2011年5月25日水曜日

グアダラハラの安宿と夕照のカテドラル vol.2

メキシコ本土マサトランに上陸し、次なる目的地グアダラハラへ向けて走り始めた僕。そのちょうど中間地点にある峠の途中、誰からも忘れ去られたようなグラウンドで一夜を明かすのでした。


朝起きると久々のすがすがしさを感じました。それは高原特有のもので、暑くもなく寒くもなく最適な温度。吹き抜ける風は気持ちよく、こういうキャンプの朝はとてもいいものです。
いつもより少し早めに走り始めたら、山を越え、町を抜け、給油をし、ぐんぐん進みます。しかし昼ともなると朝のすがすがしさはどこへやらで、Tシャツ1枚で走っても十分な気温になります。が、そんなことをしたらきっと日焼けで腕が大変なことになってしまうので、暑くてもジャケットは着たままです。

テキーラ発祥の地、その名もテキーラを抜けるとほどなくグアデラハラに到着しました。グアダラハラはメキシコ第二の都市。都会という言葉を使いたくなるほど家と店が密集し、ビルが建ち、車があふれていました。
ひさしぶりに大きな町を走る僕には、その中心地に向かうだけで一苦労。詳細地図を持ってない上に、交通量が半端じゃなく、さらにお世辞にも交通マナーがいいとはいえないのだから大変です。

テキーラ周辺には原料になるアガベ畑が広がっていた。

通りにはテキーラを売る土産屋がずらり。

車線変更にウィンカーなんてありえないし、信号が青に変わったとたんクラクションの嵐。そして歩行者よりも車優先。日本とは何もかもが違う交通マナーに僕はすっかり肩身を狭くしてしまいますが、遠慮して走っている方がよっぽど危険だと思い、堂々と車1台分のスペースを確保して走ることにしました。車線変更も、交差点での左折(右側通行なので)も、左手をうまく使い自分の意思を相手に伝えると、なかなかどうして大抵道を譲ってくれスムーズに走れるようになりました。

一応事前にホテルの住所と名前は調べていましたが、これだけ大きな町をあてずっぽうに走っていても到着できるはずがありません。とにかく何人もの人に道を尋ね(皆とても親切に教えてくれるのだが、言葉がわからないので残念ながら最初の曲がり角くらいしか理解できない)、少しづつ目的地に近づき、だけどやっかいな一方通行に同じ場所をぐるぐると何度も走らされ、19時になってやっとホテルにチェックインすることができました。

到着したホテルには駐車場はありませんでしたが、ありがたいことにフロントのスペースにバイクを入れさせてもらい、160ペソとホテルにしては格安の宿泊料金とルームキーを引き換えます。フロントと2階の部屋を3往復してすべての荷物を入れ終えると、どっと疲れてしまいました。
やっと着いた…と着替えもせずベッドに倒れ気持ちの良い疲労感に目を閉じますが、このままでは寝てしまうとシャワーを浴び、まだ完全に暗くなっていないグアダラハラの町へ散歩に出ました。

フルーツスタンドたくさん。

リベルタ市場。目もくらむほど大きい。
そして雑多。

ホテルからソカロ(中央広場)やカテドラル(大聖堂)まではのんびり歩いてちょうどいい距離で、灯り始めたオレンジ色の街灯が藍色の空と対照的に光り、幻想的な雰囲気を作り出していました。タパティア広場からソカロに向けて歩いていると、大きな噴水を隔ててふたつの塔をささげ持つカテドラルが、まるで静寂の眠りについているようにありました。
スペイン人が建てたビザンチン様式のそれは夕照に浮かびあがり、この上なく神秘的で、僕は言葉を奪われしばらく足を止めてそれを眺めていました。ソカロでは地元の人たちも夕暮れの時間をのんびりとくつろいでいます。

