2012年5月23日水曜日

最悪ないちにち

ティカル遺跡も見終わり、静かな湖畔での穏やかな日々を惜しみながら、次なる目的地に向けて走り始めた僕。その先で起こった事態はこの先の旅を変えることになったのだが。


グアテマラ中部に位置するコバンの町に向けて走ることにした。大きな道を選ぶのであれば国の東側を走る国道になるなのだが、コバンを抜けケツァルテナンゴ(以下シェラ)に向かいたかった僕は少しでも近道になるよう、あまり大きくは無い道を抜けることにした。それは何も無いが景色のいい田舎道だった。いくつかの村を抜ける。女たちが川で洗濯しているのが見える。小さな女の子は母親の後ろに付き、同じように頭の上に洗濯物が入った桶をのせ道を歩く。

川に橋はなく、ボートで渡る。

小さな村で休憩した。

コバンまでは予想以上に遠く、夕方のスコールまでに間に合わせることが出来なかった。残り50km。チセクという小さな町を抜けたところで乱暴にバケツをひっくり返したようなスコールにあってしまった。道はすでに山の中に入っており、かろうじて見つけた軒下に緊急避難した。何かの工房らしいその建物には誰もおらず、広い軒先に助けられる形となった。もうこれ以上はないだろうと思った雨脚だが、なおも激しさを増す一方。近くでは雷鳴がとどろき、とてもじゃないがカッパを着ても走りだせる状況ではなかった。

そんな僕にはおかまいなしに、陽は、あっという間に沈んでしまった。

大粒の雨の中、急ぎ足で家に帰る子供たち。

こんな状況においても人間腹は減るもので、軒下でインスタントラーメンを作って食べた。コバンまで行けば宿もあるし食堂もあるだろう。が、仕方がない。篠つく雨に、もうこのままここで寝てしまおうかと考え始める。すると向かいにあった民家からひとりの男が出てきて、何事か話しかけてきた。何を言っているか分からずにいたのだが、どうやら僕を呼んでいるらしい。そして、結局そのままその民家に一晩お世話になることになってしまった。

それは山中にある、明らかに貧しいと思える一家だった。しかし、マグカップになみなみと注がれた暖かいコーヒー(甘い麦茶のような味で、その時はそれがコーヒーだとは思えなかった)と、ベッドをひとつ、僕のために用意してくれた。ベッドはグアテマラ先住民の体格に合わせた大きさのため、僕が足を伸ばして横になると足首から先がすっかりはみ出してしまった。電気が通っていないか、もしくはこの大雨のせいで停電したか、夜はロウソクの灯りで過ごした。そして家族全員夜の9時には就寝した。僕も疲れた体を小さなベッドに横たえると、あっという間に眠ってしまった。言葉の違いのためあまり会話が弾むことはなかったが、お互いの気持ちはきちんと通っていたように思う。
山中にあり、町にある利便性はどこにもないが、質素で、実につつましく生活していると感心した。いったい何をもって豊かと言えるのだろう。そんなことを考えさせられる。

翌朝まだ日が昇る前から起き出した。時計を見るとまだ5時だ。それでも家族のほとんどが起きているらしく、今朝もまた甘い麦茶のようなコーヒーをご馳走になった。雨水を溜めた水瓶で顔を洗い、歯を磨く。トイレはどこかとたずねると、行きがけにノートを2枚、ちぎって手渡された。これを使え。つまりはそういうことらしい。肝心のトイレは穴を掘っただけの粗末なものだった。

何度もお礼を言って7時に民家を後にした。あの雨の中、屋根の下で寝られたことは本当にありがたかった。どこの馬の骨とも分からぬ東洋人を快く招いてくれたグアテマラ人の親切がうれしかった。

快く招いてくれたおじさん。

ありがとう。

民家を出発し、30分も経たぬうちに転倒した。

昨日の豪雨のためか、山から流れ出た水が道路を横切っていたのだ。さらには赤土を含んでいたため、とても滑りやすくなっていた。下りでスピードに乗っていたというのもある。いくつかの条件が重なり、案の定、次のカーブに備え左に体重を寄せた瞬間フロントは接地感を失い、そのまま左へ転倒した。すぐにバイクを放したつもりだが、転倒した瞬間に左手小指をハンドルの下に挟んでしまったらしい。

(あぁ、やってしまった。転んだんだ。これは現実だ)

バイクと共にアスファルトの上を流されながら、そんなことを思った。瞬間的な出来事なのに、意外に冷静に働く頭に我ながら感心する。

冷たいアスファルトの上に停止する。とにかく起き上がる。起き上がれてよかったのだが、左手小指は3センチくらいの幅で皮がむけ、肉がえぐれていた。破けたグローブの間から血が滴り落ちる。さらに左ひざにも違和感を感じた。見るとジーンズはぱっくりと破け、こぶし大の擦過傷ができている。左肩、左腰も打ちつけたのだろう痛みがある。
どうしようか?どうしようもない。とにかくバイクをなんとかしなければ。

