2012年9月16日日曜日

海外にて日本の国際免許について考える

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※2013年8月1日 追記

以下で紹介しているサイトですが、よく見ると正式な国際免許ではないですよ、という注意書きが(ページ下に小さく)書かれていました。発効された書類は何の法的効力をもたない翻訳書類という扱いになるそうです。実際、旅の途中で出会ったライダーは、スペインで警察に止められたとき「この書類に法的効力はない」と言われたそうです。
じゃぁなんの為の?と思いますが、 僕には良く分かりません。なのでやっぱりおとなしく日本の国際免許を取得するのが良いでしょう。

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日本国外への旅行時、渡航先で車両を運転するには国際免許を取得するのが一般的です。有効期限が1年以上残っている免許を持っていれば、日本の免許センターで即日発行されます。取得はとても簡単です。なのでそれ自体には問題ありません。ありませんが、厄介なのはその「有効期間」と「日本で発行される」というところです。

有効期限は1年です。
1年以上も旅をする人はそう多くはないと思うのでこれで十分なのでしょうが(そもそも国際免許は自国の免許証をもとに一時的に他国での運転を許可するというスタンスなので仕方ない)、世界を旅するライダーにとって1年という期間は短すぎます。それはもうあっという間です。

発行には本人でなくとも代理人を立てれば申請できます。
本人の免許証、顔写真、代理人への委任状があればいいだけです。委任状と顔写真(厳密には撮影後何ヶ月とか規定はあるようですが)はあらかじめ作成し、代理人に渡しておけば問題ありませんが、日本の免許を持って出た場合にはそれを代理人に郵送しなければなりません。もっとも海外で日本の免許なんててんで役立たずなので、僕は他の書類と合わせて預けっぱなしです。

以上のことを踏まえると、1年以上旅をするには、

・国際免許の期限が切れる前に、日本にいる代理人に免許申請をしてもらう
・発行された国際免許を旅先へ郵送してもらう

となるわけです。書けば簡単。が、実際結構面倒な作業ではあります。

国境や検問で免許の確認が必ずされるわけでもないので、有効期限切れの国際免許で走ろうと思えばできなくもありませんが、逆に見つかると間違いなく賄賂の対象となりますから、できればそれは避けたいところ。まして事故などが起きた場合、無免許として扱われてしまうと保険が下りないなんてことも考えられるでしょう。そうなると1年という有効期限以内に新しく発行&郵送を完了させなければならないので、実質その有効期限は1年を切ります。
さらに旅先に郵送となると、安心して送ることのできる場所に居なければなりません。言葉も通じない国の、どこだかわからない町のうらぶれた安宿宛てではどうにも心配です(大きな都市なら大使館や領事館宛てなんかはできそうですが)。先進国ならまだしも、後進国において郵送物の紛失やトラブルはめずらしくないのです。

僕が今使用している国際免許も来月失効となるので、代理人申請をしてもらっているところです。これからどこへ郵送するかを決めなければなりません。

そんな中ネットでいろいろ調べているとこんなページを見つけました。

「International Driver's Document - The International Drivers License」

アメリカにある会社のようです。これを見ると、世界中どこにいてもネットで申し込むだけで国際免許が送られてくるという夢のようなシステムです。なんともアメリカらしいですね。しかも有効期限が1年、2年、3年から選べるという、こちらも夢のような話。

料金は

1年:39.99ドル
2年:54.99ドル
3年:69.99ドル

郵送はFedexかDHLで世界中どこでも35ドル。しかもアメリカ国内なら無料。

これなら自分ひとりで問題が解決できるし、そもそも日本での準備中に3年の国際免許を取得しておけば、旅の途中で更新などという面倒な事柄からかなりの期間開放されてしまいます。費用も円高のこのご時世、3年なんかとってしまえば送料含めてもむしろ安上がり。うーん。見つけるのが遅かったなー。

もしこの先1年以上の旅を計画されている人がいれば、ぜひ参考にしてみてください。そしてその評論をぜひ教えてください。笑

2012年9月15日土曜日

ダリエン・ギャップの憂鬱

プエルト・ビエホを後にした僕は、中米最後の国となるパナマに入国すべく、その国境までやってきた。コスタリカとパナマを分けるカリブ側国境は、主要な太平洋側のそれとは違い、どこまでも広がるバナナ畑に囲まれた、どこかうらぶれた感じが漂っていた。

コスタリカ側の小さなゲートをくぐる。と、右手にイミグレーションと税関の建物があり、その向かいに1台のアメリカン・バイクを見つけた。荷物を満載しているところを見る限り、長旅なのだとわかる。
バイクの持ち主は、老夫婦だった。ふたりとも60を過ぎているように見える。乗っているバイクに似合わず、とても品のありそうな夫婦だ。リタイヤ後だろうか。この歳になっても夫婦で1台のバイクに乗って旅をするなんて、なんとも夢に溢れている。