タパティア広場。

子供たちは一生懸命水遊び。

オレンジ色の街灯が灯りはじめる。

夕照のカテドラル。

美しく目に映るカテドラル。でもその美しさは僕の心のすべてを満たすことはありませんでした。心の片隅でこう思う自分がいたのです。
(これは本当のメキシコか?)
本当のメキシコもなにも、今僕の目に映るすべてが現実なのですが、僕にはバハカリフォルニアの砂に埋もれそうな小さな町の方がメキシコらしさを感じてしまうのです。

中南米へのスペイン侵攻は教科書で知ってはいました。しかし知識として知っているのと実際その場に立ってみるのとでは、頭と心に浸透していく密度が天と地です。

聖堂も宮殿も確かに目を見張るほど美しいものです。だけどそれはスペインによってつくられたコロニアルであり、当時の建築物をすべて破壊した上に建てられた今なのです。残酷な侵略の末、約300年もの間言葉も宗教もなにもかも有無を言わさず押し付けられた結果であると思うと、僕の胸はゆっくりと痛みを感じ始めるのでした。それは目に映る景色が美しければ美しいほどに。

おわり。

2011年5月24日火曜日

グアダラハラの安宿と夕照のカテドラル vol.1

7日をかけたバハカリフォルニアを離れ船上の人となった僕。夜通し海を走ったフェリーは、その身を静かにマサトラン港に寄せるのでした。

遠くに聞こえるエンジン音の中、7時過ぎに目を覚ますとほとんどの人は起きているようでした。食堂で朝食をすませ甲板に出てみると、もうメキシコ本土は目の前で、フェリーはやがてマサトランの港に着岸しました。
タラップが金属音とともにゆっくりと下り、積まれていたコンテナが次々と吐き出されていきます。僕のバイクも固定していたロープが外され、船員に手招きされてフェリーを降りました。ついに本土上陸だ。

軍による荷物検査(といってもバッグを上から触る程度)を受け、ついでに国道15号(マサトランからメキシコシティーまで国道15号が走っている)への行き方を聞き、港を後にします。

マサトラン港で軍による検問。
案外適当。

バハカリフォルニアを走ってきた僕の目には、マサトランは結構な町に映りました。というかあの風に舞う赤い砂がないだけで印象がまったく違ってしまうのです。確かに家は粗末だったりしますが、それでもあの今にも砂に埋もれてしまうのではないかという危機感を感じることはありませんでした。

そんなマサトランの町中をのんびり走り、最初に見つけたガソリンスタンドでリアタイヤの空気圧調整をさせてもらいました。昨日パンク修理をした時に手押しポンプで空気を入れただけなので、圧がまったく足りていなかったのです。
ガソリンを入れるわけでもなく、ただ空気を入れさせてもらうだけだったのですが、ガソリンスタンドの店員は笑顔で快諾してくれて、そしてここでも僕は注目の的になってしまいました。あれやこれやと質問攻め。「どこへ行くんだ?」と聞かれ、「グアダラハラまで」と答えると、僕の持っていた地図を使って親切にもおすすめルートを教えてくれました。
「ここからこう行って、この海沿いを走るといい。ボニータなセニョリータがムーチョだぞ(きれいな女性がたくさんいるぞ)」
そう言って笑っていました。

地図で見てもわかるように、北部を除けばメキシコ本土は町と町がそれほど離れていません。バハカリフォルニアのように砂漠というものもありません。むしろ中央部は高原地帯で、メキシコシティーなどは標高が2200mを越えています。
港町マサトランから内陸へ進み、その高原地帯に入ると道沿いにはバナナやマンゴーの木々が生え、それらを売る店が軒を連ねていました。砂漠地帯では小さな個人商店に真っ黒になったバナナが棚の隅に置かれているだけだったので、その豊潤さを伺えます。

相変わらすコンクリートな個人商店。
でも危機感はない。

屋台は至るところにある。
メシには不自由しない。

ここのタコスはかなりうまかった。

メキシコ中央高原へ。
海沿いから標高を上げていく。

目的地のグアダラハラまでは結構な距離があります。1日ではとても到着できないので、どこかで夜を過ごさなければなりません。その日は峠の途中に見つけたグラウンドにテントを張りました。テピクの町まで走ってホテルを探そうかとも思ったのですが、空は徐々に明るさを失いつつあり、これから峠を抜けなければならないし、暗くなってから到着するよりもこのグラウンドで落ち着いたほうが良さそうでした。

