2011年10月30日日曜日

カリブ海の宝石 vol.1

海に面したトゥルム遺跡を見学し終えた僕。長かったメキシコをいよいよ脱出すべく、ベリーズ国境に近い町へと向けて走るのだった。


トゥルム遺跡を見終わった僕は、チェトゥマルという町に向けてバイクを走らせた。そこはベリーズとの国境に近く、トゥルムからは約250kmほどの距離だった。道は307号一本。迷うこともない。

いくつか小さな町を通り抜けたものの、なんだかタイミングがあわず、昼食もとらずに走り続けた。あまりにも暑すぎた、というのもある。結局道ばたのジューススタンドで冷たいパインジュースを買って飲んだだけだった。おかげで250kmの距離を昼近くからの走り出しだったにもかかわらず、16時にはチェトゥマルに到着することができた。

まずはいつものようにホテル探しなのだが、手持ちのペソがかなり乏しかった。明日メキシコを去るということで、メキシコ通貨への両替を控えていたのだ。残りのペソを数えると約250。ガソリン代や飯代などを考えると、ホテルには出せて150といったところだろう。さすがにガソリンを入れない訳にはいかないから、それを超えると飯が食えなくなる、ということだ。

「HOTEL」と書かれた看板を頼りに何軒かのホテルをのぞいてみた。しかしどのホテルも僕の期待に応えてはくれなかった。もっとも安いホテルでも250ペソだったのだ。これまでの経験から150ペソも出せば安ホテルのシングルルームに一晩ゆっくり寝られるだろうと考えていたのだが、どうも雲行きが怪しくなってきた。こんなことになるとは露知らず、チェトゥマルの宿情報など調べてはこなかった。そもそもこの町自体がガイドブックには載っていないし、ここに来る旅人にも今まで出会ってはいなかった。両替をしようにも銀行はもはや閉まっている。ここで250ペソを払ってしまったら、飯どころかガソリンさえも買えない。

(さて、困ったぞ)

あてもなくホテルを探しに町中をさまよった。目抜き通りを走り、裏通りを抜ける。右に左に。と、海に突き当たってしまった。あまり大きな町ではないようだ。仕方なく折り返し、少しでも賑やかな方へとバイクを走らせる。なかなか見つからない。それらしきものがない。注意を払いながら緩やかな坂道をゆっくり登っていくと、道路から少し奥まったところに「HOSPEDAJE」と書かれた建物を見つけた。

(あれは…)

それは以前たまたま聞いたことがあった。HOSPEDAJEとはスペイン語で宿を意味するらしいということを。それを話してくれた人も、異国の町で同じようにホテルを探してさまよったと言っていた。そのときその話を聞いていなかったら、きっと気にもしなかっただろう。知っているということは強い。
バイクを停め、ヘルメットを脱ぎ、入り口の上に小さくHOSPEDAJEと書かれた建物に入っていった。薄暗く狭い通路を進むと、その先に小さな部屋があった。中には女性がひとりいた。

「すみません。一晩泊まりたいのですが」

目が合った女性にそうたずねた。

「何人かしら?」
「ひとりです」
「ひとりなら140ペソね」
(140!)

ポルファボール(お願いします)と言う前に、一応部屋を見せてもらうことにした。だがそもそも今の僕に選択の余地などなかった。今まで値段を聞いたどのホテルにも泊まれるだけの金など持っていなかったのだ。それは当たり前だ。140ペソで泊まれるなら、今晩まともな飯が食える。女性の後について薄暗い階段を昇りながら、どんな部屋でもいいや、そんな気持ちだった。

部屋は期待以上にきれいだった。キングサイズのベッドはスプリングがしっかりしていたし、大きな鏡の付いたドレッサーがひとつ壁際に置いてあった。窓からは陽が射し込んでいる。シャワーは水のみだったがこの気温ならむしろ気持ちいいくらいだ。
無事に部屋のカギを受け取り、部屋に荷物を入れるや否やシャワーで汗を流した。

よく冷えたパインジュースでのどを潤す。

やっと見つけたオスペダヘ。

(さて…)

いつもならのんびり散歩にでも出かけるところだが、ここチェトゥマルではやるべきことがあった。それはベリーズの入国ビザを取得することだった。

これは本当にありがたいことなのだが、日本のパスポートを持っていれば入国時にビザが必要な国はさほど多くない。ほとんどの国にビザを持たずに入ることが出来る。しかし中米のベリーズに関してはビザが必要だった。以前は国境のイミグレーションでもすぐにビザが下りたらしいのだが、審査が厳しくなった今では約2時間、悪ければ半日待たされることがあると聞いた。審査で半日も待たされたのではたまらない。だから事前にベリーズ大使館や領事館でビザを取得しておくのが懸命だった。

