2010年3月31日水曜日

歩89日目 大分県豊後高田市

天候 晴れ
気温 7時 2.5度
   17時 10.9度

桜が満開だった。
大分の桜は、今まさに見頃を迎えていた。

桜前線は1日に約30kmのペースで北上するという話を聞いたことがある。僕は今1日40kmのペースで南下している。お互い北と南からやってきて、ちょうど重なったのが大分という事だった。僕はさらに南へと向かい、桜は北へと向かう。

先日、まだ山口辺りにいる時、実家に電話した。現在地の報告をたまにしている。電話に出たのは母親だった。
「いつ頃帰ってくるの?」
そう言われ
「うん。たぶん4月の下旬と思う」
そう答えた。母親は
「じゃあ桜が咲く頃ね」
そう言った。

そうか。僕は桜前線とここで分かれるが、また北の地で再会するのだ。なるほど桜も旅をしているのかも知れない。そう思うとなんだか愉快な気分になり、この満開との再会が今から楽しみになった。

5時20分。起床。コーヒーを入れる。朝に飲む一杯のレギュラーコーヒーが唯一の贅沢だ。日中は魔法瓶に詰めたお湯でインスタントのコーヒーを飲んでいる。外で飲むコーヒーはインスタントでも実にうまいのだが、やはりその差は歴然だ。

コーヒーを飲みながら出発の準備をしていると、もうシャッターの開く音がした。まだ6時。この道の駅の朝は早いようだ。テントから出て挨拶をする。
「寒くなかったかい?」
「大丈夫でした」
確かに気温は2度と低かった。それでも冬用の寝袋はさすがTシャツだけでひとつも寒くなく、快眠だった。
「兄ちゃん、どこまで行くんだい?」
鹿児島。北海道。歩き。元旦。真冬。野宿。それらの単語はもう何度口にしたかわからない。
「兄ちゃん馬鹿だな」
そう言われて笑うしかなかった。でもその単語も何度耳にしたかもわからない。うん。もう慣れてしまったよ。

6時50分。出発。空はもう青い。だいぶ朝も早くなったものだ。いざ道の駅から出ようとした時だ。
「兄ちゃん!」
手招きされた。朝の挨拶の人だった。トラックからコンテナを下ろしながら、その中にある一袋を手渡してくれた。バナナだった。大きくてきれいで見事なバナナ。
「ありがとう」
「頑張ってな」
清々しい朝だった。

8時20分。今日も国道10号を行く。小さな橋の上で県境をまたいだ。福岡県から大分県へ。これで残すは宮崎県と鹿児島のみだ。

10時00分。宇佐市に入る。今日は朝から膝の調子が良い。すでに12kmを歩いた。そして大雑把に読んだ地図では今日で別府まで行けるはずだった。しかしそれはあまりにも自分都合で距離を見積もっていた事を思い知らされた。出てきた標識には別府まで56kmとあった。おいおい、なんて事だ。とても今日中には着かない。というか、頑張っても明日の昼は過ぎるだろう。せっかく別府で温泉を楽しもうと思っていたのに、ずいぶん風呂が遠退いてしまった。

12時00分。昼食にした。スーパーマーケットでパンと冷たいコーヒーを買う。日差しが強く、乾いた喉には魔法瓶のインスタントよりも冷たいコーヒーがおいしいかった。

14時20分。宇佐神宮を通りかかる。せっかくなのでさらりと観光。平日とあってか人もまばらで静か。お参りは、二礼四拍手一礼というのが宇佐神宮流だった。僕もそれにならって四拍手。四回も叩くなんて、初めてだった。

19時00分。低い峠を越えると中山香の町に到着した。そしてこの先また峠になる。もう空は暗く、今日はここまでとした方が良さそうだった。とりあえず駅へ向かう。水を持っていなかったのだ。到着した駅は無人ではなかったが、水は確保出来た。

待合室でブログを書き、21時になったところで駅舎近くのスペースにテントを張った。いわゆるゲリラキャンプというやつだ。一晩だけひっそりと過ごさせてもらう。

時刻表で確認した始発は6時過ぎだった。それまでには撤収しよう。夕食を済ますと、いつものように襲われる睡魔に抗う事なく寝袋に包まった。

今日の歩行距離約42km。

写真1
満開。そしてすれ違い。

写真2
静かな宇佐神宮。二礼四拍手一礼。珍しい。

写真3
かっこいい電車。よく走っている。名前はソニック。

2010年3月30日火曜日

歩88日目 福岡県築上郡上毛町

天候 晴れ
気温 8時 8.0度
   17時 11.1度

***

お詫びです。

最近、携帯電話からのコメント投稿が受け付けられず、皆さんから頂いたコメントへの返事が出来ていません。
大変申し訳ありません。

日を置いて何度も試しているのですが、うまくいかなくなってしまいました。
原因は不明です。

パソコンからの投稿は出来ると思いますので、コメントして頂いた方は今しばらくお待ち下さい。
パソコンが使える環境になったら(それはつまりゴールした後という事ですが…)必ずお返しします。

***

「お父さん、行くよ!」

大きな声で、僕は言った。話し掛けるべき人物が見当たらなかったのだ。
少しの間を置いて、柱の陰からお父さんはひょっこり現れた。小さく手を振りながら、
「気を付けてな」
そう言ってくれた。

歩きだした国道はすでに薄暗く、目の前には誰かが膨らませたんじゃないだろうかと思わせるような、大きくて丸い月が浮かんでいた。

6時00分。起床。少し寝坊した。昨晩は大変だったのだ。テントに入り、ワインとチーズですっかりが気分が良くなった僕は、夕食にパスタでも茹でようとコッヘル水を入れ火にかけた。お湯が沸き、二等分に折ったパスタを投入する。何もかもが順調だった。

パスタがそろそろ茹であがるという時、遠くで雷が鳴った。まさか。最初はそう思った。さっきまで空には月が浮かんでいたのだ。しかし、雷はもう一度鳴った。近くなっている。まずいな。フライを付けようか。今日は月が見えていたし、屋根の下だったからテントのフライシートは付けていなかった。雨はないと信じて疑わなかったのだ。

しかし雷が鳴るということは、きっと雨が降り風も出るだろう。そうなれば壁のない屋根だけのあずまやなんて何の意味もない。バーナーの火を止め、外に出る準備をしようとしたその時、強い風が吹いた。

突然の雷雨だった。それはフライを付ける間もなく、僕のちっぽけなテントを襲った。強風にテントがひしゃげそうになり、両手でポールを押さえねばならなかった。フライを付けていないテントはじわりと雨が入り込み、風が弱くなる一瞬をみてタオルでそれを拭うのが精一杯だった。とにかく1秒でも早くこの雷雨が行き過ぎてくれるのを、僕は目の前でどんどんのびていくパスタを悲しい気持ちで見つめながら待つしかなかった。

結局雷雨はそう長くは続かなかったが、目の前でパスタは倍にも膨れあがっていた。おかしな天気だった。夕方に見た天気図からは(僕の知識では)まったく予想出来なかった事態だ。きっと空も僕の九州入りを盛大に祝福してくれたのだろう。そう考え納得することにした。

7時50分。出発。濡れたテントを乾かしていたら遅くなった。それでもまだ完全に乾いていない。日差しが出たら昼にでもまた干さなければならない。

県道25号をしばらく進むと国道10号と交わった。ここからはバイパス等を除けば大分市あたりまでこの10号のお世話になる。

今日は朝から右膝が痛くあまり飛ばせない。休憩ついでに国道脇の空きスペースにテントを広げて乾かした。照りつける強い日差しが、テントにしみ込んだ水分をいとも簡単に蒸発させてくれた。

14時00分。今川を越える。土手に並ぶ桜が満開で、きれいだ。シートを広げ花見をしている姿も見られる。暖かい午後の羨ましい光景だ。

15時00分。バイパスとなる国道から外れ、行橋市街地を通過する。この頃には膝が楽になっていた。温まったのかなんなのか、自分でもよくわからないが、なんにせよ痛くないのは良い事だ。午前の遅れを取り戻すべく快調に飛ばす。

豊前市の道の駅に着いたのは18時を少し過ぎての事だった。夜の帳が降り始めていた。じきに暗くなる。
そこに荷物を前後に積んだママチャリを見つけた。荷物は比較的きれいに積まれ、きちんとカバーがかけられていた。持ち主はきっと几帳面に違いない。

僕は自転車近くのベンチに座っていた。今晩ここに泊まるか、もう6km先にある次の道の駅まで歩くか、決めかねていた。

「大きな荷物だな」
そう言ってお父さんは現れた。自転車の持ち主だった。僕は歩いて旅している事を話す。
「そうか。山陰は寒かっただろう。今晩ここに寝るのか?」
まだ決めかねているのだと伝えると、僕の座っている隣のベンチを指差し、
「俺は今晩ここで寝るけどな」
と言って笑った。そしてもし次の道の駅まで行くなら明るいうちに進んだ方がいいとも言った。

僕は先に進む事にした。お父さんの言葉が背中を押したのだ。
「お父さんも旅してるの?」
僕は尋ねた。
「俺はこの近所さ。ただ帰らないだけだ」
お父さんはそう答えてまた笑った。

似た者同士だ。お父さんも僕も、何の違いもない。きっとお父さんも日々旅にして、旅を住みかとしているのだ。

少しの休憩の後、僕は立ち上がった。靴を履き直し、バックパックを背負った。お父さんの姿がない。どこだろう。このまま黙って行くのも忍びない。挨拶くらいはした方がいい。
僕は息を吸い、大きな声で見えぬ相手に投げ掛けた。お父さんはそれに応えてくれた。

20時00分。暗い夜道を歩き、新吉富の道の駅に到着した。先客がひとりいて、少し話をした。京都から自転車で来ているらしい。
「由布院は天国だぞ」
そう言って思い出したようにうなずき、
「あそこは良かった。山を越えるのがえらいけどな」
と続けた。

僕は少し離れた場所にテントを張り、中に入った。今日はもう雨はないだろうし、そもそも軒下だから安心だ。空腹に温かいラーメン流し込み、冷えた体を暖めた。

今日の歩行距離約45km。

写真1
桜が満開。花見がしたい。

写真2
きれいな夕焼けだった。山へと沈む夕陽。

写真3
誰かが膨らませた月。ぽっかり。

2010年3月29日月曜日

歩87日目 福岡県北九州市

天候 晴れ一時雷雨
気温 7時 5.9度
   17時 14.9度

もし、その一歩に強いて意味を持たせるとすれば、それは「終わりと始まり」そういう事になるのだろう。

九州入りした。
ついに長かった(本当に長かった!)本州を抜け出したのだ。

本州と九州は歩いて渡る事が出来る。関門海峡には人道トンネルと呼ばれる長さ780mのトンネルがあり、こちらから向こうへと、人はそこを歩いて抜けるのだ。本州と九州はとても近い。

