2010年4月3日土曜日

歩92日目 宮崎県延岡市

天候 曇り
気温 7時 14.5度
   17時 16.1度

卵かけご飯が夢だった。

炊きたてご飯に生卵。それに醤油。たったそれだけ。たったそれだけの料理とも言えない食べ物。それが夢になる。
普段なら、いつだって簡単に食べる事が出来た。だけど歩いて旅をしているとそうもいかない。旅をしていると、普段の簡単が簡単ではなくなり、卵かけご飯ひとつ食べることが困難になった。

歩いていると、とにかく腹が減る。自分でも驚くくらい、四六時中何かを食べている。食べなければ体がもたない。足が出ない。それでもいくら食べても体重は変わらない。すべて消費しているのだ。

歩いていると、食べたいものが次から次へと頭に浮かんでくる。自分でも驚くくらい食に対する欲が強くなる。食べることと寝ること。このふたつが今の僕にもっとも大切で、僕に生きる幸せを教えてくれる。

卵かけご飯を急に食べたくなったのはいつだったっけ?熱々ご飯に生卵をかける瞬間を、何度も想像した。そして腹の虫を鳴らした。その度に我慢する。ゴールしたら食べるんだ。そう言い聞かせて。

4時50分。起床。今日はコーヒーではなく牛乳を温めた。昨日牛乳を買っていたのだ。そこに黒糖をふた欠片。優しい甘さのホットミルクで目を覚ます。

子猫が鳴いている。テントのすぐ外だ。野良だろう。かわいそうに。甘やかすつもりはなかったが、あまりに切ない鳴き方をするので、ついに観念してパンの耳を放った。子猫の勝ちだ。子猫は素早くそれをくわえると、暗闇に消えた。

しかし、またやってくる。もう一度投げる。また消える。またやってくる。三度目はない。
「もうないよ」
子猫はその言葉の意味を理解したのか、明るくなっておねだりの時間が終わったのか、どこかへ消えてその後二度と姿を見せなかった。小さいながらもたくましく生きている。

6時50分。出発。小雨がぱらついているが、雨は大丈夫だろう。午後からは晴れの予報。雨を降らせた前線が過ぎ去り、高気圧が近づいて来ている。

7時40分。宮崎県に入った。残すはゴールの鹿児島県のみとなる。
延岡までは渓谷に沿って歩いた。川は深緑で、桜が散り始め、遠くでうぐいすが鳴いていた。のどかだ。静かでいい。

「歩きね?」
一台の車が停まった。
「ずっと歩いちょっと?」地元の言葉が嬉しい。
「今日はどこまで?」
えーと、延岡の市街地は過ぎたいんだけど、あれはなんて町だったっけな…
「歩いてるなら乗せられんね。そうだ、昼飯食べていきなさい。うん。そうしなさい」
おじさんは僕の返事を待たず、電光石火で話を決めてしまった。
「なんか食べたい物あると?」
食べたい物なんて両手で数えても足りないくらいある。しかしそんなことは言えない。
「よし。うまかもん食わしてやる」
言われるがままだった。この先20kmほど進んだところで待ち合わせをした。
「いやぁ楽しかね」
おじさんは独り言のように言うと、車を走らせ行ってしまった。僕はただ何も出来ず立ち尽くしていた。

10時20分。国道10号にぶつかった。1泊2日の山越えによるショートカットが終わった。出てきた標識には宮崎まで100kmとある。宮崎市まで行けばゴールが見えてくる。都城。鹿屋。根占。佐多。4日あれば佐多岬まで行けるだろう。

12時00分。北川の道の駅に到着。少し長めの休憩。空は本来の明るさを取り戻しつつある。日が差せば、もっと気温も上がるだろう。上着を脱ぎTシャツになる。

周りを取り囲んでいた山々の尾根が徐々に低くなり、目に映る田畑の占める割合が増えた頃、約束のトンネルが見えた。抜けると、おじさんがいた。
「もう着く頃かと思って」
自転車にまたがりながら微笑んだ。僕の到着を待ってくれていたようだ。なんて親切なのだろう。

14時30分。おじさんの家には上がらせてもらう。奥さんが迎えてくれる。すぐに食卓へと通された。座った目の前にはおじさん夫婦の友人が買ってきてくれた宮崎名物のチキン南蛮があった。
「宮崎といえばチキン南蛮だけど、延岡のこの店のはタルタルソースがかかってないんだよ」
そんな風な事を宮崎弁で言った。見ると確かにタルタルソースはかかっておらず、僕のイメージするチキン南蛮とは違っていた。

さらにおじさんは席を立つと、どこからか卵を持ってきた。これは高千穂の農家から直接買った生みたての卵だ。やはり宮崎弁でそう言った。
生みたて卵?なんて贅沢な!
今、僕の目の前には炊きたてご飯に生卵という、夢にまで見たふたつが並んでいた。それは紛れもない現実として。
「いただきます!」
僕は、無心で食べた。卵かけご飯も、チキン南蛮も泣けるほどうまかった。しかしそれだけではなかった。次から次へと料理が出てきたのだ。鰻の蒲焼き。鰺の煮付け。ふきの煮物。デザートには奥さん手製のアップルケーキ。食後のコーヒーまで。これでもかと並べられた料理には目移りして、ぐるぐると目がまわるほどだった。

ご飯は3杯食べた。コーヒーも2杯飲んだ。満腹だ。あまりの食べっぷりの良さに、見ていて気持ちがいいとまで言われた。
「うちはよく旅人を連れてきてはご馳走してるのよ。みんなよく食べてくれるから気持ちがいいわ」
奥さんは楽しそうに言った。

聞くと、旅人を見かけては声をかけ、食事をご馳走したり泊めてあげたりしているらしい。僕の他にも何人か歩きの旅人を迎え入れた事があるようだった。

楽し時間はあっという間で、気付ば1時間半も居座ってしまった。僕はまだまだ先に進まなければならない。ご夫婦とその友人にお礼を言い、お互いの住所交換をして家を出た。

国道に戻り、いつもの様に歩き出す。もしかしたらさっきまでの出来事は夢だったんじゃないだろうか、そう思えてしまう。卵かけご飯も、チキン南蛮も、おじさん達の笑顔も、全て。朝の子猫の様に、腹を空かした僕の妄想だったんじゃないだろうか。そう思えてしまう。それはあまりに信じがたい出来事だったからだ。
しかしもらった住所のメモと、満たされた腹がそれは現実だと語っていた。

延岡の町を幸せな気分で抜け出し、土々呂公園を見つけたのはもう日が暮れて薄暗くなった頃だった。
いいタイミングだったし、いい公園だった。トトロ公園。名前もいい。海辺にあるのもまた良かった。
海の見える場所にテントを張った。小さな漁港が見え、湾になった内海は穏やかで、心地よい波音が聞こえた。しばらくテントから海を眺めていた。普段ならすぐに夕食の準備に取り掛かるのだが、昼過ぎにあれだけ食べたから全く腹が減っていなかったのだ。

結局何も作らず何も食べず、ただ波の音を聞きながら昼間の出来事を思い出していた。皆の笑顔が波の音と共に浮かんでは消えていった。見上げた夜空には、もう丸くはない月があった。宮崎に、忘れられない旅の思い出が出来た。

今日の歩行距離約41km。

写真1
渓谷沿いに歩く。九州らしい風景。

写真2
夢叶う。この数秒後、新鮮エッグが炊きたてライスに豪快ダイブするのであった。

写真3
旅のお守りをもらった。くるみ。バックパックに付けると、歩くたびにカチカチと乾いたいい音がした。

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