グラウンドには切り出した木を組んだだけのサッカーゴールがふたつだけで、じつに静かなものでした。なぜこんな峠の途中にグラウンドがあるのかわかりませんが、ひっそりとした雰囲気は好印象で、一晩をすごすには申し分ないところです。

夕焼けとサッカーゴール。
子供たちが遊ぶのだろうか?

テントを張り夕食を済ませたら、あとは特にやることはありません。ろうそくのわずかな灯りで日本から持ってきた本を開き、読みつかれたら寝袋に包まりました。
明日は少し早めに出よう。そしてグアダラハラまで一気に走ろう。
まだ寝るには少し早い時間でしたが、灯りを消して目を閉じるとあたりはすっかり暗闇で、少し強くなった風がフライシートをなびかせていて、その音だけが聞こえていました。

つづく。

2011年5月22日日曜日

バハカリフォルニアの赤い砂 vol.4

バハカリフォルニア半島を北から南まで走りきった僕。いよいよメキシコ本土へと渡るべく、南色の海に浮かぶ異国の船に乗り込むのでした。


今日はついにバハカリフォルニアを離れます。ホテル近くの屋台で牛肉のスープとトルティーヤという朝食をとり、荷物をまとめ、バイクに積み、チェックアウト。と思いきや、すべての荷物をバイクに積み、スタンドを外してバイクを押そうとすると、なんとも嫌な手ごたえを感じました。まさか?

見るとリヤタイヤがぺちゃんこです。なんてこった。またパンクかよ。もう何回目だろう。いちいち数えるのもばかばかしくなってしまいます。
もう一泊?一瞬心が折れそうになりましたが、パンクごときでくじけていても仕方ありません。まだ宿を出る前で助かったとポジティブに考え、ホテルの人に事情を説明し中庭で作業をさせてもらうことにしました。

積んだ荷物をすべておろし、工具を出し、コカコーラのケースに車体を預け、作業開始。最初の頃は四苦八苦していたパンク修理でしたが、今はもう手馴れたものです。1時間とちょっとで完了。ホテルの人にお礼をいい、何とか出発することができました。やれやれ。

またパンクか。やれやれ。

ツーリストインフォメーションで仕入れた情報をたよりにラパスから20kmほど海沿いに走ると、マングローブの生い茂る先に大きなフェリーが浮かび、やがてピチリンゲの港に到着しました。この港からメキシコ本土のマサトラン、ロスモチス行きのフェリーが出ているとのこと。

早速搭乗手続きをと思ったのですが、やはりと言うか英語がまったく通じず、「マサトラン(行き先)」「モト(バイクのこと)」「グラシアス(ありがとう)」の3単語をバカみたいに繰り返し、なんとか手続きを済ませることができました。といっても結局は国内線なので、国際線のような面倒なあれこれはまったくありません。

夕方出航のフェリーなので少し時間があまり港をふらふらしていると、デザートパターンの迷彩服に編み上げのブーツ、そして肩から自動小銃という軍人たちによく話しかけられました。きっと小さなバイクに荷物を満載させた東洋人がめずらしいのでしょう。どうしてもその見た目で敬遠してしまう軍人たちですが、話しをすれば皆陽気で、最後は笑顔で別れることができました。

そんなこんなで時間をつぶしていると、ついに乗船がはじまりました。フェリーに乗るバイクは僕だけで、大型トラックの間をすり抜けるようにタラップを駆け上がります。船員に誘導され、広い甲板の隅に小さな車体を固定されました。そのロープが解かれるのは、明日の朝マサトランの港に着岸した時になります。