トンネル内には丁寧にラインが引かれていた。そのラインの手前には「山口県」、向こう側には「福岡県」、そう書いてあった。本州側から歩いてきた僕の場合はそうだった。

そこが県境だ。つまり本州と九州の境でもある。ラインを跨ぐ一歩は、いつもと変わらぬ小さな一歩。でも、そこに意味を求めてしまうのが人間だ。

なぜだろう。

北海道の宗谷岬から、ここまで。幾万という歩みを重ねてきた。それはどれをとっても大切な一歩であり、みな等しくある。どれかひとつでも欠けていれば、今の僕はここに居ない。
始まりの一歩も、峠を登り切った一歩も、転んだ時の一歩も、そしてこのラインを越える一歩も。すべて同じ一歩だ。だから、特別ではない。僕はいつものように足を動かすだけだ。

5時20分。起床。寒くない朝だ。なるほど今日は星が見えない。寝袋からも楽に出られる。

いよいよ今日は九州入りだ。携帯端末から覗く毎朝恒例の天気予報チェックも、今日から九州地方になった。

6時40分。出発。空は薄く雲が張っているが、今日も雨の心配はないだろう。
国道2号を外れ、海沿いへと向かう。坂道を下り切ると国道190号に突き当たり、太平洋が見えた。その先には九州。ついに捕らえた。あれがこの旅の最終ステージだ。

9時30分。下関市に入る。本州最後の市となる、歴史ある町だ。道はまた国道2号へと変わり、国道9号と重複しながら海沿いに進んで行く。だが僕は下関の町中には入らない。そのもっと手前に、僕が入るべき人道トンネルがあるからだ。

13時10分。重複していた国道2号と9号が別れ、海沿いの道は9号となった。出てきた標識には人道トンネルまで6kmと書かれている。あと少し。あと少し。そうつぶやきながら歩いた。道の脇は立ち並ぶ桜の木が、誇らしげに花を付けていた。

14時40分。道はぴたりと海について走るようになった。海を挟んで九州が見える。進むにつれて海の幅が次第に狭まっていき、手を伸ばせば向こう岸に届きそうなくらいだ。
やがて目の前に関門橋が見えた。海を跨ぎ、本州と九州を結んでいる。そしてあの橋の袂に人道トンネルがある。

15時30分。人道トンネルの入り口に到着した。天気の良い日曜とあって観光客も多い。僕もその中のひとりとなり、橋を見ながらランチにした。いつもの様にサンドイッチだったのだけど、九州を目の前に食べるそれはまた格別だった。

食べ終えたらすぐに立ち上がった。今日はここに泊まる訳じゃない。ここはひとつの通過点。僕はまだまだ前に進まなければならない。コーヒーを飲み干しバックパックを背負うと、トンネルへと下るエレベーターに乗り込んだ。

16時00分。ラインを越えた。その瞬間、4thステージが終わり、5thステージが始まった。だけどそれは連続する一歩だった。
昇りのエレベーターから地上に出ると、さっきまでいた本州が海の向こうに見えた。海を越えるというのは不思議な感覚だ。何かが変わったのか。何も変わっていないのか。意味を持たせるのはいつだって人間だ。

門司と言えば九州の玄関口。レトロな建築物が残っており、観光地としとも有名だ。やはりここにもたくさんの観光客がいたが、僕はスーパーマーケットで買い物をしただけで、他は特に気にもせず進んだ。門司には何度か来ていた(九州にバイクで入るには、船を使わなければ必ず門司を通過する事になる)し、まだ明るかったのでもっと前に進みたかったのだ。

九州は国道10号で別府まで行こうと思っている。なのでまず門司からは県道25号だ。そのうち10号に合流する。とにかく行ける所まで行こう。そう思った。

吉志の町に着いたのは、もう19時を過ぎていた。あまり良い寝床が見つからず、歩き続けていたのだ。もうぼちぼち落ち着きたい時間だ。見つけたスーパーマーケットでビールとワインを買い、それを手にぶら下げながら吉志の町をうろついた。

20時30分。暗い町を30分以上さ迷い、やっと不時着した。いい公園を見つけたのだ。あずまやがあった。トイレに水場もあった。迷わずテントを張る。

今日は久しぶりにワインなんかを買ってしまった。本州脱出と九州入りのお祝いのつもりだ。さらに贅沢にもカマンベールチーズなんてものを買っていた。門司のスーパーマーケットで買ったのだ。我ながら安い贅沢だとは思う。しかし久しぶりに食べるチーズはワインに良く合い、とてもうまかった。

今日も狭いテントの中、ひとりで夜を過ごす。北海道だろうが、本州だろうが、九州だろうが。それはこの旅が終わるまでいつだって変わりはない。

今日の歩行距離約43km。(本州30km、九州13km)

写真1
関門海峡を橋が繋ぐ。でも歩きは無理。

写真2
いつもと変わらぬ一歩でありたい。

写真3
これが人道トンネル出入口。歩いて行けるのが良い。

2010年3月28日日曜日

歩86日目 山口県山陽小野田市

天候 晴れのち曇り
気温 7時 -1.2度
   16時 11.5度

今朝もまた一段と寒い。寝袋から出るのが一苦労だった。用を足しにテントの外に出ると、まだ明けぬ空に星がいくつも瞬いていた。
「なるほどそういう事か」
凍えた指先を口元で暖めながら、僕はひとり納得した。

5時00分。起床。テントには霜が降りていた。真っ白なテントを見るのは久しぶりだ。温度計を見るとマイナス1度。寒いはずだ。輝く星達に拍手を送りたいくらいの放射冷却だった。

寒い朝は温かいものを食べるに限る。昨日食べきれなかったうどんを茹で、熱々を平らげれば体は中からぽかぽかだ。体が冷えぬうちに撤収作業を開始する。テントのポールがあまりに冷たくて素手では触れない。フライシートには薄い氷が張りついていた。

6時40分。出発。吐く息は目の前で白い塊となった。まさか山口で氷点下の朝を迎えるとは。僕は、寒さに対してすっかり無防備になっていた。

9時00分。小郡に入り、新山口駅付近を通過する。見上げる空には雲ひとつない。遮るもののない陽の光が、余すところ無く地上に降り注ぐ。気温はうなぎ登りで、着けていたネックウォーマーを外した。

10時30分。国道から外れ、車のあまり通らないのどかな県道を歩いていた。田園が広がり、右手には新幹線が走っていた。
前から一台の自転車が来た。荷物を満載だ。それは一目で長旅仕様とわかる。まとう雰囲気が違う。
「こんちは」
「おはようございます」
軽い挨拶ですれ違った。お互いが旅人と認めあった証だ。その時、僕は自転車の荷台に旗がなびいていたのを見つけた。韓国の旗だった。振り返り、過ぎ行く自転車を見た。彼は韓国人だったのだ。きっと釜山から下関あたりに船で入ってきたに違いない。そういえば彼の言った挨拶も、どこか発音が違っていたような気がする。異国の地を自転車で旅するなんて素晴らしい事だ。

11時30分。やがて道は国道2号にぶつかった。そこを右に行けば下関。頭上の標識には北九州と門司の文字。九州はもうすぐそこだ。

16時00分。バイパスとなる国道から外れ、厚狭の市街地に入っていった。食べるものが無く、買い物をしなければならなかった。立ち寄ったスーパーマーケットでパスタとチキンカツとビールを買う。
スーパーマーケットを出ると17時になっていた。これから1時間が勝負だ。それまでには寝床を見つけたい。

17時15分。厚狭川に架かる橋を渡ろうとして、それを見つけた。あずまやだった。ということは公園があるだろう。土手の道を歩き、そこへ近づく。大きくはないが、悪くない公園だった。水場はないが、手持ちの水で一晩くらいなら十分だ。2分考え、テントを張った。この先歩いてどこか見つけられる保証はない。

17時30分。もう寝床ができてしまった。明るい。いつもはすっかり暗くなってからテントを設営している。テントに入るとまずトーチを点けるのだが、今日はそんなもの必要なかった。
それにしても時間を持て余してしまう。何をしていいかわからない。夕食には早すぎるし、とりあえずビールをあけた。

考えてみれば今日で本州最後の夜になる。明日には北九州市に入っていることだろう。ビールを買って正解だったな。明るいテントの中で、僕はひとり乾杯をした。

今日の歩行距離約37km。

写真1
寒い朝。久しぶりにテントが白くなった。

写真2
北九州に門司。本州最後の夜。

2010年3月27日土曜日

歩85日目 山口県山口市

天候 曇りときどき雪のち晴れ
気温 7時 1.6度
   17時 8.1度

「believe your 鳥肌」

巧い言葉だと思う。高橋歩さんの言葉だ。

高橋さんの本は、ずいぶん昔に読んだ事がある。いくつかの本を読んだのだど、今でもこの言葉は心に残っている。

寺を見て鳥肌が立ったのは、今までの人生であの一度だけだ。京都市内にある東寺を見た時。正しくは、東寺の敷地内にある五重の塔を見た瞬間、だ。
ぞくりとした。自分の意志とは関係なく、鳥肌が立った。全身の肌が刃物の様に研ぎ澄まされ、毛が一本一本逆立つのがわかった。そして金縛りにあった様に、その場に立ち尽くして一歩も動けなくなってしまった。

その後何度か東寺には足を向けた。やはり何度見ても五重の塔は素晴らしかった。しかし、二度とあのぞくりはなかった。あれは一体何だったのだろう。夢ではない。紛れも無い事実だった。

結局、僕は自信の鳥肌を信じるしかなかった。

5時20分。起床。寒い。インナーダウンを着て、寝袋のファスナーをしっかり上げて寝たのに、暑くなかった。ついこの前までこんな事をして寝たら汗をかいてしまう。寝袋の中はもうTシャツだけで十分な気温だったのだ。

今朝も残った米にコーンスープを入れた。
「いや、マジうまいって」
誰に言うわけでもないけれど、言い訳の様にそんな事を口にしてしまう。それはすっかりお気に入りメニューだ。

雨は、あがっていた。夜中に何度か強い雨音が聞こえ、その度に起こされ、寝返りを打ち、朝にはきっとやんでるさ、そう思ってまた眠りについた。根拠なんてない。そう思わなければゆっくりと寝ていられなかったのだ。我ながら楽天的だ。

7時00分。出発。夜中の雨はどこへやら。根拠のない確信は、偶然にも当たってしまった。楽天家の僕はそのことにすっかり鼻が伸びてしまう。
オレンジ色の朝焼けが影を伸ばす。わずかに残る雨雲も、風に流され足早に西の空へと消えていく。今日はもう雨の心配はない。道路脇の温度計は0を表示しているが、寒くたって雨に濡れるより100倍ましだ。晴れてはいるが、季節外れの雪がちらついていた。

12時40分。長門峡の道の駅に到着。この頃には気温もあがり、グローブとネックウォーマーを外していた。それでもたまにちらつく雪に、上空の寒気の強さが伺える。
しかし桜の時期に雪が降るとは珍しい。しかも青空なのにだ。青空と桜と雪。一度に全てを味わえるのだからなんとも贅沢な事だ。

16時00分。木戸山峠に差し掛かる。最高到達点は333m。それほど高くはないが、歩道が狭い上に大型トラックが多く危険だ。そういえば夢の中でおまわりさんが言っていた。歩道も狭く危険ですから気を付けてくださいねと。あれは本当だった。