The Catcher in the Banano.
なんて。

 またも国境越え。
中米はあっという間に次の国がやってくる。

夢があるね。

「国はどちらです?」

夫の方が税関で手続きをしていたので、細君の方へ僕から話しかけた。

イギリス出身だという夫婦は祖国から一路南へと向かい、アフリカ大陸を縦断。南アフリカ到着後、アルゼンチンへと大陸を移動し、北上。南米コロンビアからパナマへと渡り、これから北米を旅するのだと説明してくれた。

僕は、そこでさらに尋ねた。

「コロンビアからパナマへはどうやって渡りましたか?」

それは、今僕が一番知りたい情報だった。

パナマとコロンビア。中米と南米を分ける両国である。地理的には地続きだが、しかし、そこに道はない。北米から南米を貫くさしものパンアメリカン・ハイウェイでさえ、この区間は寸断されている。ゆえにいくら陸続きだからと言えど、自走でこの国境を越えることはできない。ダリエン・ギャップと呼ばれるそれは、アメリカ大陸をバイクで旅する者にとって今も昔も変わらず大きな壁となって立ちはだかる。

いったいどうすれば越えられるのだろう?

壁を目の前にした僕の、今一番の悩みの種だった。貨物船?セイルボート?空輸?方々から情報を集めてはいたが、いまだ確固たるものを掴めていなかった。

僕の質問に対して、彼女は一呼吸おいてからこう言った。

「It was realy hard.(とても大変だったわ)」

コロンビアのカルタヘナ(コロンビアからパナマへ向かう船の多くははカルタヘナから出ている)へ到着後、最初は費用の一番安い貨物船で送ろうとした。人とバイクの出入国のため、たくさんのペーパーワークをこなしたにもかかわらず(このとき彼女は本当にうんざり、という表情を作った)、船は予定通りパナマへ向けて出港することはなかった。業を煮やした夫婦はバイクを積める大型のセイルボートを探し出し、それにバイクを積んで渡ってきた。費用は貨物船の3倍ほども高かったが、それでも空輸するよりははるかに安い。
それが彼女の説明だった。

なるほどやはりそういうことか。僕は、深く納得した。それは今まで僕が収集した情報通りの内容だったからだ。目の前に大きく立ちはだかる壁は、そう易々とは越えられないということだ。

「ありがとう。とても助かりました。お互い気をつけて旅を続けましょう」
「あなたも良い旅を」

気持ちのよい挨拶の後、老夫婦はコスタリカへ、僕はパナマへ、お互いまだ見ぬ国へ向けて笑顔で別れた。

おわり。

2012年9月14日金曜日

山は富士、海はカリブ、湯は別府

サン・ホセは実に都会だった。町並みは中米とは思えないほど綺麗で、外資系銀行がずらりと並び、荘厳に構えたホテルの庭の芝は綺麗に刈られていた。町角にはテニスクラブがあり、お洒落なブティックがショーウィンドウを鮮やかに飾り、女性向けのエステサロンまであった。そして驚いたことに、雨が降ると町行く人々は皆傘を差して歩いた。ここ最近、降り出した雨に傘を差して歩く人を見たことがなかった。歩道橋の上から眺めていると、それはサン・ホセの町に色とりどりの花が咲いたようだった。唯一僕だけが、傘を差さずに濡れていた。

こんな光景を目の当たりにすると、確かにアメリカに居るのではという錯覚にも陥る。しかし、往来に溢れる車の運転がそれを許さなかった。あくまでも車優先の乱暴ともいえる運転は、歩行者優先のカナダ、アメリカとは対極にある。休む間もなく聞こえるクラクションもまた馴染めない。メキシコ同様、物質的に豊かになってもラテンの気質は変わることがないということか。

降り出した雨に。

 とても近代的な町並みだ。

プエルト・ビエホはそんなサン・ホセとは対極にあるような村だった。パナマ国境に程近いカリブ海に面した小さな村。そこがプエルト・ビエホだった。

サン・ホセからたった1日の距離ではあったが、そこでは僕が今まで抱いていたコスタリカの印象をがらりと変えてくれた。標高が高くからりとした過ごしやすい気温で、白人が多く、町並みは洗練され、スペイン語が共通語であるサン・ホセに比べ、汗がじっとりと肌にまとわりつく気温で、カリブの島から流れてきた黒人が多く、子供たちが裸足で遊びまわり、英語がどこでも通じる。それがプエルト・ビエホだった。

村は1時間とかけずにぐるりと見てまわれるほどこじんまりとしていて、人々は都会にはないのんびりとした時間を過ごしていた。村のバーやレストランからはレゲエが流れ、村の雰囲気を緩やかなものにし、またそれがカリブの海によく似合っていた。

山から海へと。

プエルト・ビエホ。

レゲエとモヒートとカリブ海。

ベリーズのキーカーカー以来だろうか、久しぶりのカリブ海はさすがきれいだった。コスタリカに入ってすぐに泳いだ太平洋よりも断然いい。海はホテルから目と鼻の先で、そこではいつも黒人の子供たちがにぎやかに泳いでいた。

