2016年11月7日月曜日

ベロシメトロは赤道を越えて vol.1

「あぁ。それなら、北に少し行ったところだ」

窓口に立つ男は、そう言った。
中南米のいくつかの国では、一般道にもかかわらず、ところどころでPeaje(ペアヘ)という料金所がある。料金所なので、そこを通行する車両はみな一様に課金される。たとえそれが小さなバイクとあっても、例外ではない。旅行者にはあまりうれしくない存在だ。そこの窓口の男は、確かにそう言った。

北?
その言葉に耳を疑った。
北からやって来たのだ。
見逃した、ということか。
見逃したというよりも、この場合、通り過ぎたという方が正しい。

「Linea del Ecuador(リネア・デル・エクアドル)」は、スペイン語で赤道を意味する。地球を二分するそのラインを、まさか、気づかずに通り過ぎるなんてことがあるのだろうか?
仕方なく、料金所のゲートを抜けてUターンをする。窓口にいる男は、顔色も変えず、再度通行料を請求してきた。まじかよ。今さっき20セントを支払ったばかりだというのに…。


エクアドルへの入国は、すべてが滞りなかった。これまでの国境越えで、一番スムーズだったかもしれない。なんのストレスも感じることはなかった。入国カードの記入さえ問われなっかのは、エクアドルが初めてではないか。パスポートを手渡しただけで、バンッと大きな音を立て、査証のページに入国のスタンプを押されてしまった。その小気味良い響きに、体の力が抜けていくほどだった。

エクアドル。
南米第二の国である。その名の通り、この国には赤道が走っている。南米ではエクアドルのほか、コロンビア、ブラジルにもそれが通っている。
カナダから始まった旅だ。南下するにあたり、赤道を、南米の、どこかで。
頭の片隅で考えていた思いは、実はもう目の前で、それがエクアドルということはほぼ疑う余地はなかった。
 
エクアドルの子気味良いイミグレーション。
ちょっとかわいい。

 簡素な標識。僕は、左へ。
Quito(キト)はエクアドルの首都だ。

発給油 de エクアドル。
産油国だけあって、ガソリンはとても安い。

入国初日、オタバロという村に宿を取った。国境から150㎞ある。入国で時間がかかれば、もしかしたらたどり着けないだろう。そんな杞憂もあった。しかし、実に物わかりのある入国審査官のおかげで、たっぷりと余裕をもって到着することができた。ありがたいことだ。

もっとも、余裕というのは時間的にであって、道のりとしては、やはりというか、それは大変なものだった。コロンビアからエクアドル。国を変えても、無辺と思えるアンデスの山々にとってはその関係など微塵もなく、人為的に引かれたラインほど無意に感じるものはない。今日も今日とて登りと下り。延々とそれ繰り返す道が続いていた。


かの有名なロッキー山脈。それを初めて目の当たりにしたのは、カナダであった。素晴らしかった。大陸の迫力に圧倒された。しかし、ここ南米アンデスも等しく素晴らしい。世界は広い。


そんな山道を、重い足取りで、必死にペダルを漕ぐ自転車乗りを見た。延々続くかのように思われる山道を、うつむきながらも、前へ、前へとペダルを回している。ひとつひとつ丁寧に、自らに課せられた仕事を全うするかのように。
広大なアンデスをゆっくりと進むちっぽけな自転車は、現実性というものを伴っていなかった。その光景が、あふれるでかさと不釣り合いで、あまりにも非現実的だったのだ。

だが。

その自転車乗りにとってこれはまぎれもない現実で、戻ることなど許されず、だけどそれを成し遂げることによって得られるものは、この瞳に映るアンデスの山々の様に、計り知れない。

大変そうだ。もちろん大変だろう。荷物は満載。エンジンもない。あるのは自らの動力のみ。ガソリンの代わりに、己の身体を燃やす。
なぜそこまで?
身を削ってまでも旅をすることは、生きることそのものの様にも感じられる。圧倒的な自然を目の前にして、日常では感じることのできない感覚に陥る。その領域に、彼はある。

彼も、きっとエクアドルで赤道を越えるだろう。それは、陸続きで旅をする者にとって、ひととき心躍る出来事なはずである。

つづく。

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