2012年7月20日金曜日

ならぬシェラ日記 ~セマナ・サンタ編 vol.1~

セマナ・サンタは1年に1度の祭りだ。キリスト教圏の国ではかなり大切な伝統行事としてある。
聖週間というだけに、それは復活祭に先立つ1週間を指すのだが、その期間は毎年一定ではない。なぜならキリストが復活した日は春分の日から数えて最初の満月の次の日曜日とされているため、だから今年は4月の第1週がそれにあたるようだった。

タカハウスでも1ヶ月ほど前から「セマナ・サンタ」という言葉をよく耳にするようになった。それは宿泊者の中にキリスト教徒がいたからという訳でもなく、その期間はすべての学校も会社も休みになるからだった。それはちょうど日本のお盆のような感覚で、だから多くの国民が日本と同じく旅行に出るらしかった。
会社が休みなので当然長距離バスも路線バスもほとんどなくなってしまう。そうなると移動が困難になる上、皆がいっせいに旅行に出るので観光地には人が溢れ、宿の値段が跳ね上がり、その確保さえ難しくなってしまう。だからセマナ・サンタの期間をどこでどうやり過ごすか、というのが安宿にたむろしている旅行者たちのもっぱらの話題だった。移動を考えている人にはなかなか深刻な問題のようだったが、そもそもどこにも行く気がない僕にはあまり関係のないことだった。

それでもまったく関係ないかといえば、そうでもなかった。スペイン語学校も休みになる金曜は、皆で近くの村に行って祭りを見ようということになったのだ。キリストが十字架に架けられたとされるその日は、どの町や村でもプロセシオンと呼ばれる聖行列が行われるということだった。

当日、聖週間をタカハウスでのんびり過ごしている宿泊者でスニルの村に出かけた。そこは僕がサン・シモンを見に来た村だ。そのときはバスでやってきたのだが、やはりその日はバスがなく、ピックアップ・トラックが代わりに人々の足として走っていた。スニル行きのバス乗り場へ行くとそこにはきちんとトラックが停まっていて、僕らを含め荷台に十分な人が乗り込むとおもむろに出発した。

バス代わり。

スニルの村では村人たちの手によって祭りの準備が進められていた。行列が行われる道に色を付けたおが屑で装飾を施していた。それは動物や花をモチーフにしたものから幾何学的なものまであり、色とりどりの模様は目を楽しませてくれた。
装飾は行列が始まる地点から終点の教会まで一本の道で続いていて、型を抜いた板を使ってうまいこと模様をつけていた。僕は作業をしていた村人にお願いしてその一部を作らせてもらうことにした。花の模様をくりぬいた型を使い、鮮やかな赤で染めたおが屑をその上に乗せ、そっと持ち上げれば出来上がる。作業は単純だが、かなりの距離でそれを作らねばならず大変な労力だ。

村は祭り一色。

こんな感じで。

延々続く。

少し手伝わせてもらった。

配色がいい。

昼から始まった行列は見応えのあるものだった。ひときわ目を引いたのは大きな神輿だった。十字架を背負ったキリスト像が載せられたそれは左右それぞれ20人ほどの人でやっと持ち上がる大きさで、紫の衣装を着た巡礼者たちが先導し、後には楽隊が続いていた。神輿は左右に揺らめきながらゆっくりと進んで行くので、まるでキリストが歩いているかのように見える。行進は、粛々と進められた。

最初は女性たちで神輿を担いでいたのだが、それが男性に代わる場面があった。その時、僕ともうひとりが神輿を担ぐことになってしまった。祭りの主役である神輿の担ぎ手は重要な役割だと聞いていた。それが外国の、ましてキリスト教徒でもない輩が担いでいいものか分からなかったが、まわりの人々に担げ担げとはやし立てられるがままにその列に加わった。最初は列の後方に忍び込んだ僕らだったが、背の高い順に神輿の先頭から並ぶのがしきたりらしく、小柄なインディヘナよりも背が高かった僕らは押し出されるようにして先頭まで追いやられてしまった。

華やかに飾られた道を、神輿を担ぎ、楽団を引き連れて練り歩くのは実に気持ちが良かった。しかし先頭にいた僕らはとにかく目立ってしまった。道の脇にびっしりと並んだ見物人からやたらと声をかけられ、多くの人が僕らに視線を集めているのが分かった。しかしそれは歓迎の色を感じられるもので、中には歓声が上がることもあった。

粛々と。

村の娘たちも担ぐ。

所々にお香が焚かれている。

まさか先頭とは。

終着点の教会まで行進は続き、そこで神輿は下ろされた。神輿は見た目にも十分重たそうだったが、実際にはそれ以上で、担いだ左肩はかなり痛んだ。強い日差しの中で行われたので、汗もかなりかいていた。のどはからからで体も疲れてはいたが、その分充実感もあった。

スニルという山間の小さな村だったから、神輿を担ぐことが許されたのかもしれない。祭り自体が厳格に行われる大きな町ではこうはいかなかっただろう。何事も体験してみるとそのものの見え方が大きく変わってくるものだ。思いがけず貴重な体験ができたことに僕は大変満足し、興奮覚めやらぬままスニルの村を後にした。


つづく。

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