何もない村では、何もせずに過ごすのが正しいように思え、数日間、僕は何もせずにその日を暮らした。太陽が昇ると起きだして、散歩をして、飯を食い、海で泳ぎ、酒を飲んで、藍色の空に月が浮かんだら眠った。それは、本当にのんびりしたひと時だった。

おわり。

2012年9月13日木曜日

サン・ホセのお母ちゃん

国道1号で首都サン・ホセへとひた走った。道は海沿いから標高を上げ、峠となった。時折開けた場所から見える景色が素晴らしい。山々は緑がまぶしく、空には多様な形の雲が浮かび、遠くに太平洋が見えた。

峠を進んでいくと頭上に雨雲が広がったが、なんとか雨にあわずに走ることが出来た。いくつかの尾根を越え、次第に町へ近づく。建造物が目立ちはじめ、道が広くなる。と、突然目の前に料金所が現れた。メキシコを抜けて以来有料道路なんてお目にかからなかったので、発展途上の国に有料道路はないものだと思っていたが、そうではないらしい。もしくはコスタリカはもう発展途上の国ではないということか。
やがて遠くにビル群が見え、まだ山を走っていると思った道路は一気に市街地へ突入した。そこが首都サン・ホセだった。

大きな町ではあるが、あまり迷わずセントロには到着できた。しかし目星をつけていたホテルはどこも12ドルで、駐車場がなかった。別に駐車場を借りるとなるとさらに5ドルが必要だと知り、セントロのホテルは諦めざるを得なかった。少し郊外になるが、サバナ喜多側という日本人宿が15ドルであった。オーナーの荻野さんとは去年グアテマラで偶然お会いしたことがあり、そのときに駐車場もあるからという話を聞いていた。

メモを取り出し電話を掛ける。出たのは女性で、しかもスペイン語だった。一瞬言葉に詰まってしまったが、なんとか必要な要件を伝える。荻野さんは今いないらしいが、泊まることはできるし、バイクも大丈夫とのことだった。わかりました、30分くらいで伺いますと言い、電話を切った。

サバナ喜多側へ到着し、バイクをガレージに入れるや否や、激しいスコールがサン・ホセの町を濡らした。間一髪だった。こんな降り方をされたのではカッパを着るどころの騒ぎではない。
出迎えてくれた女性は電話の主で、荻野さんが不在の今は私が宿の面倒を見ているのだ、といった。受付を済ませ、コーヒーを飲みながらその女性としばらく話しをした。多くの日本人を相手にしているからだろう、ゆっくりと、簡単な内容を、聞き取りやすく話してくれるので、スペイン語での会話もなんとかなった。

荻野さんは現在スペインに行っているとのことだった。それを聞いた僕は深く納得した。僕が去年グアテマラで会った時もスペイン帰りの途中だった。なぜそんなにスペインなのか、と尋ねたことがあったが、その答えはサンティアゴ巡礼ということだった。年に1度は巡礼しないと体調が悪くなるんだ、と荻野さんは声高に笑っていたが、どこからどう見ても健康そのものといった雰囲気だった。毎年800km~1000kmもの距離を歩くのだから健康でなければやってられない。

荻野さんに会えないのは残念だった。人当たりがよく話し好きで、グアテマラでお会いしたときはいろんな話しをきかせてもらった。やっとコスタリカに来ることができたのにスペインなら仕方ない。また機会があれば会うこともできるだろう。食堂の壁いっぱいに書き込まれた旅人たちのメッセージが荻野さんの人柄を偲ばせた。

(それにしてもこの女性はいったい荻野さんとどういう関係なのだろうか)

会話の最中も、僕の疑問はそこに集中した。邪推、といった方がいいかもしれない。しかし初対面の人にいきなりそんなことは聞けるはずもなく、そっと自分の胸にしまっておこうと思った。

「荻野さんと私は別に結婚しているわけではないのよ」

突然、彼女は僕の考えを見透かしたかのように言った。そして、笑った。
その実にあっけらかんとした物言いは僕が勝手に思いをめぐらせていたことが馬鹿らしくなるほどで、だからもうそんなことはどうでもいいや、とさえ思えてしまった。

一面に。
 
お母ちゃんと。

宿泊者の夕食は彼女が作ってくれた。もちろん宿代とは別料金ではあるが、なかなか手の込んだ料理はどれもおいしく、他の宿泊者(そのときは僕以外にふたりいた)と一緒にテーブルを囲んだ。

サン・ホセには2泊したのだが、彼女のおかげでとても落ち着いた、気兼ねのない、安心した時間を過ごすことができた。それはまるで自分の家にいるかのような感覚だった。

おわり。

2012年9月12日水曜日

温かいスープの味

国境で時間を読んだとおり、リベリアには15時きっちりに到着した。セントロにあるオステル・リベリアにチェックイン。改装したのだろうか比較的見た目には新しく、シングル14ドル、ドミトリー10ドルとのことだったが、14ドルのシングルを10ドルにまけてくれた。

町へ出る。やはりここはコスタリカというべきか、町の風景はこれまでの中米諸国とは違う印象を受けた。特に何が、というわけでもないが、ひとつひとつのことがちょっとだけ洗練された感じと言えば良いだろうか。