登り切った所にはお決まりのようにトンネルがあって、抜けると当然下りだった。山の所々に咲いている桜を愛でながら、でも気持ち早足で山を下りた。
早足だったのには理由がある。日が傾き始めていたからなのだが、それだけではない。瑠璃光寺に行きたかったのだ。

僕の中で、山口市と言えば瑠璃光寺、という公式が出来ている。もちろん勝手な公式だ。その公式の解は五重の塔、つまりは鳥肌である。瑠璃光寺の五重の塔は国宝にもなっていて、東寺のそれとは対照的な良さがあった。東寺の五重の塔は力強く、壮麗であるのに対し、瑠璃光寺のはしなやかで、優美だった。この歩き旅でもし山口市を通るなら、一目だけでも見たかったのだ。

18時30分。瑠璃光寺に到着出来た。少し息が乱れている。体も熱い。だけどまだ日は暮れていない。間に合った。刻々と色合いを変えて行く空に、溶け込むようにそれはたたずんでいた。
あの鳥肌は、やはりなかった。だけど僕は満足だった。

19時40分。山口市の繁華街に湯田温泉はある。その一角に足湯があり、僕はそこで温まっていた。もうすっかり夜なのだけど、足湯の魅力に負けてしまったのだ。2度まで落ち込んだ外気に、体は完全に冷やされていた。それでも足を通してゆっくりと身体中が温まっていくと、心にも余裕が出来るというもの。この先30分も歩けば大きな公園がある。向かいにはドラッグストア(コスモスといえば旅人には言わずと知れた存在)もある。さらに雨の心配はない。
「どうせもう真っ暗だ。今さら焦っても仕方ない」
もうなるようにしかならないし、根拠はないがどうにか出来る自信もあった。
繁華街を楽しそうに歩く人々を眺めながら、僕は足湯を心行くまで楽しんだ。

今日の歩行距離約47km。

写真1
道の駅にあった達磨ストーブ。今どき珍しい。

写真2
徳佐のしだれ桜。運良く見頃。

写真3
鳥肌を信じろ!

2010年3月26日金曜日

歩84日目 山口県山口市

天候 雨ときどき曇り
気温 6時 14.6度(室内)
   16時 5.8度

運を天に任せるとは、まさにこのことか。

予報では雨だった。昼にはあがるらしいが、目的地とする長門峡の道の駅までは45kmあった。遅くとも7時には出発しなければならない距離だ。必然的に雨の歩行になる。まして45kmはお世話にも近いとは言えない距離。もちろん道の駅まで行かなくてもいい。しかし京都を経ってから17日。昨日まで休みなく歩き続けていた。体の事を考えると、そろそろ休養した方が賢明だった。

20km先にも道の駅があった。しかも温泉付きだ。20kmなら半日の距離。もしそこまでとするなら、雨があがってから出発しても十分夕方に到着できる。半日は体を休ませる事が出来る。それも湯に浸かりながらのんびりと、だ。

昨日の晩、何度も何度も地図を見つめ、距離を測り、それでも結論を出せずにいた。少しでも前に進みたい。でも体を休ませる事も大切だ。考えは二転三転。答えは見つかりそうになかった。

段々考えるのに疲れてきた。どちらを選択してもメリットとデメリットがあり、その天秤は均衡を保っていた。結論が出そうにない。そんな事に頭を使うのが馬鹿らしくなったのだ。もういいや。朝起きて雨が降っていなければ、歩く。雨が降っていれば、休む。天候に任せよう。そう決めた。それは要するにさじを投げたという事だが、それはそれで良かったのだろう。僕は馬鹿だからきっと雨が降っていても、膝が痛くても、行くとなれば歩くだろう。冷静に考えればそれは無謀な事だ。たまには運を天に任せるのも悪くない。

6時20分。いつもよりだいぶ遅い起床になった。
4時半には一度目が覚めた。いつもなら寝袋の中で伸びをしたり、ブログを書いたり、頭を覚醒させるためにもぞもぞと活動を開始するところだが、今朝はそんなことを全て放擲して寝返りを打った。何故なら雨が降っていたからだ。それも篠突く雨だ。空は、僕に歩くなと言っているようだった。ふかふかの柔らかく温かい寝袋の感触を楽しみながら、幸せの二度寝を味わった。

幸せの中で、僕は昨日見た夢の事を考えていた。不思議な夢だった。その夢の登場人物はふたり。僕と、おまわりさんだ。
「お休みの所をすみません」
おまわりさんは音もなく現れた。
「一応免許証だけ拝見させて下さい。はい。旅ですか?どちらまで?鹿児島。そうですか。歩き?それは大変ですね。この先山口市内に入る峠は歩道も狭く危険ですから気を付けてくださいね。えぇ。はいどうも。ではおやすみなさい」
音もなくおまわりさんは消えた。そこに残ったのは寝袋に包まった僕ひとりだった。あれは一体なんだったのだろう。

10時10分。出発。雨があがるのを待っていたらこんな時間になっていた。まだ少し降っているが、カッパを着るほどでもなかった。

膝に負担をかけぬようゆっくりと歩いた。時間はたっぷりある。やはり20kmしか歩かなくていいと思うと心身ともに余裕が生まれる。

14時20分。やがて津和野の町に到着した。国道9号からさらに低い位置にそれはあった。もし町中に入るなら、だいぶ坂を下りて行かねばならなかった。それは同時にまた坂を登らなければならないという事だ。先を急ぐなら、きっと下りなかっただろう。でも今日は余裕がある。見下ろす街並みには雲間から差し込む日が当たっていて、誘われる様に僕は町へと続く坂道へ足を向けた。

津和野は古い街並みを持ち、小京都とも呼ばれている町だ。のんびり歩くにはちょうど良い大きさで、少し雨が降ってきたものの、なんだか久しぶりの観光らしい観光に心が楽しくなった。思えばこの旅で観光なんて何度しただろう。指折り数えてみても、それは片手で足りてしまう数だった。

16時30分。山口県に入った。またしてもトンネル内での県境越えだ。ついに本州最後の県。次はいよいよ九州に入る。
トンネルを抜けると、すぐに願成就温泉といういかした名前の道の駅があった。もう着いてしまった。全然疲れていない。それもそのはず。いつもの半分しか歩いていないのだ。

すぐに温泉に入った。風呂はいつぶりだろう。忘れてしまった。風呂に入らない日を数えるのなんて、もうとっくに放棄していた。意味の無い事だ。なんにせよ、とにかく気持ち良いという事と、一度のシャンプーでは髪が全く泡立たないという事だけは変わりなかった。

ぬるめの湯が僕好みで、ゆっくり1時間半も入っていた。ふらふらになりながらあがり、休憩室でビールを飲んで畳の上に身を投げ出した。幸せという名の脱力感が全身を襲い、しばらくそのまま放心状態を楽しんだ。

19時を少し過ぎたあたりで再度風呂に入った。誰もいない露天風呂にざぶんと飛び込み、少しだけ張り出した軒先の下で足を伸ばして目を閉じた。最高だ。それ以外言えなかった。
軒先の下を選んだのは雨が降っていたからだ。真っ黒な空からは容赦なく雨粒が落ちていた。もし45km歩いていたら、きっと今頃カッパを着ていた事だろう。そう思うと今こうやって誰もいない露天風呂で温まっている事がとても幸せだと思った。
最高だ。もう一度言った。そして昨日の夜にもういいやとさじを投げた自分と、朝に雨を降らせてくれた天に感謝した。

今日の歩行距離約21km。

写真1
津和野の街並み。山陰の小京都。

写真2
津和野を見下ろす。雲の切れ間から日が当たる。

写真3
ついに山口県。トンネル内の県境越え。

2010年3月25日木曜日

歩83日目 島根県鹿足郡津和野

天候 雨のち曇り
気温 8時 7.6度
   17時 9.9度

きれいな川だった。
護岸もされておらず、きっとカヌーなんかでのんびり下ったら気持ちいいだろうな。そう思わせる川だった。

テントと食糧を積んで、川原でキャンプしながら、夜には焚き火をして、日が昇ったら、また川を下る。
そんな川旅が好きだった。

5時10分。起床。雨は未だ降り続いていた。雨音が、寝袋の中まで聞こえていた。あわよくば。朝になれば。そんな淡い期待も、テントから顔を出すまでもなく崩れ落ちた。やはり根拠のない期待などはしない方がいい。

7時20分。出発。カッパは乾いているが、靴は重いままだ。冷たいそれを履かなければいけない朝は、やはり気持ちも重くなる。
出発時はいくらか小ぶりの雨だった。だが今日はもう濡れる覚悟ができている。朝から距離を伸ばす事だけを考え、雨の強弱で休憩をするのではなく、自分の体力を考えて休憩をするようにした。

10時00分。予想外にも雨は弱くなる一方で、益田市に入る頃にはフードを外して歩けるようになった。空も明るくなっている。このままあがってくれたら。西の空の、どちらに転ぶかわからない空模様を、願うような気持ちで眺めた。

13時50分。益田の市街地を歩く。雨は、あがってくれた。僕の願いが通じたのか、ただの気紛れか。どちらにせよ、乾きはじめたカッパに気を良くしながら前へと進む。

益田市を抜けると、国道9号は山に入っていく。京都府の丹後半島から島根県の益田市まで。ずっと日本海側を歩いてきた。それもここまで。これから山を越え、一路山口市を目指す。その後に見るのは太平洋だ。日本海ともこれでお別れになる。

16時20分。匹見川を越えると、国道は高津川に沿って走るようになった。
きれいな川だ。きっと夏になったら気持ち良く泳げるだろう。カヌーで下るのもいい。川の上の、水面に近い視点から見上げる景色が好きだ。川沿いの道から眺める景色とは、まるで違うものになる。川を流れる早さで景色が移り変わるのもいい。それは歩きの旅に似ているかもしれない。

18時00分。僕の持っている大雑把な全日本地図では現在地が把握しにくく、今日の目的地の道の駅まであとどれくらいあるのかわからなかった。周りは山に囲まれ、店もない。もうすぐのはずなんだけどな。大雑把な地図では地図上の1cmが5kmもあり、読み間違えるとたったの1cmが1時間のロスになる。夕暮れ時の1時間は、かなり精神的にくる。明るいうちに着くだろうか。何度も地図を見ては気をもんでいた。

道の駅の案内板が見えたのはその頃だった。あぁ良かった。一気に肩の力が抜ける。あと2.5km。これなら暗くはならない。やはり距離がわかると精神的に楽なのだ。

18時40分。道の駅に到着した。広い敷地で、すぐ後ろには高津川が流れていた。しかも嬉しいことに24時間の休憩所があった。昼前にやんでくれた雨だったが、今夜からまた降りだすだろう。こんな寒い雨の夜は室内が嬉しいものだ。

すっかり乾いたカッパを脱ぎ、まだ乾ききっていない靴も脱ぐ。足に小さなマメが出来ている。いつもならマメなど出来る距離を歩いた訳ではなかったが、やはりふやけた足での無理は出来ない。
広い休憩所の中で、今日はひとり静かに夜の時間を過ごした。

