気持ちがよかった。

最高。

おわり。

2012年5月18日金曜日

湖の色は空の色 vol.1

ベリーズ・シティーの安宿で朝を迎えた僕。次なる国グアテマラへ入国するべく朝早くからバイクを走らせるのだった。


6時前に目を覚ました。ちまちまと荷物をまとめ、シャワーを浴びて、7時にホテルを出る。走る路面は黒く濡れていて、夜明け前に雨が降っていたことを教えてくれる。見上げる空には未だ大きく厚い雲があり、天候はあまり思わしくない。

西へ向かってのびる一本道を行く。このまま走れば自動的にグアテマラとの国境に到着するはずだ。町を抜けると目の前には牧歌的な風景が広がり、のんびり走 るには申し分なかったが、西へ向かうにつれ雲行きは悪くなる一方だった。遮るもののない空をぐるりと見渡せば、必ずどこかで雨が降っていた。黒い雨雲の下 には灰色の柱が幾本ものびている。道は運良くそんな柱を避けるように進んでくれたが、時折ぱらつく雨に濡れ、気まぐれに差し込む陽にそれを乾かしながら 走った。

道は西へ。
道中の昼食。ププサと米のジュース。
やっぱり牧歌的。
国境に到着したのは昼を少しまわった頃だった。まずはベリーズの出国手続きをしなければならない。出国税が20USドルほど必要と聞いていたが、向かった支払い用のカウンターには誰もおらず、その先のイミグレーションでパスポートを見せるとあっさり出国スタンプを押されてしまった。スタンプを押してくれた女性オフィサーはこれですべて終わったと言う。

(あれ?金は?)

と思ったが、良いというものは良いのだろう。もしなにかしら記録が残ったとしても、ベリーズなんてそうそう来ることもない。

(まぁいいだろう)

ひとり納得し、少し得した気分で出国ゲートをくぐった。

ベリーズ側国境に到着、
さて、次はグアテマラ入国だ。バイクを止めヘルメットを脱ぐや否やひとりのグアテマラ人のおやじに散々話しかけられる。そしてイミグレーションの場所からなにから丁寧に教えてくれる。それはとてもありがたいことなのだけど、そんな親切は金が目的以外考えられない。適当に聞き流しながらさっさとイミグレーションで入国手続きをした。

手渡したパスポートをパラパラとめくっただけのオフィサーはやぶからぼうに

「20ケツァール」

と言った。僕はそれを財布から取り出し、金と引き換えに90日分のスタンプが押されたパスポートを受け取った。そのときは知らなかったが、あとで聞いた話、どうやらその金はオフィサーのポケットマネーになるということだった。そして多分つきまとってくるおやじにもいくらか渡されるのだろう。ただ、この20ケツァールを出し渋ると90日のスタンプがもらえない場合があるよ、とも聞いた。たかが200円。されど200円ということか。

隣に併設されている税関のカウンターへ移動し、バイク用のペルミソ(一時輸入許可証)の作成をする。が、ここでパスポート、国際免許、バイクの登録証のコピーがそれぞれ必要になってしまった。パスポートと登録証のコピーは持っていたが、国際免許のコピーまでは持っていなかった。さてどうしようかと思っていると、先ほどのつきまといおやじがどこからともなく現れ、近くにあるコピー屋まで連れて行ってくれた。しかし今日は土曜。残念ながら店は開いていなかった。

(まいったな)

おやじはしきりとタクシーで町まで行けばいいと言ったが、それも面倒だし金もかかる。しばらく思案していると、おやじはどこからともなくコピー屋の人を連れてきて、半ば強引に店を開けさせた。

(おぉ。なかなかやるじゃないか!)

処置なしと思っていた状況からまさかの好転で晴れてコピーを揃えることができた。再度税関へ赴くと、ナンバープレートと車台番号のチェックをしてペルミソを作成してくれた。しかし、ここでまた問題が発生してしまう。ペルミソ作成代金として160ケツァールが必要だと言うのだ。
高い。去年バイクでグアテマラへ入国した人の情報ではペルミソ代は40ケツァールだった。僕はその情報を信じて100ケツァールほどしかグアテマラの通貨を用意していなかったのだ。

「確か40ケツァールって聞いたけど」

と言ってみたが、どうやら今年になって値上がりしたらしい。結局手持ちのUSドルをその辺で暇そうにしている両替商からケツァールに変えてもうしかなかった。銀行などに比べレートは良くないだろうが仕方ない。今持っているケツァールではぜんぜん足りないのだ。それにしてもまさか代金が4倍に値上がっているなんて思いもしない。本当かよ?と疑いたくなるが、きちんと銀行の窓口で支払い、領収書までくれるから正規料金なのだろう。