しかし僕はその大切な領事館の場所を知らなかった。チェトゥマルの宿情報さえ調べずに来たのだから、ベリーズの領事館がどこにあるかなんて知るわけがない。そもそもどうやって調べればいいのか、それさえも分からなかった。すべては行ってから解決しよう。
簡単に考えていた。

つづく。

2011年10月22日土曜日

最後で最初の城塞

カリブの海でジンベイ鮫と泳ぐという夢のような体験をした僕。夢から覚めたのは、宿にチェックインしてから1週間以上も経ってからだった。


暑い暑いとぼやきながら、日がないちにち本を読んだりしていた。雨季に入ったユカタン半島は午後になると決まって雨が降りだしたが、その時までは抜けるような青空が広がる。それでも宿の外に出かけることなど指折り数えるくらいだった。いつのようにリビングの所定の場所に腰を据えると、いつものように時間が過ぎていった。見渡せば、まわりには同じような旅人たちがいた。そしてその誰もが長期の旅人だった。それは1年とか2年とか、中には日本を発ってから3年が過ぎたという者もいた。

誰も急ぐことをしなかった。皆自分の中に時計を持っているようだった。宿に入るや否やガイドブックに従うように観光地を足早に巡り、わざわざそれと同じような写真を撮り、そしてすべてをチェックし終わるとさっさと次の場所へ向かう。そんなことをする者は誰ひとりとしていなかった。
この場所に「いた」という事実を、その時計が刻む時間のみが満たしてくれた。そしてある一定の時間が経ちそれが満たされたとき、ひとりまたひとりと宿を出て行った。

9時には宿を出ようと思っていたのだが、起きた時にはすでに8時半だった。その日の行動計画は一旦白紙に戻さなければならかったが、白紙のままにしておくことにした。結局リビングで連泊者とのんびり話などをしていたら、あっという間に昼近くになってしまった。

その日、カンクンに来て初めてホテルゾーンを訪れた。何度となく来るタイミングはあったのだが、最後の最後になってしまった。もっともあまり魅力を感じていなかったというのもある。訪れたところで今の僕には別世界だからだ。しかし実際来てみたらそれはラスベガス以来の衝撃だった。突如として高層のホテル群が目の前に現れたのだ。まさにカリブのリゾート。文字通りの光景だった。
ホテルゾーンを抜けると307号線に乗り、そのまま南へ向かった。

衝撃のホテルゾーン。

トゥルムの町に到着したのは16時だった。日はまだ高い位置にあり、幸いなことに雨雲はない。トゥルムと言えばマヤ文明が最後にたどり着いた地であり、スペイン人が最初に目にしたマヤの都市だ。今でもカリブ海に面してその遺跡が残っており、多くの観光客が訪れているようだった。
遺跡観光は明日にして、まずは今夜の寝床を確保しなければならない。トゥルムの町は遺跡観光の拠点になっているためだろうツーリストの姿も多く、それを狙った店も多かった。探せばわりと簡単に安宿を見つけられるはずだ。

しかし僕は町を離れ、海に向かった。遺跡から南にのびる海岸線に沿い、かなりの距離にわたってキャンプ場があるようだった。そして、遺跡に一番近いキャンプ場に入った。料金は75ペソ。広い敷地のどこにでもテントを張って良いといわれたが、ざっと見て海から少し離れた大きな屋根の下にテントを張ることにした。風が少し出ていたのだ。客は、僕のほかに誰もいないようだった。

目の前に広がる真白な砂浜と真青な海は、その正しさを僕に主張するかのようだった。テントを張り終わると我慢できずに服を脱ぎ捨て海に飛び込んだ。陽が傾き始めているというのに気温も水温もほどよく、移動中にかいた汗を気持ちよく流してくれた。風のためか、少し波が高い。離れた場所には遺跡の神殿が見える。波が無ければ泳いでいける距離だ。あそこではその昔、マヤの人々が生活を営んでいたのだろう。独自の文化を持ち、独自の言語を使って。

ひとしきり泳いだあとは浜辺を散歩した。青い海で泳ぐ者もいれば、白い浜辺に寝転ぶ者もいた。赤い夕陽が西の空に落ちる頃、テントに戻った。キャンプ場に電気は通っていないようで、ちいさな発電機が弱々しい灯りを確保していた。