その思いはメルカドへ行ってはっきりした。整然と並んだ店子。冷蔵のショーケースに入れられた肉。通路にぺたりと座り込んで勝手に店を広げている婆さんなんてひとりもいない。
そこには鼻を突く匂いがない代わりに、威勢のいい売り子の掛け声もなかった。そして町の規模からして小さすぎる敷地。リベリアはそれほど大きい町ではないが、メインと思えるメルカドがこれではいくらなんでも小さすぎる。ホテルからメルカドまでの間にスーパーマーケットが3つもあった。ひとつはかなり大規模な店構えで、きっともうここではそれらがメルカドに取って代わってしまったのだろう。

「コスタリカ?あそこはもうアメリカだからな」

エルサルバドルでひとりの男がすげなく言ったその言葉を思い出す。僕の目にはどちらかと言えばアメリカよりはメキシコなのだが、彼がそう揶揄したくなる気持ちも分からないでもない。パルケには、もう夕方だというのに屋台ひとつさえ出ていなかった。

リベリアから首都サン・ホセまでは3日かかった。1日目は海に突き出たニコヤ半島の浜辺のキャンプ場でキャンプをし、ひとしきり太平洋で泳いだ。2日目は名も知らぬ小さな町のホテルに泊まった。

黄昏のニコヤ。

犬も黄昏る。

道中幾たびも雨に遭遇した。グアテマラからこれまで運良く雨に降られずに来たが、コスタリカに入ってからは雨季らしい雨にやられていた。1時間ほど雨宿りをすればやんでくれるのだが、その降り方は唐突で、うまく雨宿りできる場所を見つけられないと大変なことになる。

その日も当たりをつけていたエスペルサの町の手前10kmでまたも雨に足止めをされた。前方は一面真っ黒な雲に覆われている。道はちょうど山の中を走っていて、すぐ近くにあるはずの山までも白くかすんで見えた。これはいくら待ったからといってとてもやみそうにない。仕方なく国道から少し外れたところにある名も知らない小さな町へと下り立った。

目抜き通りを走り、ホテルを探す。しかしそれらしい看板をひとつも見つけられないまま、あっという間に町が終わってしまった。山中の小さな町だ。ホテルなんてないのかもしれない。そうあきらめかけた頃、ちょうど公園にバイク警官が4人いたので尋ねてみた。

「この近くでホテルはありませんか?」
「この町にはない。ここから3km先に行ったところにある」

とひとりの警官が言う。しかしもうひとりがそれを制し、

「近くにひとつあるじゃないか。われわれは今から署に戻るから、そこまで連れて行ってやる」

ホンダの白バイ4台(正確には青バイだが)にはさまれる形で公園を後にした。5台でゆっくりと目抜き通りを走る。ホテルは、裏通りからいくつかの角を曲がったところにあった。さすがにこれでは探すことができない。

ホテルに到着するとひとりの警官が受付へと歩み、なにやら話しを始めた。僕はバイクから降りヘルメットを脱ぐ。すると周りにいた警官たちが集まってきた。

「どこから来た?」
「このバイクのメーカーはなんだ?」
「排気量はいくつだ?」
「コスタリカで買ったのか?」
「これからどこへ行くのだ?」

見慣れぬ旅人とバイクに興味津々の様子だ。日本。ホンダ。125cc。日本から持ってきた。これから南米に渡る。答えるたびに警官たちは顔を見合わせ、何を理解したのか、懸命にうなずきあっていた。

ホテルはとても綺麗だった。安くはなさそうだったが、せっかく案内までしてもらったのでとりあえず話しだけでも、と思った。受付には若い女性がひとりいて、警官から何を聞いたのか僕が言うよりも先に、

「どこから来たの?」

と尋ねてきた。日本からカナダに渡り、1年かけて走ってきた、そう答えると大そう驚いていたが、動じた様子はなかった。それよりもやさしく微笑んだような雰囲気が印象的だった。
部屋は、エアコン、テレビまで付いていて、12000コロン(24ドル)だった。残念ながらそれはちょっと無理な値段だ。なにせ今の手持ちは6000コロンしかない。

「実は今、6000コロンしか持っていないんだ」

正直に打ち明ける。ドルならあるのだけど、そう付け加えようとしたそのとき、

「それでいいわよ」

女性はいともあっさり言った。それがあまりにあっさりだったので、逆にこちらが驚いてしまった。
さらに彼女はご飯まで提供してくれた。すべてのコロンを部屋代に支払ったので、僕はもうパンひとつ買うことができなかった。そんな僕を不憫に思ったのか、部屋に荷物を運び入れている最中、

「おなか減ってない?」

と聞き、牛の内臓を煮込んだスープにご飯、アボカドをパティオのテーブルの上に用意してくれた。スープはとても温かく、空腹にはこたえられない味だった。どの国でも親切は身にしみる。

