2010年2月28日日曜日

歩58日目 愛知県安城市

天候 曇りのち晴れ
気温 7時 14.4度
   18時 16.1度

以下は昨日のデータ。書き忘れ。

天候 曇りのち雨
気温 7時 13.3度
   18時 15.5度

何もかもが濡れていた。

かろうじてビニール袋に入れていた電子機器だけは大丈夫だったが、それ以外に乾いたものを探すことは出来なかった。見渡す限りの物が濡れていて、それはもちろん僕を含めてだった。

雨と風は夜になって強さを増し、テントを襲った。いくらガード下と言えど、横殴りの雨には無防備だった。テントの中は見事に浸水し、全ての荷物が濡れた。今まで寝袋だけは濡らさないようにしてきたが、それさえもついに濡らしてしまった。

6時20分。起床。目を覚ました僕は現実を受け入れられず、呆然としてしまった。あらゆるものが濡れていたからだ。なんて事だ。がっくりと肩を落とし、出るのはため息だけだった。

昨日の行動を思い起こす。何がいけなかった?朝起きてから寝袋に包まって寝るまでに、幾つもの岐路があったはずだ。雨が降りだした時。暗くなった時。天気図で、前線が通過するために雨が強まりそうたと知った時。テントを張る時。その他たくさん。その時その時で目の前にある選択肢からどれかひとつを選ばなければならない。僕が昨日選んだ道は、あまりいい道とは言えなかったようだ。経験値を上げるということは、幾つもある選択肢の中からよりベストなひとつを選べるようになるという事だと思う。まだまだだな。自分が少し情けなくなった。

7時30分。出発。朝食もそこそこに、濡れた荷物をバックパックに押し込んで歩き出す。雨ざらしで重く濡れた靴を履くと、気分まで重くなった。

もう明後日までに京都へ到着することは無理だろう。歩きながら何度もため息をつき、僕はやっとその事実を認めた。例え昨日あと10km進んでいても、例え朝荷物が濡れていなくても、きっとそれは無理だったのだ。心の片隅で気付いていたのに、それを認めたくなかった。頑張るために、否定し続けていただけだ。最後に残っていた糸を、雨ざらしの冷たい靴が断ち切った。足が、なかなか前に進まなかった。

10時00分。西の空から青空が広がり、ついに太陽が顔を出した。藤川の公園に店を広げ全ての荷物を乾かす。乾かさなければとてもじゃないが今日の夜にテントを張れない。強い日差しが水分を吸い取るように、濡れた荷物はみるみる乾いていった。

14時00分。全ての物を乾かし、再出発。しかしすでに昼を過ぎている。すっかり気力を失った僕は、とぼとぼと藤川の町を歩いた。

15時45分。道に迷う。気付いたら国道1号より3km南にいた。自分で自分を笑うしかなかった。泣きっ面に蜂とはこのことか。
昨日の雨とは打って変わり、日差しがきつく、歩いていると汗が出た。もう分かりにくい旧道を歩くのが億劫で、国道1号をひたすら西へ向かった。

18時30分。空が暗くなった。安城市に入り、見つけた神社にテントを張った。今日はもう遅くまで歩く気力がなかった。とにかくゆっくり眠りたかった。
夕食を作るのも放棄し、ビスケット数枚とコーヒーを口にしたら、早々と寝袋に包まった。もう何も考えたくなかった。何を考えても、自分が情けなくなるだけだった。
よく乾かした寝袋はふかふかで、日向の匂いがした。そのことに少しだけ救われた気分になった。

今日の歩行距離約20km。

今日の通過宿場町

藤川宿
岡崎宿

残り宿場町数15

写真1
やっと晴れた。ありがたい。

写真2
太陽の日差しを借りて、全ての荷物を乾かした。

2010年2月27日土曜日

歩57日目 愛知県岡崎市

昨日の晩、一通のメールをもらった。岩手でお世話になった姉妹からだった。

岩手の北上である人に偶然出会ったという内容だった。その人物とは、僕が北海道の留萌手前で出会ったお坊さんだった。なんという偶然だろう。まさかそんな事もあるのか。驚いた。

彼女達が僕のブログを見、お坊さんの事を覚えていた事も嬉しいが、何より、北海道から南下してきたお坊さんが彼女達の地元を歩き、そしてそれを彼女達が発見してしまうという偶然に驚きを隠せない。当事者の姉妹もお坊さんも、たいそう驚いたそうだ。

「こうやって彼の友達にも逢えるなんて、すごい縁を感じます。彼に連絡が取れたら、またどこかで必ず逢えると信じてますので、逢う日を楽しみにしていますとお伝え下さい」

お坊さんは伝言を彼女達に託し、僕はそれをしっかり受け取った。

嬉しかった。物凄く元気をもらった。そういう偶然が前に進む活力になる。

旅をしていると、出会いの縁というものを強く意識するようになる。縁のある人とない人というのがいて、縁のある人には本当に何度も出会うからだ。
縁のある人とは、別に何の連絡もしていないし、進む方向さえ違うのに、会う。何度も。まるで何か不思議な力が働いているように。
またその逆もしかりで、縁のない人には本当に縁がない。進む方向も日程も同じなのに、すぐ近くにいるというのに、会わない。まるで何か不思議な力が働いているように。

長い放浪の旅をしていないとその感覚はわからないかも知れないが、旅というのは不思議なものなのだ。
偶然なのか、必然なのか。それは僕には分からないけれど、それが旅をより一層魅力的なものにしている事には変わりない。

5時40分。起床。朝だ。起きなければ。4時にセットしてあるアラームなど、ひとつも耳に入らなかった。昨日の晩の雨は上がっていたが、テントは濡れ、寝袋もしっとりしていた。

6時50分。出発。新居宿の関所を横目に歩く。雨上がりの気持ちのいい朝だ。雨に濡れた土やコンクリートの匂いがいい。

8時20分。白須賀宿到着。潮見坂を登る。ここは京から下ると初めて太平洋が見える場所だという。ならばこの先太平洋は見る事が出来ないということか。残念だ。次に見られるのは九州か。かなり先の話になる。

8時50分。境川を越え、ついに愛知県に入る。長い長い静岡が、やっと終わった瞬間だった。
愛知県に入ったところで雨が降りだす。カッパを着る。まだそれほどは強くない。

10時30分。二川宿到着。雨は一度本降りになったが、その雨脚を弱めた。いくらゴアテックスと言えどカッパを着ていると蒸れるので、ここで脱いだ。汗をかくより小雨に濡れた方が気持ちいい。

12時00分。一台のパトカーが僕を追い越す。道路右側の歩道を歩いていた僕の近くで少しスピードを緩めたようか気がして、なんとなく嫌な予感がした。しかしパトカーは何事もなかったかのように前方に消えていった。一瞬どこか脇道にでも入ろうかと考えた。が、やめた。別に僕は何も悪い事をしていない。ただ歩いているだけだ。なんで僕が道をそれなければならない。そう思い、直進した。
やがてパトカーは目の前に現れた。どこかでUターンしてきたのだろう。やはりか。僕は、手前5mで赤色灯を回して停まったパトカーに見えるように、大きくうなだれてみせた。

職務質問だった。ついに、というかやっときたか。そういう気分だった。
北海道を元旦に出発してから今日まで、お巡りさんからチョコレートはもらっても、一度も職務質問はされなかった。今はもう名古屋である。よくここまで一度もなかったものだ。それはなかなか珍しい事と思う。
観念した僕は素直に運転免許証を提示した。やましい事は何もない。話を早く終わらせたほうがいい。若い警官がそれを受け取り、パトカーの無線で僕の身元の確認をする。もうひとり、少し年上の警官が僕にいくつかの質問をする。歩いて旅をしていること。北海道から出発したこと。鹿児島まで向かうこと。きちんと説明する。ただそれだけだ。
「今まで警官に声をかけられたことは?」
と聞くので、
「職務質問は初めてですよ」
そう答えると、警官は驚いていた。無理もない。それは僕が一番驚いているのだから。

職務質問といっても警官だって何も嫌がらせでしている訳ではない。大きなバックパックで雨に打たれながら歩いていれば、気にもなるというものだ。お互い歩み寄れば話も早い。
「気を付けて歩いて下さいね」
最後には温かい言葉も頂いた。
運転免許証を財布にしまい、これで終わったかと思ったところ、
「ところでどこに向かってますか?」
と聞かれた。どうも僕は見当違いな道を歩いていたらしい。てっきり国道1号を歩いていると思っていたが、それは1km南を走っているらしい。僕はそこから離れるように北へと歩いていた。
助かった。このまま気付かずに北に向かっていたら、とても取り返しの付かない事になっていた。まだ1kmの間違いで済んで良かった。
「ありがとうございます。助かりました」
お礼を言って警官と別れた。

1km南には、確かに国道1号があった。僕は警官のおかげて道間違いから抜け出せた。そう思うと、あの時あの場所で警官が現れてくれたのは物凄い偶然なのではないだろうかと思う。まるで僕の道間違いを正すために現れたとしか思えない。偶然か必然か。旅というのは本当に不思議なものだ。

13時30分。吉田宿到着。ここは現在の豊橋市。城下町とあって今も栄えている。松葉公園で休憩と昼食。雨脚が強まったので再びカッパを着て歩きだす。

16時40分。御油宿到着。雨は本降り。僕はびしょ濡れ。雨宿り。雲の流れが早いから少し待てば小降りになるだろうか。
御油の一里塚は日本橋から76里と書いてあり、天然記念に指定された松並木が素晴らしかった。

18時00分。赤坂宿を過ぎたところでどしゃ降りの雨に足が進まない。まるでバケツをひっくり返したような雨だ。商店の軒先で暗く重い空を恨めしく仰ぐ。雨はやむ気配がない。行くか留まるか。散々悩んだ。そして、僕は進む事にした。少しでも京都に近づきたかったのだ。気合いを入れ、濡れて重くなった荷物を担ぐ。大雨のせいで川のようになった暗い歩道を一歩づつ進んだ。

19時20分。本宿駅に逃げ込んだ。もうこれ以上濡れないだろうというくらいに濡れていた。雨に打たれて、靴の中までびしょ濡れ。あと10kmの岡崎まで行きたいが、もう無理だった。雨だけでなく風が出てきたのだ。こんな時に歩くのは間違いだ。観念してガード下にテントを張る。

風に揺れるテントの中で濡れた服を脱ぎ捨てると、やっと生きた心地がした。携帯電話で天気予報を見る。明日は一時的に晴れると言っている。空は未だバケツをひっくり返しているが、僕はそれを信じて寝袋に包るしかなかった。

今日の歩行距離約34km。

今日の通過宿場町

白須賀宿
二川宿
吉田宿
御油宿
赤坂宿

残り宿場町数17

写真1
新居の関所。関所が今も残っているのは新居だけとか。

写真2
御油の一里塚。日本橋から76個目になる。まだ雨にやられる前。

写真3
御油の松並木。国の天然記念。600mある。

2010年2月26日金曜日

歩56日目 静岡県?郡新居町

天候 晴れ
気温 6時 12.3度(室内)
   17時 17.2度

「さて。いよいよ厳しくなってきたぞ」

天竜川に架かる長い長い橋の上を歩きながら、僕は自分に聞こえるように独り言をつぶやいた。
東京から京都まで。旧東海道を歩く今回のステージ。予定を大幅に遅れていた。

日本橋から三条大橋までは距離にして約500km。1日40km歩く計算で、13日間を予定していた。しかし8日を終えた時点で、まだ全体の半分しか来ていない。残りは5日。1日50km以上歩かなければ到着しないことになる。