すべての作業を終え、グアテマラへ入国した。国境越えはなんだかんだとすんなりとはいかない。ポケットマネーについてはいい勉強になったが、そのおかげでコピーを揃える事が出来たとなればむしろありがたいことだ。
グアテマラへ入るとまた風景が一変した。それは一言で言うなら”貧しい”だった。みかける家は粗末で、子供たちはみな裸足だった。そしてやたらと鶏がいた。しかも道の真ん中にまで我が物顔でうろついているものだから、バイクで走っていてもいちいち気をつけなければいけない。

グアテマラへ。ガジョ看板が泣かせる。
うっそうとした熱帯地域の中をさらに西へ走る。国境付近は晴れていて暑いくらいだったのに、西へ進むとまた雨が降り出した。ときおり雷まで鳴り響いた。しかも道は突然未舗装になったりして、タイヤが跳ね上げる泥で人もバイクもあっという間に汚れてしまった。

ベリーズからグアテマラ北部に入った僕の目的は、ティカル遺跡だった。数あるマヤ遺跡の中でもハイライトと言っていいそれはグアテマラ北部の密林の中にある。しかし遺跡付近に町はなく、大抵の旅行者は遺跡から60kmほど南にあるフローレスという町に泊まる。ペイン・イツァというの湖のほとりにあるその町は宿も多くなにかと便利らしいが、反面とてもツーリスティックだと聞いていた。僕はそんなフローレスへは向かわず、その手前にあるエル・レマテという小さな村へバイクを停めた。エル・レマテは同じ湖のほとりにある村だが、何もなく、穏やかな時間を過ごせると聞いていたからだ。

雨の中到着したエル・レマテは本当に何もなかった。きれいな湖のほとりに小道があって、そこにぽつりぽつりと民家やティエンダ(個人商店)があるだけだった。ホテルは数軒。旅行者もほとんど見かけずとても落ち着いた雰囲気だ。なにより俗世とは切り離されたかのように穏やかな湖がよかった。

カサ・ラハというホテルはドミトリーで40ケツァールだった。ベリーズから来た僕にはやはり物価が安くて安心できる。ホテルのマネージャーらしき人は英語もでき、とても穏やかな話し方で感じが良い。実は今あまりケツァールを持っていないのだけど、と伝えると、代金はいつでもいいといってくれた。

荷物を部屋に入れ、シャワーを浴びると雨はあがっていた。ティエンダでビールとクッキーを買い、湖にのびる桟橋の上に腰かけて飲んだ。湖水はおそろしく透明で、鏡のような水面は紅く色づき始めた空の色を正しく反映していた。こんなに静謐な湖を今まで見たことがあっただろうか。そこではただ安穏として平和的な時間だけが流れていた。

静かな湖畔。
つづく。

Honduras(ホンジュラス) ツーリング情報 2012/05現在

【入国】

・人間:3USドル(グアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア4カ国共通で90日間)
・バイク:775レンピーラ

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】

・保険:未加入
・ガソリン:約96.4レンピーラ/ガロン(ハイオク)
・通貨:レンピーラ 19.35レンピーラ≒1USドル
・走行距離:618.3km

【メモ】

エルサルバドル北側からホンジュラスに抜けるエル・ポイの国境を使用。
バイク乗りにとって悪名高いホンジュラス。入国時もさることながら検問も多数で賄賂天国という情報だったためかなり身構えていたが、僕が使用した北部のエル・ポイ国境は拍子抜けするほどのんびりしたものだった。うざいほど付きまとってくるガイドも執拗な賄賂請求も皆無。システムダウンのため3時間待たされたことを除けばなんのストレスもない。

イミグレーションでの入国手続きはスムーズ。税関でのペルミソ作成時にパスポート、国際免許証、バイクの登録証、エルサルバドルのペルミソのコピーがすべて4部づつ必要と言われたが、近くにコピー屋あるので問題ない。ホンジュラスも中米4カ国(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア)合計で90日間の滞在になる。

道路状況は決して良いとは言えない。パンアメリカン・ハイウェイや主要幹線道路は片側2車線で道も良いが、北部の山の中を走る道はとにかく走りにくかった。ホンジュラス北部は予想以上に山深く、いくつもの峠を越えて走ることになる。きついヘアピンなどは日本の峠にもあるので問題ないが、道の至るとこに大小さまざまな穴があり大変危険。アスファルトが剥がれたのか陥没したのか、とにかくあちこりに口をあけていて、深いものでは20~30cmはえぐれているのでそれをよけながら走らなければならない。コーナー途中で穴に落ちようものなら転倒必至だ。さらに穴をよけるために対向車が頻繁に反対車線にはみ出してくるのでこちらも危険。ホンジュラスの峠道は焦らずのんびり、がいいようだ。