今日の歩行距離約43km。

写真1
小さな港。日本海ともお別れ。この辺は赤い瓦屋根の家が多い。

写真2
京都から500km。益田市にて。

写真3
高津川。のんびり川旅もいい。

2010年3月24日水曜日

歩82日目 島根県浜田市

天候 雨
気温 8時 9.1度
   17時 8.6度

1日中雨だった。
今日は広い範囲で雨が降ったようだ。僕を含め、今日移動をした旅人は皆、静かに雨に濡れた事だろう。

晴れの日もあれば、雨の日もある。長く旅をしていれば、色んな事があるものだ。

5時40分。起床。寝袋に包まったと思ったら、もう朝になっていた。枕元には携帯電話が置かれていて、書きかけのブログ画面のままだった。いつの間にか寝てしまったらしい。

シェラカップにコーヒーを作る。それを飲みながら、コッヘルに残っている米に水を入れ、火にかける。お茶漬けか、卵スープか。思い切ってコーンスープをぶち込んでみる。思ったほど悪くない。というか、おいしい。これは朝のメニューに仲間入りだ。

7時00分。出発。雨だ。残念ながら予報通りである。もっとも、あの天気図を見る限りでは当然の結果だろう。今日は雨と長い付き合いになりそうだ。まだ小雨ということもありカッパは上だけを着たが、荷物だけはきちんと雨対策をしておいた。テントや寝袋を濡らす訳にはいかない。

しばらく歩くと国道沿いにセブンイレブンを発見した。珍しい。兵庫辺りからぱたりと見なくなったのだが、久しぶりの見慣れた看板にあっという声が出た。コンビニも地方によって様々だ。旅をしているとその変化を楽しめる。

10時00分。雨足が強まってきたので、スーパーマーケットで一休み。ブログを書いて外に出ると、雨は小雨になっていた。フードをかぶらずに歩く。
しかしそれもつかの間だった。すぐにフードをかぶらねばならず、ついにはコンビニでカッパの下を着るようになった。靴の中もかなり怪しくなってきた。

13時30分。波子のバス停で休憩と昼食。屋根をたたく雨音が段々と大きくなっていくので、ついつい休憩時間も伸びてしまう。しかし休んでばかりもいられない。もう13時半だが、歩いた距離はまだ20kmにも到達していなかった。いつもなら午前中に終わらせる距離だ。雨にかまけてペースがかなり落ちていた。
灰色の空を、何度見上げたって雨はやんではくれない。まして歩く距離が縮まる訳でもない。それはただ問題の先送りをしているだけだ。
靴ひもを結びなおし、太ももを手のひらで叩いたら、雨に濡れた冷たいバックパックを背負い、バス停を後にした。

季節外れの海にサーファーがひとり、涙待ちをしていた。
道路工事の現場では、誰もがカッパを着ながら作業をしていた。
今日屋外にいる人は皆、雨に打たれている。きっと移動をしている旅人達もだ。もちろん、僕もそのひとり。

14時00分。バス停から歩いてすぐに浜田市に入った。だが市街地まではまだ遠い。午前中の遅れを取り戻すべく、雨を気にせず足の動きを早めた。

14時45分。頭上に現れた標識には、下関まで200kmと出た。日々着実に減り行く数字に励まされる所は大きい。

浜田の市街地を足早に抜ける。コンビニでトイレに立ち寄ったくらいだ。かなりいいペースで歩いているが、やはり膝の痛みが気になってしまう。サポーターはもちろん朝から着用だ。
市街地を外れると、陽が傾きだした。といっても夕焼けにはならない。雨雲がそれを遮るからだ。雨の日の夕暮れは、色気もなく薄暗くなっていくだけで、やがて音もなく暗闇が訪れるだけだ。靴の中まで濡らした僕は、昨日見たきれいな夕焼けがすでに恋しくなっていた。

18時50分。スーパーマーケットに立ち寄り、外に出るともう夜だった。さらに、雨は激しさを増していた。きっとこういう降り方を本降りというのだと思う。ここから目的地の道の駅までどんなに急いでも1時間半はかかる。もうなるようにしかならない。暗い雨の中に飛び出した。

雨は執拗に僕を濡らした。早くバックパックを下ろし、濡れたカッパを脱ぎたかった。道の駅に到着すればそれが出来る。その事だけを考えて1時間半を歩いた。

20時30分。やっとの思いで到着した。軒下にバックパックを下ろす。ため息が漏れる。肩が強ばっている。テントを張り、カッパをその上に干す。明日も雨の予報だが、朝カッパを着るときに濡れているより乾いている方がいい。例えまたすぐに濡れてしまうとしてもだ。

テントに入り、重くなった靴と靴下を脱ぐ。これで濡れた衣服は全て脱ぎ捨てたことになる。
乾いた寝袋を出すと、それは暖かく、幸せの象徴のようだった。

今日の歩行距離約44km。

写真1
下関まで200km。射程圏内。

写真2
雨に煙る日本海。小さな島が見える。

2010年3月23日火曜日

歩81日目 島根県江津市

天候 晴れのち曇り
気温 6時 8.3度
   17時 11.4度

「ナカタさーん!」

今日も誰かの呼ぶ声がした。

またか。誰だ?こんな所で。

立ち止まり、車道を見ると、そこには昨日の朝僕を見送ってくれたチャリダーの彼がいた。なるほどそういう事か。兎と亀。あっという間に追い付かれたようだ。

6時00分。起床。遠くで朝のサイレンがなる。寝袋から這い出て伸びをすると、両膝に違和感を感じた。いつもなら朝になると取れている疲れが、起きてなお残っていた。
薄く透明なセロハンでも、幾つも重ねていけばやがて不透明になるように、疲労は気付かぬうちにゆっくりと、しかし確実に蓄積されているようだった。
ここまでで全体の4分の3の工程は来ている。だがまだ気を抜ける訳ではない。これから九州だって残っているのだ。なんとか膝をもたせなければならない。すがる思いで膝にサポーターを当てた。それは、滋賀の友人から貰ったのだったが、今まで使っていなかった。少しでも楽になればそれで良かった。

7時10分。出発。朝焼けのホーム。誰もいない駅。バックパックを背負い、ふたりで後にした。

9時10分。少し迷いつつも大田市駅に到着した。彼女はここから昨日バイクを置いた場所まで電車で戻る。時刻表を見ると9時46分が次の電車だった。

駅の待合室でベンチに座り電車を待った。他愛もない話で時間は過ぎていった。彼女から差し入れも貰った。

やがて時間が訪れて、改札を抜けた彼女は一度プラットホームから手を振ると、出発のベルに急かされるように電車に乗り込んだ。もう彼女の声は聞こえない。彼女を乗せた電算はいとも簡単にホームを離れ、東へと戻っていった。

音のない部屋に連れていかれたような感覚に陥った。とても元気な彼女だったから、きっとそう感じるのだろう。だけど1泊2日、約20kmの旅を共有できた。それは紛れもない事実だし、もしそれによって彼女の心に小さな種が落ちたのなら、それはすてきな事だ。
僕は感じる寂しさをそこに残し、貰った元気だけを持って音のない部屋を後にした。

12時10分。いつもの様に国道9号を無心で歩いていると、今日もまた名前を呼ぶ声がした。
立ち止まると、向かいの車道にチャリダーの彼がいた。荷物を満載させた愛車のギアを軽くして、笑顔で坂道を登って来た。

嬉しい再会だった。彼は昨日もまた出雲大社を見ると言っていたから、歩きの僕の方が少し先を行っていたのだ。もしかしたら会えるかも知れなかったし、会えなかったかも知れない。僕が駅にいる時だったならば、間違いなく会えなかった。旅の出会いは、全てタイミングだ。

道端で足を止め、しばらく話をした。彼はこれから秋吉台へ向かい、それから下関へ向かうと言った。僕はこのまま国道を歩き下関を目指す。そうか。それなら本州で会うのもこれが最後になるだろう。
「また九州で」
いつもの様に握手で別れた。

続く坂道を登っていく彼の後ろ姿を見ながら、きっとまた九州で会えそうな予感がした。彼の連絡先など知らない。知っているのは名字だけだ。でもそれだけで十分だった。旅とはそういうものだ。僕はまた彼と会える事を楽しみに、九州へと一歩を踏み出した。

17時10分。バス停で休憩をしていた。目的地まではあと4kmくらいだったが、膝の調子を見て休憩をこまめにとっていた。そこへ一台の車が停まった。助手席の窓が開き、運転席の男性が声をかけてきた。
「どこまで行くんだ?乗ってくか?」
地元の言葉でそう言った。僕は、自分の足で歩いてますからと丁寧に断った。そしていつもの様に北海道から来たと言うと、たぶん今まで会った人の中で一番大きな驚きを見せた。少し声が裏返っていた。驚きついでにその男性は助手席にあった袋を僕の目の前に差し出し、
「酒でも飲むか?」
と言った。
今度は僕が驚く番だった。一度は断ったが、目の前に差し出されたものを突き返す訳にもいかず、有り難く頂戴した。

「俺も昔、青森までヒッチハイクした事があるんだ」
男性は言った。その言葉が胸に響いた。親切は、時を経て誰かから誰かに受け継がれているものなのだ。
「ありがとうございます」
僕の言葉は、未来の誰かの言葉でもあった。そしてその言葉を聞くために、僕は今親切にされているのだ。
僕の言葉を聞いた男性は満足そうな笑みを浮かべて車を発進させた。

18時00分。目的地の道の駅に到着した。が、また工事中だった。来月下旬にオープンらしい。そのことは酒をくれた男性から聞いて知っていた。だけどそれはあまり関係なかった。これから降るであろう雨がしのげる軒先があればいいだけだった。

21時近くなってテントを張った。靴を脱ぎ、マットの上に座る。ほっとため息が出る。テントの中はやはり落ち着く空間だ。
貰った酒をあけた。酒粕から作った地元の焼酎で、初めて飲む味だった。車の往来が少なくなると、遠くの潮騒が聞こえてきた。狭いテントの中で、波の音を聞きながら飲む酒は、いつになく心に染みた。

今日の歩行距離約38km。

写真1
わざわざありがとう。1泊2日で歩いた距離は約20km。電車で320円。

写真2
チャリダーの彼。漕いでいるところを見たのは、実は初めて。

写真3
親切の形は様々。未来のありがとうのために。

2010年3月22日月曜日

歩80日目 島根県大田市

天候 曇りのち晴れ
気温 7時 9.5度
   17時 9.6度

「ナカちゃん!」

誰かの呼ぶ声がした。

女の子の声だった。誰だ?こんな所で。

立ち止まり、車道を見ると、そこには見慣れたバイクがあった。あぁ、そういうことか。僕は、自然と笑顔になった。

4時40分。起床。夜中にはひっきりなしにトイレに行く人達がいた。トイレは僕ら3人が寝ている休憩所の奥にあり、その都度自動扉の開く音が室内に響いた。世間は今、3連休の真っ只中にあるらしい。道の駅の駐車場には、車中泊の人達がたくさん居たのだ。