「長い旅でしょ」

花が咲いたように笑う女性に、僕は何度もお礼を言った。

染み渡る。

おわり。

2012年9月11日火曜日

One Driveなあいつ vol.2

屋外の物憂い熱気とは対照的に、鳥肌が立つほどに空調のきいたコスタリカのイミグレーションで、入国審査待ちの列に並んでいた。肌にまとわりついた汗はみるみる乾き、僕の前に数人を残すところになって先刻の彼が施設内に入ってきた。サイド・カーの彼だ。そしてやぶからぼうに、

「アナタハ、ニホンジン、デスカ?」

と言うではないか。日本語を解するらしい。

「日本語しゃべれるんだ」
「ニホンゴ、ムツカシイ、デスネ」

相手の質問そっちのけで聞き返してしまった僕に、照れくさそうに笑う。シカゴのイリノイ大学で勉強したという。

お互い入国審査が終わり、ふたりで通関作業をすることになった。コスタリカへ車両を持ち込むには保険加入が絶対だが、それを除けば入国税もペルミソ作成代金もかからず、事務手続きもスムーズだった。僕はパウルと名乗るアラスカのバイク乗りと並んで各種手続きを済ませていった。

「パウル、君の最終目的地はどこだい?」
「アルゼンチン。パタゴニアへ行きたいんだ」
「そうか。俺もパタゴニアは行ってみたいんだ」

約1時間かかり、両バイクの書類をすべて揃えることができた。これで晴れてコスタリカを走ることが出来る。手にした書類を見つめながら、これからパタゴニアまでの道のりで、一体どれだけの書類が必要になるのだろう、ふとそんなことが頭に浮かんだ。

並べて停めてあったバイクに戻り、僕はコスタリカの地図を取り出した。国境から80km進むとリベリアという町がある。まだ13時。15時前後にはつけるだろう。見当をつけている僕の地図を、パウルが覗き込んでいる。地図はないの?と聞くと、俺にはこれがあるからね、とハンドルにつけたGPSをぽんぽんと叩いた。なるほどそいつはいい。

「俺のGPSはこれだ」

僕は地図をぽんぽんと叩いた。ふたりで笑う。

パウルはここから首都サン・ホセの南に位置する太平洋側の町まで行くと言った。距離にして300kmはあるだろうか。驚く僕に、

「I hope」

と肩をすくめる。それだけ走るのならアラスカから「One drive」と言ってのけることはある。
ふたりの走行スピードには差があるため、入国ゲートを抜けたところで別れた。鮮やかなオレンジ色のバイクは、あっという間に目の前から消え去った。もうきっとこの先の道中で再会することはないだろう。それでもしっかりお互いの記憶には残ったはずだ。

ぱちり

おわり。

2012年9月10日月曜日

One Driveなあいつ vol.1

夜中に雨音で目が覚めた。目が覚めるほどの大雨だった。心配していた雨が降ってしまったことにため息がもれる。今日はなんとしてもニカラグアを出なければならない日だ。パスポートに押されたスタンプの日付から計算すると、そういうことになっていた。だから雨だろうが走らなければならないのだが、走れないほどの大雨ではどうしようもない。幸いバイクは30日間有効のペルミソを持っている。自分だけでもバスで一旦コスタリカへ抜けようか。暗いドミトリーのベッドで寝返りを打ちながら、そんな弱気なことまで頭に浮かぶ。

7時。出発準備をしていると、雨はあがってくれた。路面はまだ濡れたままだが雨が降っていなければ良かった。これでなんとかニカラグアを出られそうだ。

国境までは一本道だ。大きなニカラグア湖をかすめながら曇天にかすむオメテペ島を眺め、一気に100km先の国境へと走った。何のトラブルもなく、予定より少し早く到着することができた。

日本の援助で立てられた橋。
中米ではこういったものをよく見かけた。

曇天のニカラグア湖とオメテペ島。

国境のバス・ターミナル。

すべての出国手続きを終え、ポケットにあまっていたコインでパンを買い、バイクの脇に座り食べていた。そのときの僕はなんとも清々しい気分だった。グアテマラで過ごした珠玉の日々が、目に見えない小さな重しとなって幾重にも肩にのしかかっているようだったが、たった今、それらから解き放たれたのだ。これで時間に追われることなく走ることができる。そう思うと目の前がぱっと明るくなる気がした。

目にもまぶしい鮮やかなオレンジのバイクが、太い排気音と共に目の前に止まったのはそのときだった。サイド・カー付きだった。

(サイド・カーとは珍しいな)

バイクに乗った男は欧米人らしく武骨な体格をしていて、ヘルメットを抜ぐとスキンヘッドのかなりいかつい感じだった。怖そうな面持ちに最初は話しかけるのを躊躇したが、そのナンバープレートを見て思わず尋ねてしまった。

「アラスカから来たの?」
「One drive(一気走りさ)」

バイクから降りた彼はそう言った。
さらに、その(君と同じくらいいかつい)バイクの排気量はいくつなの?と聞くと、

「seven-fifty(750cc)」

と答え、なぜかその後に

「setecientos-quince(セテシエントス-キンセ)」

とスペイン語で言い直した。英語で会話をしていたのに、なぜいきなりスペイン語になったかわからなかったが、quince(キンセ)は15で、50ならばcincuenta(シンクエンタ)である。