本当に行けるか?
弱気な考えが頭に浮かぶ。しかしそれをすぐに否定する。そんなものはやってみなければわからない。行ける所まで行こう。やるだけやってみよう。

強く照りつける日差しにじっとりと汗をかきながら、いつもより早い歩調で橋を渡った。

8時00分。起床。泊まり客は僕ら3人しかいない。広い部屋を貸し切りだ。
テレビでは朝の連続ドラマ小説。話はさっぱりわからない。前回見たのは確か岩手だったはず。今の僕は世間からかなり遠い所にいる。

朝食を食べたら、宿のお母さんと一緒に浜辺に山菜を採りに行った。昨日の晩、話の流れで何故か午前中に山菜を採りに行き、昼にうなぎを食べに行く。そういうことになったからだ。僕はこれからの工程を考えて逡巡したが、たまには羽をのばすのもいいかと思い了承した。地元で有名な美味しいうなぎ屋だという話に釣られただけかもしれない。

浜辺で1時間ほど山菜を採る。砂に隠れた小さな葉を探し、スコップで掘り起こす。単純だけど、楽しい作業だ。皆で買い物袋ひとつ分くらいになった。天ぷらで食べるのが美味しいらしい。僕は大きめのものを2、3選び、残りはあげた。生でも食べられるらしいので、どんな味がするかくらいは知っておきたい。

そのままの足でうなぎ屋へ向かう。久しぶりのうなぎはとても美味しく、僕はすっかり無言になってしまった。たまの贅沢もいい。

宿に戻り、お母さんに挨拶をして車に乗り込んだ。大変楽しい宿だった。機会があればぜひまた訪れたいと思える。そんな場所だった。

車で磐田駅まで送ってもらう。昨日ここから車に乗ったので、ここから歩き始めなければならない。
オーナーさん達にお礼をいい、握手で別れた。彼らは東へ。僕は西へ。それぞれ向かわなければならない。
「また函館遊びに行きますよ」
それがいつもの挨拶だった。

13時00分。磐田駅から歩き出した。半日たっぷり遊んだので、太陽は高い位置にある。今から歩いてどこまで行けるだろう。行けるだけ行こう。天竜川は、もう目の前だった。

17時00分。浜松到着。大きな町だ。旧東海道も国道152号から257号と広い道をつなぐ。当時の面影はどこにもないが、それだけ時代が移ろったということだ。

22時00分。舞阪到着。巨大な旅館が立ち並ぶ弁天島とは対象的に、夜の浜名湖は静かで暗い。照らしだされた紅の鳥居だけが浮かんで見えた。

23時00分。新居到着。その昔、海とは繋がっておらず淡水だった浜名湖も、地震で陸が切れ今の形になったという。その浜名湖をいくつかの橋を渡り越えた。

新居の関所へ行く。関所の建物が今も残っているのはここ新居だけである。関所近くのスペースにテントを張る。
もうすぐ日が変わる。テントに入ると雨が降りだした。間一髪。予報よりも早く降ってきようだ。明日は1日雨らしい。久しぶりにカッパを着て歩く事になりそうだ。

今日の歩行距離約33km。

今日の通過宿場町

浜松宿
舞阪宿
新居宿

残り宿場町数22

写真1
遠州の砂丘を歩く。犬は大はしゃぎ。

写真2
うなぎ。うまい。

写真3
ライダーハウスの前で記念撮影。4人と2匹で。

2010年2月25日木曜日

歩55日目 静岡県磐田市

天候 晴れ
気温 7時 6.7度
   17時 14.9度

旅はすっかり東海道一色だ。
日本橋を発ってから8日目。日を追うごとに東海道の楽しさを知る。

ガイドブックは常に取り出せる場所にあり、次の宿場町のページを開くのが楽しみとなっている。旧道を歩き、当時の名残を見つけては昔を思う。旧東海道を歩く事は単に移動する旅だけでなく、同時に時間も旅しているのかもしれない。

また旧道は山なら山を、谷なら谷を歩くのがいい。今の国道は山を削り谷を埋め、川には何本も橋を架けている。決してそれを悪いこととは言わないが、旅心をくすぐるのは間違いなく前者の方だ。

4時20分。起床。朝から暖かい。今日も1日汗ばむ陽気になりそうだ。連日好天に恵まれている。

6時30分。出発。昨日に続いて大井川を渡る橋の上で朝日を拝む。
橋を渡ると金谷の宿場町。早朝の金谷の町は静かで、パン屋の美味しそうな匂いがした。

金谷から日坂にかけては山の中を歩く。その内、金谷坂と菊川坂は石畳が再現されていて、朝露に輝く茶畑を横目に良い雰囲気だ。

12時00分。山道を終えるとほどなく掛川に到着。宿の中はよく直角に曲がる構造がとられていて、掛川宿もそうだった。桝形と呼ばれ、敵の侵入や大名同士が鉢合わせしないためにそうしたらしいが、おかげで僕はよく迷子になる。その度にガイドブックとコンパスで方角だけ間違わないように歩くのだけど、ちょっとしたナビゲーションハイクみたいでそれも楽しいのだ。

14時15分。原野谷川に架かる同心橋を越え、松並木を抜けると袋井だ。ここ袋井宿は江戸からら数えても、京から数えても27番目の宿場町。ちょうど真ん中にあたる。ここで多くの旅人が一息ついたという。僕も買い物がてらちょっと一息。

15時30分。見付に入る。京から下ると初めて富士山が見えたことから見付と名付けられたそうだが、今日は残念ながら見ることができなかった。

旧見付小学校を見学。現存する最古の小学校らしく、明治8年設立とのこと。大変モダンな校舎はとても小学校とは思えいほどで、一見の価値があった。

18時00分。磐田駅到着。ここで知り合いと待ち合わせをした。北海道の函館でライダーハウス(旅人向けの安価な簡易宿)を経営しているのオーナーとそのお連れの女性だ。冬の間は店を閉め、車で旅をしているようで、僕の工程と彼らの工程が重なった場所が磐田ということだった。

駅前で合流し、車で磐田市にあるライダーハウスへ向かう。北海道には多いライダーハウスも本州では珍しく、せっかくだからとまってみようということになったのだ。
到着したライダーハウスはなかなか綺麗で、居酒屋が併設されていた。元気の良いお母さんが切り盛りしていて、部屋に荷物を置いて一息ついたら早速居酒屋へと向かった。

地元の野菜を使った料理に舌鼓を打ち、旅話に花を咲かせ、楽しい夜を過ごした。テレビではオリンピックのニュースを繰り返し流していた。
気付けば閉店の時間で、焼酎のボトルは3本が空になり、僕はすっかりいい気分になっていた。

今日の歩行距離約31km。

今日の通過宿場町

金谷宿
日坂宿
掛川宿
袋井宿
見付宿

残り宿場町数25

写真1
石畳と茶畑。いい雰囲気。

写真2
掛川城。きれいに再現されていた。

写真3
旧見付小学校。モダンな校舎。こんな学校に通ってみたい。

2010年2月24日水曜日

歩54日目 静岡県島田市

天候 晴れ
気温 7時 6.1度
   18時 15.3度

箱根を西に越えるとそこは静岡県。そこから先は、僕にとって不案内な土地になる。

東北で育ち、東京で働いた。新潟にも住んだ事がある。北海道ならば延べ2年居た。だけど、そのどれもが東京以北だ。
そんな僕だから、箱根を越えてからの土地というのはとても新鮮に思う。もちろん、バイクで全国は周わった。それでも訪れたことがあるのと住むのとは、また別次元の話だ。例えばそれは町並みであったり、食べ物であったり、酒であったり、方言であったり。住んだことのない土地について、そういったのもが僕の内に濃密に蓄積されていない。だから触れるものひとつひとつが新鮮に思える。

ふとすれ違い様耳にした「だもんで」という言葉。そんなささいな事でさえ、箱根を越えたと強く感じる。
4時30分。起床。昨日の夜は暗くて気付かなかったが、どうやら近くに水場があったみたいだ。顔を洗う。そんなことを出来るのも南へ来たからだだろう。北ではとてもじゃないが水で顔など洗えなかった。ウェットティッシュで拭くのが精一杯だった。

6時20分。出発。安倍川の上で日の出を迎える。東の空の一際明るいところ。そこからオレンジ色した小さな点が、ぽっと出てきた。足を止める。ずっと見つめ。太陽はそんな僕の瞳など気にしない様子で、いつもと変わらず空へと昇っていった。オレンジ色の小さな点が、大きく丸い姿に変わるまでに、それほど多くの時間を必要としなかった。

8時10分。宇津の谷峠手前の道の駅に到着。昔はここに茶屋があり、地元で採れる自然薯のとろろそばが有名だったらしい。当時の旅人も、ここで腹ごしらえをして峠に向かったそう。僕もクラッカーとコーヒーでその準備。

宇津の谷の集落を抜けると峠は完全に山道になった。尾根を越えるまできつい登り。まるで登山だ。途中団体とすれ違う。
「旧東海道?」
そう声をかけられる。
進む方向は違っても当時を偲ぶ旅は一緒だ。特にこんな山中の、昔を今に伝える様な清々しい場所ならなおさらで、ガイドブック片手に旧道を探しての旅もなかなか楽しいものだと感じた。

12時00分。藤枝到着。暖かく、Tシャツだけになる。町中で風呂屋を探す。夜に辿り着いた先で運良く風呂屋など見つけられず、また風呂日照りが続いていた。しかしよく考えたらもう日中など汗ばむくらいの気温。北海道のように氷点下ではないし、少しくらい暗くなっても歩けるのだから、昼間風呂に入ってもいいんじゃないかと思ったのだ。
しかしそうは思っても肝心の風呂屋が見つからない。タクシーの運転手に聞いて無いと言うのだから間違いないだろう。せっかく思い直したというのに残念だ。仕方なく先へ進む。

14時20分。島田市到着。交番で風呂屋を聞く。ひとつ駅を越えた所に温泉があるという。教えてくれたのは婦警さんで、片手を腰に当て竹を割ったように話す人だった。きっと若い頃はもてたんじゃないかな?なんて思いながら説明を聞いた。値段を聞くと750円で少し高いななんて思ったけど、婦警さんがさらりと
「塩サウナが気持ちいいわよ」
と言った一言が僕の琴線に触れてしまい、そこへ足を向けた。僕は特にサウナが好きと言うわけではないが、婦警さんの腰に手を当てた言葉が本当に気持ちよさそうだったからだ。

14時40分。温泉到着。5日ぶりに汗を流す。頭は3回洗った。身体は2回。それでやっと人並みになった気がした。
塩サウナでしっかり汗をかき、露天風呂で横になる。まだ空は青いのに、荷物を背負わずこうして露天風呂で気持ち良くなるなんて物凄く優雅に感じられた。

風呂上がりにゆっくりするともう16時をとうに過ぎていた。そろそろ歩きだすかと地図を眺めると、この先2時間くらいで峠に差し掛かる事がわかった。しまった。今からだとあと1時間で暗くなる。夜の峠は危険だろう。まして旧道。街灯などあるはずもない。暗くなっても歩けるなんて考えていたのに、すっかり出鼻をくじかれた。まぁ仕方ない。今日はゆっくり休もうと、この先4kmほどの大井川に目標を合わせた。

19時00分。スーパーマーケットで買い物を済ませ、大井川の河原に到着。昨日に続き、テントが張り放題だった。
買ってきたビールを開け、横浜の友達にもらったラーメンを食べる。ここ最近はずっと差し入れの夕食が続いていて、ほとんど夕食の買い物をしていない。とてもありがたく思う。
韓国製のラーメンは体の中から温まる味で、胃袋と共に心も満たされていった。

