2012年10月5日金曜日

三者三様パナマ・シティーのホステル騒動

ボケテを出発した僕が次に目指したのは、中米最後の都市となるパナマ・シティーだ。パナマ・シティーからは何らかの方法でバイクを南米に渡さなければならない。北米から刻んできた轍はここで一旦途切れることとなる。

道は、パンアメリカン・ハイウェイ一本だった。ボケテからゆるく下る坂を終え、ハイウェイに乗ると、途端暑かった。それはなんの前触れもなく思い出したかのようにあっさりと暑くなったので、涼しく過ごしやすいボケテがすでに懐かしく思えてしまう。

道は海近くを走っていたのだが、やがて中央山脈に突入していった。峠と言うほどでもない峠を越える。パナマもコスタリカ同様道路状況はすこぶる良好で走りやすいというのが感想だ。他に東西を結ぶ幹線道路を持たないパナマでは、きっと多くのバイク乗りたちがこのパンアメリカン・ハイウェイを走っただろう。そんなことを考えながら、僕も同じようにこの道を走った。

パナマ・シティーまではとても1日で走られる距離ではなかったので、途中どこかの町の建設途中らしい建物に忍び込み、夜を明かした。ホテルを探してみたものの、納得のいくものが見つけられず、そうこうしているうちに陽は完全に落ちてしまい、さまよった挙句の苦肉の策だった。それでも次の朝日を無事に迎えられたら、それはそれで正解なのだ。僕はそう考えている。

朝に飲むあまーいコーヒー。

パナマ・シティーの高層ビル群を見ることが出来たのは、走り出して2日目の昼だった。大きな橋を渡ると、遠くに高層ビル群が現れ、道は、そのままそのビル群の中に飛び込んでいった。
それにしてもパナマ・シティーは都会だった。まさかこれほど栄えているとは思いもしなかった。中米一の都市だろう。海岸沿いに高層ビル群が乱立する様などは、まるで日本の横浜を思い出させた。

大きなラス・アメリカス橋。
パナマ運河の出口に架かっている橋だ。

横浜か。

新市街へ入りホステルを探す。住所を頼りに何度も何度も同じ場所を通ってみる。しかしなかなかそれを探し出すことができない。町行く人に尋ねても、住所に間違いはないのだが、見つけられない。
それもそうだ。もはやそのホステルはそこに存在していなかった。

(そうか、なくなってしまったか)

特に驚きはしなかった。いつのものかも知らない情報を頼りに訪れたのだ。そんなことはしばしばあることだったし、パナマ・シティーにおいては事前に2軒のホステルを調べていたので焦ることもなかった。もうひとつの住所に向かえば良いだけのことだ。
しかし、焦りを感じ始めたのはその1時間も後のことだった。あろうことかもうひとつのホステルもなくなっていたのだ。

(おいおい、ちょっと待ってくれよ)

額に浮かぶ汗を拭いながら、僕の思考はしばし停止することとなった。これではどこに泊まればいいというのか?他のホテルを何件か尋ねてみたが、どこも35ドルなどという北米並みの値段だった。とてもじゃないが高すぎる。
時間を早送りにしたような都会の喧騒の中、僕とバイクだけがぽつりと置き去りにされたような気がして、急に心細くなってしまった。

しかしここはパナマ・シティーである。中米と南米を結ぶ都市であるからして、バックパッカーが多く集まるであろうこの場所にパッカー宿がないはずがない。つまりはそんな彼らがどこをねぐらとしているか、それを探し出せばいいのだ。そう考えると心細さから一転、なにかゲームでも楽しんでいるような気分になった。

見つけたネット屋に飛び込み情報を漁る。こんなときにインターネットは本当に役に立つ。世界中のホステルを探すためのサイトだっていくつもある。カスコ・ビエホという旧市街にひとつのホステルを見つるまでにそう多くの時間はかからなかった。ドミトリーのみだが11ドル。これだ。住所と電話番号をひかえ店を出る。すぐに電話をしようと思ったが、近くにいたタクシーの運転手に話しかけられ、他にもホステルがあることを教えられた。

つい先刻までの焦りが嘘のようだった。インターネットで調べ、タクシーの運転手に教えられ、今では新たに2軒のホステル情報が手元にある。知っているということは強い。

とにかくインターネットで調べたホステル・カスコ・ビエホへと電話をかけた。運良くベットは空いていた。僕はこれから1時間で行くからと伝え、ベッドをひとつ確保して電話を切った。これでなんとか寝ることができそうだと胸をなでおろす。安心ついでにタクシーの運転手に教えてもらったホステルも探してみることにした。ママジェナというホステルはドミトリーで13ドルだった。バイクも停められるしここでもいいかと思えたが、もうひとつに電話でこれから行くと伝えたてしまったので話しだけを聞かせてもらい、旧市街のカスコ・ビエホへとバイクを走らせた。

無事ホステルにチェックインできたのはもうすっかり夕方だった。昼にパナマ・シティーに到着したので、5時間以上も宿探しに駆けずり回ったことになる。すっかり疲れ果ててしまった。

しかしここで面白いことが起こった。べとつく汗をシャワーで洗い流し、さっぱりついでにビールでも飲もうかと思っていた矢先、ふたりの日本人に会ったのだ。ふたりとも昨日このホステルにチェックインしたらしいが、話を聞くとやはりどちらも新市街のふたつのホステルを訪れたのだという。そして僕同様なくなっていることに落胆し、紆余曲折を経て、このホステルに流れ着いたのだと。

ひとりは乗っていたタクシーの運転手に喧嘩腰で挑み、「ここなら知っていると言ったホステルを見つけられないのはお前のせいでもある」という言いがかりにも近い難癖をつけ、半ば強引にここまで連れてきてもらったと言った。ひとりはパナマ・シティーのバスターミナルに夕方到着したため、新市街から旧市街にたどり着いた時にはすっかり闇に包まれ、治安の悪いこの場所をバックパックを背負い辺りにおびえながらなんとかたどり着いたと言った。

3人が3人とも同じホステルを調べていて(パナマ・シティーではとても有名なホステルだった)、そしてなくなっていることに肩を落とし、どうにかこうにかこのホステルに流れてきていた。
中米という旅行者の少ない地域において日本人に会うのはひさしぶりだったし、ひとつのホステルに3人も日本人が集まるのはとても珍しく、さらに同じような境遇だった偶然がなんとも可笑しく思えた。

おわり。

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