2010年3月4日木曜日

歩61日目 滋賀県大津市

天候 雨のち晴れ
気温 6時 7.2度
   17時 11.8度

日が変わる。雨と風は激しさを次第に増した。あまりにも風雨が強くなるとバス停などに逃げ込んだが、何もない場所ではただ濡れるに任せれるしかなかった。
「あぁ、もうどうにでもしてくれよ」
半ばやけくそだった。あっという間に靴の中までずぶ濡れになった。

暗く冷たい国道1号をひた歩いた。時折襲われる猛烈な睡魔と格闘しながら。
もはや起きているのか寝ているのか。歩いているのか止まっているのか。意識が朦朧とし、夢と現実の境界線が判然としない状態が続いた。

雨宿りのバス停では、決まって気絶したように眠った。雨に打たれ全身ずぶ濡れなのだが、それでも寝ることを優先する自分自身に、人間の根源的な生命力の強さを感じた。

雨と睡魔で思うように距離が稼げない。今の僕の状態では、そのふたつの壁に打ち勝つ事が非常に困難であった。5分程度の短い睡眠を繰り返しながら、その度に気合いを入れて立ち上がり、重い荷物を背負い、少しずつ前に進んだ。

3時00分。雨が上がった。上がってくれた。行く手を阻む要因のひとつが消えたことは喜ぶべき事だったが、この雨が後に僕の心を折ることになるとは、その時はまだ知る由もなかった。
4時20分。月が出た。昨日と同じくきれいな月だった。雨雲は姿を消しつつあり、丸く明るい月に勇気をもらった。

6時30分。背後からオレンジ色の光が差した。日の出だった。眩しい朝日に目を細めた。僕は、石部に到着していた。

長い戦いに、体力は確実に削り取られていた。どんなに必死に足を動かしても、どんなに歯を食いしばっても、歩くスピードは一向に上がらなかった。足を引きずるような歩き方ではいつものペースなど出せるはずもなく、時速3kmで進むのが精一杯だったし、30分おきに荷物を下ろしてへなへなと座り込まなければならなかった。

なぜ歩いているのか。分からなくなっていた。
なぜ重い荷物を背負っているのか。分からなくなっていた。

2日寝ていない。もう130kmを歩いている。僕はどうして歩いているのか?自分のため?誰かのため?もういいじゃないか。誰も僕を責めたりしない。でも、それでいいのか?それで納得できるのか?
正と負。いろんな感情が錯綜した。頭が働かず、突然泣きたくなったり、急に元気が湧いてきたり、自分で自分の感情がコントロール出来なくなっていた。
京都まで。京都まで。ただその目標だけが僕の目の前にあって、それに手を伸ばすように歩くだけだった。

日が昇るにつれ、着ているカッパは乾いていったが、濡れた靴は一向に乾く気配はなかった。濡れた靴が危険な事は今までの経験から学んでいた。濡れた靴を履き続けると足の皮がふやけ、マメが出来やすくなるのだ。ましてすでにマメが出来ている足だ。だから日が昇ってからというもの、休憩毎に靴を脱ぎ、靴下と靴を乾かすようにしていた。それでも短い休憩では焼け石に水で、次第に足の裏に耐え難い痛みが走るようになった。かかと、親指の付け根、小指にそれぞれマメが出来てしまったようだ。歩くためにはそのどこかに体重をかけねばならず、一歩毎苦痛に顔を歪めた。針のむしろの上を歩いているような気分だった。

10時20分。草津駅を通過した。京都まであと25kmほどだった。普段なら7時間もあれは楽勝で着いてしまう距離だが、今の小さな一歩では果てしなく遠い道のりに感じた。

11時00分。ついに道路脇の階段に座り込んで動けなくなった。荷物を放り出し、階段に座り靴を脱ぐ。濡れた靴と靴下からは湯気が立ち上った。そして、僕はとうとう靴下を脱いでしまった。