テント張り放題。

昇る朝日。

翌朝は海から昇る朝日を見た。サンドイッチとコーヒーの朝食を済ませ、すべての荷物をまとめ終わっても、まだ7時半だった。キャンプ場にバイクを預け、遺跡まで歩いていった。入り口にはすでに数人の客がいて、8時にオープンすると同時に入場していく。僕もそれにならった。

 歩いてきたのでバイクはなし。

入り口は狭い。

この景色はなかなかない。

トカゲもでかい。

城壁に作られた入り口を低くかがんでくぐり抜けると、目の前に遺跡群が広がった。遺跡は三方を城壁で囲まれ、残りの一方は海に落ち込んでいた。そもそもトゥルムとはマヤ語で城塞と言う意味をもっているらしい。その規模は小さいものの、海の素晴らしさと相まってとても魅力あるものだった。密林の中の遺跡もいいが、海を背景に見る遺跡もおつなものだった。

おわり。

2011年10月16日日曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.6

カンクンの日本人宿で何をするわけでもなくまどろんだ時間の中にいた僕。事の成り行きに任せ、カリブ海にジンベイ鮫を見に行くことになったのだが。


朝焼けのウシュマル通りは交通量が少なかった。それでも通りかかった何台目かのタクシーを捕まえることができた。まずは料金交渉だ。日本とは違いタクシーの料金なんてものはドライバーの言い値で決まってしまうこの国では、降りるときになってからもめないためにも最初に目的地までの料金を決めたほうがいい。僕らはプンタ・サムの港まで50ペソで行ったもらうことにした。コレクティーボという乗り合いバスならひとり数ペソ払えば行けるのだが、乗り場も時間もよく分からなかったのだ。50ペソを4人で割ればたいした額でもない。

港までいったいどれくらいの距離があるのか、誰も知らなかった。海沿いを北に向かえばある、というなんとも頼りない情報しか持っていなかった。4人を乗せたタクシーは、早朝の海沿いを結構なスピードで結構な距離を進んだ。そう遠くないと思っていた僕は若干心配になった。と同時に、料金交渉の時にドライバーが50ペソの値段でなぜ渋い顔をしたのか、理解できた。

しばらく走り、ドライバーはどこまで行けばいいんだ?と聞いていきた。最初の説明ではうまく伝わらなかったのだろうか。しかしどこまでといわれてもプンタ・サムという港の名前と、イスラ・ムヘーレスという島へ渡るフェリー乗り場があるということ以外何も知らない。道案内など無理だ。僕ではなく、4人のうち一番スペイン語がまともな男がそれを説明する。果たしてきちんと理解できたのかどうか分からなかったが、ドライバーは北へ向けて車を走らせ続けた。

ほどなくしてタクシーは停車した。そこには確かにフェリー乗り場があり、イスラ・ムヘーレスという文字が書いてあった。到着したか。ほっとした僕らはドライバーに料金を払い降車した。
さほど大きくはないフェリー乗り場だった。あたりを歩いてみる。しかし、それらしい雰囲気ではない。フェリー乗り場の脇に小型ボートが停泊できる桟橋があると聞いていたのだが、それが見当たらないのだ。おかしい。
そして、その予感は的中してしまう。

フェリー乗り場は場所を分けてふたつ存在したのだ。まさか同じ島へ行くフェリー乗り場がふたつあるとは思いもよらなかった。そして僕らは違う方のフェリー乗り場で降りてしまったようだ。目的の場所は、さらに北へ5、6km行ったところにあった。

4人で顔を見合わせた。歩けない距離ではないが、歩いていく時間は無い。結局フェリー乗り場の前でたむろしていたタクシーのドライバーに尋ねてみるしかなかった。ひとりの恰幅のいいドライバーが僕らを推し量るような視線を向けた後、

「100ペソで行ってもいい」

と言った。

そんなはずは無い。
セントロからここまで50ペソだったのだ。それなのにたった5、6km走るだけで100ペソなはずがない。完全に足元を見られてしまったようだ。しかも彼はディスカウントにも応じず、コレクティーボの有無を聞いても首を横に振るばかりだった。

安宿にたむろしているような貧乏旅行者がそんな金を払ってタクシーに乗るはずも無い。かといって歩くわけにもいかない。もはや打つ手なしかと思ったそのとき、僕らのまさに目の前に1台の乗り合いバスが停車した。それはこれ以上ない、というタイミングだった。フロントガラスには白ペンキで「CENTRO - PUNTASUM」と大きく書かれている。僕らはすぐさまきびすを返すと、まっすぐバスに乗り込んだ。