6時30分。出発。チャリダーふたりに見送られながら道の駅を後にする。朝から風が強く、しかも向かい風。かなり前傾姿勢ならねばならず、着ている服がばたついて歩きにくいったらない。無風時に比べて倍ほど疲れる。一体この風はいつやんでくれるのだろう。先行きが不安になる。

9時00分。出雲市に入った。町に入ると幾分風よけになるので少しはましだ。しかし遮るものが無い区間では、前に進む事さえ困難だった。コンビニを見つけては逃げ込む様に店内に入った。風を体に浴びていない時だけは、全身の力を抜く事ができた。

10時30分。スーパーマーケットで休憩中に見たテレビのニュースでは、全国的に風が強く、各地の交通機関がストップし、死傷者まで出たと言っている。この先も暴風に注意しろと言っていた。しかし僕にはどうしようもできない。僕にできる事と言ったら、歯を食い縛り、帽子が飛ばされぬように手で押さえるくらいだ。

13時50分。国道9号をいつものように無心で歩いていた。僕の名前を呼ぶ声がしたのは、その時だった。
顔を上げ立ち止まる。車道を見ると、見慣れたバイクがあった。旅仲間の女の子だった。あぁそういうことか。僕はすぐに理解した。

数日前、彼女からメールでどこにいるか尋ねられていた。それは何度かやりとりするメールの中で、話の流れにきれいに乗った質問だったから、僕は特に気なしていなかった。だけどなるほどこういう事だったのか。あのメールに意味を、今やっと納得できた。

15時00分。多岐の道の駅に到着した。旅仲間の女の子とも合流した。彼女はただ会いに来てくれただけでなく、リーチング佐多岬に参加するために来たのだった。しかも、1泊2日の工程で。京都からはるばる。

なんてことだ。実際彼女はテントに寝袋、マット、さらには自炊道具まで持参していた。30Lのバックパックを背負い、今にも走りだしそうなほどやる気満々だ。

負けたよ。まったく。いつも彼女には適わない。
彼女は僕の旅仲間の中で、最も古いうちのひとりだ。もうかなり長い付き合いになっている。そして、いつも僕は彼女に適わないのだ。
ずっと楽しみにしていた遠足にでも行くかのような顔をしている彼女を見て、僕はまたしても嬉しいため息をつくのだった。

日はまだ高い位置にある。今日はどこまで行けるだろう。リーチング佐多岬の13人目となってくれた彼女と並んで、海沿いの西へと延びる国道を歩き始めた。

17時00分。大田市に入った。風はいくらか弱くなった気がする。だが山から海に出ると、まだまだ風と格闘しなければならなかった。

18時00分。国道から海沿いに走る県道に折れた。寝床を探すためだ。水を持ち合わせていなかった僕らには、水を確保できる場所を探さなければなかったのだ。

空はすっかり夕焼けだった。真っ赤な太陽が目の前にあって、それは、空に浮かぶ雲を紅に染め上げながら、静かにその身を沈めていった。きれいな夕陽だった。普通ならば足を止めて見とれてしまうだろう。だけど旅中の、まだ寝床が決まっていない時に見る夕陽は、それがどんなにきれいであってもいつも心が急いてしまうものだ。早く寝床を見つけなければ、あっという間に暗くなってしまう。

18時30分。波根駅に到着した。とにかく駅に行けばなんとかなるような気がしたのだ。果たしてその予感は当たっていた。そこは、無人駅だったのだ。
ふたりで顔を見合せ喜んだ。無人駅に泊まるのは初めてだったが、墓地にテントを張った事を考えたら何の問題もなかった。

今日のお疲れ様と、久しぶりの再会を祝してビールで乾杯をした。ビールはなんと彼女が背負っていた。満載のバックパックからそれが出てきた時はさすがに驚いたが、僕の酒好きを知っての事だった。
なんておいしいビールなのだろう。疲れと、寝床が決まった安心感と、彼女の優しさがそう感じさせたに違いない。

ふたりで夕食にし、僕がすっかり眠くなってしまうまで、ずっと話をしていた。長い付き合いの中で、彼女との話題には事欠かなかった。
彼女はこれからまた新しい旅に出ると言っていた。それは羨ましくなるほどすてきな内容だった。
きっと良い旅になるだろう。長く付き合ってきた僕には、それが分かった。

今日の歩行距離約40km。

写真1
桜と菜の花と相棒。春全開。

写真2
リーチング佐多岬の13人目。適わない。

写真3
きれいな海岸線を歩く。風は、強い。

2010年3月21日日曜日

歩79日目 島根県簸川郡斐川町

天候 晴れのち雨
気温 6時 12.8度
   17時 25.0度

もしかしたら僕は、長い間日本を旅し過ぎたのかも知れない。

5時20分。起床。暖かかった。テントの外は、生暖かい風が吹いていた。嫌な感じだ。低気圧が近づいて、南からの風が吹いているのだろうか。夕方からの雨予報はきっと外れてはくれないだろう。カッパは取り出しやすい場所に入れ、荷物への雨対策は忘れない。

6時30分。出発。早朝の安来市内を抜け出す。中海を右手に見ながら国道9号を西へとひた歩く。2時間で東出雲町に入った。海岸線に咲く梅の花は満開だった。

10時00分。松江市に入る。気温はぐんぐん上がっているようだ。たまらずTシャツだけになる。それでも暑いくらいだ。

手持ちのガスが無くなりかけていることに気付いたのは、今朝の事だった。たぶん今日の夜はもつだろうが、明日の朝には無くなるかも知れない。そんな程しか残っていなかった。うっかりしていた。
ガスは、いつもは100円均一の店で1本づつ買っていた。しかしこの先しばらくその店がなく、今日は買えそうにない。地図で何度も確認したのだ。
だからといってガスを買わない訳にはいかない。ガス無しは、飯無しを意味する。コーヒー1杯飲めない。そう考えだすと居たたまれなかった。食べる事は旅の中において数少ない(今の僕に限っては最大の)楽しみだ。それが失われるなんて、到底想像出来なかった。考えれば考えるほど追い込まれてしまった僕は、まだ歩きだして10kmちょっとなのに、これから30km近く歩かなければならないのに、まして市街地はこれからだというのに、見つけたホームセンターで3本セットのガスを買っていた。

ガスは、1本が300gある。ガスだけでまたも1kg重量が増えてしまった。昨日の米といい、背負う重量を少しでも減らさなければと思っているのに、やっている事がまったく逆だ。ガスの悩みから解放はされたが、ずしりと重くなったバックパックは肩に食い込み、足取りも重くなっていた。トレーニングと言う理由では、もはや説明出来そうにない。僕はやはり馬鹿なのだ。

12時30分。松江の市街地を抜けると、国道は宍道湖沿いをなぞった。朝は無風だったのに、今は風が出てきた。それもかなり強い向かい風だ。湖面は波立ち、兎が跳ねている状態になっていた。

それにしても今日は暑い。一体何度あるのだ?僕の持っている温度計は直射日光を浴びてしまって、32度なんて馬鹿げた数字を表示している。

照りつける太陽はもはや春のそれではなく、吹き付ける風は熱風のように容赦なく僕を襲った。
暑かった。道路脇に設置してある温度計は、無表情に26を表示していた。まさかこんなに暑くなるとは。
「おいおい、まだ3月だぜ?」
独り言のように呟いた僕の言葉は、誰の耳にも届かずに汗と共に蒸発し、空へと消えた。

15時00分。宍道町に入る。空には次第に曇が出てきた。高気圧から外れてしまったようだ。風は一層強まり、それは見えないうねりとなって立ちはだかった。一度突風に吹かれ、かぶっていた帽子を飛ばされてしまった。気を抜いていると大きなバックパックに振られ、幅1mの上を歩けない。

18時00分。今日の目的地、湯の川の道の駅に到着した。向かい風の歩行でかなりの疲労感だった。それでもまだ雨雲は広がっておらず、雨が降りだす前に到着できたのが救いだった。

ここから1kmほど山側に入ると温泉がある。雨に降られるのは嫌だが、汗をかいた体で寝袋に入るのも嫌だった。雨が降らないことを祈り、結局温泉に向かう事にした。
湯の川の温泉でさっぱりと汗を流し、露天風呂に入っていると、雷が鳴りだした。それから雨が降りだすまではあっという間だった。早めに切り上げようとしていたが、一足遅かったか。雨は、強い風と相まってまるで台風のようだ。風呂から上がっても、しばらく様子を見ながら休憩するしかなかった。粘りに粘り、もうすぐ閉館という時間になって、奇跡的に雨がやんでくれた。急いで道の駅へ戻る。おかげで着ていたカッパを濡らさずに済んだ。

21時30分。道の駅に戻ると、見たことのある自転車があった。昨日別れたチャリダーのだとすぐに分かった。まさかこんなにすぐに再開するとは。彼は、出雲大社を観光していてあまり前に進んでいなかったようだ。なるほどやはり彼とは縁があるのかも知れない。

しばらくすると、もうひとり旅人が来た。まだ19才の、若いチャリダーだった。大学の春休みを利用した旅だと言った。休憩所は、突然賑やかになった。

旅人が3人も集まれば、自然と旅話で盛り上がる。あそこが良かった。ここが楽しかった。お互いの情報を交換することは、この先の旅に大変有益だ。僕も、僕の持ちうる情報を提供する事にやぶさかではなかった。

だけど僕はそんな話をしながら、小さな寂しさを感じていた。胸の中に雨雲ができ、それが成長し、心にしっとりと雨を降らせた。

彼らが嬉しそうに話す観光地は、そのどれも訪れた事があった。山陰も、九州も、四国も、北海道も、日本全国。話題に上がったおよそ全ての場所には、行ったことがあった。

僕がまだ学生で、その社会的特権をフルに活用し、バイクであちこちふらふらしていた頃、出会う旅人達は皆、一癖も二癖もある人ばかりだった。皆旅のベテランで、そんな彼、彼女達から聞く話はどれも新鮮で興味深く、冒険心をくすぐるものばかりだった。まだ見ぬ場所に心踊らせ、そんな話をしてくれるベテラン達を羨望の眼差しで見ていたのを覚えている。

僕は、ずっとあの頃のままのはずだった。まだまだ旅の初心者でいるつもりだった。でも、いつの間にかそこには立っていなかった。学生時代に羨望の眼差しで見ていた旅人達と、同じ場所に立っていた。

僕の旅話を聞く彼らの目が、あの頃の僕とだぶって見えた。若い彼らが、もう若くない僕に、その事を教えてくれた。それがきっと世代交代というものなのだろう。

僕は、長い間日本を旅し過ぎたのかも知れない。

今日の歩行距離約42km。

写真1
宍道湖と松江の町並み。湖面に兎が跳ねる。

写真2
若い旅人達。世代交代。

写真3
今日のあり得ない。膨れ上がった荷物は、ついに頭の高さを越すのだった。

2010年3月20日土曜日

歩78日目 島根県安来市

天候 快晴
気温 7時 3.1度
   18時 12.6度

向かいからやってきたのは、ひとりのおじさんだった。
リュックを背負っている。一目で歩き旅だとわかった。そして、それはお互い様だった。

軽い挨拶の後、どこからどこまで歩くのか、今日で何日目かを、交換した。おじさんは60歳位に見えた。愛媛の佐田岬から北海道の網走まで、分割で歩いていると言う。長時間歩くと膝が痛くなるとも言っていた。