「setecientos-cincuenta(セテシエントス-シンクエンタ)」

僕が言い正すと、ああそれだ!といった感じでそれまでの強面を一瞬にして崩し、とても人懐こそうな笑顔を浮かべた。急に親近感がわいた。

彼もこれからニカラグアを出てコスタリカへ向かうらしい。

「どこで手続きをすればいい?」
「ここがイミグレーション。で、あっちに税関がある」

そう教えると彼は礼を言い、イミグレーションへと消えていった。

サイド・カーとは古風だな。

見届けた僕は、パンを食べ終え、残ったコーヒーを飲み干し、ヘルメットをハンドルにかけたまま、コスタリカ側国境へとゆっくりバイクを走らせた。

つづく。

2012年9月9日日曜日

グラナダ vol.2

隣の部屋に白人の青年がひとり入ってきた。ロビーの椅子に背筋をピンと伸ばして座り本を読んでいる様からしてもかなり礼儀正しそうなのだが、欧米人がたむろしているホステルやゲストハウスではなくこんな安ホテルに来るのだからちょっとかわった性格なのかもしれない。

そんな彼とひょんなことから一緒に晩飯を食べに行くことになった。入ったレストランは少し値が張ったが、高いだけあって味は良かった。チキンのマスタード焼きに野菜マリネ、タマネギの炒め物に白米を選んだのだけど、どれを食べても中米らしからぬ味だった。店内を見れば地元客がほとんどだから、ニカラグアは比較的飯がうまいのかもしれない。

向かいに座る彼はイギリス出身だった。かなり若く、ひょろりとした体型で、背は僕よりも高い。南米からアメリカへ渡り、そこから南下中といった。これからコロンビアで半年間ボランティアをするともいっていた。イギリス英語のためかいつにもまして内容がよく聞き取れず、そもそも僕自身英語が話せないので会話が弾むことはなかった。ひょろりと背の高い白人とアジア人ふたりが、ローカルな食堂の小さなテーブルで向かい合い、黙々と食事をしているというのは、誰がどこから見てもおかしな光景だっただろう。実際その場に座っていた僕がそう思えたのだから。

居心地の良い安ホテルだったが、2泊で荷物をまとめた。それはビザが明日に切れるという日だった。グラナダからコスタリカ国境までは100kmほどだったが、もしなにかあったらと考えて前日に抜ける予定だったのだ。

夕照。

しかし、僕はもういちにちをグラナダで過ごすことにした。一番の気がかりは天候だったが、日々を見る限りその心配はなさそうだった。制限日数ぎりぎりいっぱいとなるが、明日なんとか国境を越えられれば問題はない。

居心地の良い安ホテルから、欧米人御用達のホステル・オアシスに移った。そこはドミトリーで9ドルと値は上がるが、インターネットが使えた。グアテマラのアンティグアを出て以来ずっとインターネットから開放されていたが、調べ物と、どうしても必要な作業があったので宿を移ったというわけだ。

オアシスは予想以上に欧米人宿で、かなりの数の宿泊者が居た。僕はどうしてもそのがさつさに目が行ってしまうので、欧米人宿よりは地元の安ホテルの方を好んでいたが、清潔で広い空間は悪くなかった。
午後からインターネットを使い一通りの作業をし、ひと段落したところでざぶんとプールに飛び込んだ。このホステルにはプールまであったのだ。すべてドミトリーながらも、コーヒー、紅茶、wifiがフリーでプール付きとなれば欧米人の溜まり場になるのも当然だ。

ドミはぎちぎち。

暑いところでプールは嬉しいね。

清潔で広い空間。

小さな扉から一歩外に出ればそこはニカラグアそのものだが、ホステル内にそんな雰囲気は欠片もなかった。英語が共用で、日本人が日本人宿に入って落ち着くように、ホステル内で思い思いの時間を過ごす欧米人たちを見ていると、彼らははやはりこの空間にほっとするのかもしれない。そう思えた。

おわり。

2012年9月8日土曜日

グラナダ vol.1

レオンを後にした僕はグラナダを目指した。グラナダはレオン同様ニカラグアでは押しも押されぬ観光地である。貧乏旅行の僕が観光地に行ったところで何をするわけでもないが、レオンからコスタリカへ抜けるにはちょうど良い距離にグラナダがあった。

パンアメリカン・ハイウェイを東へと走る。道はほぼ一本で、マナグア、マサヤと過ぎれば150kmほどでグラナダに到着した。さほど大きな町ではないし、早い時間に到着できたので、ホテル探しも大変ではない。安いシングル(150コルドバ)が見つかったのだが、探す途中、ひとりの少年が一緒になってホテル探しを手伝ってくれた。僕はバイク移動だったのでどうしても彼を途中で置き去りにする形になってしまったのだけど、きっと駄賃をねだるために走り回ってくれたのだろう。手伝ってくれと頼んだわけではないが、一生懸命走り回る姿はとてもけなげで、なんだか悪いことをした気分になった。