今日の歩行距離約29km。

今日の通過宿場町

丸子宿
岡部宿
藤枝宿
島田宿

残り宿場町数30

写真1
安倍川からの日の出。安倍川餅の安倍川は、安倍川の安倍川らしい。家康命名。

写真2
宇津の谷の集落。間の宿(あいのやど)と呼ばれる宿場町間にある小さな宿場。

2010年2月23日火曜日

歩53日目 静岡県静岡市

天候 晴れ
気温 7時 3.1度
   17時 13.6度

その存在感は圧倒的だった。
他の追随を許さない。その言葉がまさに相応しかった。富士山は、やはり日本人の心の山なのだ。

4時30分。起床。朝食を済ませテントから出ると、松の間から朝焼けで朱色に染まる富士山が見えた。昨日はあれだけ頑なに姿を現わさなかったのに、今朝はその雄大さを惜しみない。朝焼けの富士山を眺めながら歯を磨くというのもなんとも贅沢なことだ。

6時20分。出発。昨日にも増して右ばかり見ている。そのうちに首の筋がおかしくなってしまうのではないかと心配になるほどだ。それでも太陽の位置によって刻々と柔らかく色を変えていく山は、いくら見ていても見飽きることはなかった。

8時50分。潤井川の川原で目の前に富士山を見ながら休憩。川の瀬の音と小鳥のさえずり。そして暖かな日差しと富士山。いつものコーヒーなのにこれがまた格別の味となる。

11時30分。富士川を越え、静岡市に入る。

12時40分。蒲原宿場町の秋田屋という魚屋で、珍しい物を食べた。イルカだ。僕は恥ずかしながら日本人にイルカを食べる習慣があるとは知らなかった。だけどここ静岡の蒲原から由比にかけての一帯では昔から食べられていたらしい。イルカのすましという尾びれを茹でてスライスしたそれは、強い弾力がありかなり個性的な味と匂いがした。正直あまりおいしいとは思わなかったが、日本人の独特な食文化に触れられたことは良かった。
それにしてもイルカだ。確か小笠原ではウミガメをたべていたはずだったし、クジラであれだけ騒いでいるオーストラリア辺りの人達が知ったら、それこそ大変なことになりそうだぞ。なんていつまでも口の中から消えない獣臭さを反芻しながら思った。

13時15分。由比川を越える。由比の町は桜えび一色。桜えびのかき揚げなら知っていたけど、桜えびを卵とじにした丼があるのは知らなかった。駿河湾では広く食べられているらしい。
歩きの早さだと、その土地の生活の匂いをいちいち感じることが出来て楽しい。

2時50分。旧東海道は、さった峠(携帯電話では漢字が出なかった)に差し掛かる。国道1号は海岸線、東名高速はトンネルになっているのだけど、昔の人は山を越えた。だから僕も越える。
きつい坂道ではあるが、両脇に甘夏の木がまるでトンネルのように生い茂り、葉の緑と実の橙が目を楽しませた。開けた場所に出ると、眼下に国道1号と東名高速が大量の車を抱え、駿河湾をなぞるように横たわっていた。
海の向こうには伊豆半島。付け根には富士山。峠を登ったご褒美はまさに絶景だった。

興津、江尻と抜け、草薙駅前で旧道を探していると、自転車の青年に声をかけられた。
「旅をされているんですか?」
そう聞かれ、日本縦断中と答える。彼はそれは凄いと両手を叩いて感嘆し、
「もし良かったら家に泊まりませんか?」
そう言ってくれた。なんでも彼はよく旅人を受け入れていて、つい最近も横浜から伊勢参りをしていた19才の若者を泊めてあげたのだという。彼も昔旅をして、多くの人に親切に触れたのかもしれないな、そう思った。布団。お風呂。ご飯。彼の誘いには魅力的な言葉がちりばめられていたけど、いきなり会った見ず知らずの人にそこまで甘える訳にはいかない。僕は丁寧に断って、気持ちだけ頂くことにした。
世の中親切な人がたくさんいるものだ。これまでの道中も、多くの人の親切に支えられてきた。きっと彼も僕が首を縦に振っていたら、快く泊めてくれたことだろう。そんな親切が人の心から消えない限り、きっと旅というものの温かい部分はいつの時代も変わらずにあるのだろう。

21時20分。静岡駅前の煌びやかな町並みを抜け、安倍川の河川敷に到着。今日はここにテントだ。野球場にサッカー場。広い河川敷はテントが張り放題だった。
やっとのことでテントに落ち着くと、時計はすでに22時近かった。かなり遅くなってしまった。50km近く歩いたので足も疲れている。ストレッチとマッサージで身体をほぐす。なるべく疲れは溜めない方がいい。
明日もまた歩かねばならない。

今日の歩行距離約48km。

今日の通過宿場町

吉原宿
蒲原宿
由比宿
興津宿
江尻宿
府中宿

残り宿場町数34

写真1
朝焼けと富士。素敵。

写真2
富士川と富士。素敵。

写真3
駿河湾と富士。素敵。

2010年2月22日月曜日

歩52日目 静岡県沼津市

天候 晴れ
気温 6時 -3.4度
   17時 13.5度

届かない。
適うはずない。

そんな事、初めから分かっていた。そうさ。初めから分かっていたんだよ。

でも、心の片隅でいつもそれを気に留めていた。それは、僕にとって遥かな目標であり、次の一歩への原動力でもあったからだ。

ついにこの日を迎えた。旅の52日目。今日は僕にとってひとつの大きな節目の日だ。今日僕がたどり着く場所。それが今の僕にとってひとつの答えとなる。

3時00分。起床。早い目覚め。睡眠は十分。寝袋の中でいつものようにブログ更新。

それにしても週末の深夜の箱根はサーキットだ。何台もの車が、図太い排気音と甲高いスキール音を鳴らしながら峠をものすごい勢いで走り回っている。寝袋の中で携帯電話を打ちながらそれを聞いている。が、実は3時に目が覚めるまでそのことに全く気付かない僕というのもどうかと思うのだけど。

6時30分。出発。久しぶりにテントのフライシートのみならず、インナーにまで露がびっしりだった。ポールまでも凍っていて、つなぎ目を手で握って温めないと抜けなかった。さすが箱根。マイナスの朝になるとは思っていなかった。

芦ノ湖までまだ少し登りが残っている。空は完全に朝なのだが、高い山に遮られ太陽は顔を出さない。標高を上げると気温は下がる一方で、ついにはマイナス4度を下回わった。周りを囲む木々も一夜にして霜で真っ白に染まっていた。

7時20分。芦ノ湖到着。湖面を霧が覆い、幻想的な雰囲気。湖畔に座り、温かいコーヒーで休憩。

8時00分。杉並木を抜け箱根関所に到着。江戸口御門から入り、京口御門から抜ける。江戸から京へ。僕は、一歩づつ歩いていく。

8時30分。きつい石畳の旧東海道。藪を漕いで抜けた先に道の駅。車やバイクで何度か訪れた事はあるが、まさか歩いて来るとは思わなかった。と思ったら反対方向に進んでいて、またしてもきつい石畳に戻ってしまった。愕然。2度の藪漕ぎで無駄な体力と1時間の消費。地図はよく確認するべきであると猛省。

9時30分。箱根山頂に到着。846m。長く辛い登りが終わった。ここから静岡県。ついに関東を脱出し、東海へ突入した。

当たり前だけど、今度は延々下り坂。実は登りよりも下りの方がやっかいで、足腰にかかる負担は相当なものだ。特に重い荷物を背負っているといきなり膝をやってしまう時があるので、歩幅を小さくして慎重に下る。それでも雰囲気の良い石畳の旧道をゆっくり楽しみながら下れるのが良かった。

12時50分。三島到着。三島大社で箱根越え祝いのアイスを食べる。バニラアイスに濃いめのコーヒーをかけるのが好きだ。それにしても冬の旅中でアイスを食べるとは思わなかった。

突然携帯電話にメールが入る。
「今どこにいるの?」
短いメールの差出人は、ギブスで歩いた彼女からだった。三島大社にいるよと返信し、もしかしてここに来るんじゃないだろうか?いやまさかそんなことは、などとアイスを食べながら考える。

するとどうだろう。ひょっこり目の前に彼女が現れたではないか!本当かよ。なんて思っていたら、実は流山の友人に、歓迎会を開いてくれたメンバーのひとりまで居て、3人で応援に駆け付けてくれたのだった。
いくら日曜で仕事が休だからって、千葉から来るには遠いはず。まったくなんて馬鹿な人達なんだろう。嬉しくて涙が出る。

さらに驚いたのは、差し入れにくれたおにぎりで、僕はその大きさに目を疑った。顔ほどもあるのだ。ずしりと重いそれはひとつ米3合あり、それがふたつもあった。合わせて6合!あり得ない。ひとつには
「ガンバレナカチャン」
のメッセージが海苔で書かれていた。僕は重いおにぎりと共にしっかりそれを受け取った。
おかずの焼き肉と一緒にバックパックに詰めると、劇的に重さが増した。だけど全然苦にならない。嬉しい重さだった。

4人で三島大社を参拝。僕は旅の安全を。皆は何をお願いしただろう。
荷物を背負い、握手をして、神社の前で別れた。僕は何度も振り返り、手を振った。3人はいつまでも見送ってくれていた。
荷物は重くなったのに、足取りは軽かった。元気をたくさんもらった。そして僕は歩きながらさっきまでの出来事を思い出し、にやにやと口元がゆるみっぱなしだった。

15時30分。沼津到着。沼津城跡で休憩。まだまだ進める。今日は原か吉原あたりまで行きたい。

夕暮れの一本道は西へまっすぐのびていて、僕はいつも右を見ながら歩いていた。なぜならそこに富士山があるからだ。しかし富士山は厚い雲の中に身を隠し、ついぞ現れてはくれなかった。

18時30分。踏み切りを越え、東海道本線を左から右に置き換えたら、街道脇にある神社に寝床を決めた。トーチを点けず、目立たぬ場所にひっそりとテントを張る。ここで一晩静かに過ごさせてもらう。明け方には痕跡を残さず立ち去るのが旅の流儀だ。

その晩、テントの中で僕は自分の辿ってきた道を振り返った。北海道から静岡まで。決して楽な日はなかった。自分なりに頑張ってここまで歩いてきた。それが僕の実力だった。

冒険家・植村直己さんは生前、僕と同じように徒歩による日本縦断をしている。その時彼は52日で北海道から鹿児島まで歩き切っている。たった52日!それは驚異的な短さだ。
52日目の今日。僕はまだ静岡にいる。もちろん季節や背負っている荷物は違うだろう。だけどそれが彼と僕との差で、それが現実だった。

彼の超人的な体力と精神力は、僕にとって遥かな目標だ。例え叶わぬ目標としても、それに挑戦は出来る。僕はそのことが嬉しかったし、次の一歩への原動力となるのだった。
顔ほどのおにぎりを食べながら、僕は故人の偉大さを一緒に噛み締めた。