お互い頑張りましょうと別れたが、僕は大変勇気をもらった。なんといってもあの歳で歩き旅だ。夢があるじゃないか。僕はまだまだやれるんだ。それは、間違いない事だ。

4時20分。起床。やはり屋内は寒くない。隣のベンチではチャリダーの彼がまだ寝息をたてている。起こさぬように静かに朝食にした。コーヒーを飲み、もう一度湯を沸かし、魔法瓶に紅茶を作る。砂糖を入れて甘くした。歩いている時に飲む甘い紅茶はとてもおいしい。

せっかく静かに撤収作業をしていたのだけど、休憩所に現れたひとりのおじさんに静寂を破られた。大きな声で話すものだから、寝ている彼を起こしてしまった。まだ5時前である。いつもなら寝ている時間だろうに。

5時50分。すっかり目が覚めてしまったチャリダーの彼に見送られながら出発した。気を付けて、良い旅を。握手で分かれた。

空は明るくなっていたきているが、まだ太陽は昇っていない。早朝の国道は行き交う車も少なく、穏やかで清々しい。しばらく歩くと東の空がオレンジ色に輝いた。日の出だった。

明るくなると、左手に大山が現れた。昨日は曇り空のためにはっきりとは見えなかったが、今朝は輪郭までもが実に美しい。久しぶりにリュックに羽が生える。国道はこの先も山と海の間を抜けていく。きっと今日は1日中大山を眺めながら歩く事が出来るだろう。
事実、今日は様々な角度から、様々な大山を眺める事が出来た。

9時00分。コンビニの駐車場で休憩をしていると、目の前を自転車が通りすぎて行った。あの彼だ。こちらに気付いておらず、僕は手を振ってみた。だけどそのまま行ってしまった。国道を歩いていれば気づいただろうが、休憩中とはタイミングが悪い。
それでも彼も九州を目指すと言っていた。もしかしたらまたどこかで会えるだろうか。縁があれば、彼とはきっとどこかで。

10時00分。海の向こうに美保関が見えた。きれいに湾曲した砂浜がそれに続いている。弓ヶ浜海岸だ。その付け根には米子市で、それを抜ければついに島根県に入る。

11時40分。米子市に入った。鳥取県もじきに終わり、島根県に入る。
市内のスーパーマーケットで買い物。最近は麺類続きで、この前久しぶりに米を炊いたらとてもおいしかった。だから散々悩んだ挙げ句、米を買った。2kg。それが一番少ない量だったからだ。
いきなり荷物の重量が2kg増えるのは結構きつい。多分歩いて旅する人は、2kgの米は買わないと思う。でも僕は馬鹿だから買ってしまう。これもトレーニングだと思い、気合いを入れた。

17時20分。島根県に入った。鳥取県が終わった。ほぼ3日で抜けたことになる。いいペースだ。これで本州は山口県を残すのみ。九州も近い。

国道は、ふたつみっつ小さな峠が連続していて、それを越えると安来市街地になった。時計は18時半を示している。今日はここまでだろう。
安来駅へ行き、観光案内で周辺地図をもらう。さらりと目を通すと、駅からすぐの所に公園があった。しかも港近くだ。たぶん、ここならいけるだろう。そんな感触があった。

その公園は、実際駅から歩いて5分もなかった。港が目の前に見え、水場があり、人が居なかった。申し分ない。すぐにテントを張った。
いい寝床が見つかると本当に安心する。寝床探しは毎日のことなので、これが結構大変な作業なのだ。歩きとなるとさらに厳しく、ここが駄目だったから次の場所へ、と言うのがなかなか困難だ。だからこういう日は実に嬉しい。

テントに入り、バックパックの中身を一旦全て出したら、いつもの場所にいつもの荷物を配置した。これで準備完了。手を伸ばせば必要な物が必要な時に手にできる。
今日は、早速2kgの米に手を付けた。米の炊ける匂いが、空っぽの胃袋を刺激した。

今日の歩行距離約45km。

写真1
東の空が明るい。もうじき夜が明ける。

写真2
歩く人。夢がある。

写真3
大山。荒々しい。

2010年3月19日金曜日

歩77日目 鳥取県東伯郡琴浦町

天候 曇りときどき雨とか晴れとかで結局雨
気温 7時 2.8度
   16時 12.6度

「1万円で買ったんですよ。友達から」

少しはにかんだ笑顔で、彼は言った。愛車に片手を乗せ、見つめる眼差しはどこか誇らしげだった。
旅のきっかけなんて人それぞれで、それは、ほんの小さな出来事なのかもしれない。

5時20分。起床。風の音がしない。寝袋に包まりながら、最初に思った事はそれだった。
旅をしていると、とにかく天候に敏感になる。たぶんブログにもしつこいくらい天気の事を書いているが、実際24時間屋外にいるのだから、それは切っても切り離せないものなのだ。例えどんな些細な変化でも。

昨日の晩に炊いた米で鶏飯を作る。奄美諸島にいる友人が送ってくれた鶏飯の素があったのだ。鶏飯とは、鶏だしのあっさりとしたお茶漬けのようなもので、奄美諸島で食べられている郷土料理だ。久しぶりに食べるそれは、なんだか南の島の味がした。

6時30分。出発。海は穏やかで、波は規則正しくやってきた。風がやんでいるのが嬉しい。3日間悩まされ続けた風から、やっと解放された気分だった。遠くの丘に立つ風力発電の風車も、まったく仕事を放棄している。

9時10分。バス停で休憩をした。15分ほどで外に出ると、空は一変していた。そこにあるのは雨の気配だった。いつ雨が降ってもおかしくない空模様で、少し見ぬ間にとても不安定な状態になってしまった。

11時00分。北条の道の駅到着。風が出てきた。またしても僕を悩ませるのか。黒い雲は小雨をもパラついかせている。
朝からずっと早足で歩きすぎたのか、いつもなら午後から感じる足痛みを、もうすでに感じ始めている。足を労るように少し長めの休憩。

13時30分。大栄の道の駅に到着。館内で休憩し、外に出ると空が明るくなっていた。所々に青空も見える。差し込む日の光に、大山もうっすらと姿を浮かび上がらせていた。久しぶりに大きな山を見た。大山は中国地方の最高峰。とても男性的な山で、その姿は雄大だ。

雲の切れ間から差し込む日差しを浴びた途端、汗がじんわりと出てきた。暑い。たまらずインナーを脱ぐ。体温調節は面倒でもこまめにやる方がいい。

ひとりのチャリダーとすれ違った。コナのバイクに荷物を乗せている。対向車線だったために、お互い軽い会釈旅の挨拶だけだったが、それでもそんな些細な出来事で嬉しくなるものだ。

15時30分。琴浦町に到着。晴れたと思った空はまた厚い雲に覆われてしまった。
現時点で33km歩いている。1日40kmは歩きたいのだが、これから大山の裾野に入るためこの先には何もない。しかも今日は夕方から雨予報。できれば屋根のある所で寝たいのだ。この先2kmで道の駅がある。到着は16時くらいか。まだ少し歩ける時間に到着するが、先に進むか、早めに切り上げるか、なかなか決断が下せないでいた。

16時00分。結局決断できぬまま、予定通り赤碕の道の駅到着してしまった。まだ2時間は歩ける時間だ。悩みつつも一息つこうと立ち寄ると、1台の自転車を見つけた。壁に立て掛けられた自転車は、明らかに旅人のそれだった。
館内に入ると、その彼がいた。東京から九州を目指していると言った。僕は、久しぶりの旅人との出会いに嬉しくなってしまい、先に進む事も忘れ、つい話し込んでしまった。

その彼は言う。まさか自分がこんな旅をするとは思ってもみなかったと。たまたま友達から1万円でマウンテンバイクを買った。それでどこまで行けるか試したかった。きっかけは、そんな些細な事らしかった。

旅する理由なんて人それぞれだし、なんだっていいと思う。僕だって人に誇れる理由なんてない。
だけど理由はどうあれ、旅に出るその一歩が素晴らしいのだと思う。何事も、始める事が大切なのだから。

その夜は道の駅の休憩所で過ごした。ふたりで夕食を食べ、ふたりで寝袋に包まった。気付けば外は篠突く雨が降っている。もし彼がいなかったら、今ごろ僕は雨のテントにひとり居たかも知れない。そう思うと出会いは不思議なものだと思った。

出会いは偶然なのか必然なのか。どちらにせよ、旅をしていなければ出会わなかった人達が僕の周りにはたくさんいる。そして、それは旅をして得た一番の財産だと、胸を張って言うことができる。

今日の歩行距離約35km。

写真1
海岸線を歩くのが好きだ。潮の香りがいい。

写真2
風車が立ち並ぶ。雪のサロベツ原野を思い出す。

写真3
いい笑顔。始める事が大切だと教えてくれた。

2010年3月18日木曜日

歩76日目 鳥取県鳥取市

天候 曇りときどき雨のち晴れ
気温 7時 4.3度
   17時 9.4度

「休む事は、進む事と同じくらい大切だ」

青天の霹靂だった。僕の中で何かが変わった。植村直己さんの言葉だ。

1日の疲れを癒す休息は、とても大切な事だと植村さんは言う。夜にはきちんと睡眠をとり、明日の行動に備えること。それは前に進むのと同じくらい大切なのだと。

目から鱗だった。僕は、いつも前に進む事ばかり考えていた。距離を稼ぐために、多少の無理はいとわなかった。でも、それはちょっと違うのではないか。休むことがどれだけ大切か、何となく分かりかけていた。そんな時、その言葉が僕の胸を貫いた。

きっと極地に行けば行くほど、厳しい環境になればなるほど、休むことが大切になるのだろう。それはシビアな世界に身を置かないと本当の意味を理解できないかもしれない。
僕は大してシビアな事をしていないが、それでもやっと休む事の大切さに気づき始めていた。休まなければ前に進めない。前に進むために休む。

僕の中で、休む事への考え方が変わった。

5時10分。起床。夜中に雨が降っていた。今はやんだが、路面はまだ濡れている。バス停のおかげで僕は濡れずに済んだ。
今日も熱いスープを作る。寝起きの体に優しい。パンにもよく合う。

6時20分。出発。地元の人達が、すでに散歩やらジョギングやらで動き始めているので、あまりのんびりしていられない。もっとも、テントがない分、撤収作業は楽だ。

空はどんよりとした曇り。太陽は顔を出していない。天気予報ではこれから晴れると言っていたが、果たしてどうなのだろうか。

8時00分。鳥取市に入る。国道9号は鳥取の市街地に入ると高速道路のようなバイパスになるので、その手前で県道319号に入った。県道はこのまま市街地を通過し、その先で再び国道に合流する。

バス停のベンチで休憩し再び歩き始めると、突然雨が降りだした。小雨とは言えないような雨で、カッパを着る暇がなかった僕はそのまま濡れるしかなかった。雨は20分ほどでやんでくれたが、全身しっとりと濡れた。それでも雨がやむと雲が切れ、太陽が顔を出してくれたおかげでなんとか歩きながら乾かす事ができた。