果たして到着した港は間違いなくプンタ・サムだった。まだ人影は見当たらなかったが、フェリー乗り場の脇にはきちんと桟橋があり、ツアーの受付にでも使うのであろう小屋のようなものがあった。
まずは無事に到着できたことに安堵した。そもそも当日の飛び込みであるというハードルがあるにもかかわらず、現地にたどり着けないのであれば論外だ。

ツアーのボートが来るまで各々が好きに過ごした。僕はみつけたベンチに腰かけ、ジンベイ鮫について想像をしてみた。実物は、見たことが無い。それどころか写真でも映像でもまともにそれを見たことが無いことに気づいた。
とにかく大きいということ。体に無数の斑点を持っているということ。そしてダイバーの憧れだということ。それくらいしか僕の知識にはなかった。いったいどんな魚なのか。巨大で、未知で、憧れの魚が、もしかしたら大群で見られるかもしれない。それを考えるのは、足が地に着いていないような感覚だった。

7時半を過ぎると、にわかに人が集まり始めた。ツアー会社の送迎らしきバンが現れては、数人の欧米人を降ろして去っていく。そんなことが何度か繰り返されるうち、桟橋のたもとには30人くらいの人だかりが出来た。この小さな港から毎日これだけの人がツアーに参加しているのか。そう思うとジンベイ鮫の人気の高さが伺えた。きっと他の港からも、同様かそれ以上の人数が参加しているはずだからだ。1年のうちたった2ヶ月ほどの期間しかその姿を現さないというのも人気を高めている理由かもしれない。

続々と集まるツアー客。

そうこうしていると、いくつかのボートが現れ、桟橋に停泊した。僕らはそのうちから1艘のボートを見つけだす。それは前日ツアーに参加したダイバーから教えてもらったボートだ。彼はそのボートの船長と話をし、その内容を僕らに教えてくれていたのだ。

「俺がキャプテンだ」

そう言ってボートから降りてきたのは、日焼けした肌にサングラスが似合うひとりの男だった。僕らはさっそく交渉を始めた。ここが一番肝心だ。どこのツアー会社も通していないうえに、当日の朝いきなり4人も現れたのだ。果たしてそんな飛び込み参加ができるのだろうか。

もし駄目なら仕方ない。昨日の夕方そんな話をしていた僕らだが、やはりここまで来てしまったからには参加したい。いったいどんな答えが返ってくるのだろう。心配していた僕らとは裏腹に、彼の答えは拍子抜けするほどあっさりしたものだった。

「ひとりだろうが4人だろうがもちろんかまわない。料金はひとり78ドルだ」

その言葉の中に、喜ぶべきことがふたつあった。まず無事にツアーに参加できるということ。そしてその金額が78ドルだということ、だ。100ドルを上限として、できれば80ドルでと考えていた僕らにその金額は予想外だった。値段交渉の手間もかからず、僕らは助手らしき若い男に金を払うと、キャプテンに促されるままちいさなボートに乗り込んだ。

ボートには全部で10人乗り込んだ。このボートのキャプテンとその助手。白人カップルが2組。そして僕ら4人。ボートは一旦イスラ・ムヘーレスに立ち寄り水や氷を補給したあと、北の水平線目指して進んでいった。
島から離れたボートは、それまでの運行がうそのようにスピードを上げた。今までふたつ付いている船外機のうちひとつだけが作動していたのだが、ふたつめが作動したとたん狂ったように走り始めたのだ。エンジン音は甲高くなり、船首が空に向かって跳ね上がった。一番船首寄りに座っていた僕は、両手でしっかりとつかまっていないと海に投げ出さてしまいそうだった。実際激しく上下に揺れる度、体は宙に浮いた。

いざ。

ダイバーの彼の話では、ジンベイ鮫が群れを成すポイントは日によってさまざまらしいが、おおむねボートで1時間はかかるとのことだった。いくら体長の大きな鮫が群れを成しているからといって、そんな遠く離れた場所にいる魚をこの広大は海原からよく見つけられるものだと思ったのだが、どうやら早朝のうちにヘリコプターが沖合いを飛び、あらかじめその群れを発見しておくらしい。なるほどそうか。それならほぼ100%の確立でジンベイ鮫が見られるという話もうなずける。

高速で飛ばすボートにどれくらい乗っていたのだろう。やはりたっぷり1時間はかかったと思うのだが、遠くにちらほらと見えていた同じくジンベイ鮫を見に行くであろう他のボートが視界に集まってきた。キャプテンも無線でせわしなく会話を続けている。きっと群れが近いのだろう。ボートは少しづつスピードを落とした。