今日の歩行距離約35km。

# せっかく東海道53次なんて魅力的な街道を通っているので、通過した宿場町を記録して行きたいと思います。

今日の通過宿場町

箱根宿
三島宿
沼津宿
原宿

以下は昨日までの。

17日の通過宿場町

品川宿
川崎宿

18日の通過宿場町

神奈川宿
保土ヶ谷宿

19日の通過宿場町

戸塚宿
藤沢宿
平塚宿
大磯宿

20日の通過宿場町

小田原宿

残り宿場町数40

写真1
朝もやの芦ノ湖。逆さ富士は残念。

写真2
石畳の旧道で出会った団体。のんびり楽しそう。

写真3
今日のあり得ない。その温かい心とでかいおにぎりに涙するのだった。

2010年2月21日日曜日

歩51日目 神奈川県?郡箱根町

天候 晴れ
気温 7時 5.5度
   18時 1.7度

流山以来のひとりを感じる。
流山に到着してからこの1週間、毎日誰かと会っていた。今までは誰にも会わず、誰とも会話をしない日だってあったはずなのに、いざこうしてひとりを感じると、やはりどこか寂しいものだ。それは、深い海にひとりで潜ったような感覚だ。

もちろんひとり旅を選んでいるのだからそれが当たり前なのだけど、やはり楽しかった日々の後にはそれに慣れるまで少し時間が必要なようなのだろう。

8時00分。起床。昨日の晩は寝袋に包まった途端に寝てしまった。寝袋は、微かに煙草の匂いがして、それは苦くて切ない香りだった。
2日間の寝不足は、今日の睡眠時間に反映しているようだ。5時半に一度目が覚めたが、まぶたは重く、寝袋の中で携帯電話をいじりながらまた寝てしまっていた。

10時30分。出発。今日も天気がいい。目の前に広がる太平洋を眺めながら準備運動。日差しが暖かく、ビーニーとネックウォーマーをしまい、キャップをかぶって歩きだした。

12時00分。国府津到着。すでに小田原市に入っている。週末とあって、国道1号はツーリングのバイクやトレーニングの自転車が多い。

気温は10度を超え、今日も春の陽気だ。ダウンのインナーを脱ぐ。これからはどんどんとその出番が少なくなるだろう。着ている服が一枚減るだけで、動きが軽くなり、同時に気分も軽くなる。どこまでも歩いて行けるような気持ちになる。

12時50分。酒匂川を渡る橋の上から富士山が見えた。箱根の山々の向こう、雪をかぶったその頂は、一目でそれと分かるほどの存在感だった。たぶん、日本人なら誰もが一目で分かるだろうな、そう思うと富士山という山がどれほど特別な存在なのかという事を実感する。日本一の標高にして、あれだけきれいな独立峰なのだ。それだけの価値は確かにある。

13時30分。小田原城でしばし休憩。たくさんの観光客。暖かな日差し。梅の花。ベンチでコーヒーを飲みながら目を細める。

15時30分。箱根湯本の三枚橋で国道から外れる。ここから旧東海道は県道で、本格的な登りになる。
週末の箱根湯本は観光客で賑わっていて、古い町並みと相まっていい雰囲気。僕はそれを横目に見ながらどんどん登る。

途中いくつか石畳の道があった。当時のまま残されている石畳の道は、木々に囲まれ昔の面影を今に残している。静かな径を歩くと、なんだか僕まで当時の旅人になったようだった。

16時50分。箱根の難所と呼ばれる女殺しの坂に到着。ここまでもひたすら登って来たが、さらにその勾配はきつくなる。息を切らせながら登る。気温はどんどん低くなる。道の脇にはまだ雪が残っていた。

きつい勾配が更にきつさを増した。最大の難所、樫の木坂に到着。
「樫の木の、坂をこゆればくるしくて、どんぐりほどの涙こぼれる」
そう当時の文献に書かれるようでその苦しさをうまく表現している、などと感心している余裕などない。道は幾つも折り重なるように曲がりくねっていて、足取りは重い。息は切れ、荷物が肩に食い込んだ。
いつまで続くだろうと思っていた九十九折りの道は、目の前で階段に変わった。どうやら歩行者はこの先階段を行くらしい。
階段かよ…。ため息が漏れる。それほどこの坂は急だということか。

長い長い階段を、どんぐりの涙で頑張る。やっとのことで登り切った先からは、灯り始めた小田原の夜景がきれいだった。

芦ノ湖まで到着したかったのだが、歩き始めが遅かった為になかなか到着できない。あと数kmと言うところで18時になる。山中はすでに真っ暗だ。通りかかった茶屋の脇にはトイレがあり、その前にテントを張るに十分なスペースを見つけたので、無理せずそこを寝床と決めた。辺りにはたくさん雪が残っていて、久しぶりの雪中キャンプに少し嬉しくなった。

テントに入り、ストレッチをすると、足の筋が伸びて気持ち良かった。今日はそれほど距離を歩いていないのに、やはり半日の登りが堪えているようだ。さすがは天下の剣。箱根の山はそう甘くないということか。

今日の歩行距離約26km。

写真1
春の陽気の小田原城。のんびりできた。

写真2
古い石畳を歩く。ちょっぴりタイムスリップ。

写真3
箱根の難所。どんぐりの涙。

2010年2月20日土曜日

奥州北関東編 あれこれ

5つのステージの中で一番距離のある2ndステージ奥州北関東編でしたが、なんとか無事に歩き切ることができました。
そこで各種データのまとめ。


・日数 26日

テント泊 16
道の駅休憩所泊 2
知人宅泊 7
ナイトラン 1

結局テント泊が多くなってます。ナイトラン1というのは我ながらやりすぎだと思いますが…笑
今回も僕を快く迎え入れてくれた皆さんには感謝です。本当にありがとうございました。


・歩行距離 約863km

日々の歩行距離からの総計です。正しい数字かはかなり怪しいですが、それほど大きくずれてはいないはずです。大間〜東京で、一度秋田に抜けているのでこんなもんでしょう。
1stステージと合わせると1500kmほどで、全体の半分ということになります。ほぼ予定通りに進んでいます。ただしこれからは多くても1日40kmくらいまでにしたいなぁと思っていますけど:p


・費用 約34000円

食費 17500円くらい
知人宅にお邪魔した時のお土産代と飲み代 9500円くらい
靴代 2990円
宅急便代 1270円
風呂代 900円(2回分)
東海道ガイドブック 780円
その他雑費 1000円くらい(主に乾電池、靴下、ウェットティッシュなどの消耗品)

最高到達地点は貝梨峠の430m(意外に低かった)で、最低気温は岩手県一関市でのマイナス12度(意外に低かった)でした。
あと、2ndステージ途中から旅のお供(写真)が増えました。笑

次は東京〜京都間の東海道編です。なるべく旧東海道を歩く予定ですのでいろいろ見所もあるかと思います。しかも!天下の剣と言われる箱根超え(といっても1000mほどですが)があるので、今からちょっと楽しみです。

写真
旅は道連れ。

歩50日目 神奈川県?郡二宮町

天候 曇りのち晴れ
気温 6時 1.0度
   17時 9.6度

深夜のファミリーレストランのソファーで浅い眠りを繰り返す僕は、薄い幕に包まれた、小さな小さな自分だけの空間を懐かしく思っていた。

食事に飲み物。ソファーにトイレ。暖かい店内にいると寒さを忘れられるが、やはりテントと寝袋というスタイルの方が僕には向いているようだ。

いつ起床とも言えない朝を迎える。小刻みな睡眠だったからだ。頭はすっきりしていても体がダルい。やはり横にならないと体は休まらないよいだ。

5時00分。出発。真っ暗な町中を歩き始める。昨日の晩に寝床を探してさ迷ったおかげで一駅分戻っての出発だった。

6時00分。朝焼けをきつい登りの権太坂で向える。今日は昨日の雪が嘘のように穏やかだ。

旧東海道は今の国道1号とは微妙に違い、国道の右を左を蛇行しながらのびている。上り下りがあり、蛇行する分距離ものびるが、そこを歩いていると昔の人々と共に京都を目指しているようでなんだか嬉しい。

10時00分。藤沢市内で道に迷う。一旦国道と合流した旧東海道だったが、次の分岐点がわからなかったのだ。間違った場所を曲がり、方向をすっかり失った僕は気付けば線路沿いに出た。思っていたよりもずいぶん外れてしまっていた。
地図を見るとこのまま線路沿いを行けば辻堂を越えて、また国道に復帰できそうだ。別に旧東海道を絶対にというこだわりなんてないので、線路沿いを気持ち良いほど真っ直ぐのびる道を西へと向かった。転ばぬ先の杖など捨てて、ころころと転がる楽しみを味わうのも旅の醍醐味かもしれない。

11時15分。辻堂駅到着。一本道は迷いようが無い。

12時30分。茅ヶ崎駅到着。ここで仕事終わりの友人と合流。3日続投での参加。お互いお腹を減らせていたので、とりあえず駅前の店で昼食。
横浜駅から電車に乗ってきた彼によると、僕が夜明け前から歩き続けた距離は、電車でたった30分の距離だったらしい。30分の距離を半日かける。それはとても馬鹿げているようで、その実とても贅沢なことだと思う。自分の足で旅をするというのは、数ある旅の方法の中で一番原点にあるのではないか。
「やろうと思ってもなかなかやれる事ではないよ」
よくそんな事を言われてきたけど、まさにその通りなんだと思う。

天気がいい。日向は汗ばむほどで、気持ちがいい。会話の中にも笑顔が漏れる。
相模川を越えると平塚で、ちょっと休憩と立ち寄った公園のベンチで暖かな日差しに誘われるようにうたた寝。

再び歩き始め、平塚駅を過ぎた辺りでビールを買った。友人の参加も今日が最後とあって、ちょっと早めのお疲れさまだ。
贅沢な昼ビールに気分が良くなり話も弾む。途中西湘バイパス沿いに走る自転車道に降り、茨城ぶりの太平洋を見た。海は相変わらず海で、なんだかそんな当たり前に嬉しくなる。

大磯か二宮か。友人はどの駅から帰るか迷っていたが、時間的に二宮まで行けそうということで先へ進む。茅ヶ崎から15kmは歩いてきただろうか。かなり足がつらそうだったけど、一生懸命歩歩く姿か嬉しかった。

18時00分。日は暮れていたがなんとか二宮駅到着。そこからふたりで海に向かう。今日の寝床探しだ。
簡単に浜まで行けるかと思っていたが、バイパスにそれを拒まれる。目と鼻の先にそれがあるのに、降り口が分からずたどり着けない。仕方なく浜とは反対側の松原に適当なスペースを見つけテントを張った。

ひとり用の狭いテントにふたりで入る。中に入った瞬間、薄い幕一枚で外界とは遮断され、自分だけの空間になる。テントに入ると本当に落ち着ける。

夕方買ったワインを飲みながら話をしていると、友人はバッグからポケットから次々と差し入れを出してくれた。その量は小さなウエストバッグによくもそんなに入っていたと感心するほどで、まるで手品でも見ているようだった。

3日間も続けて参加してくれて、わざわざ電車で来てくれて、テントの中での夕食まで用意してくれて、本当にありがたかった。一緒に食べて飲んで、1時間ほどの小さな宴は楽しく過ぎてた。

「そろそろ帰るか」
友人は時計を見ながらそう言った。
「それじゃあ鹿児島まで頑張って」
「3日間ありがとう」
靴を履いた彼と最後の挨拶。見送る後ろ姿はすぐに闇に溶けた。
長い握手の後に残ったのは、凪いだ海のような静けさだけだった。

今日の歩行距離約42km。

写真1
権太坂で朝日を拝む。しばらく天気はいいそうだ。

写真2
早めの乾杯。昼のビールは贅沢の味。

写真3
久しぶりの太平洋。今日も海だった。

2010年2月19日金曜日

歩49日目 神奈川県横浜市

天候 雪のち曇り
気温 5時 6.8度
   17時 5.7度

旅を続けていると、普段の生活における日常と非日常が入れ替わる。当たり前が当たり前ではなくなり、不自由を常とするようになる。

当たり前は失って初めてそのありがたさを思い知らされ、そしてそれは物理的な事柄にのみならない。
日々の生活における行為全てに当てはまる。それを見つける度、僕は幸せの本当の意味をひとつ知ることななる。