荷物を入れたホテルは安いといっても環境はすこぶる良かった。広い部屋をあてがわれたし、バイクも中庭に入れられたし、なによりキッチンと冷蔵庫を使わせてもらえたのが良かった。ユースやゲストハウスならわかるが、普通のホテルでキッチンと冷蔵庫はなかなかない。これでいつでも冷えたビールが飲めるし、コーヒーも入れられるし、飯だって作ることが出来る。

ホテルを経営する一家はきさくだった。特に女主人はとても品のある女性で、すらりとした立ち姿は美しく、派手ではないがセンスの良いアクセサリーをを身につけ、いつも長いスカートをひらめかせていた。朝には温かいコーヒーまで入れてくれた。
コーヒーは薄めの味だったが、それでもちゃんとコーヒーの味がした。他の中米諸国同様、豆と水を一緒に鍋に入れ煮出す方法には変わりないが、グアテマラの麦茶のようなものとは別物だった。果たして一般家庭がすべてなのか分からないが、少なくともここの家族はまともなものを飲んでいるようだ。

唯一難点といえば、夜が寝苦しかったことだ。日中は決まって30度を超える気温も夜になると涼しくなるのだが、熱をたっぷりと溜め込んだ部屋の中は一向に涼しくならず、ファンを止めて寝ているとじっとりを汗をかく。しかしファンをまわすとこれまた偉い勢いでまわり始め、うるさい。どちらを取っても寝苦しかった。

 良い宿だった。

グラナダのカテドラル。

 ツーリストエリア。

メルカド。

ある日グラナダの町を日中のんびりと散歩していると、ホテル探しを手伝ってくれた少年とばったり出くわした。

「ありがとう。おかげで良いホテルが見つかったよ」

少年は自分の手柄だと言わんばかりにうなずくと、得意げに鼻を鳴らした。そしてパンを買いたいから1コルドバをくれ、と手を差し出してきた。僕は、走り回ってくれたお礼にと、手のひらに1枚のコインを乗せた。日本円にして4円にも満たない金を、少年は実にうれしそうに受け取り、どこかへ走り去っていった。

そのままソカロ付近のツーリストエリアからメルカドへと散歩した。
ツーリストエリアは実に小奇麗で、メルカドはどこか小便臭い。だけどその国の本当の姿が見られるような気がして、僕はどの町でもメルカドに足を向ける。

清潔感のまるでない露店が所狭しと並ぶ様も、肉屋のなんとも言えないすえた匂いも、威勢のいい売り子の掛け声も、今ではすっかり見慣れた光景となった。先進国から第三世界に入ったとき、その不潔さと鼻を突くにおいに、なんだこれは、などと顔をしかめたものだが、多くを見てきたからだろう、これがこの国の生活なのであり、慣れれば愛着の一要素となる。

ボロ切れのようなシャツから汚れて真っ黒な手を突き出し、小銭や飴玉をせがんでくる子供たちも、片腕のない老人が往来の激しい道ばたで倒れたように眠っていても、もはや動じることはなくなった。結局のところ、幸も不幸もすべてが渾然一体となって、人々の生活がたくましくここに根ざしていると感じるようになったのだ。

つづく。

2012年9月7日金曜日

Ecuador(エクアドル) ツーリング情報 2012/07現在

【入国】

・人間:無料(90日間)
・バイク:無料(89日間)

【出国】

・人間:無料
・バイク:無料

【その他】
・保険:未加入
・ガソリン:約2USドル/ガロン(ハイオク)
・通貨:USドル
・走行距離:1860.5km

【メモ】

コロンビアのイピアレスからエクアドルのトゥルカンへと抜ける国境を使用。
この国境は今までで一番すんなり通過できたと思う。コロンビア側の出国も、エクアドル側の入国もとてもあっさりしたものだ。エクアドル側の税関にいたっては車台番号どころかナンバープレートさえも確認せず、書類の提出のみでペルミソを発行してくれた。いいのか?
パスポートやペルミソにパンッとスタンプが勢い良く押される音は、いつ聞いても気持ちがいいものだ。
国境近辺にうろうろしている両替商も、首を横に振るだけで近寄ってくることもなかった。

保険は強制ではない。

道路状況はとても良いが、アンデス山脈を越える場合かなりの峠道だ。エクアドルにもPeaje(ペアへ、料金所)がある。北部に多く、南部にはあまりみかけなかった。バイクは排気量に関係なく一律20センターボだが、場所によっては無料だったりする。

ガソリンはさすがに産油国とあって安い。ハイオクで1ガロン2USドルは今までの最安値。コロンビアのほぼ3分の1だ(コロンビアが今までの最高値ではあったが)。レギュラーにおいてはガロンで1.5USドル。しかしガソリンの質が良くない(オクタン価がかなり低い)とコロンビア人でさえ言っていたので、ハイオクを入れるのが無難だろう。