こいつに乗って海を渡る。

明日の朝までしばし固定。

海はもはや南色だ。

エンジンの音が大きくなり、空に向かって突き出た煙突から黒い煙が塊となって吐き出されると、大きな船体が力強く振るえ、フェリーはゆっくりと港を離れていきました。いくらかのメキシコ人と、たくさんのコンテナを載せて。目指すはメキシコ本土マサトラン。それはピチリンゲよりも少し南に下った場所にあります。

国境を越えてと言うわけではありませんが、やはり船旅は心弾むものがあります。シャワーを浴びて甲板に出ると吹き抜ける潮風が火照った身体に気持ちよく、時折いるかの群れがフェリーと追いかけっこをするようにジャンプをし、まるで僕らと遊んでいるかのようにその存在をアピールしていました。

サンタ・マルセラ号

アミーゴたちも黄昏る。

夕食もアミーゴたちと。
うれしいことに朝夕の2食付き。

甲板の手すりにもたれながら暮れなずむ空と離れ行く半島を見つめ、これまで走ってきたバハカリフォルニアのことを思うのは、また楽しいものでした。ついさっきまでその地に立っていたはずなのに、今はもう触れ合った現地の人たちも、すべてを焼けつくすような太陽も、大きなサボテンも、出会った事故も、何もかもあの赤茶けた砂塵の中の思い出となっていきました。

さよならバハカリフォルニア。

おわり。

2011年5月21日土曜日

バハカリフォルニアの赤い砂 vol.3

バハカリフォルニア半島も半分がおわり、目的地ラパスへ向けて走り始めた僕。時差により1時間時計は早まりましたが、南下するにつれ町と町の間隔が狭くなり、また緑も目に見えて増え、徐々に砂漠地帯から開放されているのだと精神的に楽になるのでした。


荷物をバイクに積み、ホテルのオーナーと奥さんにあいさつをして部屋を出ました。あまり清潔とはいえないホテルでしたが、オーナーも奥さんもとてもいい人で(本当に)、印象は悪くありません。
さて、バハカリフォルニアが半分終わったといえど、目的地のラパスまでまだまだ先は長いのです。さらにラパスまで3日で走ろうと考えると、あまりのんびりしてはいられません。今日もまたぎらぎらと容赦のない太陽を体いっぱいに浴びながら、昼を待たずに30度を越える気温の中、軍による検問(バハカリフォルニアに入ってから何度か軍の検問があった)を笑顔のみですり抜ければ、やがてサンタロサリオの町に到着しました。

ここは海沿いの町。ずっと砂漠の中を走ってきた僕には目に映る海はその青が新鮮で、やっとコルテス海(カリフォルニア湾)を見ることができたとうれしくなってしまいます。しかも町にはめずらしく街路樹が植えられていて、その豊かな葉は木陰をつくり、海沿いとあって吹く風は涼しく、砂埃舞う砂漠の町とは対照的な雰囲気を感じました。

ついにカリフォルニア湾と。

海とサボテン。
ここはバハカリフォルニア。

街路樹が豊かな木陰をつくる。

さらに南に下ると道はロレトの町に入ります。このあたりから少しづつ農場が見受けられるようになりました。徐々に砂漠地帯から抜けていることを実感できます。砂と岩とサボテンだけの色のない景色から、瑞々しい農場を見つけるだけで豊かさを感じてしまいます。
さらにロレトは観光地らしく、旧市街にはホテルや土産屋、観光客向けの食堂が並び、めずらしく白人の姿もちらほら見かけました。町中には空調の効いた大きなスーパーマーケットがあり、品揃えも豊富で、生鮮品は文字通り生鮮だし、商品ひとつひとつにきちんと値段がついていました。店に入ってまずそのことに驚きましたが、それよりも僕はトイレにトイレットペーパーが備え付けられているのを見たときに、一番豊かさを感じました。