4時30分。起床。早朝から仕事の友人は既に起きていて、僕も眠い目を無理矢理こじ開ける様に起き上がる。

5時10分。出発。玄関を出ると真っ白な雪が舞っていた。多摩川にテントを張らなくて良かったな、そう思い友人に感謝する。友人と別れ、鶴見駅までの坂を下っていく。まだ暗く、雪の舞う長い下り坂ではすれ違う人など居らず、オレンジ色の街灯に照らされて色を変える雪だけが僕を見ているようだった。

6時00分。鶴見駅前のマクドナルドで休憩とブログの更新。3時間も携帯電話の小さなキーを押し続けると、さすがに親指と頭の片隅が痛くなる。それでも暖かい店内では指がかじかまないので助かった。

11時00分。店を出る。川崎駅まで電車で移動し、昨日皆と別れた場所まで戻った。国道15号を西に向けて歩きだす。あれだけ勢いよく舞っていた雪は、その身を潜めるように姿を消していた。

12時00分。鶴見駅到着。仕事を終えた友人からメール。今どこを歩いているかと聞かれ、10分後に鶴見駅で合流。彼は今日も一緒に歩いてくれるという。
「自分も一緒に日本縦断を少しでも味わいたい」
嬉しい事を言ってくれる。
駅前の韓国料理屋で昼食にした。唐辛子の辛さが体を中から温めてくれる。
代金は、彼が支払ってくれた。昨日の夜も僕はお金を出していない。僕だけ特別扱いされているようで居心地が悪いのだけど、誰も僕の財布から出るお金を受け取ろうとしない。さらには僕のブログから言葉を引用し、
「これは接待だから」
冗談まじりにそう言った。僕は何も言えなくなり、ありがたくそれを受けることにした。

店を出ると、ビルの隙間の小さな空に青空を見つけた。天候は徐々に回復に向かっているようだ。天気予報では、旅の心配事のひとつからしばらく解放されるだろう、そう言っていた。

国道15号をふたりで歩き始める。生麦、新子安、東神奈川と駅をつなぐ。午後の日差しは西に向かう僕らを正面から照らし、歩いていると暑くなるほどだった。。滝の橋から旧道に入り、横浜駅を迂回するように進む。

途中、旧道かと思った小さな商店街は間違いで、1時間ほど道に迷ってしまう。そんな僕らを励ますように夕日が西の空を紅く染め上げていた。

そろそろ寝床を決めなければいけない。しかし途切れることのない市街地にそれを見つけることが出来なくて、ふたりで暗い住宅街を奔走する。1時間を費やすが納得できる場所がなく、仕方なくファミリーレストランで一夜を凌ぐ事にした。

友人とビールを飲みながら明日の作成会議。なんと彼は明日も共に歩いてくれると言う。僕はポテトをビールで流し込みながら、嬉しさが込み上げてくるのを感じた。

友人との別れ際、
「じゃあまた明日」
と挨拶を交わした。この旅でその言葉を使ったのは初めてだった。それは、落ち着けるいい響きだった。旅中は日常のありふれた小さな会話でさえ、非日常になってしまうものなのかもしれない。

今日の歩行距離約12km。

写真1
その名の通り横浜のランドマーク。この後1時間の迷子に。

写真2
素敵な海をふたりで泳ぐ。小学校の壁に書かれた卒業作品。

2010年2月18日木曜日

歩48日目 神奈川県川崎市

天候 曇り
気温 9時 4.1度
   17時 5.5度

不安な朝を迎えていた。

いざリーチング佐多岬の公開募集なんてしてみたものの、結局は僕の独りよがりな企画だ。しかも平日の日中という条件を考えると、誰ひとり来ないんじゃないかという後ろ向きな考えが頭をよぎる。

いいさ。例えそうだとしても、単にそれまでのこと。

そう簡単に割り切ることが出来ないほど、僕の中でこの旅は大きな意味を持ち始めていた。不安と期待がない交ぜになり、何度も深呼吸した。

6時45分。起床。布団をたたみ、荷物をまとめる。仕事へ出かける友人を見送り、朝食をとったら電気を消してお世話になった部屋を出た。鍵はポストに入れた。不安を払拭するように両手でぱんと手を叩いた。

8時30分。日本橋到着。到着早々声をかけられた。そこにいたのは宗谷岬で一緒に年を越した男性だった。彼は、仕事前にわざわざ日本橋まで僕に会いに来てくれたのだ。
握手で再会を喜ぶ。あの日の夜が蘇る。凍えるバス停で一緒に酒を飲んだ。まだ1月半しか経っていないのに、それはもう遠い日の記憶のようだった。
「なかなか歩くペースが早くて驚きましたよ」
という彼は、袋にどっさりと差し入れをくれた。
まただ。
また優しい手だ。僕は何もしていないのに。僕は何も返せないのに。ありがたくその袋を受け取りながら、いつもの様に僕の胸はきゅうっと締め付けられてしまった。心のずっと奥の方、一番柔らかな部分を、温かな両手で包み込まれる様な感覚。
「これからも応援してます。頑張ってください」
そう言うと彼は足早に仕事へと向かい、あっという間に人混みに紛れてしまった。朝の貴重な時間を割いてくれ、会いに来てくれた事が何より嬉しかった。


9時10分。その後は誰も来なかった。仕方ない。そろそろ出発しようかと思ったその時、目の前にひとりの女性が現れた。流山で僕を迎えてくれた女性だった。
「え?なんでいるの?」
驚いた。まさか彼女が来るとは思っていなかった。何故なら彼女は足の骨にひびが入っていて、今尚ギブスをしているからだ。
「一緒に歩こうと思って」
耳を疑った。いくら治りかけていると言っても、今尚足にギブスだ。
「足、大丈夫なの?」
「うん。ゆっくりで悪いけど歩けるよ」
本人が歩くと言うのなら止められない。彼女はリーチング佐多岬の7人目となってくれた。

日本橋を出発し、浜松町を目指す。朝の銀座をふたりでゆっくり歩く。可笑しな光景だった。旅の話は尽きず、あっという間に次の待ち合わせ場所に到着した。

10時20分。待ち合わせ場所にいたのは小さな可愛らしい女の子だった。僕を見て、駆け寄るようにして前に立つと
「ナカタさんですか?」
と言った。
初対面だった。彼女は僕のブログの読者だった。よくコメントをくれて、東京に来たら一緒に歩きたいと言ってくれていた。ブログを通じて人と会ったのはこれが初めてだったので、とても不思議な感覚だった。僕の投げ掛けに、目に見えぬ場所から波が帰ってきたようだった。小さな川を下ってきた船が、ついに大洋にたどり着いたような気分を味わった。目の前が一気に開け、外海との繋がりを見た。可能性の広がりを感じた。
「はじめまして」
挨拶を交わし、3人で歩き始めた。彼女がリーチング佐多岬の8人目となってくれた。

品川に到着したのは予定よりもずいぶん早かった。駅前の喫茶店に入り、いろいろな話をした。初対面だけど3人とも旅好きで、話題には事欠かなかった。
「行きたい場所がたくさんあるんです」
そう言う女の子はまだ若く、羨ましさを覚えるほど可能性に満ち溢れて見えた。

昼を少し過ぎた頃、旅仲間のひとりが仕事を終えて駆け付けてくれた。彼と初めて会ったのは沖縄の石垣島で、屋久島や北アルプスなどの山々を一緒に登る仲だった。そんな彼も快くリーチング佐多岬の9人目となってくれた。

4人で待ち合わせ場所の郵便局へ向かう。残念ながら誰も来なかったが、次第に増える人数に比例して、僕の心も満たされていった。
レストランで昼食にしたら、ここで日本橋から歩いてきた女性と別れることとなった。10km近くも怪我を押して歩いてくれた。ありがとうを何度も言った。ひとりづつ握手をして、彼女に見送られる形で別れた。

品川から第一京浜を外れ、旧東海道を3人で歩いた。趣のある旧道だった。都心にもこんは場所があるんだね。3人でそんな話をした。

次の集合場所の大森海岸駅前には30分ほど遅れて到着した。誰も居らず、少し休憩して先へ進む。

17時30分。1時間遅れで目的地の公園にゴールした。日本橋から19km。日は既に暮れかけていた。無事到着した喜びを、お互い握手で確認した。
「結構疲れたね」
僕の言葉に皆うなずいた。

当初このまま多摩川でキャンプでもしようと考えていたが、参加者が誰もいないのと、旅仲間の彼が家に泊まっていけばどうだと言うので、その言葉に感謝し甘えることにした。

多摩川を渡り、神奈川県に入る。橋の上からマンションの部屋の明かりが無数に見えた。暗い土手を並んで歩き、川崎駅で女の子と別れた。ありがとうと最後の握手。改札を抜けてホームへと向かう小さな後ろ姿を見つめ、彼女は楽しんでくれただろうか?そんな事を思う。うん。きっと大丈夫。僕がこれだけ楽しかったのだから、きっと彼女にもそれが伝わったはずだ。僕は、何の根拠もない答えを出した。

旅仲間の彼と駅近くの居酒屋へ入る。荷物を下ろし、冷たいビールに喉を鳴らした。
その後、仕事を終えた僕の友人が3人も加わった。
「仕事がなかったら一緒に歩きたかったんだけどね」
「ブログ毎日楽しみにしているよ」
わざわざ会いに来てくれて、さらにそう言ってもらえるだけで僕は幸せだった。中には僕の為に応援歌(右側ガジェットにリンクがあります)を作ってくれた友人もいた。

楽しく酒を飲んだ。たくさん話をした。そして、抱えきれない程の元気をもらった。応援してくれるその気持ちに、素直に応えたいと思った。

リーチング佐多岬の公開募集は大成功だったと思う。1日にこれだけ多くの、僕を応援してくれる人に会ったのは初めてだった。朝の不安な気持ちなど微塵も無くなっていた。僕は、嬉しく思う。ほろ酔い気分で流し込むビールは、充実の味がした。
この日、僕の中でこの旅がさらに大きな意味を持つこととなった。

今日の歩行距離約20km。

写真1
日本橋で宗谷岬以来の再会。優しい手。

写真2
品川駅にて。リーチング佐多岬の過去最高人数を記録。

写真3
仕事終わりに駆け付けてくれた。ひとりひとりから何かを託された。

歩47日目 東京都千代田区

天候 曇りときどき雪
気温 6時 14.7度(室内)
   17時 12.0度(室内)

旅の折り返しというのは、いつだって少し寂しく思うものだ。

例えばそれは、目的地に到着し、後は来た道を引き返すという場合だけに限らない。今回の様に、北から南へ移動する旅の場合にも当てはまる。
それは日数的なものだったり、距離的なものだったりするのだけど、半分が過ぎた、という思いがそうさせるのだろう。

バイクで日本を旅していた時、最南端の波照間島でそれを強く感じた。もちろん同じ道を走って帰る訳ではないが、もうこれ以上進む事が出来ない所まで来てしまったという思いが、そうさせた。最果ての、碧の絵の具を染み渡らせたような海を見つめ、その時の僕の心中は悲喜交々だった。

今日、僕の旅の2ndステージが終わった。日数的にも、距離的にも、ほぼ半分だった。2ndステージのゴールとした日本橋に到着すると、あの、南の島で感じた思いが再び込み上げてきた。あの海を見つめている自分が、心の中にいた。