9時30分。鳥取砂丘に到着。小雨。その割りには観光客がたくさんだ。大型バスも乗り付けている。やはり鳥取と言えば鳥取砂丘なのだろうか。
だけど、砂丘の入り口からさらりと眺めて僕はそれで終わり。早く先に進みたいというのもあるが、過去に2回訪れていたし、僕にはどこから見てもただの広い砂浜にしか見えなかったからだ。

県道は、砂丘のある場所から坂を下ると国道9号の下を通過し、市街地に入った。市街地を歩きながら買い物を済ませる。抜ける頃にはすっかりバックパックが膨れ上がっていた。

12時30分。道は海沿いを走るようにる。久しぶりの海岸線。低気圧の影響か、波は荒い。空は、幾分青空が広がっていた。右手に海を見ながら気持ち良く歩く。それでも距離を稼ぐために立ち止まらない。風もやんではくれない。

16時30分。国道9号の分岐点に差し掛かる。米子方面はそのまま直進だったが、その先で自動車専用道路となるため歩きの僕は右折して、旧道のような道に入らねばならなかった。
大半の車は自動車専用道路へ行ってしまうので、僕が歩いている道にはほとんど車は通らなかった。交通量が少ないのは精神的に楽なのだけど、岬を回り込むように道が続くためにアップダウンが激しく、体力的には楽ではなかった。

17時30分。8%の勾配を持つ岬は強敵で、息を切らせて越えた。眺めが良かったのが救いだ。岬を越えた先にあったのは青谷という集落だった。

小さな集落だった。たぶん唯一のスーパーマーケットに立ち寄り、海沿いのバス停の中にテントを張った。今日も風が強くかったのと、バス停の窓がひとつ割れていたと言うのがその理由だ。バス停内に時折舞い込んでくる風に、テントがなければ寝られそうになかったのだ。こういう時に山岳用の小さなテントは場所を選ばなくて良い。

自動車専用道路のおかげで交通量が極端に少なく、国道とは思えないほど静かだった。しばしは通るのは地元の車だけ。
打ち寄せる波の音を聞きながら、今日はひっそりと一夜を過ごせた。

今日の歩行距離約40km。

写真1
鳥取砂丘。ラクダはいなかった。

写真2
岬の上から。辛い登りの後のご褒美。

写真3
夕日と日本海。間違いない。

2010年3月17日水曜日

歩75日目 鳥取県岩美郡岩美町

天候 曇りときどき晴れ
気温 7時 8.5度
   17時 7.7度

西から東へ。雲が流れていた。
風は、1日中吹いていた。朝目を覚ましてから、夜眠りに就くまで、決してやむ事はなかった。山あいの九十九折りの道を歩いていた僕は、追い風になったり向かい風になったりするそれに一喜一憂していたが、見上げた空には、いつも雲が流れていた。
西から東へ。それは常に変わることはなかった。

4時40分。起床。風は一晩中吹き荒れていた。かなり奥まった場所にテントを張ったのだけど、それでも何度か激しく揺らされ目が覚めた。起きた今も風はやんでいない。

6時50分。出発。今日は青空が垣間見れる。風はあるが、雨は過ぎただろう。昇った朝日が濡れた路面を乾かし始めていた。

歩き始めて1時間でトンネルに入った。長いトンネルだ。蘇武という名前のそれは、全長が3692mある。僕がこれまで歩いて来た中で最も長いだろう。たぶんこの先もこれ以上はない。
トンネル内は空気が悪く、いつも早足だ。早く抜け出して、外の空気を吸いたくなる。車であれば窓を締め切ればいいのだが、歩きではどうしようもない。実に無防備だ。深く息を吸わないようにするのが精一杯だ。もっとも、激しい雨の日などはトンネルがすごく有り難かったりするのだけど。
結局、蘇武トンネルは40分で抜け出した。40分待たされた外の空気は、ことのほかうまかった。何度も何度も深呼吸した。

9時30分。峠を下ると国道9号に突き当たった。京都から始まり、丹後半島へ行くために外れた国道だったが、これからまたしばらく付き合うことになる。標識には京都から154km、鳥取まで51kmとあった。

国道9号に入っても峠のアップダウンは続いた。一度真っ黒な雨雲が突如目の前に現れて雨を降らせたけど、カッパを着るほどではなく、ほどなくしてやんだ。

13時30分。湯村温泉に到着。気温は10度あるのだけど、未だ風が強くて体感温度は低い。日が照ると暖かいが、次第に曇が厚くなってきたのでネックウォーマーを着けた。寒い時に首元を暖めるのは効果的だ。

16時30分。千谷トンネルを通過している最中に、鳥取県に入った。それは突然の出来事だった。あまり県境を意識していなかったので、トンネル内を黙々と歩いていたらふいに県境が現れた。あ、ここから鳥取なんだ。そんな、あっけない感じだった。

18時20分。岩井温泉に到着。今日は風呂日。珍しく中2日という好成績。僕だってやれば出来る。

そもそもこの温泉地に朝6時から夜22時まで開いている温泉があることを知っていた。夕日ケ浦で地図を調べた時に見つけたのだ。それだけ長く開いているのだから、国道9号を歩いていれば何時に到着しようと風呂には入れるだろうと確信していた。そして今日、都合よく夕方に到着したというわけだ。

岩井温泉の入り口に立ち、僕は数年前の事を思い出していた。なぜなら一度来たことがあったからだ。地図で見たときは思い出せなかったが、実際到着してみたらすぐに分かった。ここには来たことがある、と。

あの時は確か秋の始まりで、よく晴れた日だった。鳥取砂丘の隣のキャンプ場に泊まっていて、旅の友人と一緒に来たのだ。その時僕はただ連れられて来ただけなので地名を覚えていなかったが、今こうしてこの場所に立つと、あの頃の記憶が鮮明に蘇る。懐かしい記憶。

300円でチケットを買い、熱めの湯に身を浸した。湯の中で足の裏をよくマッサージするのが習慣になっている。地元の人達が入れ替わりで浸かりにくる。夕暮れ時の、いい時間なのだろう。楽しそうな、でもあまり聞きなれない言葉に耳を傾けながら、僕はゆっくりと疲れを癒していった。

風呂から上がり、休憩所で一休み。外はすでに暗く、風が強い。この風でテントを張るのはやはり困難だ。風呂に入る前、明るいうちにあらかじめ見つけておいたバス停に寝るのが利口だろう。そこはあまりきれいなバス停とは言えないが、この風では仕方ない。
最終のバスが終わる時間を確認したら、荷物を背負い、バス停に足を向けた。

今日の歩行距離約47km。

写真1
朝日が路面を乾かす。風はやんでくれない。

写真2
人は、山あいの小さな平地にも水田を作る。棚田を見るたび、人の生きる力の強さを感じる。

写真3
トンネル内の県境越え。ついに中国地方。

2010年3月16日火曜日

歩74日目 兵庫県豊岡市

天候 曇りのち雨
気温 6時 11.7度
   17時 14.7度

それでも植村さんは言う。
自分の夢に挑戦することが大切だと。どんなに困難なことでも、強い信念をもってすればいずれ必ず叶うのだと。

6時00分。起床。すぐに湯を沸かす。もうすっかり日課になっている。今日はコーヒーではなく熱いコーンスープで目を覚ます。昨日、夕日ケ浦の女の子に貰ったのだ。他にもたくさんある。シェラカップに入れた熱々を、少しずつ冷ましながら飲んむと、体と同時に心も温まった。

7時10分。出発。ここから植村直己冒険館までは約1時間。開館が9時だから、まだたっぷりと余裕がある。途中のコンビニでブログを書き、頃合いをみて冒険館を目指した。

今日は一段と風が強い。向かい風のために一歩が重く、帽子まで飛ばされそうになる。空は灰色で、低くく、流れが早い。雨は、いずれ間違いなくやってくる。いくら僕が青空を願ったところで、それは屈強な雨雲の壁に跳ね返され、天には届かない。雨を受け入れるしかなかった。

8時40分。冒険館に到着。ここを訪れるのは2回目だ。4年ほど前にも足を運んでいる。一度来ているのに、ましてや歩き旅なのに、それでも再度訪れるだけの魅力がここにはある。僕は、そう思う。

入り口の前で写真を撮っていると、男性職員の方がやってきて、もう中に入れますからどうぞと言ってくれた。長い通路を抜け、入り口の扉を開ける。女性職員の方が受け付けをしてくれ、僕の背負っている荷物を見てすぐに、こちらで預かりますよと言ってくれた。
シアタールームで映像を堪能したあと、ゆっくりと展示室を見て回った。トイレを済ませて受け付けに戻ると、入館から2時間近くが経っていた。

荷物を受け取ろうとすると、
「もしお時間があれば、少しお話を聞かせてくれませんか?」
と言われた。なんだろうと思ったが、旅には限らず何かに挑戦している人を対象にアンケートを行っているのだそうだ。
時間はある。どうせ外は降り始めた雨が、強い風に舞って横殴りだ。だけど僕には人に誇れるような挑戦なんてない。
「僕で良ければ。時間なら、あります」
そう答えるしかなかった。

1時間くらい話をしただろうか。若い女性職員の投げる質問に答えを返した。今回の歩き旅だけでなく、今までの旅のことや、これからの計画に至るまで、聞かれるままに、詳細に、偽りなく、実に素直に答えた。それは久しぶりに植村直己さんの冒険心に触れ、気分が高揚していたからかも知れない。気持ちが素直になっていたかも知れない。だけど本当の理由は、僕の吹けば飛ぶような体験談や夢の話なんて、故人のそれに比べたらどうしようもなくちっぽけな事のように思えた、というのが本音だ。

それでも植村さんは言っていた。自分の夢に挑戦することが大切だと。夢を持ち続けること。決してあきらめないこと。夢の大小ではない。それに向かってどれだけ自分の気持ちを注げるかが一番大切なんだと。

アンケートが終わった。この内容は、他のアンケートを受けた人達と同じように館内の案内板と、冒険館のホームページに掲載されるという。なんだか僕の旅が認められたようで、少し嬉しい事だった。

アンケートが終わっても、外は相変わらずの横殴りだった。僕は、前に座る女性職員に何気なく尋ねた。この先にある道の駅はどんな感じですかと。それは深く考えた言葉ではなかった。話の流れのようなもので、どんな内容の返事でも良かった。

ところが予想に反して話が大きくなってしまった。女性職員は、私はよく知らないので聞いてみますと言い、その席を立ってしまった。僕が望んでいた答えは、まさにそのよく分からないで十分だったのだ。しかし、話は瞬く間に全職員に行き渡ってしまった。
「こんな天気ですし、もし道の駅で泊まるのでしたら、電話で確認してみましょうか?」
ひとりの男性職員がそう言ってくれた。僕はすっかり恐縮してしまい、ありがたく好意を受け取る事にした。