土産屋には色とりどりの陶器。

スーパーで冷えたジュースを買い日陰で一服していると、駐車場で冷凍の海老を売っているおじさんに話しかけられました。「ソイ ハポネス」「イル ア ラパス」覚えたばかりのスペイン語でコミュニケーション。ある程度話をしたところでおじさんは「おいお前、ところでツナミは大丈夫なのか?」と聞いてきました。日本から遠く離れた、それもこんなちいさな町でも、みんな日本の地震のことは知っているようです。僕は「大変だけど大丈夫と思う」と、片言のスペイン語交じりの英語で説明しました。それがちゃんとおじさんに伝わっているのかわからないけれど、国境を越えて心配してくれるというのはうれしいものです。

それにしても毎日快晴続き。雨季はもう少し先のようで、見上げる空には一片の雲さえありません。朝起きると空は灰色の雲で覆われていたりして、雨は大丈夫かな?なんて思ったりするのですが、バイクで走っていると知らぬうちに空は一面の青に変わってしまうのです。
ほんの少し、雲の切れ間からやわらかい陽の光が射してきたと思うと、それから30分とたたずにすべての雲はどこかへ消え失せてしまします。それはまるで何かの魔法のようでもあり、そして今日もまた肌を刺す太陽といちにち付き合うことになるのです。

ロレトの町を出ると1号線はまたしばらく海から離れましたが、やがて左へ大きく巻き込むような海岸線が見えてきて、湾の向こう側に大きな町が浮かんで見えました。それが、ラパスでした。

海の向こうにラパスが霞んで浮かぶ。

ラパスは噂通りの観光地で、高そうなホテルやレストラン、バーが立ち並び、たくさんの白人たちが海沿いの遊歩道を歩いていました。僕はそんなラパスの中心地にある安ホテルに宿を取りました。手持ちのペソがほとんどなかったのでドルで払えるホテルを探したら、そこでした。値段も19ドルとそこそこ。
ラパスに着いたら両替をしようと思っていたのですが、今日が日曜と言うことをすっかり忘れていて(というか曜日というものをそもそも気にしていなかった)、銀行どころか両替所さえ閉まっていたからです。それにしても前回泊まったホテルがホテルだっただけに、ここはかなり清潔に感じられました。ファンもあるしベッドもスプリングが壊れていないし、何よりシャワー室がコンクリートではなくタイル張りでした。

ここはもう南の海だ。

カラフルな町にはカラフルな車が似合う。

その日、ラパスの町では偶然にも祭りが行われていました。海沿いの公園にステージが作られて、道路は封鎖。僕も夕暮れをまって会場に足を運んでみました。
夕暮れの海岸線は暑さも和らぎ、会場はたくさんの人でにぎわっていました。ステージでは伝統的な衣装を着た男女が、伝統的な音楽にあわせ、伝統的な踊りを踊っていました。それは残陽を背景に、とてもリズミカルで、じつに鮮やかなものでした。僕もまわりのメキシコ人たちにまざり、ときには口笛を吹き、ときには拍手をし、その華麗な舞踏を心ゆくまで堪能しました。
陽が沈んでも祭りの盛り上がりはおとろえず見せず、ひとしきり楽しんだ僕はすっかり暗くなった海沿い歩き、ひとりホテルに戻りました。

未来の踊り手。

伝統的な。

夕焼けの会場は多くの人でにぎわう。

ミス・ラパス(?)
やっぱり伝統的。

暗くなっても大盛り上がり。

帰り道。遊園地。

明日はついにバハカリフォルニアを離れます。ラパス近くの港からフェリーに乗り、メキシコ本土へと渡ります。7日間もかけて走ってきた半島ともお別れで、少しの寂しさを感じてしまいます。しかしまだまだメキシコの魅力のほんの一部しか見ていないのだと思うと、海を渡り、まだ知らぬ土地を訪れてみたい衝動に心を打たれ、それは同時に僕を夢の世界へと連れていってくれるのでした。

つづく。

2011年5月19日木曜日

バハカリフォルニアの赤い砂 vol.2

無事にメキシコへの入国を済ませ、国境の町で一晩を過ごした僕。北米大陸に根ざし、コルテス海を抱え持つようにあるバハカリフォルニア半島を走るべく、南へと走り始めるのでした。


