2011年10月22日土曜日

最後で最初の城塞

カリブの海でジンベイ鮫と泳ぐという夢のような体験をした僕。夢から覚めたのは、宿にチェックインしてから1週間以上も経ってからだった。


暑い暑いとぼやきながら、日がないちにち本を読んだりしていた。雨季に入ったユカタン半島は午後になると決まって雨が降りだしたが、その時までは抜けるような青空が広がる。それでも宿の外に出かけることなど指折り数えるくらいだった。いつのようにリビングの所定の場所に腰を据えると、いつものように時間が過ぎていった。見渡せば、まわりには同じような旅人たちがいた。そしてその誰もが長期の旅人だった。それは1年とか2年とか、中には日本を発ってから3年が過ぎたという者もいた。

誰も急ぐことをしなかった。皆自分の中に時計を持っているようだった。宿に入るや否やガイドブックに従うように観光地を足早に巡り、わざわざそれと同じような写真を撮り、そしてすべてをチェックし終わるとさっさと次の場所へ向かう。そんなことをする者は誰ひとりとしていなかった。
この場所に「いた」という事実を、その時計が刻む時間のみが満たしてくれた。そしてある一定の時間が経ちそれが満たされたとき、ひとりまたひとりと宿を出て行った。

9時には宿を出ようと思っていたのだが、起きた時にはすでに8時半だった。その日の行動計画は一旦白紙に戻さなければならかったが、白紙のままにしておくことにした。結局リビングで連泊者とのんびり話などをしていたら、あっという間に昼近くになってしまった。

その日、カンクンに来て初めてホテルゾーンを訪れた。何度となく来るタイミングはあったのだが、最後の最後になってしまった。もっともあまり魅力を感じていなかったというのもある。訪れたところで今の僕には別世界だからだ。しかし実際来てみたらそれはラスベガス以来の衝撃だった。突如として高層のホテル群が目の前に現れたのだ。まさにカリブのリゾート。文字通りの光景だった。
ホテルゾーンを抜けると307号線に乗り、そのまま南へ向かった。

衝撃のホテルゾーン。

トゥルムの町に到着したのは16時だった。日はまだ高い位置にあり、幸いなことに雨雲はない。トゥルムと言えばマヤ文明が最後にたどり着いた地であり、スペイン人が最初に目にしたマヤの都市だ。今でもカリブ海に面してその遺跡が残っており、多くの観光客が訪れているようだった。
遺跡観光は明日にして、まずは今夜の寝床を確保しなければならない。トゥルムの町は遺跡観光の拠点になっているためだろうツーリストの姿も多く、それを狙った店も多かった。探せばわりと簡単に安宿を見つけられるはずだ。

しかし僕は町を離れ、海に向かった。遺跡から南にのびる海岸線に沿い、かなりの距離にわたってキャンプ場があるようだった。そして、遺跡に一番近いキャンプ場に入った。料金は75ペソ。広い敷地のどこにでもテントを張って良いといわれたが、ざっと見て海から少し離れた大きな屋根の下にテントを張ることにした。風が少し出ていたのだ。客は、僕のほかに誰もいないようだった。

目の前に広がる真白な砂浜と真青な海は、その正しさを僕に主張するかのようだった。テントを張り終わると我慢できずに服を脱ぎ捨て海に飛び込んだ。陽が傾き始めているというのに気温も水温もほどよく、移動中にかいた汗を気持ちよく流してくれた。風のためか、少し波が高い。離れた場所には遺跡の神殿が見える。波が無ければ泳いでいける距離だ。あそこではその昔、マヤの人々が生活を営んでいたのだろう。独自の文化を持ち、独自の言語を使って。

ひとしきり泳いだあとは浜辺を散歩した。青い海で泳ぐ者もいれば、白い浜辺に寝転ぶ者もいた。赤い夕陽が西の空に落ちる頃、テントに戻った。キャンプ場に電気は通っていないようで、ちいさな発電機が弱々しい灯りを確保していた。


テント張り放題。

昇る朝日。

翌朝は海から昇る朝日を見た。サンドイッチとコーヒーの朝食を済ませ、すべての荷物をまとめ終わっても、まだ7時半だった。キャンプ場にバイクを預け、遺跡まで歩いていった。入り口にはすでに数人の客がいて、8時にオープンすると同時に入場していく。僕もそれにならった。

 歩いてきたのでバイクはなし。

入り口は狭い。

この景色はなかなかない。

トカゲもでかい。

城壁に作られた入り口を低くかがんでくぐり抜けると、目の前に遺跡群が広がった。遺跡は三方を城壁で囲まれ、残りの一方は海に落ち込んでいた。そもそもトゥルムとはマヤ語で城塞と言う意味をもっているらしい。その規模は小さいものの、海の素晴らしさと相まってとても魅力あるものだった。密林の中の遺跡もいいが、海を背景に見る遺跡もおつなものだった。

おわり。

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