8時00分。起床。今日は日本橋まで歩き、一度2ndステージの奥州北関東編を終わらせようと思う。と言っても友人宅からそこまではたった1kmちょっとしかない。歩いて20分。散歩みたいなものだ。

午前中は、この2ヶ月あまりの間に溜まった小さな用事を片付ける。放浪の旅をしていても、銀行や郵便局などのややこしいあれこれは発生するものだ。移動中はなかなか時間が取れないため、今日まとめて済ませた。

友人の自転車を借りて買い物へ出かける。旅も順調に折り返したということで、ささやかながら自分ご褒美を。まずはチタンのシェラカップ。チタン製品はなかなか高価だし、米を炊くなどの調理にはあまり適していないため今まで持ったことがなかった。でもシェラカップならせいぜいお湯を沸かすくらいだし、軽いチタンの方がいい。やはりバイクで旅をしていた頃とは違い、重量に対する目がかなりシビアになっている。
もうひとつのご褒美はまだ内緒。今すぐ使える物ではないので、その時がきたらいずれまた。

15時10分。日本橋へ向けて歩く。神田駅前に溢れる人波をかき分け、しばらく行くとあっさりそこに到着した。日本国道路元標。行き交う人の誰もがそれを気にも留めていなかったが、僕にとってはここが奥州北関東編のゴール地点で、同時に東海道編のスタート地点だった。

僕は、その小さく冷たい道標の先に、あの日の碧い海を見た。旅が折り返した瞬間だった。

深い呼吸をひとつ、ゆっくりと行った。感じる寂しさは、吐き出す息と共に全て口から流れ出た。
よし、行こう。
次の瞬間、寂しさはもう無くなっていた。終わらせることによって始まるものがある。
次なるステップへの一歩を踏み出す準備が整った。

今日の歩行距離約1km。

写真1
日本国道路元標。折り返し地点にはふさわしい。

写真2
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2010年2月16日火曜日

歩46日目 東京都千代田区

天候 曇りのち雨
気温 6時 10.5度(室内)
   17時 5.4度

***

お知らせです。

いよいよ明日に迫ったリーチング佐多岬の公開募集。

ルートと立ち寄る場所を決めましたのでお知らせします。
3rdステージの東海道編は、文字通り東海道(できるだけ旧東海道)を歩く予定です。ですのでもちろん出発は日本橋としました。
当日ゴール予定の多摩川までは、基本的に国道15号(第一京浜)を歩きます。以下にスタート、ゴール、立ち寄る場所の時間割を記載します。
途中参加も大歓迎ですので、もし参加可能な方は立ち寄った先でぜひ合流してください。

また、多摩川キャンプは参加者が居なかったら翌日の天候を考えて中止にするかもしれません。ご了承ください。

9時00分。半蔵門線三越前B5出口付近にある日本国道路元標を出発します。

10時20分。浅草線&大江戸線大門駅A4出口交差点にあるサンクスに立ち寄ります。

12時30分。JR品川駅高輪口から第一京浜を田町方面に200mほど行った所にある品川駅前郵便局に立ち寄ります。

品川あたりでちょっとお昼休憩。

15時00分。京急本線大森海岸駅前の第一京浜沿いにあるファミリーマートに立ち寄ります。

16時30分。六郷土手駅と第一京浜の間にある宮本台緑地公園をゴールとします。

かなり余裕を持った設定にしているので歩くスピードはそれほどでもありませんが、距離にすると20kmはあるので全部歩くと結構ハードだと思います。
途中にコンビニがたくさんありますので、水などはいくらでも補給できます。歩きやすく履きなれた靴を履いてきてください。

僕は、黒いジャケットに大きなバックパック(紺色のパックカバーをかけて、黄色の反射バンドを巻いています)を背負っているので、たぶん一目で発見できると思います。気軽に声をかけてください。

天候はなんとか持ちそうなので、のんびり歩きましょう。

***

昔の同僚が、僕のために録画したテレビ番組を見せてくれた。
「お前、こういうの好きだろ?」
そういって見せてくれたのは、栗城史多という若き登山家の特集だった。名前は聞いて知っていたが、テレビを見るのは初めてだった。

番組を見終わった僕は、感動で言葉が出なかった。うまく言えないけれど、胸の中に熱いものがこみ上げ、今すぐにでも何かをしなければ、そんな気持ちになった。
難しいこと。苦しいこと。それに本気で向き合い挑戦する姿というのは、無条件で人に感動を与えるものなのだ。

僕は彼ほど若くはない。同じようなことはもうできないかもしれない。だけどそんなことはどうだっていい。
誰だって、いくつになったって、エベレストに「挑戦」することは可能だ。出来るか出来ないかではない。やるかやらないか。本当に大切なことはそこなんだと思う。
前へ進む一歩を踏み出すことの大切さ。それを僕は改めて胸に刻んだ。

明日、僕はこの旅の2ndステージを終了させる。そして明後日には新たなステージが始まる。きっと新たな気持ちで歩き出せることが出来ると思う。

8時20分。起床。布団でゆっくり睡眠をとったが、夜中暑くて何度も目が覚めた。体が寒冷地仕様になっているのか。毛布一枚で眠るのが丁度よかった。

布団をたたみ、1階に下りると米の炊けるいい匂いがした。ラリーのゴール時にお帰りと言ってくれた女の子が、すでに起きて炊いていてくれたのだ。
ふたりでこたつに入り朝食にする。流山の友人は朝早くに仕事へ出てしまったし、他のメンバーは夕べのうちに帰ってしまったので、今はもうふたりしか居ない。あんなに賑やかだった週末がうその様に静かだ。

ぼちぼち出発の準備をする。今日は都内の友人宅まで約30km。昼前に出れば大丈夫か。洗濯物をたたみ、すべての荷物をバックパックに詰めていく。何がどこへ収まるか。道具をしまう順番は、旅の途中、いつの間にか確立されていくものだ。だけどいつもと違うのは、ひとつの荷物を詰めるたびに寂しさが募っていくことだった。
「もう1日泊まっていけば?」
女の子の言葉につい甘えたくなってしまう。居心地のいい場所を離れるときほど辛いものはない。
「歩き終わったらまた来るよ」
僕は、まるで自分に言い聞かせるように答えた。

11時20分。出発。外はいつの間にか小雨が降っていた。カッパの下を履こうかと思ったが、これ以上ここに居ると本当に決心が鈍りそうだったから、何度も手を振ってその場を去った。
「歩き終わったらまた来よう」
僕は、自分に言い聞かせるように呟いた。

国道6号に出るまでは江戸川の土手沿いを歩いた。雨は次第に強さを増し、都会の町並みが白くくすんで見えた。橋の下でカッパを着込む。さすがにこの雨脚でカッパなしでは限界だった。

国道6号に乗り換え、都心に向けてひたすら進む。中川、荒川、隅田川。川をひとつ越える度に景色が変わっていった。立ち並ぶビルは高さを増し、代わりに空が狭くなった。それが、都会らしさというものなのかも知れなかった。
その頃にはすでに靴の中までずぶ濡れで、トイレを借りにコンビニへ立ち寄るのさえ気が引けた。冷たい雨だった。

17時30分。千代田区の友人宅に到着した。彼とは僕が過ごした短いサラリーマン時代の同僚で、今でも中のいい同僚のひとりだ。そんな彼は濡れ鼠の僕を快く迎え入れてくれた。

玄関先で真っ先にバスタオルを差し出し、
「また馬鹿な旅を始めたもんだな」
笑いながらそう言った。
「いつものことだよ」
僕も笑いながら乾いたタオルを受け取った。

今日の歩行距離約27km。

写真1
雨に煙る大都会。よくここまで歩いたものだ。

写真2
雨に煙る大都会2。空が狭い。

歩45日目 千葉県流山市

天候 晴れ
気温 6時 10.5度(室内)
   17時 13.5度(室内)

この旅は、僕の単なる独りよがりだと思っていた。
自己満足。
ただそれだけだと思っていた。

しかし、実はそうではないということを、旅を通じて少しずつ感じるようになっていた。そして今日、それは確信に変わった。

昨日、ラリーを終えた僕を待っていたのは、アパートの窓から漏れる柔らかな灯りだった。寝ずに歩いたゴールにおいて、これは本当に嬉しかった。
流山の友人がまだ仕事から帰っていないはずだったので、暗く寒い部屋へのゴールかと思っていた。しかしそこには温かな灯りがあった。先に到着していた旅仲間の女の子が台所で夕食の準備をしていた。

僕は漏れる灯りに嬉しくなって、元気にドアを開けた。女の子は笑顔で僕を迎えてくれた。
「ただいま」
僕は言う。
「お帰り」
彼女が言う。
自分の家でもないのにそう言える場所があるということは、旅人にとってこの上ない幸せだ。

挨拶もそこそこにすぐさまシャワーを浴びた。結局仙台を発ってから一度も風呂に入らなかった。1週間風呂に入らないなんて普段の生活なら考えられない。僕だって出来ることなら入りたかった。でももうそんなことはどうでもいい。それよりも、自分では気付かなくてもかなり匂うはずだ。早くきれいになりたかった。

シャワーから上がると流山の友人が帰宅していた。2日振りの再会。その後、続々と人が集まってきた。総勢で7人。皆どこかの旅でつながったメンバーだった。

楽しい時間はあっという間だった。うまい料理にうまい酒。そこに楽しい仲間がいれば、それは言わずもがな。楽しい時間を少しでも長く味わいたくて、僕は重いまぶたを必死にこじ開けていたが、日付が変わる頃には気を失うように落ちていた。

飲み過ぎの朝は頭が痛かった。旅仲間のひとりが沖縄の与那国島から送ってくれた花酒(アルコール度数が60もある泡盛)にやられたようだ。当初は流山を1泊だけで出ようと思っていたが、あまりにも疲れすぎていたために1日休養することにした。飲み過ぎたのはその安心感があったからかも知れない。

結局今日は1日のんびり。何もしない。ひたすら体力の回復を図る。足首から下などはまるで捻挫でもしたかのようにむくんで熱をもっているし、膝は階段の上り下りが辛く、ただ歩くだけで眉が動いてしまうくらい足の裏が痛かった。昨日まであれだけの距離を歩いていた自分の足が嘘のようだった。心構えひとつでこうも変わるものか。気が抜けた今日はとても重い荷物を背負っては歩けない足になっていた。人間必死になるということは凄いことだ。

今日の夜も楽しい時間は続いた。昨日のメンバーのうち何人かが帰り、新しく何人かが加わっていた。そして風呂上がりの僕をひとつの波が待っていた。

僕がこの旅を始めたことによって、ひとつの波が生まれた。その波紋は僕を中心に広がっていった。そしてそれは僕の独りよがりで自己満足の波だと思っていた。静かな水面に石を投げ、揺れるそれを眺めて満足する。そんな感覚だった。

だけどそれだけではなかった。
僕の周りにはたくさんの人がいて、僕の発した波を受け止め、返してくれる人がいたのだ。旅の中で出会い、優しい手を差し延べてくれる人がいた。遠くから僕を応援してくれる人もいた。

風呂上がりの僕はなぜか鍋を持たされていて、ふたを開けると何枚かのメッセージカードと、たくさんの食糧が入っていた。今回僕が流山に到着するのに合わせて、旅仲間達が僕のために寄せてくれたのだ。北は北海道から南は沖縄まで。全国に散らばる旅仲間から熱い言葉が送られていた。

泣けた。

そのメッセージカードひとつひとつを読むたびに、目頭が熱くなった。こんなにも僕を応援してくれる仲間がいる。そのことに僕は胸がいっぱいになり、喉を詰まらせた。周りを見渡すと、そんな僕を優しく見守る顔があった。