トペ(トゥムロ)は幹線道路ではみかけない。地方の町にはある。

ガソリンはグアテマラ、エルサルバドルと同程度。

単位は距離がキロメートルでガソリンはガロン。

パンアメリカン・ハイウェイが走る国境で多くのバイク乗りが賄賂請求にあっているようだ。また数十キロおきにあるという検問(ここでも毎回賄賂請求されるらしい)もこの道沿いの話なのだろう。僕は北部の山間部を走ったのでホンジュラスを抜けるまでに2回しか検問にひっかからなかった。しかもパスポートを出すこともなく挨拶程度ですんなり通してくれた。もしホンジュラスを走る人で賄賂請求がいやな人は、道は悪いが北部を走ることをお勧めしたい。

El Salvador(エルサルバドル) ツーリング情報 2012/05現在

【入国】

・人間:無料(グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア4カ国共通で90日間)
・バイク:無料

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】

・保険:未加入
・ガソリン:約4.9USドル/ガロン(ハイオク)
・通貨:USドル
・走行距離:222.6km

【メモ】

グアテマラのバジャ・ヌエボからエルサルバドルのラス・チマナスに抜ける国境を使用。
人間、バイクともに無料というのがうれしい。グアテマラからエルサルバドルへ入国する場合入国スタンプはない。グアテマラの出国スタンプがあればいいようだ。ただし中米4カ国(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア)合計で90日間の滞在になる。
僕はバイクにつけているナンバープレートがプラスチック(自作したもの)だと突っ込まれてしまった。そのことで少し時間がかかったが、イミグレーション、税関ともスムーズに手続きが出来た。ちなみに出国時もスムーズ。

道路状況は良い。特にパンアメリカン・ハイウェイはすこぶる走りやすい。

トペ(エルサルバドル以南ではTUMULO(トゥムロ)と呼ぶらしい)はパンナムや都市部で見ることはほどんどない。地方の町に散見される程度。

ガソリンの価格はグアテマラと同程度。やはり物価から考えると割高だ。

単位は距離がキロメートルでガソリンはガロン。

通過はUSドルが使用されている。おかげで両替せずに済むのが楽。

これは僕の主観だが、エルサルバドルの人々はとても感じが良かった。特に目玉となる見所もないし、中米でもっとも小さな国とあってついあっさり通り過ぎてしまいがちだが、居心地は良かった。物価も安いしビザに余裕があればもう少しゆっくりしたかった。

Guatemala(グアテマラ) ツーリング情報 2012/02現在

【入国】

・人間:20ケツァール(エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア4カ国共通で90日間)
・バイク:160ケツァール

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】

・保険:未加入
・ガソリン:約39ケツァール/ガロン(オクタン価91)
・通貨:ケツァール 7.7ケツァール≒1USドル
・走行距離:1558.6km

【メモ】

ベリースのベンケ・ビエホ・デル・カルメンからグアテマラのメルチョル・デ・メンコスに抜ける国境を使用。
イミグレーションで20ケツァール払ったが、これは国境によっては払わなくていいようだ。というか単なる賄賂的なものだろう。まぁ運次第ということか。ただこの20ケツァールを出し渋ると90日のスタンプがもらえない場合もあると聞いた。たかが200円。されど200円なり。

バイクの通関時には、パスポート、国際免許証、バイクの登録証のコピーが必要だった。僕は国際免許のコピーを持っていなかったが、国境のすぐ近くにコピー屋があったので問題なかった。ペルミソ発行までは20分ほど。荷物のチェックはなし。しかしペルミソ代が160ケツァールとは。1年前にバイクでグアテマラに入った人の情報では、約50ケツァールだった。まさか3倍に値上がりしているとは思わなかった。銀行の窓口で支払うし、レシートも発行されるので正規料金なのではあるが。予想外の値段に用意していた手持ちのケツァールが全然足りなかった。しかし国境には両替商がうざいくらいうようよいる。USドルがあればすぐに両替してくれるもののレートはあまり良くない。

保険は強制ではないようだ。

道路状況はまぁまぁ。幹線道路でさえ未舗装区間があるし、舗装路でもところどころに穴がある。未舗装区間は雨が降るとかなりどろどろ。トペは相変わらずだが、メキシコのに比べると比較的穏やかな感じがする(と思うのは僕だけだろうか)。グアテマラ南部高原地帯の幹線道路はそのほとんどが山の中を走る。これは中米全般に言えることだが、雨季になると陥没や土砂崩れなどで道が通行止めになることが多々あるようだ。実際多くのがけ崩れを見た。そして一番注意したいのがチキンバス。運転がとにかく荒いのでかなり注意が必要。

物価の安いグアテマラにおいてガソリンは結構高い。

単位は距離がキロメートルでガソリンはガロン。