ティファナの町を後にし、次なる町エンセナダへ向けて走ります。今日も天気がよく、雨の心配はなさそうです。バハカリフォルニアには半島でありながら国道1号線が走っていて、それはこの国境の町から半島先端のサンルーカス岬まで続いています。もしあなたがバハカリフォルニアを縦断しようとするなら、きっとこの1号線を使うことになるでしょう。もちろんそれ以外の道もあります。しかしそのほとんどが舗装されていなかったりします。僕も、1号線を選びました。というかいくら半島と言えど南北に1200km以上あるそれを1週間という日程で走りきるには、それ以外の選択肢が思い浮かばなかったのです。

メキシコのガソリンスタンドはこのPEMEXのみ。

とにかく目的地のラパスまで一本道。と、安心していたのがいけなかったようです。標識通りに進んでいたと思ったら、ロサリオの町を抜けたところで突然高速道路の料金所が現れ、結局そこからエンセナダまでの区間を合計53ペソもかかって走ることになってしまいました。僕のバイクの場合、高速道路に乗るメリットがほとんどない(むしろデメリットの方が多い)のでこれは失敗。きっと事前に案内標識があったのでしょうが、スペイン語で書かれたそれはどれを見ても解読不能で、まぁ仕方ないやと高速道路をのんびり走ることにしました。

エンセナダで高速が終わり、巨大なメキシコ国旗がたなびく公園で休憩をし、銀行で手持ちのドルをペソに替え、まだまだ南へとのびる国道をひたすら走りました。南下するにつれ気温はうなぎのぼりで、見渡す限りサボテンだらけの砂漠地帯ではついに気温が30度を超え、容赦なく肌を刺す陽射しに、いつものどを涸らしていました。

サボテンは予想以上におおきかった。

サボテン以外何も見つけられない道。
そして暑い。

国道は途中いくつかの小さな町を抜けていきます。しかし南下するほどにその規模は小さくなり、町らしい町がなくなっていきました。それはもはや集落といった方がしっくりとくるほどです。ガソリンスタンドや個人商店があればまだいい方で、ちいさな教会があるだけの町もありました。民家はどれもコンクリートで固めた箱型をしていて、高台には簡素な教会がひっそりと町を見下ろしています。そしてそのどれもが砂埃の舞う町でした。

国道はかろうじて(というレベルで)舗装されていますが、そこから脇にのびる道はすべて未舗装で、車が走るたびに赤茶けた細かい砂が舞い上がり、乾燥した気候のためかそれがいつまでも空中を漂っているのです。1日の工程を走り終えると、決まってバイクもヘルメットも、そして自分自身もなにもかもがざらついていました。

しかしそんな小さな町でさえ、水が買え、ガソリンが入れられ、木陰で休憩ができるだけでありがたいものでした。そして走り疲れて休んでいると、大抵誰かに話しかけられました。といっても話の内容はほぼわからず、どこから来たのか?どこへ行くのか?などの簡単な質問に答えるだけで精一杯。それでも皆笑顔で応援してくれ、中には屋台でおいしい海鮮スープをご馳走になったりもしました。

小さな教会が町を見守っていた。

水を買う。走っていると、とにかくのどが渇く。

カフェ。
と、ガソリンスタンド。

こんな感じで給油された。

海鮮スープをご馳走してくれた屋台のおやじ。
とても陽気だった。

バハカリフォルニアのちょうど真中あたり。折り返し地点と決めたゲレーロネグロの町に着いたのは、ティファナを出てから4日目のことでした。途中パンクをしたり(実はアメリカを抜けるまでに2回、メキシコに入ってから1回パンクしている)、危うくガス欠になりかけたり、悲しい事故を目の当たりにしたりしながらも、なんとか到着することができました。

