2012年10月6日土曜日

ダリエン・ギャップは優雅に越えろ! vol.1

パナマ・シティーのホステルで会った日本人ふたりはそれぞれ、ヒロシさん、アキ君と言った。ふたりともやはりというべきか、これから南米に渡るためにここへやってきたのだ。

なんの因果か出会った3人ではあるが、あれこれとたくさんの話しをした。これからどうやって南米を周るのか。主にはそんな話題だった。ホステルのパティオで酒を飲みながら、日付が変わるまで旅の話しに花を咲かせた。

高層ビルをバックに。

マテ茶をご馳走になる。結構好き。
アルゼンチン人パッカーは例外なくマテ茶セットを持っている。

僕がホステルに入った翌日、皆でパナマ運河へも出かけた。パナマと聞いて真っ先に思い浮かぶのはやはりパナマ運河だろう。実のところ僕らもそれくらいしか知らなかった。必ず見たいと思えるような場所でもなかったが、他にパナマで見るべきものも思い当たらないので、35度はあるんじゃないかと思えるような真夏日に、すし詰め状態のローカルバスに揺られてやってきた。

2000年からパナマに返還された運河は一般にも公開され、今は観光スポットとして開発が進み、休日ということもあってか思いのほか多くの人が訪れていた。それ以上に驚いたのは、日本語のパンフレットをインフォメーションで渡されたことだ。きっと団体客も多く訪れるのだろう。

13時に到着したというのに、船が通過するのは15時過ぎということで、仕方なくベンチで談笑しながら時間を潰す。視界の隅に見えた小さな粒がやがて巨大なタンカーだと分かり驚いたのも束の間、予想以上の速さで目の前の水門を抜けていく。威風堂々たるタンカーはかなりの迫力だ。それも効率化のためか一度に何隻も渡すのだからか、見ていて大変面白い。たかが運河と思っていた僕らだが、期待以上に興味深く、3人とも大満足だった。

到着したけど入り口がよくわからん。

 ワニ。

ミラフローレス水門。

タンカーが続々と。

見ごたえ十分。

そんな3人だったが、アキ君はすでにペルーへ飛ぶチケットを持っていたので、ある日僕らをおいてさっさと南米へ飛んでしまった。ひとりが欠けることで急に現実に引き戻されたふたりだったが、ヒロシさんも僕も、その時はまだどうやって南米に渡るかも決まっていなかった。

ヒロシさんは飛行機で飛ぶか、パナマから出航するセイルボートのツアーに参加して海路でコロンビアに入るかで悩んでいた。

セイルボートでの移動は飛行機よりも高くつく。しかしツアーという形を取っているので、カリブに浮かぶサンブラス諸島(クナ族という少数民族が今でも生活する島々)に寄航しながら、多国籍な参加者とともにセイルボートでのカリブクルーズ(というほど楽なものではないと後で思い知ることになるのだが)を楽しむことができる。ボートはいくつかあり、気に入ったツアー(料金や日程などが微妙に違う)を見つけたら各自でそれに申し込むという流れだ。文字通り海を越えるそのツアーは、時間を贅沢に使える旅人的にはとても魅力的であった。

しかし結局はうまく日程が合わず、すんなりと飛行機のチケットを手に入れたヒロシさんは、やはり一足先に南米へと飛んでいってしまった。僕は、ひとり残された。そして未だ南米に入るためのチケットさえ手にしていなかった。

もちろん何も進めていなかったわけではない。どうすればバイクを南米に送ることができるか、さんざん頭を痛めていた。頭の中では「It was realy hard.」パナマ国境で老夫婦から聞いた言葉が何度も思い出された。

いろいろ情報を集めた結果、有力なのはやはりセイルボートだった。小さなボートには無理だが、大きなボートならバイクを積むことができるようだった。貨物船という案もあったが、手続き、日数、人は結局飛行機に乗らねばならない、などを考慮すると、多少費用はかかっても海路でバイクと一緒に南米へ渡れるセイルボートが僕の心を惹いた。サンブラス諸島に寄航するというのも大きかった。

パナマ・シティーへ入ってから5日目。6月6日夕方時点で、打診したふたつのセイルボートからそれぞれ返事を得ていた。9日発と12日発。返事といっても1通は「あなたのメールはキャプテンに転送したのでそのうち返事がくるでしょう」という内容のメールと、「今うちのボートでバイクを運ぶことはできない(車両運輸の許可が云々というのが理由)」という残念な結果のメールだった。

もしこのふたつが駄目となると、しばらくの間バイクを運べるセイルボートは出航しない。僕にできることは、まだ望みがつながっている9日発の返事に期待する他なかった。


つづく。

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