僕は、なんて幸せ者なんだろう。

僕を取り囲むひとりひとりが小さな波を返してくれ、それが寄り集まって大きな波となり、僕を襲った。為す術なくその波に飲み込まれた僕は、完全に溺れてしまった。頭の中がじんとした。それは、温かく幸せな窒息だった。

この旅は、もはや僕ひとりのものでは無くなっていた。そして手に持っている鍋には、僕が旅をする本当の答えが詰まっているのかも知れなかった。

今日の歩行距離0km。

写真1
日本最西端、絶海の孤島から送られてきた刺客。強敵だった。勝てない。

写真2
ふたを開けると津波。もう、もみくちゃ。

2010年2月14日日曜日

歩44日目 千葉県流山市

天候 小雪
気温 6時 14.3度
   17時 5.8度

僕は、真夜中の国道を歩きながら昔読んだ本の事を思い出していた。

「真夜中のピクニック」
そんな題名だった。著者は恩田陸。高校生達が、学校の行事で80kmの道のりを夜通し歩き抜く。そんな内容の青春群像小説だった。

その時の僕はひとりで90kmの道のりを夜通し歩いていて、小説の内容とは似ても似つかなかったけど、こんな時に昔読んだ本をふと思い出してしまうのだから可笑しかった。

気づいた時には遅かった。ゴールまでひたすら国道を歩けばと思っていたから地図をろくに確認しなかったのもいけなかった。僕は、土浦バイパスに足を踏み入れてしまった。
後戻りするには来過ぎていた。バイパスを外れるには道がはっきりしなかった。余計な時間を消費する訳にはいかない。どうする?行くしかない。覚悟を決めた。

バイパスは次第に高速道路のようになっていった。始めは歩道スペースがあり、猛スピードで駆け抜けるトラックの風圧をなんとか耐えながら進めた。しかし高架道路になった時点でついに歩道スペースがなくなってしまった。
諦めた。ガードレールを跨ぎ、土手になった部分を足を滑らせながら下りていった。頭上を走るバイパスに並走して農道があり、そこを歩いた。この先どこまで並んで歩けるかわからなかったが、周りを見ても田んぼしかない。かろうじて左手に土浦の町の灯りが見えるが、そこまでかなりの距離があった。
祈るような気持ちで農道を進んだ。何度か道が途切れたが、その都度バイパスに上がる階段を見つけて切り抜けた。

信号機を見つけた時は嬉しかった。やっとバイパスが終わったのだ。約2時間。奔走してしまった。

3時00分。ローソンに立ち寄り休憩する。暖かい店内に入るとほっとした。夜が深まるにつれ気温が下がり、その時は1度まで下がっていた。歩いていても肌寒さを感じるほどだった。買い物がてらお湯をもらい、熱いコーヒーで目を覚ました。

4時30分。牛久市に入る。マンションが立ち並ぶ。朝の気配を感じる。新聞記者のバイクが町を縦横無尽に走り回っていた。

5時00分。マクドナルドに入り長い休憩をとった。重い荷物を背負って90kmを通しでは歩けない。途中で少しリセットする必要がある。
温かいコーヒーにマフィン。ブログを書いて30分の仮眠。3時間、ゆっくり体力を回復させた。

8時00分。再出発。店を出るとすっかり世が明けていた。朝の車が走りだしている。

9時00分。龍ケ崎市に入る。62km地点。左に牛久沼が広がる。

10時10分。藤代大橋を越える。66km。まばらだった家が急に密集しだす。

11時10分。取手市に入る。70km。残り20km。かなり足にきている。膝が少し痛む。

12時00分。利根川を越える。長い橋を渡ると首都圏に入ったと実感する。

14時40分。柏駅前に到着。82km。ここから国道6号を外れる。残り10km。あと少し。しかしここでエネルギーが切れる。足がとたんに出なくなる。荷物を投げ捨て道端に座り込んでしまった。ハンガーノックだろうか。まずい。荷物を軽くするために必要最低限の食糧しか持っておらず、行動食は全て食べてしまっていた。次のコンビニを目指し休み休み歩く。何か口にしなければいけない。チョコレートだ。チョコレートがいい。あの暴力的に血糖値を上げる物体。あと10kmなら板チョコ1枚あれば十分だ。
コンビニで板チョコを買う。その甘さに疲れを忘れられる。チョコレートを食べ、少し休むとまた足が出るようになった。

17時10分。たどり着いた。92km。29時間。長い戦いだった。設定時間内に歩ききれた。足は、なんとかもってくれた。

アパートに着くと部屋に明かりが付いていた。なんだか嬉しくなって、僕は勢い良くドアを開けた。

6泊7日、仙台・流山ラリーが終わった瞬間だった。

今日の歩行距離約52km。

写真1
バイパスを下りる。行くか、戻るか。答えはひとつ。

写真2
利根川を渡る。首都圏に入る。

写真3
無事ゴール。ラリーお疲れ様会が僕を待っていた。最高の時間。

2010年2月13日土曜日

歩43日目 茨城県土浦市

天候 曇り
気温 7時 3.8度
   17時 3.0度

悪循環だった。
最近の僕は完全に夜型になっていた。

距離を稼ぎたいがために日が暮れても歩きを止めず、日に日に寝る時間が遅くる。代わりに睡眠時間が削られた。短い睡眠では疲れが取れず、徐々に起床時間が遅くなっていった。いけないとはわかってはいる。それでも残業を止めなかった。

どこかで修正が必要だった。ずれた半日分を、戻すか、伸ばすか。答えは決まっている。明日の夕方まで流山に到着しなければならないのだ。稼働時間を伸ばし、無理矢理正常に戻すしかない。

夜通し歩こう。ラリーにナイトランは付き物だ。

だいぶ都心に近づいたおかけで国道にはきちんと歩道が整備されている。さらに街灯で夜も明るい。体力さえもてば問題ない。

真っ暗な深夜、誰にも知られずひっそりと日本縦断をする。うん。それも悪くない。そう思うとなんだかわくわくした。

9時00分。起床。昨日寝袋に包まったのは2時も近かった。その時間にはもはや目を開けているのが精一杯で、横になると頭がぼぅっとした。心地よかった。橋の上を通る車の音さえ、まるで子守歌のようだった。

まだ暗いうちに目が覚めたが、二度寝した。今晩に向けて少しでも寝ておいた方がいい。
起きてから朝食にサンドイッチ。11時には昼食のラーメン。テントの中で昼食まで食べたのは初めての事だった。

12時10分。出発。すっかり交通量の増した水戸大橋の上に乗り、南下を始めた。もはや国道6号から外れる気はない。最短距離を突き進む。
ここから流山まで約90km。目標到着時刻は明日の18時。ほぼ30時間ある。ラリーの最終仕上げといこう。きっと大丈夫。足さえもてばなんとかなりそうだ。

歩き始めて周りに山がない事に気づいた。関東平野に入ったのだ。晴れていればやがて右手に筑波山が見えるだろうが、今日の曇り空ではきっと望めないだろう。残念だ。

17時00分。茨城トラックステーションで小休憩。ここまで約20km進んでいる。いいペースだ。

19時30分。石岡市に入る。出来れば石岡市で風呂にでも入って少し仮眠したかったが、石岡警察所で聞いても近くに風呂屋はないと言われる。残念ながら今日も風呂は諦めるしかなかった。

21時30分。約30km進む。全体の3分の1を終えた。所要時間9時間20分。まだ設定範囲内だ。
少し休憩をしようとバス停のベンチに座るとうとうとしてしまった。体か冷えて目が覚める。疲れは確実に溜まっているようだ。

24時00分。健康センターを発見した。もしかしたら風呂に入れるかもと思ったが、入館料に深夜料金を足すと2400円にもなり、風呂に入るだけでそれはちょっと高すぎると思い諦めた。最近はことごとく風呂に嫌われている。

健康センターを過ぎるとすぐに土浦市に入った。ここまで約40km。所要12時間。まずまずだろう。
眠気はうっすら感じるものの、足はまだまだ前へと進んだ。このままなら十分時間内に到着出来そうだ。
そう思うと、これから迎える真夜中もなんとかなりそうな気がした。きっと大丈夫。自分で自分を信じるしかなかった。

今日の歩行距離約40km。

写真1
小さな春見つけた。

写真2
14時50分。東京まで100km地点を通過。スパートをかける。

2010年2月12日金曜日

歩42日目 茨城県水戸市

天候 曇りのち雪
気温 7時 5.5度
   17時 3.1度

ゼンマイ仕掛けのオモチャを思い出す。

僕は、ゼンマイ仕掛けのオモチャのようだ。朝起きると背中に付いたネジはいっぱいに巻かれていて、勢い良く歩きだす。出だしは好調。動力はたっぷり蓄えている。

しかし日も暮れると、背中のネジはもう伸び切ってしまう。カタカタと、かろうじて足を動かす程度のものとなる。

もう足を支えているのは気持ちだけだ。
頑張ろうという気持ち。
励ましてくれる人達の気持ち。

そういうものに僕は支えられている。

6時00分。起床。またしても朝起きられず。やはり体力を回復するために、6時間睡眠を体が要求しているのかも知れない。
夜中に降り始めた雨は上がっていた。濡れた草の匂い。波の音。キャンプらしい朝だ。朝食はお湯を沸かしてコーヒーにサンドイッチ。いつも通り。

近くにゴルフ練習場があるようで、朝も早くからボールを飛ばすいい音が聞こえる。
今日は午後から雨予報。寝袋、着替えなどをポリ袋にに入れ、カッパをすぐに取り出せるよう荷物の一番上に入れた。

8時30分。出発。今日の目的地は水戸。ここから50km以上ある。歩き出しがこんな時間だし、午後から雨予報とあって到着は極めて困難かと思う。

10時30分。日立市に入る
国道6号はまだ海の側を走っているが、この先市街地に向けて次第に海から離れてしまう。この先太平洋を見るのは東京を過ぎてからになるだろう。それまでしばらくのお別れだ。

13時30分。日立駅を通過。昼をとっくに過ぎたというのにまだ20kmしか進んでいない。全体の半分も来ていない。今日もかなりの残業になるなぁ、なんて思って一生懸命歩いていた。
向かいから歩行者が来て、僕は左側に寄って歩いた。携帯電話を打ちながら歩いているので僕に気づいてないかもしれない。そう思ったのだ。
その時、なんだか妙な違和感を覚えた。誰かに似ていた。あれ?誰だっけ。携帯電話を打っていて顔はよく見えなかった。だけどこんな所で知り合いに会うはずもない。それでも気になってもう一度歩行者を見た。

まさか。
こんな場所に居るはずもないのに?