靴下は最後の砦だった。靴下を履いていれば、靴を脱いでもマメで無残な足の裏を見なくて済むからだ。今の足の裏を見てしまったら、心が折れてしまうのは火を見るよりも明らかだった。それでもついに脱いでしまった。駄目だと分かりながら、その手を止めることが出来なかった。
果たして足の裏は酷かった。完全にふやけた皮は真っ白で、波打つように皺が出来ていた。左足の小指には大きな水ぶくれが、右足の小指には血マメが、それぞれ出来ていた。おまけに右足の薬指の爪が剥げかけていた。
「あぁ、やってしまった」
一瞬にして心が折れた。京都まで。京都まで。最後の糸が切れた瞬間だった。

小指の水ぶくれと血マメをナイフで切り、潰した。足の裏が乾くまで、何も考えられずその場に座り込んでいた。昼の日差しが背中を温め、気付いたら僕は寝てしまっていた。肩を叩かれて目を覚ました。おまわりさんが僕の隣にいた。
「こんな所でどうしたの?」
寝起きの頭でさえ、それは正しく、もっともな質問だと理解できた。ここは往来の多い国道1号で、草津の町中だ。そんな場所で裸足で寝ている人を見かけたら誰だってそう思う。2回目の職務質問だったけど、打ち拉がれた僕にとってもはやどうでもいいことだった。

おまわりさんが去り、乾きはじめた足の裏をさすっていると、昨日の夜道の駅に来てくれた滋賀の友人からメールが来た。僕は素直に草津辺りでマメの手当てをしていると返信した。歩けないなら回収しようか?すぐにメールが返ってきた。

これ以上足を悪化させる訳にはいかなかった。例え京都に到着したとしても、その先鹿児島までまだ1000km以上ある。僕は今ある目の前の20kmよりも、これからの1000kmを選ばなくてはならない。答えはすでに出ていた。
だけどお願いしますの一言を送信するのには勇気が必要だった。送信ボタンに指をかけ、目をつむり、深いため息をついた。それを押した瞬間、メールはあっという間に送られて、同時に全ての頑張りが泡となって弾けて消えた。

12時00分。乾いた新しい靴下に履き替え、再び歩き出す。京都到着は潰えた。だけど友人が迎えに来るまで、少しでも前に進みたかった。ひょこひょこと足をかばいながら、周りから見たらさぞ滑稽な歩き方だっただろう。それでもただ黙って座っていられなかったのだ。

13時15分。狼橋を越え、大津市に入った所で友人に回収された。その時、3日間の無謀な挑戦が終わったのだった。雨に耐え、寝ずに歩いた距離は、146kmだった。
荷物を後部座席に押し込み、助手席に乗り込んだ。
「お疲れさん」
友人の一言が、じんわりと温かく、心に染み入った。

京都の友人宅に到着し、2年ぶりの再会を喜んだ。彼ともバイク旅で知り合った旅仲間だ。
熱いシャワーを浴び、汚れた服を全て洗濯し、冷えたビールを飲むと、必死に歩いてきた3日間がまるで夢のように感じた。

真夜中の月も、
気持ちの良かった温泉も、
美しい関の町並みも、
ふたりで歩いた夜の鈴鹿峠も、
強い雨も風も、
猛烈な睡魔も、
歯を食いしばった一歩も、
泣き出しそうな気持ちも、
ため息のメールも。

全て夢の出来事のように感じた。ただ、足の痛みだけが、それが本当だったんだと教えてくれた。

その夜はもうひとり友人の女の子を加え、4人で鍋を囲んだ。温かく、愉快な夜だった。女の子が持ってきてくれた泡盛を飲みながら、僕の心の中にはいろんな感情が浮かんでは消えた。
正と負。光と影。悦びと哀しみ。白と黒。それはとても言葉にならない感情だった。
ただひとつ。
これからも僕は僕自身のために歩くし、そしてこんな僕を応援してくれるひとりひとりの気持ちに応えるためにも歩かなければならない。
そのことだけは強く心に刻み込んだ。

今日の歩行距離約41km。

今日の通過宿場町

水口宿
石部宿
草津宿
大津宿

残り宿場町数0

写真1
希望の光。朝日にはどんなに救われたことか。

写真2
京都まであと少し。なのだけど…。

写真3
温かい夜。本当に。

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