ずっとキャンプ続きだったので今日はホテルを取ろうと町のメインストリートにあるホテルやモーテルの料金を手当たり次第たずねてまわりました。しかし、どこも予想以上に高いのです。ほとんどのホテルが300ペソ。なかには500ペソなんてところもありました。ティファナのホテルで250ペソだったのに、こんな小さな町(小さいから?)で300ペソは高い。ホットシャワー付きのキャンプ場が14ドルであるようですが、気持ちはすっかりベッドでぐっすりだったので、町の中をさらに進み、どうにかこうにか250ペソのモーテルを探すことができました。

外観も部屋もお世辞にもきれいとは言えない(はっきり言えば汚い)のですが、もうここでいいやと了承しました。しかし支払い時になってドルで払えるか?と尋ねたら、なんとドルなら15ドルでいいと言います。なぜだ?銀行のレートでは1ドルが約11ペソだというのに、それではまったく計算が合わないではないか。計算は合わないけど、僕にとってラッキーなのでふたつ返事でOKしました。

今日の宿。
見た目はともかく、オーナーはとてもいい人だった。

なんだか得した気分で部屋に入り、荷物をほどいて久しぶりのシャワー。薄暗く、おもちゃのじょうろのような水量のシャワーでしたがそんなことはどうでもよく、ざらついた体がみるみるきれいになっていくことが爽快でした。ホテルの隣にある商店でビールを買い、そのままベッドに横になると気持ちの良い昼寝を。起きたら散歩がてらに遅い昼食と買い物に出ました。魚のフライのタコスは15ペソで、パンク修理用のパッチはみっつで10ペソ。言葉はまったく通じませんが、身振り手振りでする買い物もどこか楽しいものです。

暑い暑い。犬もぐったり。

タコス屋の看板娘。レジ番。

果たしてこの町も舗装されているのはメインストリートだけで、そこからのびる道はすべて未舗装でした。家も大地を均し、その上にコンクリートの箱をのせただけのような造りで、少し強い風が吹くと砂埃が舞い、店の中でさえ埃っぽいのでした。
それでもこの土地に生活している人々がちゃんといて、子供たちは声を上げて遊び、今日と同じようにまた明日がやってくるんだなと思うと、なぜだか僕の胸は静かに締め付けられるのでした。

つづく。

2011年5月18日水曜日

バハカリフォルニアの赤い砂 vol.1

すっかり長期滞在になってしまったアメリカを抜け、3カ国目のメキシコに入国しました。ついにラテンの世界突入です。

それは単にひとつの国境を越えたというだけでなく、目では見ることはできない大きな壁を越えたような気がします。そこには今までとはまったく違った世界が広がっていました。カナダ、アメリカでの生活が長かったせいですっかり先進国の生活に入り浸っていた僕は、第三世界の洗礼を受けた気がします。


大変お世話になったフレズノの友人宅を離れ、いかにもカリフォルニアという海岸線を南下。4月24日に国境を越えました。アメリカのサンディエゴからからメキシコのティファナへ。
フリーウェイを南下するとやがて「MEXICO」と大きく書かれたゲートが見えてきて、ついに越境だと興奮しましたが、ゲート前に待つ車は(予想に反して)ほとんどなく、バイクを一度も停止させることもなくまるで何もなかったかのようにそれを通過してしまいました。ゲート前には警備員が立っていましたが、適当な感じでいくつかの車を指差して左脇にある駐車場に誘導しているだけで、大半の車は素通りです。

カリフォルニアの海岸には、こんな車がよく似合う。

アメリカ最後の夕陽。

メキシコだ!

僕は、いとも簡単にバイクでメキシコに入ってしまいました。あれ?もう入っちゃったけどいいのかな?いいわけがありません。まだペルミソ(バイクの一時輸入許可証)どころか、パスポートに入国スタンプさえ押してもらっていないのです。どうしたものかと駐車場にバイクを止め、イミグレーションのオフィサーに尋ねてみます。いったい僕はどうすればいい?