驚きを隠せなかった。その人は流山に住む僕の友人だった。僕が勝手に仙台・流山ラリーなんて言っている、そのゴール流山の友人だった。
その場で立ち止まる。僕は呆気にとられる。そんな僕の間抜け面を見て、彼はにやりと笑った。全ては彼の思惑通りに進んだようだ。
「よぅ!元気に歩いているね」
日々の挨拶のようにさらりと言った。
僕は、驚きと嬉しさがごちゃ混ぜになって、くねくねくねと身をよじってしまった。
「なんで居るんですか!?」
「いやぁ、頑張ってる歩いているのを応援しようと思ってさ。とりあえず、少し一緒に歩こうか」
僕はさらにくねくねしてしまう。

先に止めてある彼の車まで一緒に歩いた。リーチング佐多岬の6人目だった。それは短い距離だったけど、彼の気持ちは大きなものだった。僕はそれをしっかり受け取った。

じゃあまた土曜日に。そう言って別れた。思わぬ激励だった。彼は僕を心配してよく応援のメールをくれていたが、まさかこうして会いに来てくれるとは思わなかった。おかげで足取りは軽くなり、元気が湧いてきた。感謝の気持ちが溢れていた。気付けば背中のネジが巻かれていた。

空は、今にも泣き出しそうだった。このままもってくれないかな?そう思ったが願いは通じず、ぽつりぽつりと始まった。コンビニに避難。だけどまだ本降りではないので先を急ぐ。
次第に雨足は強まったが、それはみぞれに変わっていた。これならカッパの下を履かなくても良さそうだった。

18時30分。久慈川を越える。みぞれは完全に雪に変わり、辺りを白く染めていた。重い雪。体に当たる雪は溶けて濡れた。
橋の下でサンドイッチをふたつ食べる。まだまだ4時間は歩くから腹ごしらえは必要だった。それに、空腹ではやる気も出ない。フードを被り、ネックウォーマーを上げたら気合いを入れて外に出た。

いつもは聞かない音楽を聞いた。小さなMP3プレイヤーのスイッチを入れる。イヤホンからはジャック・ジョンソン。耳に流れるゆるい音楽に身を委ねると、目に写る景色はなんだか映画のスクリーンを観ているようだった。冷たい雪も、車の喧騒も、一切の現実味を失った。
「全てはうまくいくさ」
ジャック・ジョンソンが歌っていた。

23時30分。那珂川を越えた。水戸市に入った。雪は降り続いている。水戸大橋の下にテントを張った。あまりいい場所ではなかったが、雨風をしのぐにはここしかなかった。濡れた荷物を解き、寝袋を出す。その温もりに日々救われている。安堵のため息が出る。

「全てはうまくいくさ」
ジャック・ジョンソンは歌っていた。

今日の歩行距離約52km。

写真1
背中のネジを巻いてくれた人。

写真2
海辺キャンプ。朝日は残念。

写真3
まさかの雪。一面白に。

2010年2月11日木曜日

歩41日目 茨城県北茨城市

天候 曇り
気温 7時 6.1度
   17時 3.3度

以下は昨日のデータ。書き忘れ。

天候 晴れ
気温 7時 3.7度
   17時 14.4度

***

お知らせです。

〜 リーチング佐多岬 公開募集! 〜

僕の勝手な思いつきで始めた「リーチング佐多岬 一緒に歩きませんか?」の企画ですが、今日までに5人もの人が一緒に歩いて下さいました。

旅先で出会った人。
訪れた先の友達。

もしかしたら誰とも一緒に歩かぬまま佐多岬まで行っちゃうんじゃないかと思っていただけに、歩いてくれた方々には本当に感謝しています。

そこで。
3rdステージ東海道編のスタートに合わせ、一緒に歩いてくれる人を公開募集します。

今のところ考えているのは下記の通り。日程の都合上週末に出来ないのが残念ですが、もし一緒に歩いてやるか〜なんて人がいたら是非とも一緒に歩きましょう。

日にち:2月17日(水)
時間:午前9時
場所:東京日本橋スタート

参加される方は9時までに日本橋に来て下さい。当日飛び入り大歓迎。大きなバックパックを背負った僕がいます。

また途中途中で時間を決めて、駅やわかりやすい場所にいくつか立ち寄っていく予定です。なので途中参加でもかまいません。ルートや立ち寄る場所、時間は後ほど決定しお知らせします。
もちろん歩きたいだけ歩いて下さい。1時間だけ、1駅分、なんでもオッケーです。

その日はのんびりと約20kmほど歩き、夕方から多摩川辺りにキャンプしようと考えています。僕の友人も一緒にキャンプしてくれるようなので、もしキャンプもしたい!なんて人がいたら一緒に寒空の下、モコモコに着込んで酒でも飲みましょう。

ちなみに雨天決行です。
晴れてくれるといいなぁ。

***

ついに関東入り。長かった東北を、たくさんの思い出を残し、抜けた。

これで北海道、東北と色を塗ったことになる。一歩を重ねていけば、着実に前に進んでいく。そのことを改めて実感した。

5時30分。起床。いつもより1時間遅い起床。とても4時には起きられなかった。
空は一面曇りで、海から昇る朝日は見られず。残念。

8時00分。出発。犬の散歩にきたおばあちゃんと、昨日は温かかったですねぇなんて立ち話。

塩屋崎の灯台を目指し、約1時間で到着。
一度バイクで訪れた事がある場所だ。あれは夏の暑い盛りだった。今日もあの日と同じように美空ひばりは歌っているが、海水浴客で溢れていた砂浜は、今はひっそりとあった。もちろんそこには上半身裸で日光浴をしている僕もいない。
静かな浜辺を見ていると、夏もいいけど冬もいい。そんな事を思った。

美空ひばりの歌碑の前にあるお土産屋のおばちゃんと、昨日は温かかったですねぇなんて立ち話。今日出会う人とはきっと同じ会話をするのだろうなぁなんて思い、ひとり可笑しくなった。

冷たい海にサーファーの姿。北国のサーファーも大変だ。いくらウェットスーツにグローブ、ブーツをしても、寒いものは寒い。耳なんてちぎれそうになる。僕はつくづくサーフィンは暖かいところのスポーツだよなぁと思う。

10時40分。小さな神社で昼食。神社はいい休憩場所だ。町にあるような神社ならまず人はいないし、鎮守の森とまではいかなくとも必ず木がある。静かな神社の境内に座っているだけで、ほっと心が落ち着くものだ。

12時00分。小名浜市街地を通過。県道15号を歩く。生活道路らしいそれは、道幅は狭いが個人商店が立ち並び、どこか風情があっていい。

13時10分。国道6号に合流。昨日に夕方から国道を離れ、約25kmのいい寄り道だった。

15時00分。国道6号から下ろされた。バイパスは人が通れないらしい。植田の町中で迷ってしまう。うろうろうろうろ。河川敷のグラウンドではでラグビーの試合。バイクなら間違いなくコーヒーでも飲みながら観戦していたが、今日は横目に通りすぎるだけ。

16時30分。なんとか国道6号に復帰し、勿来駅に到着。勿来は白河、鼠ヶ関と並ぶ奥州三古関のひとつ。その昔奥州に入るにはその3つの関のどれかを通らねばならなかった。だからここを通過するということは僕的には奥州を抜けたことになる。

17時20分。茨城県に入った。長かった東北が終わった。ついに関東か。そう思うと目に写る町並みさえ違って見えた。

21時00分。目的としていた高萩までは行けず、5km手前でタイムアップ。
国道から暗い松林を抜け海岸に出る。砂浜までは行かず、芝生の上にテントを張った。ふかふかの芝生は絶好の寝床だ。

明日の天気は下り坂らしい。また海からの朝日はお預けか。

今日の歩行距離約43km。

写真1
美空ひばりと塩屋崎灯台。冬もいい。

写真2
勿来駅にて。奥州脱出。

写真3
ついに関東だ!2ndステージも大詰め。

2010年2月10日水曜日

歩40日目 福島県いわき市

その時の僕は、スーパーマーケットで買い物がてらベンチに座って休憩をしていた。
携帯電話に一通のメールが届いた。南の島にいる友人からだった。嬉しいことに激励の言葉が書いてあった。
その場で返信した。メールは一瞬のうちに南の島に飛んでいった。僕は携帯電話の小さな画面に南の島を見ていた。綺麗な海。珊瑚礁。温暖な気候。それは、とても魅力的だった。僕の心は、メールと共に南の島に飛んでいった。
店を出ると、身を切るような寒風が一瞬にして現実に引き戻した。
歩かねば。
そう思った。

昨日は春だったが、今日は夏だった。日中の気温は18度にものぼった。ついにTシャツ一枚になって歩いた。心はすっかり南の島だった。もう身を切るような寒風はない。暑かった。

ゴーグルを着けフードを被り、ネックウォーマーをガチガチに凍らせながら歩いたあの吹雪の日は、もう遠い昔になってしまった。

4時30分。起床。寒くないと寝袋から出るのにも気合いを入れる必要がない。昨日の夕方、スーパーマーケットで買っておいた半額の弁当を食べる。朝から満足。

7時00分。出発。テントを撤収し、ベンチでコーヒーを飲んだ。朝焼けが綺麗だった。しかしこうやってのんびり外でコーヒーが飲めるなんて今まででは考えられない。いつもなら体を暖めるために一刻でも早く歩きたかったからだ。

靴に慣れたのか。できたマメが潰れ、またマメができて潰れてを繰り返したからか。だいぶ足の裏が痛くなくなった。もう足の裏の皮なんて倍以上の厚さになっている。人の体はすごいものだ。

12時00分。楢葉の道の駅到着。ここの道の駅には温泉が併設されていて、本当なら昨日の夜、ここまで歩くつもりだった。でも仙台市内を通過するのに手間取ったために届かなかった。風呂はお預けか。仕方ない。
期間を決めて歩いていると、風呂は大きな問題になる。別に入らなくても死にはしないが、さすがに1週間も入らないというのもいやだ。疲れも取りたい。
しかし日中の明るい時間帯はひたすら歩くため、とても風呂に入っている暇などない。そうなると到着した場所に風呂がないと入られないわけで、あらかじめ2、3日前からあたりをつけて歩く。その間に距離を調整しておくのだ。
しかし今回みたいなってしまうと、また地図とにらめっこだ。穴があくほど地図を見ていると、今日の到着予定場所の3kmくらい手前に温泉があった。ここなら入られそうだ。よしよし。ほっと一安心。

13時00分。ついにカッパを脱ぎ、Tシャツ一枚に。日に当たって僕の持っている温度計は狂っているが、道路脇にある温度計は18と表示していた。
歩いていると暑かった。今までは暖かな陽なたが有り難かったが、今は日陰がひんやりしていて丁度いい。それはまるで夏に感じられた。

14時30分。いわき市に入る。しばらく歩くと国道6号は海に付いて走るようになった。潮の香りがする。波の音が聞こえる。晴れた日に海沿いを歩くのはいつだって気持ちのいいものだ。
17時40分。いわき市街地を抜ける国道から外れ、海沿いの県道に入る。塩屋崎の灯台を目指した。松林に囲まれた県道を歩いていると、あっという間に辺りは暗くなってしまった。遠くに見える灯台の灯りが目標だった。

20時00分。疲れ果てて到着した温泉は、すでに営業時間を終えていた。午後4時までだった。がっくりと肩を落とした。ここを目標に歩いたのに。重い足を必死に動かし、なんとかたどり着いたのに。
しかし、旅をしているとこんなことは日常茶飯事だった。仕方ない。また地図に穴をあけるしかない。

すっかり心が折れてしまって、もう歩けなかった。閉まった温泉近くの松林を抜けて暗い海に出た。低い防波堤のところにテントを張る。風が出そうな気がしたから松林を背にするようにし張った。波の音が心地よかった。

テントに入るとぐったりしてしまった。もう夕食を作るのも億劫に感じられたが、腹の虫は催促をやめない。体力を回復するために何かも食べなければ。といっても今日は買い物をしていないから昨日と同じような内容だ。

疲労と寝不足が溜まってきている。泣き言は言いたくないが、無理はしないことだ。明日はゆっくり起きるとしよう。海辺にテントを張ったから、もしかしたら海から昇る綺麗な朝日が見られるかもしれない。

今日の歩行距離約47km。

写真1
コーヒーを飲みながら。優雅なひととき。

写真2
太平洋とたわむれる。すっかり衣替え。

写真3
今日のあり得ない。夏なのだった。