やがて前方にボートの群れが見えた。エンジンの出力を最小にした僕らのボートは、ゆっくりとその群れに近づいていく。と、誰かが何かを叫んだ。何事だ。そう思った僕がボートから海面を見下ろすと、そこには体に無数の斑点を持った巨大な魚が、実に悠然と泳いでいた。たまらず僕も何かを叫んだ。想像以上だ。それは想像以上に大きく、そのためどこか現実味に欠けていた。

ふたりひと組になり、ひと組づつ助手について海に入っていった。自分の順番がまわってくるまで僕はずっとボートから海を見下ろし、巨大な魚を見ていた。それは口を大きくあけ、海面を優雅に泳いでいた。こうやってプランクトンや小魚を捕食しているのだ。いったいどれくらいの数の群れなのだろう。キャプテンにたずねると、今日は50匹ほどだといった。

順番がまわってきた。僕は足ヒレやゴーグルを装着すると、思い切って海の中へ飛び込んだ。深い藍色をした海は、とても気持ちがよかった。ライフジャケットを着ているため、海面に浮遊する感覚もいい。ボートから少し離れ、あたりを見渡す。助手が、なにやら指差している。その方向に、目をやる。1匹のジンベイ鮫が、こちらに向かって泳いできた。僕は、またしても叫んだ。海の中で見るそれは、ボートの上から見るのとはまったく異なっていたのだ。魚と同じ海の中にるというだけで、これほどまで臨場感に違いがあるものか。欠けていた現実味は、現実以上の迫力に変わった。

その開かれた口に、このまま吸い込まれてしまうのではないかと思えた。躍動するエラやヒレは、生命力にあふれていた。胴回りは両手いっぱいに抱えてもとても足りない。そしてゆっくりだと思ったその泳ぎは、かなり速いものだと分かった。
底がまるで見えない深い海で、たぶんずっと昔から姿を変えていないだろう巨大な生物と一緒に泳ぐという体験が、これほどまでに神秘的だったなんて。

彼らは四方から現れては消えていった。人に危害を加えることは無く、進行方向に人がいると判断すると器用に身をくねらせ脇をすり抜けていく。しかしその小さな目はほとんど見えていないようだった。体長は、大きなもので8メートルほどあった。これだけ大きければ天敵などいないのだろう。おっとりした性格なのも、目が見える必要性がないのも、その結果なのかもしれない。
50匹すべてを見ることはとても出来ないが、それでも海の闇から次々と現れる巨大なジンベイ鮫の姿には、息を呑むものがあった。

ボートのすぐ近くまで来る。

悠然。

予想以上。

神秘的。

交代で何度か海に入った。参加した皆が満足したところで、ボートは帰路に着いた。途中イスラ・ムヘーレスのリーフに停泊し、シュノーケルを楽しんだ。海は本当にきれいだった。あまりに海がきれいすぎるために魚の姿を見つけられないほどだった。餌となるプランクトンがいないのだ。プランクトンがいないために透明度は驚くほど高いが、その代わりに珊瑚も魚もほとんどいない。つまりはそういうことらしかった。以前メキシコ湾で遊んだ海は、本当に珊瑚と魚の楽園だった。同じきれいな海でも場所によってその表情がまるで違う。

ため息の味。

ボートの上ではセビチェ(魚介のマリネ)が振舞われ、ビールが飲み放題だった。僕は冷えたビールをもらい、メキシコらしくライムを搾ると、一気にのどに流し込んだ。コバルトブルーの海を眺めながら飲むビールはため息をつくほどおいしかったが、そのおいしさよりもさっき見たジンベイ鮫の姿が忘れられなかった。

おわり。

2011年10月15日土曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.5

海碧の海と、石竹の湖と、紅のフラミンゴを楽しみつつエルクヨの町まで到着した僕。今日もまた湧き出した雨雲なんかには負けじとカンクンへ向かって走るのだった。


コバルトブルーの海とお別れをして一路カンクンを目指す。もっともカンクンと言えばカリブ海の一大リゾートだ。きれいな海には事欠かないのだろうけど。

誰もいない浜辺。のんびりできる。

エルクヨの町を抜けると空に真っ黒な雨雲を見る。潔いほど青空と雨雲がはっきりとわかれていて、そこを境にして雨が降っているのは一目瞭然だ。そして悪いことに僕はそこへ向かって走っている。これは間違いなく降られるな。当然。何度も雨宿りをするはめになった。それでもずっと降り続く雨ではない。時には木の下に、時には軒先を借りて、しばらく待つと決まって雨脚は弱くなる。そのすきに先に進む。そしてまた雨宿り。そんなことの繰りかえし。