単位は距離がキロメートルでガソリンはガロン。

赤道直下にあるエクアドル。太平洋側の主要道路を走っていれば、ここで赤道をこえることになる。北半球と南半球を分けるそれを越えるのは、陸路で移動する旅の醍醐味だ。
アンデス山脈は相変わらず結構な峠だが、その迫力はすごい。気持ちよく走ることができる。

2012年9月1日土曜日

mi casa su casa vol.2

ホステルの部屋代は日払いをしていた。ニカラグアに入ってすぐということもあり、コルドバを多く持っていなかった。週末に国境を越えてしまったので銀行でまどまった金額を両替できなかったのだ。
レオンにあるスーパーマーケットでは、やはりというべきかドルが使えたので、ドルの小額紙幣を使い、おつりをコルドバでもらった。スーパーマーケットなら週末も関係ないし、その方が少しではあるが銀行よりもレートが良かった。
だからまず朝起きるとその日の部屋代を女主人に支払いに行く。初日に2泊する予定だと伝えていたのだが、3日目の朝に部屋代を持っていくと、あら?今日も泊まるのね、という顔をされた。もう1泊したいと申し出ると、

「Esta casa es mi casa y tu casa(自分の家だと思ってちょうだい)」

好きなだけ居ていいわ、そう微笑む女主人はなんとも商売上手だ。

オスタル・クリニカ。




ケーナ吹けるかな?

レオンのカテドラル。でかい。

レオンに滞在中、中川さんとはお互い酒が好きということもあり、夕暮れの涼しくなったホステルのテラスで毎晩グラスを傾けた。旅に酒は欠かせないと(僕は)思っているのだけど、ひとり飲むよりも、こうやって誰かと飲む時間のほうがずっと心に残る。

中川さんはこの僕のなにをどう気に入ってくれたのか、食事や飲みに誘ってはおごってくれた。明日の朝レオンを出ますと伝えた日、やはり夕方にはまだ早い時間からふたりで町に繰り出した。

屋上のテラスがカフェになっている店に入った。屋上だから見晴らしは良かったが、見渡す空模様は良くなかった。遠くに雷雲が見えて、灰色のその中を紫色の閃光が走っていた。じきにレオンの町も雨が降り出しそうだった。
ビールをを飲みながら、降り出した雨音を聞きながら、さまざまな話しをした。特に中川さんが若かりし頃の旅話はとても興味深いものだった。アフリカや南米、アジアにカナダのヒッチハイクなど、どれも僕には考えられないような内容だった。それもそのはず。もう何十年と前の話なのだから、今しか知らない僕とは比べることはできない。

大瓶を2本空けたところでそろそろご飯でも、ということになった。向かった先は中華料理屋だった。どの国でも中華料理屋を探すことは容易いし、その味はやはり日本人の口に合う。焼くか、煮るか、揚げるかしか選べない料理ではなく、きちんと調理しましたと呼べる味付けで提供されるそれは、安心して食すことができる。僕もこれまで何度か中華料理屋のお世話になっていた。店を選べば庶民的な価格で、ボリューム満点の中華が食べられるのだから、とうもろこし以外にもたまには、という気分のときにはありがたい存在だ。

しかし、テーブルに着いた僕の目は今にも飛び出さんとしていた。メニューに載った料理はどれも1品が200~300コルドバもしたのだ。庶民的?そんなレベルではない。1泊125コルドバしかしないドミトリーのベッドに寝ている身としてはとんでもない金額である。

「これはちょっと…」

素直な気持ちだった。

「ここは私が出しますから、気にせずに」

僕の気持ちを汲み取ったのか、それが中川さんの答えだった。なんということだ。今さっき飲んだビール代さえ一銭も払っていないのに、まさかこんな高級な店までご馳走になってしまうのか。
しかしもう言葉に甘えるしかなかった。そもそも僕のポケットにはそんな金が入っていなかった。レオンがいくら治安の良い町といっても、食事に出るだけで部屋代の何倍もの金を持ち歩くことはしなかったからだ。

なんでも好きなものをと言われ、困ってしまった。さらに広げたメニューがスペイン語というのにも困った。海老と野菜の炒め物に、魚のから揚げの中華あんかけを注文することにした。が、もちろん料金の欄には目をやらないことにした。

やがて大きな皿に盛られた料理が運ばれてきて、ビールを飲みながら、楽しい時間をすごした。料理はどれもすてきにおいしかった。ビールはどんどんと注文され、空の瓶がテーブルに置かれていることはなかった。その頃にはふたりともすっかりご機嫌だった。

中川さんは料理にほとんど箸をつけず、すすめられるままに大体を僕が食べてしまった。一緒に米も付いてきたが、炒め物と魚を食べるともう満腹で、それ以上はとても腹に入らなかった。まだまだ炒飯でも焼きそばでも好きなだけ頼んでくださいよ、と中川さんは言ってくれたけど、そんな余地はどこにもなかった。

「これからも旅は長いでしょう。良い思い出をたくさん作ってください」

上機嫌でビールを飲みながら言った中川さんの言葉が胸に染みた。

おわり。