近くの民家から村人が数人集まってきた。最初は遠巻きに見ていただけだが、ひとりの青年がバイクを起こすのを手伝ってくれ、崩れた荷物も集め、道路わきまで運んでくれた。なおも心配そうに見ている村人に

「心配ないよ。ほら、大丈夫だから」

とは言ってみたものの、グローブを外した手からは血が止まらず、アスファルトに無数の黒い斑点をつけていた。これではとても大丈夫そうには見えない。

事故を起こしてからそれほど経っていないので、傷の痛みはまだ麻痺しているが、1時間もしたらきっとひどく痛み出すだろう。右手だけでバックパックから水と救急用具を取り出し、村人に手伝ってもらいながら小指の傷を洗い、軟膏を塗り、ガーゼを当て、テーピングで止めた。とりあえずこれで血は止まる。ひざも血が滲み出しているが、包帯までは必要ないだろう。指もひざもきちんと曲がるから骨は折れてなさそうだ。

応急処置は終わったが、さてこれからどうしようかといったところだ。幸い何かにぶつかった事故ではないのでバイクは大きなダメージを受けていない。シフトペダルが曲がってしまい(折れなくて良かった)ギアチェンジがかなり困難だが、そのほかは問題なさそうだ。エンジンもかかるし、ハンドルも曲がっていない。レバーも折れていない。リアキャリアに積んでいたサイドバッグがクッション代わりになったのだろう。おかげで左側のバッグはズタボロになってしまったが、バイクが壊れてしまうよりはいい。そう思うと不幸中の幸いだ。

さらに幸いなことが起こる。

たまたま通りかかったトラックが一台、僕の事故を見て止まっていて、その運転手が(英語で)こう言ってくれたのだ。

「お前走れるか?駄目ならこの先のコバンの町まで乗せていってやるぞ」

地獄に仏。僕はその言葉に甘えることにした。こんな状況ではいくらバイクが無事といっても、とても自走する気になれない。そのトラックには運転手の他に3人乗っていて、ふたりは助手、もうひとりは銃を持った警備員だった。4人がかりでバイクを持ち上げ、トラックの荷台に積み込んでくれた。ロープで縛りつけ、残りの荷物も積み込むと、そこから5人でのドライブが始まった。

コバンまでは40kmほどだった。山道と言えど1時間あれば到着できる距離。コバンに着いたらどうしようかと考えていて、ふとあることに思いあたった。トラックの荷台に荷物は無かった。それを考えると何かを運び終わった帰り道なのだろう。それならコバンではなくグアテマラ・シティーあたりまで走るのではないか?

その考えは当たっていて、トラックはグアテマラ・シティーまで戻る途中ということだった。ならばコバンではなくグアテマラ・シティーまで連れて行ってくれないか、そうお願いした。グアテマラ・シティーから30kmほど離れたところにアンティグアという町がある。さらにそこには日本人宿がある。知らない町で、知らないホテルに部屋を取り、知らない病院へ行って傷を癒すよりも、日本人宿へ行ったほうがはるかに得策だと思ったのだ。

運転手は少し考えてから問題ないといい、僕とバイクをグアテマラ・シティーまで運んでくれることとなった。僕はその返事を聞き、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。

(これでなんとかなりそうだ)

転倒した直後、旅が終わってしまうのではないかとさえ思えただけに、ささやかな希望を見出すことができ安心したのだ。

コバンの町へ到着すると給油を兼ねて少し休憩するというので、ガソリンスタンド近くの薬局へ連れて行ってもらい、消毒液を買った。傷口にたらすとそれは音を立ててあわ立ち、同時にぐっと息を止めてしまうほどの痛みが走った。しかし山から流れ出る泥水の中での傷口だ。消毒の痛みよりも破傷風の方が心配だ。

途中の村で昼食をとり、15時にグアテマラ・シティーに到着した。道路わきの空き地にトラックを止めたドライバーは、隣に座っていた僕に

「ここまで運んできてやったんだ。100ケツァールでどうだ?」

と言った。

それは最後に言われる言葉として後味のいいものではなかった。確かに無償で好意を受けるつもりはなかったけれど、露骨にそれを言われるとは思わなかった。それも100ケツァールだ。それを出すだけの金額がポケットには入ってはいたのだが、僕はそれを快く出すことが出来なかった。こういう状況においてどれくらいの金額が妥当なのか見当もつかなかったけれど、結局50ケツァールで折り合いをつけた。

地獄の仏たち。

そこからアンティグアまで、雨に打たれながら峠を越えた。ギアチェンジの度に左手も左ひざも痛みが走った。なんとか目的の宿を見つけ出し、すがる思いで呼び鈴をならす。傷まで負った濡れネズミの僕を宿のオーナーは快く迎え入れてくれ、バイクを車庫へ運び入れると、もうがっくりと力が抜けてしまった。
とにかく寝よう。ドミトリーのベッドに体を投げ出すと、もう他に何もする気になれなかった。心臓が脈を打つたびに痛む傷を抱えながら、最悪ないちにちだったと思えた。けれど、それでもまだ旅が続けられそうだ思えることが唯一の救いだった。

おわり。

0 件のコメント:

コメントを投稿