雨宿り。

小さな村のスクールバス。

雨雲がはけてきた。

カンクンに近づくにつれ雨雲がはけてきた。向かう先は青空だ。気持ちを上げて一気に走る。
カンクンはカリブ海の一大リゾート。よってこんな僕でもその名前を知っているような一流ホテルがずらりと軒を連ねる。しかしこんな僕はそんなホテルなど泊まれるはずも無い。煌びやかなホテルゾーンへは目もくれず、セントロへと向かった。

そこはカンクンがリゾートとして開発される前からある市街地だ。今ではホテルゾーンで働く人々のベッドタウンになっているようで、大型スーパーからティエンダ、露店まであり、庶民的な雰囲気が漂う。

そこにロサスシエテはある。カンクンのセントロに2軒ある日本人宿のひとつだ。ふたつあるうちのどちらに泊まろうが大差はないのだろうけど、事前情報でバイクが十分停められるスペースがあることと、サンクリストバルで知り合った女の子と「お互いカンクンに行くなら、じゃぁロサスでまたゆっくり酒でも飲もうよ」なんて何気なく約束をしていたからだ。

国道180号から外れ、セントロと示された道路標識に沿って進む。が、案の定どこを走っているのかわからなくなる。そろそろ誰かに道を聞かないとまずいなと思った頃、意外と宿の近くまで来ていることが判明した。今止まっているウシュマル通りは確かに手持ちの地図にのっていて、少し戻るような形になるけれど宿までは数百メートルの場所にいるようだった。

宿に到着し鈴を押す。しばらくたって現れたのはオーナーだった。

「バイクがあるんですが」

僕の言葉に

「バイクなら中庭に入れればいい」

といって鉄の扉を開けてくれた。

バイクを中庭に入れ、受付のためにヘルメットとタンクバッグだけを持って中に入る。と、驚いたことにそこには知った顔があった。メキシコ・シティーで会った女の子がリビングにいたのだ。

「久しぶりだね。カンクンに来てたんだ」

シティーで別れた後、どこをどうたどって来たのかは分からないが、またカンクンで会うことになった。
同じ時期に旅をしている者同士、何度も再会することは珍しくない。北か南か西か東か。大体の進行方向と移動スピード(旅の期間というべきか)が同じようなものなら、それはよくある。とても自由な旅だから地球上のどこへ行こうがかまわないのだけど、結局はだいたい同じような行き先になる。そして旅を続けていく限り、こんな再会は幾度となく味わうことになるのだろう。

悪い癖がでてしまった。またしてもだ。日本人宿に入るとそれは出てしまうのだけど、ついついゆっくりしてしまうのだ。カリブ海のリゾートだというのにカンクンに到着して数日海にも行かず、行った場所と言えばスーパーと市場とコンビニと銀行くらいのものだった。一日のそのほとんどの時間を宿で過ごし、他の宿泊者と旅の話をしたり、本を読んだり、まだ明るいうちからビールを飲んだりしていた。日の高い時間に動き回るには陽射しも気温も厳しかったというのもあるが、一番の理由は純粋にゆっくりしたいという欲求からだった。
移動中の日々はその大半をバイクの上で過ごす。その日の寝床を確保するのにも骨を折る。そして耳に入るのは聞きなれないスペイン語ばかりだ。

ここにいればそんな心配事はなにひとつない。自分のベッドがあり、いつでも浴びられるシャワーがあり、冷蔵庫には冷えたビールがあり、そして会話はすべて日本語だ。
要するに楽なのだ。
僕は今回それほどストイックに旅をしようとは思っていないので、ゆっくりする時間を惜しまないようにしている。それが良いとか悪いとかいう問題は別にして、実際それが長く旅を続けるコツのように思う。

朝のドミトリー。まったり。

午後のリビング。まったり。

近くの公園でやっているサルサ教室に行ってみた。

そんな穏やかな日々が流れていたのだが、ひょんなことからジンベイ鮫を見に行くことになった。
一年のうちのこの時期、カリブ海沖にジンベイ鮫の群れが現れるという情報は知っていた。そしてなぜかそんな時期にカンクンに来てしまった僕は、その現生する中では世界最大といわれる魚を見に行くことになってしまった。