オフィサーはメキシコ訛りの英語で教えてくれました。ペルミソを発行してくれる施設の場所。必要な書類をそこで作成すること。そうしたら入国スタンプを押してやると。

その施設内にはイミグレーション、銀行、コピー屋がすべて揃っていました。なにをどうすればいいのかわからない僕は、とりあえずテレビを見ながら暇そうにしているイミグレーションのおやじに書類を見せ、ペルミソを作ってくれと頼んでみました。僕はスペイン語がまったくわかりませんが、さすがに国境近くとあり英語が通じたのが幸いでした。おやじはちょっとめんどくさそうに書類に目を通し、入国カードを書けと僕にカードとペンを渡し、終わったら銀行で金を払って来いといいました。結局イミグレーション、銀行、コピー屋と3軒たらいまわしにされながらも、1時間もせずになんとかペルミソと入国スタンプを手に入れることができました。

一度銀行で支払いをするときにバイクの国際登録証に有効期限表記がないと言われましたが、カルネを見せ、この有効期限と同じだと言ったら問題ありませんでした。バイクで国境を越えて旅をする人たちの間で、やはり同じような問題が発生しているという話を聞いたことがあったので、冷静に対応することができました。もっともどこかの意地の悪い国境警備員がわいろ目的のために難癖をつけてきたわけではないので、あせることもありません。

無事に入国手続きを済ませ、晴れてティファナの町中へバイクを走らせます。今日はメキシコ入国初日ということもあり、先へは進まずこのまま町に泊まることにしました。事前に調べておいた宿に向かい、駐車場にバイクを停めてチェックイン。特に道に迷うこともなく、入国にもそれほど時間がかからなかったのでチェックインしたのはまだまだ昼の盛りで、暗くなるまでにはたっぷり時間がありました。よしよし、これならゆっくりできるぞ。

ひとまずシャワーでさっぱりしたら散歩に出ます。宿の近くのメインストリートは人も多く華やかで、だけどそれを少し外れるとひっそりとしていて、粗末な家々が並び、埃っぽい乾いた風が吹いていました。ロサンゼルスという大都会の生活に慣れきった僕には目に映る町の風景がどこか絵空事のようで、たったひとつゲートをくぐっただけでこうも世界が変わるものかと、うまくその現実を飲み込めずにいました。

隣接する国がない日本という島国で育った僕には、陸路で国境を越えるということ自体がそもそも非日常的行為であるのに、物理的にはひとつなぎである大地に人間が勝手にラインを引き、それを境にまったく違った人種や文化が隣り合わせに息づいているということが不思議で、だけどそれが世界の大部分を占めているという事実にまだ馴染めずにいました。

今日のホテル。かなりきれいだった。

ティファナの街並み。
おおきな国旗が風になびく。

メキシコの町はとにかくカラフルだ。

おいしそうな匂いに誘われて入った食堂にはメニューがひとつきりで、1枚のプレートに鶏のももを丸ごと揚げた肉、煮豆、キャベツの千切り、サルサがのり、それにトルティーヤというけっこうなボリュームのメキシコ風定食でした。椅子に落ち着き、「ウノ」とひさし指を立てただけの注文で運ばれてきたそれを、まわりのメキシカンと同じように素手で、肉をちぎり、丸めたトルティーヤで具をすくい、口に運びます。ピリッとしたサルサと搾ったライムのさわやかな風味が絶妙で、いかにもといった味わいにメキシコに入ったことを実感できます。満腹になるほどの量でありながら、それでいて24ペソ(約170円)という値段にもメキシコを感じ、同時に金銭面においてのこれからに期待を持つことができました。

屋台で買ったタコス。
トマトとコリアンダーがいい。

どこの国でも子供たちは元気だ。

スーパーマーケットでビールを2本と、ホテル近くの屋台でひとつ100円もしないタコスを買い、部屋に戻りました。歩きつかれた体にビールを流し込むと心地よい酔いに包まれ、テレビからは耳に馴染まないスペイン語。久々のふかふかベッドに誘われるようにメキシコ初日の夜はふけていきました。

つづく。