13時00分。冒険館を後にした。やはり故人は素朴で、偉大だった。もし僕の心にも冒険心というものがあるのなら、それは今、これ以上ないくらい満ち足りている事だろう。吹き付ける雨と風に耐えながら、それでも心の底から沸き上がる活力が、体を前へ前へと進ませた。気持ちが高揚していた。僕も何かやらなければ。そんな気持ちになっていた。

15時30分。10kmほど峠道を登ったところにある道の駅に到着した。雨は一時的にやんでいるが、まだまだこれからが本番だろう。風はやまず、物凄い早さで雨雲を運んでいる。

道の駅の職員に挨拶をした。電話を入れてもらったおかげで話がスムーズだった。まだ日没までは時間があるが、この先は山道で何もない。この天候で雨ざらしの野宿は厳しい。今日はありがたくここを寝床とさせてもらった。
閉館を待ち、風を避けれる軒先にテントを張る。時折吹く雨も突風も、ここなら安心して眠る事ができる。

様々な土地で、様々な人達に助けられている。旅を通して、人の一番温かい部分に触れている気がする。僕は、すべてに感謝しなければならない。
この気持ちはいつまでも消したくないし、旅を忘れない限り、きっとなくすことはないのだと思う。

今日の歩行距離約14km。

写真1
冒険館前で。男性職員が撮ってくれた。

写真2
素敵な写真。人柄が伺える。

写真3
来館記念にバッチを頂いた。イグルー。

2010年3月15日月曜日

歩73日目 兵庫県豊岡市

天候 晴れ
気温 6時 9.9度(室内)
   17時 15.9度

「人生至る処青山あり。独りを楽しみ、万人と愉しむ。」

そんな詩が、確かあったはずだ。林芙美子さんの詩。

好きな詩だった。林さんの詩では他に有名なものもあるが、僕はこの詩が一番気に入っている。

詩の解釈なんて自由だから、読んだ人がどう思うか分からないけど、僕はこの詩を思い出す度に前向きな気持ちになれる。気持ちが晴れ晴れとしてくるのだ。

5時30分。起床。屋内は快眠を得られる。いくら屋外で夜を過ごすことに慣れているとはいえ、やはり部屋の中と外ではその安心感がまるで違う。寝袋の中で伸びをすると、体の疲れがいつもより少ないことに気づいた。昨日たっぷりと温泉に入ったというのも大きいだろう。

3人で朝食。ポットのお湯でコーヒーを入れる。例によってボタンひとつだ。目の前には、女の子が買ってくれたたくさんのパンがある。エアコンは常に快適な室温を保ってくれ、テレビからは日曜の朝らしく子供向けの戦隊物が流れていた。幸せな朝だった。

7時50分。出発。あまりゆっくりとはしていられない。今日は快晴だが、明日からまた天候は下り坂だ。明日には豊岡市にある神鍋高原まで行きたいし、何よりゆっくりしていると1秒毎に根っこが伸びていくようだ。こんな朝はなるべく早く、あっさりと出発するに限る。

8時20分。家を出て3人で表通りまで歩く。国道の分岐点で、最後の握手をした。僕はこのまま西へ、京都に帰る友人は駅へ、女の子は仕事のために、それぞれの道を行かなければならない。
「またどこかで」
それが、いつもの僕らの合言葉だった。

久しぶりのひとりだった。右を向いても左を向いても、友人はいない。どこか、何かが欠けている。そんな感覚だった。だけど、何かが欠けている分、身軽にも感じた。それが、ひとり旅というものかも知れなかった。
見上げた空は晴れ渡り、降り注ぐ日差しの暖かさが気持ち良かった。よし。また独りを楽しもう。林芙美子さんの詩を、何度も口ずさんだ。

11時00分。久美浜湾を抜け、これから河梨峠というところでひとりの男性から声をかけられた。
「旅をされているんですか?」
そこから始まる会話はもう慣れたものだ。もし良かったら一緒にご飯でもと言われた。一度は断ったが尚も誘うので、ありがたく受けることにした。10km先の豊岡市内で再度待ち合わせをして別れる。

12時00分。河梨峠を額に汗しながら越え、豊岡市に入った。ついに兵庫県。長かった京都府をやっと抜けた。本州も残すところあと3県。確実に九州が近づいている。

13時30分。待ち合わせ場所の公園に到着。誘ってくれた男性とはすぐに会えた。天気も良いので公園で食べましょうということになり、弁当を買って(代金は男性が支払ってくれた)ベンチで食べた。目の前では子供が楽しそうに遊んでいる。今僕は、見知らぬ土地で、見知らぬ人と向かい合わせで弁当を食べている。それはとても奇妙な気分だった。それが、ひとり旅というものかもしれなかった。

男性にお礼を言い、国道312号で豊岡の町を南に下る。やがて左手に円山川が現れ、それに沿うように道が続いた。土手には菜の花が咲き、春を告げていた。日が傾き、オレンジ色の日差しが、僕の影を長くした。

兵庫県豊岡市と言えば、冒険家・植村直己さんの出身地だ。日高町で生まれている。国道には通った小学校があり、その先の集落には実家の畳屋があった。明日は植村直己冒険館な行く予定だ。わざわざ神鍋高原という山道を歩くのはそのためだ。

18時00分。神鍋高原へ向かう国道482号に乗り換え、スーパーマーケットで買い物をする。店を出ると、すっかり日が暮れていた。
荷物を手にぶら下げたまま、今日の寝床を探す。なかなかいい場所が見つからない。暗闇を1時間ほど歩いたところでやっと見つけた。

国道が近く車の音が少し気になったが、もうすぐ20時になってしまう。他を探す時間もないし、国道に近いといっても3桁国道はそれほど多くの車が通るわけではなく、何より外からは完全に死角だったのが良かった。すぐにテントを張った。

テントの中に入って落ち着くと、猛烈に腹が減っている事に気づいた。思えば昼に食べた後、ほとんど何も口にしていなかった。買ってきたビールを一口飲んで喉と心を潤したら、夕食用のパスタをいつもより多めに茹でた。

今日の歩行距離約36km。

写真1
朝の日本海。サーファー達がいい波をつかまえていた。

写真2
丹後と言えばやはり松葉がに。販売店が軒を連ねる。

2010年3月14日日曜日

歩72日目 京都府京丹後市

天候 雨のち晴れ
気温 7時 10.8度
   18時 9.9度

旅で知り合った仲間は、押し並べて自由だ。

皆自分のやりたいことをしている。とてもストレートに。
ひとつの場所にこだわる事をせず、フットワークが軽く、やらない理由を並べない。そんな旅仲間に会うたびに、僕も負けていられない、もっと自由に、そんな気持ちになれる。次の目標に向けての活力となる。いい刺激を受ける。とても素敵な関係だ。

6時00分。起床。小雨が降っていた。だが、それは嬉しい雨だった。低気圧に伴う前線が通過するため、雨はいずれ降るだろうと思ってはいた。昨日の夜の予報でも午前中に傘マークが付いていた。しかし今の時間ですでに雨が降っているということは、きっと前線の通過が早まったのだろう。低気圧の後には高気圧が待っている。きっと雨は早い段階でやむ。そう確信した。

7時10分。出発。雨は弱いながらも降り続いていた。友人はカッパを着たが、僕は着なかった。雨が降りだしたのがまだ夜が明ける前だったから、じきにやむと予測したのだ。果たして予測は的中した。歩き始めて1時間としないうちに雨はやんだ。もう大丈夫だ。友人もカッパを脱いだ。

9時20分。網野駅に到着。待合室へ行くと、友人の女の子がすでに僕らを待っていた。久しぶりの再会なのだけと、不思議と久しぶりな感じがしないのは、旅で知り合った仲間だからだろうか。そんな彼女は、嬉しい事にリーチング佐多岬の12人目となってくれた。

少しの近状報告をしたら、いよいよ網野駅から夕日ケ浦に向けて歩きだす。約8kmの距離を、3人で、ゆっくりと、歩いた。

空は次第に明るさを取り戻し、歩く路面も乾き始めていた。周りの山々から届けられる濡れた樹木の匂いが好きだった。歩道があれば横並びに。なければ縦一列に。軽い峠を越えながら。お互いの未来を話しながら。

11時20分。木津温泉駅に到着した。待合室に入り、ベンチで休憩。あと20分ほどで夕日ケ浦に着く。着いてしまう。僕はそれを少し寂しく思う。そこに到着すれば、もう3人で歩く事はない。そして、京都市から一緒に歩いて来た友人とも別れる事となる。彼は夕日ケ浦をゴールとして歩いてきた。だから明日になれば京都市に帰って行く。そうなればまたひとりで歩かなければならない。
彼とは1週間も寝食を供にし、長い道のりを歩いてきた。雪の峠も凍える夜も、ふたりというのは何より心強かった。1週間という日数は、すぐにその存在を消せるほど短いものではなかった。

12時00分。夕日ケ浦に到着し、女の子おすすめのカレー屋で昼食にした。お洒落な店内にはボサノバが流れ、今が旅の途中だという事を忘れてしまいそうになる。地元で有名だというカレーはとてもおいしく、さらには彼女が代金まで支払ってくれた。彼女の心遣いに僕らはありがたくご馳走になった。

夕日ケ浦は温泉地だ。ここまで来て温泉に入らない理由はない。ましてや6日ぶりの湯だ。お願いしてでも入りたい。
そんな風呂に飢えた僕らを救うかのように、女の子は一枚のチケットをくれた。外湯の入浴チケットだった。僕らには彼女が神様に見えた。

13時00分。待ちに待った温泉だ。貰ったチケットをありがたく使わせてもらう。実に6日ぶりの風呂。それは、北海道で樹立した記録に並ぶ日数だった。

友人とふたりでふやけるまで湯船に浸かっていた。気持ちが良すぎて、幸せのため息が止まらなかった。3回洗った髪の毛は、乾かすと3倍のボリュームになった。全身の汚れが落ち、体が軽くなったような気がした。
風呂から上がったら休憩所でのんびりした。3人で話しをしたり、うとうとしたり、テレビを見たり。

17時30分。やっと温泉を後にし、日本海を見に行った。海に沈む夕日が見られたらと思ったが、残念ながら曇り空にそれは叶わなかった。だけど僕は北海道以来の日本海に満足だった。日本海を見たのは1月中頃の小樽が最後だった。やっと京都で再会出来た。それは、僕にとって長い道のりだった。

19時00分。女の子が住む一軒家にお邪魔した。何人かでシェアしていて、空いている一部屋を僕らに貸してくれたのだ。スーパーマーケットで買ってきた食材で夕食にし、ビールを飲みながら話をした。お互いのこれからの旅計画に時間はあっという間に過ぎ、気付けば日付が変わる頃まで話をしていた。

それぞれがそれぞれの旅を思い描いていて、そしてそれはどれも羨ましくなるほど自由だった。お互いがお互いに刺激を与えあえる。それは、とても素敵な関係だった。

今日の歩行距離約15km。

写真1
網野駅で再会。今度はどこで再会するのか。いつも楽しみだ。

写真2
のどかな山間部を歩く。リーチング佐多岬11人目と12人目。

写真3
日本海の前で記念撮影。バックパックサンドイッチ。