事の発端はひとりのダイバーだった。彼(もちろん日本人だ)はアメリカから夏休みを利用してカンクンにやってきた。もちろんカリブの海を潜るのが目的なのだけど、ジンベイ鮫を見ることも大目的だと言った。その彼がある日セントロにある会社を通してジンベイ鮫ツアーに申し込みをしてきたのだ。

「思ったより安くて、全部で100ドルだったよ」

僕が知っていた値段はツアーなら200ドルというのが相場だった。一泊10ドルもしない宿に泊まっている身として、200ドルというのは結構な出費だ。しかしそれはどうやら煌びやかなホテルゾーンから出るツアーの値段であるらしかった。セントロにあるツアー会社では、その料金が一気に半分になってしまう。200ドルというのは金のある観光客向けの値段だったのだ。

翌日、早朝から宿を出た彼が宿に戻ってきたのはまだ夕方前だった。そして興奮冷めやらぬといった口調でその始終を話してくれた。ボートで1時間揺られた先で見たものは、100匹を超えるジンベイ鮫の大群だったのだ。体長7、8メートルもある魚が100匹も回遊していれば、尋常じゃない。そしてその群れの中を泳ぐのだ。話を聞いただけでこちらまで興奮してしまう。

さらに彼はこう付け加えた。ツアー会社を通さずに直接港まで行って船長に交渉すれば80ドルでいけるらしい、と。安いと思った料金がさらに安くなってしまった。差額の20ドルは、思うにツアー会社のマージンなのだろう。これは確実な話ではないが、一方で決定的でもあった。僕は俄然行く気になった。こんな機会はこの先もう無いかもしれない。これを逃す手はない。にわかに心が浮き立った。

早速他の宿泊者から参加希望者を募った。参加者は僕を含めて4人集まった。夕方のリビングで作戦会議をする。まず明日直接港まで行き、船長と交渉をする。もし参加できないようなら仕方ない。物見遊山ということで帰ってくればいい。料金は100ドルをボーダーとしてできるだけ下げる。目標はひとり80ドル。朝6時半に宿を出発。港まではタクシー。そういう話で落ち着いた。

つづく。

2011年10月2日日曜日

ジンベイ鮫と泳ぐ日 vol.4

雨を避けるため、国道沿いにある小さな教会に逃げ込んだ僕。今まで散々いろいろなところで寝たことはあるが、教会で朝を迎えたのは実は初めてだった。


昨夜の雷雨もすっかり姿を消している朝。教会のコンクリートに守られ、何も濡らすことなく一晩を過ごせたのは幸いだ。壁にかけられた聖母マリアは今日も静かに祈りを捧げている。ありがとう。そっとつぶやいて教会を後にした。

ここからカンクンまで、今日中に走ろうと思えば行ける。しかしこのまままっすぐ180号を東に向かうのも面白くないな。そう思いつき、もう一泊どこかでキャンプでもしてからカンクンに入ることにした。地図を見て、この先のバジャボリドという町から北に進路をとる。そのまま北に100kmほど走れば海に突き当たるはずだ。せっかく余分に移動するわけだし、少し足を伸ばして海でも見に行こうと思ったのだ。

180号から295号へ左折。道はほぼまっすぐ北に向かっていて、通りかかる名も知らない町のソカロで休憩をする。どの町のソカロにもベンチがあって、木陰があって、地元民で賑わい、雰囲気がよく、休憩するにはもってこいだ。これまで田舎町のソカロで何度休憩したことだろう。今日もまた旅行者がとても訪れないような小さな町のソカロでのどかに休憩をしている。それもバイク旅のいいところだ。

見上げる空にいつの間にか雨雲らしきが発生し、風も少しでてきてしまった。午前中は快晴だったのにまた今日も雨だろうか。昨日のような雷雨は勘弁してもらいたいものだ。せめて雨が降る前にテントを。そう思い、隣においてあるヘルメットを掴むと、小さなベンチを後にした。

海に出たの夕方だった。すれ違う車のほとんどない国道はやがて小さな町に入り、さらにそのまままっすぐ町を進むと海に突き当たった。きれいな海だ。町の西側には小さな漁港がある。夕暮れの漁港には誰も居らず、静かな時間が流れていた。

静かな漁港。

このあたりにはフラミンゴが生息しているらしい。小さなツアー会社の前を通りかかった僕は執拗に勧誘を受ける。ガイドらしきおやじは客を獲得しようと必死だが、今の僕にそんな暇と金はない。ツアーといってもきっとボートでフラミンゴがいる場所まで行って帰ってくる、それだけだろう。何万羽もいるというならまだしも、フラミンゴをわざわざお金を払って見たいとは思えない。こっちはとにかく雨が降る前にテントを張りたいのだ。ノーサンキューだよ。あっさりと断ってその町を後にした。

海に突き当たってしまったのでもう北には進めない。東に向けて走る。道路一本はさんで左手には海が、右手にはピンク色の湖がある。なぜ湖がピンク色をしているのか。わからない。不思議だ。
バイクを降りて浜辺まで歩くと、雲の隙間から斜陽が射しこんで海に落ちていた。もう海まで到着したし、ここまで走れば町からだいぶ離れたはずだ。おそらく誰も来ないだろう浜辺がそこにあったが、風があったのとバイクを乗り入れることが出来なかったため、そこにテントを張るのはやめた。

不思議な色をしている。

雲の隙間から降り注ぐ。

海から少し離れた空き地にテントを張る。ポツリポツリと小雨が降り始める。テントのフライシートをつけ、荷物を入れたところで一台のパトカーが止まった。道路から完全に死角になるような場所が無く、進行方向によってはその姿が見えてしまう場所だったのだ。暗くなれば問題ないだろう。そう思ったのだが、暗くなる前にパトカーが止まってしまった。

「なにをしているんだ?」

テントを張っている者に対して何をしているかと聞かれても困る。テントを張っているんだ、そう答えればいいのだろうか。

「ここは駄目か?」

もはやテントを張ることを前提とした言葉で質問し返した。降り始めた雨の中、俺はもうここで寝るぞという意思表示だ。しかし駄目と言われれば撤収するしかない。山の中の小さな村の出来事が頭をよぎる。少し考えた警官はバケーションか?と聞き、僕がそうだと答えると、彼は笑顔で問題ないと言った。

晴れていた。夜中に降っていた雨は上がり、今朝もやはりすがすがしい青空だった。
今日はこのまま東へエルクヨという町まで海沿いを走り、そこから一旦南下して180号に戻りカンクンまで走る予定だ。
持っている地図ではエルクヨまでかろうじて道がつながっているようだが、それはかなりあやしい。海と湖(ラグーナと言った方が的確か)の間に出来た砂州のような場所を行く。それはまともな道じゃないかもしれないし、もしかしたら行き止まってしまうかもしれない。でもとりあえず行ってみようと思った。駄目なら引き返せばいい。どうしても今日中にカンクンに到着しなければ明日が無いというわけでもない。それに誰も来ないようなところを走れるのもバイク旅のいいところだ。

果たして道はまともじゃなかった。アスファルトはあっけなく途切れ、締まったダートに変わったと思ったらそれもほどなくして砂地の道に変わった。ハンドルを取られてうまく進めない。曲がることのないまっすぐに伸びた道だというのが救いだ。

左手の海は茂みに阻まれ眺めることが出来なかったが、右手の湖は楽しめた。紅色のフラミンゴが散見され、それはピンクの湖と相まって幻想的な雰囲気をしていた。さらに進むと塩田を見ることが出来た。湖は塩湖だったのだ。ミネラルが豊富でピンク色をしているのかも知れない。数人が作業する塩田で、そのピンク色ひとかけらを拾って口に入れた。それは結晶が固く、あたりまえにしょっぱかった。岩塩というものだろうか。

道はまっすぐに伸びる。

紅色フラミンゴ。

ラグーナを見ながら。

薄紅色の結晶。

神経を使うダートは進めども終わりが見えず、まさかこのまま行き止まりなのではと心配になった頃、エルクヨの町に抜けた。たどり着いた舗装路は快適そのものだ。見つけた売店で冷たいジュース買うと、日陰に座り一気に飲み干した。

どこからか笑い声が聞こえる。左を見るとそこには学校があった。東洋人が珍しいのか、塀の上から顔だけ出した女学生たちがひそひそと何かを話している。目が合うとさっと隠れる。そしてまた顔を出す。そんなことを何度か繰り返す。ためしに手を振ると、わぁっと歓声があがった。彼女たちに僕が日本人だということがわかるだろうか。きっとわからないだろうな。メキシコの、それもカリブの海に近い町では東洋とはどこかおとぎ話でも聞いているような感覚だろう。実際僕だってカリブ海なんて言われてもそれがおとぎ話のように聞こえるのだから。

やっと到着した町。

汗がひくのを待ち、今日もまたどこからともなく湧き出した雨雲に立ち向かうようカンクンに向けて走り出した。

つづく。